人間が有するありとあらゆる感覚に無駄なものなど一つもない。無駄にするも悪用するも役立てるも、全ては本人の心構え一つ
ぶわ、と強い風が彼らの髪を荒々しく撫でた。学園の屋上は基本立ち入り禁止のため、柵や塀などは設けられていない。
祭早市は比較的温暖な気候で知られる瀬戸内の中では例外的に、年がら年中風の強い地域として知られる。北風吹けば西の六甲山が祭早に向かって送風するウイングの役目を担うし、太平洋を渡ってきた南風は大阪、淡路島の間を通ってビル風のように強く吹く。西からは今度は瀬戸内海を通り、東からは北摂山地や丹波高地からの風が流入する。東西南北、あらゆる方向からの風が流れ込んでくる。地上で風が流れ込むように、大地に流れる気も同じように東西南北より流れ込むレイラインを形成している。もしくは、レイラインの作りに合わせて、地形が変化したのかもしれない。卵が先か、鶏が先かの話に似ていた。
『流』は『龍』
昔の人は川や雲、風など流れるものに何か人の想像もつかない、神秘的な力が宿っていると考えた。自分たちには抗えないもの、強大な自然の力を、いつしか幻想生物『龍』と呼び、怒りを買って氾濫や洪水、地割れなど起こされないよう社を建て、崇め奉った。時代は流れ、多くの人が自然に対する畏敬の念を忘れても、わずかな人々は今もその力を畏怖し、引き起こされる災厄に抗っていた。巫女、山伏、修験僧、陰陽師と名を変え、現在エージェントと呼ばれる者たちだ。
そして今、若きエージェントたちの戦いは、佳境を向かえつつあった。
「見ィつけた」
楽しげな声とは裏腹に、八田は銃を油断無く構え、鋭い目つきで目標を捕らえた。彼女に倣って、周もアグニを握りなおす。
彼らの前に居るのは白いシャツに白いハーフパンツの子どもだ。
山の稜線に消えていく西日が、最後の足掻きとばかりに力強く輝いて真横から世界を照らしていた。自然発生の強烈なスポットライトのせいで、子どもの顔をきちんと窺い知れないが、かすかに判別できた口元には、周を心胆寒からしめた、禍々しい笑みを浮かべていた。
【二人とも、残り時間、三分です】
硬い声の熊谷の忠告をどこか遠くで聞く。
「よっしゃ、やった、る・・・?」
出鼻を挫かれ、八田の声が尻すぼみになっていく。彼女の目の前で、子どもがとぷんと自分の影に沈んだからだ。完全に二人の前から姿を消した。
「え、まさか、逃げた、とか?」
【そんなはずありません】
周の推測を即座に熊谷は否定した。
「せやなぁ、まだおるよ」
八田が肯定する。彼女は巫女の技術として、通常のエージェントよりも気の流れを鋭敏に感じ取り、集中すれば視覚化できた。その彼女の視覚が、子どもの影に流れ込んでいるのを捉えていた。たらりと汗が頬を伝う。
彼女の言葉を裏付けるように、今度は影が蠢いた。周は思い出した。先程はあの影から犬が這い出てきた。では、今度も何かが出てくる。
影の中心部が盛り上がった。雨後の竹の子も驚きの速さで伸びて、伸びて、ぐんぐん伸びて、の・・・び・・・
「「え」」
見上げる周と八田の首の角度がどんどん急になっていく。同時に、二人の顔色もどんどん悪くなっていく。
【二人とも、どうしたんですか。何があったんです?】
そんな疑問を、いっそのん気な調子で投げかける熊谷に、もう少しで八田は怒鳴り返すところだった。
「どないしたも、こないしたも・・・」
愕然とした表情で、後ろに一歩下がった。踏みとどまっただけ彼女は偉い。普通なら動けた瞬間にきびすを返して全力で逃げる。周に至っては口をあんぐりと開けたまま動くこすら出来ない。
空を見上げると、目が合う。
ぼろぼろの着流しが包む胴体も、胴体から伸びる手足も首も、何もかもが規格外の一つ目の巨人。周たちからしてみれば、空がこいつにとって代わったように感じられた。
巨人がゆっくりと腕を振り上げた。
「あかんっ!」
八田が周の腕を強引に引き、自らも後方に飛んだ。後ろに倒されながら周が見たのは、ゆっくりと振り下ろされる巨人の拳だ。車一台分くらいありそうな質量が、隕石さながらについさっきまで二人がいた場所へ突き刺さる。
局地的な地震が発生したかと思うほどの揺れ。空気が乱れ、破片がそこら中に飛び散る。
「野郎!」
巨人の一撃で逆に戦闘のスイッチが入ったか、起き上がり様に八田が巨人に向けて発砲する。弾丸が巨人の目を襲う。だが、巨人は嫌がるそぶりも、瞬きすらせずに二人を見下ろしていた。
「外した? んなアホな」
目玉も規格外の大きさだ、彼女の腕を持ってすれば外れるとは思えなかった。諦めずに二度、三度と撃つが、当たったようには見えない。
「嘘やろ、一応特注の弾丸やのに・・・」
泣きそうな声で弾を装填しているのは、自分の攻撃に効果が見出せない故の絶望か、特注ゆえに中々高価なものをバカバカ撃っている貧乏性の悲しさか。そんな事をしている間に、巨人が第二撃を放とうとしている。
「アグニ」
飛び起きた周が手の中の祭具に声をかける。
「もう一度あれは撃てる?」
大木を消し去った第一種殲滅祓【真言/六根清浄】。学校を半壊させるほどの力なら、巨人にだって通用するかもしれない。だが、アグニから返ってきたのは信じられない答えだった。
『お主の力であれば問題ない、が、それはお勧めしない』
お勧めしない? どういうことだ?
「渡来君!」
アグニの言葉に動きを止めてしまった周に、悲鳴じみた八田の声が届く。改めて巨人を見上げれば影が差している。拳が面前まで迫っていた。慌てて飛び退く。再び屋上にクレーターを作った。
「お勧めしないって、どうして?」
すぐさま起き上がって第三撃に備えながら、突然非協力的になった祭具に詰めよる。このままでは二人とも死んでしまう。祭具としての責任も果たせない。それは、アグニにとっても不都合ではないのか。
『この迷宮の謎が解けたからだ』
「迷宮の、謎?」
『然り』
むしろ、倒そうとしている周の方がおかしいと言わんばかりの口ぶりだ。
『最近の若い連中は、迷宮化の本来の解決方法を知らない。穢れた気によって顕現する神魔妖霊を滅せばいいとしか考えとらん。まあ、それでも解決できると言えば解決できる、一種の正解ではあるが、力押しで美しくない』
「その話、長くなる?」
向こうで第三撃を交わしながら、八田が銃弾を浴びせている。やはり効果はなさそうだ。
『まあ、聞け主。迷宮とわざわざ呼ぶのは理由がある。なぜ迷宮なのだ? 戦うだけなら、もっとシンプルに、そう、昔ローマと呼ばれる国であったような、剣闘場で良いではないか。迷宮、つまり謎だ。お主らに対して謎かけをしておるのだ』
ローマ行った事あるんだ、と日本から出た事のない周はインターナショナルなブラシをちょっと尊敬した。国外に出た事のない日本人は、なぜか旅行であっても海外に行った事のある人間を無条件で尊敬してしまう習性がある。
『つまり我が言いたいのは、もっと根本的なところに目を向けよ、という事だ。一体何が龍脈を汚していたのか』
確か熊谷の話では、龍脈、レイラインが穢れる原因は、人の負の感情だという話だ。
「人間の感情に着目して解決策を探れ、と?」
こんなガチガチに拳ぶん回す相手に人の道理でも解けとでも? 馬の耳だってもう少し聞き訳がいいと思うが。
『もう一つ。負の感情、負の感情とお主らは悪し様に言うが、本当に人間の負の感情は悪いものなのか?』
「そりゃ、悪いんじゃないのか?」
ストレスで体を壊すなんて良く聞く話だ。心の衰弱が体を弱らせるのは現代科学だって証明している。漫画だってアニメだって、負の感情をもつのはたいてい悪人だ。
『ならば重ねてたずねるが、例えば僧侶が毛嫌いする欲望、これは、悪しきものか?』
「欲望」
口に出してみる。欲望、漫画でも良く出てくる争いの元だ。欲に駆られて悪人は悪事に手を染める。そして、ヒーローに倒される。やはり悪い事ではないのか。
「・・・ん?」
でも、睡眠も、食事も、性行為も、全て人の欲望だ。生きるために、子孫を増やして反映するために必要なものも欲望と呼ばれる。それに、周の誰かと仲良くしたいというのも、ある意味欲望だ。自らが望んで欲することだ。
欲望と悪はイコールにはならない。欲望を満たすための手段が悪かどうかという話なのか。
『気づいたか?』
目も鼻も口もないが、アグニが笑ったように見えた。
視点が変わると、考え方も変わる。なぜ負の感情と呼ばれるのか。ではその反対は何か。ぐるぐると思考が巡る。
「お、お、おお?」
とっかかりだ。何かに手が引っかかった。ロッククライミングで上り方がわからないところへ、突然足場が出来た感じだ。頂上の答えはまだ見えないが、それでも一歩進めた。
【何やってるんですか二人とも!】
熊谷の怒声がイヤホンから響いた。
「何しとうて、見たらわかるやろ!」
八田が怒鳴り返す。
【わからないから聞いとんやろ! 時間ないんよ!?】
わからない? 何で彼女がわからないんだ。さっき自分で探索型の式神を出したといっていたじゃないか。この状況が見えていないなんて・・・
「・・・ありうるのか?」
周が辿り着いた自分の答えに疑問を抱いた。それほど荒唐無稽な話だからだ。
『ありうるさ。人の『ソレ』はそういうものだ。【他人にはわからない】ものだ』
さあ、行くぞ。アグニに促され、周は一歩踏み出した。
「ちょ、渡来君?!」
八田から見れば、あまりに不用意な行動だった。周はゆっくりと、巨人に向かって歩いていたのだ。アグニを振るう素振りさえ見せていない。そもそもアグニすらも、先程まで激しく燃え上がっていた炎の火の粉ほどの力も表していない。どういうつもりだ。
巨人が周に気づいた。小ざかしく跳ね回る八田よりも、近づいてくる間抜けのほうが狙いやすいと判断したようだ。
巨人が振り返る。周もまた、その一つ目を見返した。心臓が跳ね上がる。
『信じろ。我と、我の主たる己を。己が出した答えを』
アグニの言葉に背中を押され、恐る恐る、それでも足を前に進める。信じるとは、こんなに大変な作業なのか。よくもまあ、みんな気軽に信じろ信じろと言うものだ。ヒーロー半端ねえ。歯を食いしばりながら歩む。
「何しよんなもう!」
八田は気が狂ったとしか思えない周の愚行を止めようとする、が、周の居場所は巨人を挟んで反対側。どうしても迂回しなければならず、また巨人も彼女の行く手を阻むように足を動かし、牽制した。
「くっそ、渡来君!」
足を止められた彼女が見たのは、巨人と向かい合う彼の姿だ。
「逃げて渡来君! 早く、はや・・・」
ズン
彼のいた場所に、巨人の腕が突き刺さった。ビシャリ、とその場に真っ赤な液体が飛び散る。八田は声を失った。
命の危険がある事は知っていた。だが、幸い彼女は仲間を失った事が無かった。そもそも失うような状況に陥る心配も無かった。任務はいつも他支部の連中が掻っ攫って行くし、仲間は熊谷だけ。彼女は後方支援が主で死ぬリスクが低い。
だから、彼女にとってこれが、最初の仲間の死―
に、なるはずだった。
「まだ、信じられないな」
信じられないという言葉が、信じられない声で彼女の耳に届いた。
『面白い事を言う。自分の目を信じられぬとは』
のん気な祭具の声も一緒だ。
「いや、その自分の感覚がさっきまで騙されていたわけなんだけど」
『それもそうだな』
しゅるり、と壁抜けマジックのように、巨大な腕から周がすり抜けてきた。
「わ、渡来君・・・? 無事なん・・・?」
八田の声に、手を握ったり開いたりしていた周が気づく。
「まあ、一応」
「え、ちょ、え? どういう事? 死んでへんの?」
『幻影だ』
あっさりと、アグニが答えた。その一言で済ませられるほどの物じゃなかった。最新VRも裸足のリアリティだ。周が死んだように見えたのは、彼女がそうなると予測から認識したからだ。
「多分なんだけど、こいつは超強力な催眠術師なんじゃないかな」
深い催眠状態にある人に、焼きごてだと言って木の棒を当てるとやけどする。有名な話だ。巨人はそれのもっとバージョンアップした力を持っていた。人間の想像力を利用し、周たちがそうなるだろうと予測される効果を、周たちの認識の中で行っていた。だからもし、周がさっきの一撃で潰されたと認識したら、体は平気でも脳は潰されたと錯覚しただろうし、八田の認識では周は死んだ事になって見えただろう。
そして、その場にいない熊谷には催眠術がかからなかった、だから彼女の目には、ただ周たちが右往左往しているようにしか見えなかったのだ。
「わかってたんなら、最初から教えてくれても良かったんじゃないか?」
批難がましくアグニに言う。
「それはこの迷宮の性質上できん。特にお主には。なぜなら・・・いや、主。お主ならもう気づいているだろう?」
「そう、かな・・・うん。そうだね」
苦笑しながら、周は肩を竦めた。
【何をしてるのかわかりませんが、後一分です! そこから逃げるか何とかするかしてください!】
熊谷の無茶苦茶な要求に応える事にした。巨人は再び拳を振りかぶるが、もう恐れる事はない。ただ前に進む。目的地は、先程の影。近づけさせまいと巨人はさらに暴れるが、周の意識はもう巨人には向かない。だからか、さっきまでたったの一撃が地震のごとき揺れを起こし、豪腕によって突風が生み出され、破砕音が響き渡っていたのに、今ではなんの音も聞こえない、静かな夕暮れに戻っていた。先程生まれたはずのクレーターも、今はどこにも見当たらない。
周が辿り着いたとき、影は既に無く、子どもがさっきと同じように周を見ていた。笑い方も違う。前は邪悪そのものの笑みだったのに対し、今は周を祝福するような、優しさに満ちたものになっていた。子どもを怖いと思っていた認識が、書き換えられたからだ。
子どもの顔を見て「ああ」と周は納得した。全てが氷解した。
隣にいた八田も気づいた。ぷにぷにと丸っこい子ども特有のあどけなさはあるものの、輝くような銀髪に少し鋭い目つきには面影がある。
「ひょっとして、この子」
「うん、多分」
なぜこんな姿をとっているのか。答えはおそらく、顕現する前に吸収した最後の負の感情、周の感情に影響されたからだ。そしてそこから導き出されるもの。自分が抱いていたもっとも大きな負の感情。
「教えて」
小さな周が問いかける。
「僕は、何かな?」
問いかけられた周は、その場にしゃがみ込み、彼の顔を見つめた。
「君は、常に僕の中にあるものだ。いつもびくびくしている僕が抱えているもの」
思えば長い付き合いだ。周のこれまでの生活で、無かった時期の方が短い。
「君の名は、恐怖だ」
小さな周が満面の笑みで頷いた。
「目を背ければ大きくなるもの、見たくないように見えるもの、逃げれば追うもの、無知と未知が生み出すもの、孤独と不安が育てるもの、心胆寒からしめるもの、己が生み出した己の影」
故に人は、と小さな周は手を差し伸べた。その小さな手を取る。
「常に学び考える。乗り越えるために成長する。誰かを慈しむ事が出来る。勇気の尊さを知る」
淡く輝く。足元から粒子となり、徐々に消えていく。
「覚えておいて。僕を抱えて、それでもなお踏み出した一歩は、未来を変え得る」
言い終えて、小さな周は完全に消え去った。その一瞬後に、パキン、と安っぽいプラスチックが割れるような音がした。
【・・・ふいぃいいいい】
長い長いため息がイヤホンから聞こえた。
【ギリッギリでした。結界維持限界数秒前に迷宮化の解除を確認。任務完了です。お疲れ様でした】