朝が来た
その声は問うた。
汝はここに夢彩記操者としての契りを結び、その身が果てる時まで光彩を守護することを誓うか。
「はい、誓います。」
ジリリリリッ、ジリリリリッ、ジリリリリッ。
目が覚めると、傍ら木彫りので目覚まし時計が踊っている。
二年前に亡くなった祖父が、外国土産だと言って差し出した想い出の品だ。
それを止めてから、彼はいつものように部屋の窓際を見やる。
ぴっしりと閉じられたカーテンの隙間からは申し訳程度に一筋の光が伸びている。
そこを開ければ穏やかな陽光が降り注ぎ、日常の雑多な彩りや物音が彼を暖かく迎え入れる。
これこそが彼が16年間、ほぼ毎朝と言っていいほど必ず守り続けてきた習慣だ。
また、この習慣は亡き祖父がこの世に生を受けてからの96年間、その生涯を終えるギリギリまで貫き通した習慣と言ってもいい。
そんな祖父は彼によくこんなことを言った。
「勇希…朝の日を受けるということはな、ただ眠気を覚ますための習慣だけじゃなく、今生きている世界観が素晴らしい色や光で溢れていることを感謝する儀式でもあるのだ。よく覚えておくといいよ。」
まだ幼かったあの頃の勇希には、その言葉の真意は分からなかった。
それでもこうしてこの習慣を続けてきた今では、少しだけその意味が理解できた気がする。
顔を洗い、歯磨きをし、ひと通りの身支度を済ませたら朝食を作る。
今日のメニューは卵焼きと焼き鮭、昨日スーパーの特売で手に入れた長葱の味噌汁だ。
もちろん炊き立てほやほや、ピカピカと照り輝く白飯も忘れてはいない。
卵焼きは鮮やかな黄金色にほんのりと焦げ目がつき、温かな味噌汁からは白い湯気とともに豊かな味噌の馥郁な香りが立ち昇る。
いずれも、男子学生一人がぽつりと座る食卓にしては贅沢すぎるほどの仕上がりだ。
自宅を出てから10分ほど歩いた頃、勇希は背後に視線を感じることに気付いた。
が、しかし後ろを振り向いてみれば辺りにはのどかな住宅街が建ち並んでいるばかりである。
まあ気のせいかと歩き出して5分、また背後に視線を感じた。
バッと振り向いたら、それは一瞬にして消え去ってしまいそうで、今度はゆっくりと、何気ない風を装って振り向いてみた。
その独り相撲虚しく、やはり辺りには先程と何ら変化のない光景が広がっている。
諦めて歩きだせば、背後にはもう一切の気配を感じることは無かった。
放課後、勇希は今どきの男子高校生らしからぬ柔和な微笑みを浮かべつ、道端の日常に溢れる豊かな彩りを眺めていた。
コンクリートや電信柱の灰色、見上げた空に生えるくっきりとした蒼と白のコントラスト、そこで燦然と輝く太陽の絶妙な光彩、視線を下ろした先を行く女の子のワンピースの桜色、その隣を歩く母との会話から溢れる黄色い笑顔。
「ああ、今日も世界は豊かな色彩に包まれている。」
彼は絵描きのセンスもなければ、詩人のセンスも微塵も持ち合わせていなかったが、こうして豊かな日常の色を観察するのは好きだった。
今日もよくもまあ飽きもせず、しばらく目の前の光景に見入ってから帰宅路をのらりくらりと歩き出した。
歩き出して2分も経たない内に、人気のない通りに入ったその時だった。
「勇希くん、勇希くん…。」
誰かが自分を呼ぶ声がする。
その声を確かめようと、歩みを止めて周りを見渡しみるが誰もいない。
「何だ気のせいか。」
そう呟いて彼はまた歩き出した時、「勇希君、勇希君…」とまた声がしたので、勇希は面倒になって言った。
「そうだけど、お前誰?」
「僕はピコラ、水彩の国から君を迎えに着た光彩の使者だよ。」
一瞬、勇希は頭が真っ白になった。
そして勇希はその頭を懸命に逡巡させた。
は、水彩の国?何だそれ、
俺疲れてんのかな。
だから幻聴が聞こえるとか?
第一、姿も見えないんだから気のせいに決まってるよな。
よし、聞こえなかったことにしよう。
と、歩き出そうとしたらまた声が聞こえてきた。
「君まさか僕の姿が見えないからってこれは幻聴だとか思ってないろうね?」
ギクッ、何だこいつ幻聴のくせに人の心を透視する能力でもあるのか?
「あっもしかして図星だったかな?それなら君は自分の足元を見るべきだよ。」
勇希は渋々といった感じでを目線を下に投げ出すと、目を丸くした。
足元には謎の白い物体が蠢いていた。
まん丸の顔にまん丸の目、緩やかな曲線の逆三角の口、角のない丸四角の胴体から短く細い手足が付いている。
そのなんの変哲も無い白くてユルい顔立ちは、愛くるしさが全身から滲み出ていてどこか憎めない。
そしてよく見れば、その頭上にはいつか美術の授業で習った色の三原色の赤・青・黄の三原色の丸が火の玉の様にふわふわと丸く浮かんでいる。
まるで漫画から飛び出してきたかの様な出立ちだ。
しばらくの間、まじまじとその白い丸顔を見つめていると、その物体は言った。
「改めて自己紹介するよ。」
「僕はピコラ、よろしくね勇希君。」