お隣さんへ潜入
草木も眠る丑三つ時の頃。圭一はふいに目を覚ました。
「……あ? まだ二時? 溢喜、お前なんかやったろ」
不機嫌に答えながら溢喜を探す。
「溢喜?」
いつもなら目の前の空中あたりで飛び交っている溢喜の姿が無かった。
飛び跳ねるように起き上がる。
「溢喜?」
嫌な汗が流れた。
部屋を探す。ベットの下をトイレをバスを。
それでも溢喜は見当たらない。
まさか昇天?
リアルにありそうな答えに背筋をナメクジでも這ったような感覚を受ける。
しかしすぐにありえないことに気付く。
なぜなら今まで三年程の時間を共に過ごしたのだ。
急に居なくなるという事態の説明がつかない。
元来嫉妬深い溢喜のこと、女友達ができて舞い上がっている圭一に嫌気がして天昇などという選択肢よりは相手を呪いそうな……
そこまで考えて、一つの答えを導きだした。
ありえないとは思いつつも溢喜ならやりかねないという理由から、慌てて外に出ようと玄関口まで行き、そうして思い出す。
今は深夜2時。相手の部屋のチャイムなんて押したら大変なことになるだろう。
ならばどうする? 今ももしかすれば溢喜が彼女を襲っているかもしれないというのに……いや、そもそも溢喜は触れることなんて出来ないし自分以外見えないから大丈夫なのでは。
いやアイツはなぜか溢喜を見えてるみたいだった気がする。
だんだんと嫌な思考が湧き出して、焦りだす圭一。
「そうだベランダからっ」
玄関に置かれた靴を手にしてベランダへ。
このルルルマンション、ベランダは一繋がりになっている。
一応部屋と部屋の間に仕切りはあるが、ベニヤ板一枚という簡単設置。
しかも手すり部分には突き出ていないので身を乗り出せば隣のベランダにいけなくもない。
ベランダで靴を履いた圭一は足がなんとか乗せられる程度のスペースを持った手すりに立ち上がり、ベニヤ板をしっかりと握った。
ふと気を抜くとそのまま駐車場へと落っこちそうになるので、命がけの思いで手すりの上をゆっくりと進む。
先代たちはよく言った。
こういうときは下を見ると動けなくなるぞと。
それは工事現場のおじさんだったり、崖を登る登山家だったり、あるいは煙突掃除の時だったりしたが、圭一はその言葉を本当に肝に銘じた。
下を見ようとしてしまう目で必死にベニヤ板を見つめつつ、ようやく切裂家のベランダへと辿り着く。
切裂家へのベランダに降り立った瞬間、安心で全身から汗が吹きでた。
今更ながらに全身が震えだす。
近くで歴代のおじさんたちが親指を立てて爽やかな笑みを浮かべている気すらした。
それでもなんとかガラス戸に近づき、そっと中を覗き見る。
よくよく考えたらストーカーみたいなことしてるなぁと思いつつ、もしも溢喜が来ていたらという危険の方が大切だと自分に言い聞かせて部屋を覗く。
部屋は電気が消えて暗く、誰もいなかった。
あれ? と思いつつ視線をずらして部屋を見回していく。
と、赤と緑に輝く小さな光が暗闇に灯った。
月明かりに照らされる場所からさらに奥まった暗闇に、まるで猫でも潜んでいるようにキラリと光るそれは、圭一を見つけてさらに光を強めていた。
始め、幽霊だと思った。
溢喜の悪ふざけにしては溢喜の笑い声が聞こえない。
溢喜は相手を驚かすとすぐに笑い出す。
相手に無駄に恐怖を与えないためというのもあるが、自分の存在に気付いてもらたいという思いもあるからだ。
だから溢喜であればすぐに圭一の側にやってきて冗談冗談~と頭をポンポン叩いてきているだろう。
だからこそ、溢喜ではなく幽霊だと思った。
この部屋に住み着いているのか、はたまた流れ着いてきた浮幽霊なのか?
だけど、目が暗闇に慣れていくと、そこにいるのが見知った少女だと気付く。
少女……魑魅は驚きから立ち直ったのかゆったりと立ち上がり、呆気に取られている圭一の前へとやってくる。
ガラス戸を開き、不気味に光る目で圭一を見つめてきた。
「何か用?」
「あ、いやその、溢喜……う、ウチで飼ってる猫なんだけど逃げだして、その……」
言ってから思い出す。このマンションはペット厳禁だったという事実。
「溢喜さんは見てないよ」
それだけ言って電気をつけに行く魑魅。相変わらず声が小さいので聞き取りづらかったが、入ってと聞こえた気がした。
入ってと言ったんだろうと勝手に解釈して靴を脱いで上がりこむ。
魑魅はテーブルの下に入っていた座布団をカーペットにしいて、どうぞとジェスチャーした。
目付きの悪いクマのような物体の描かれた座布団に座り、圭一はベットに腰掛けている魑魅を見上げる。
魑魅は未だに学生服を着たままで、両手を膝に添えてちょこんと座っていた。
その姿が妙に畏まっている様に見えたので、圭一も正座して座ってしまっていた。
「恐くない?」
「え? 何が?」
突然聞かれた質問に、圭一は首を捻りながら答える。
魑魅は安心したように「そう?」と返すと、微かな微笑を見せた。
今日一日見た中で始めて見せた彼女の笑みに圭一は心臓が高鳴るのを感じる。
さらに右手に彼女の手の感覚が思い出されて顔が赤くなった。
「聞いていい?」
「え? あ、はい」
妙な感覚に戸惑いを覚えつつ魑魅から顔が離せなくなっている自分に気付いた。
「見えるよね?」
何が見えるのかは言わなかった。だから何がと聞いてみる。
「おばけ」
高鳴っていた心臓が一瞬で凍りついた。
「私も見えるの。目を交換したから」
何が言いたいのか解らなかった。
ただ、彼女には溢喜が見えていたということだけは解った。
「見える……よ。ああ、俺も見える」
答えると魑魅は笑った。細まった赤と緑の瞳が神秘的で、ありふれた笑顔のはずなのにどこか印象的だった。
「友達……なってくれる? 圭くん」
名前を呼ばれて驚く。姿は違うがその呼び方はどう見ても溢喜と同じものだ。
別に友達になることには否定は無ない。
例え赤と緑の瞳を持っていたとしても、ベランダから現れた不審者を疑いもせずに部屋に上げてしまう無防備な人だとしても、何を考えているのかわからないような瞳をしていたとしても。
圭一から見れば女の子と仲良くできるというだけで自分からお金を積んででも頼みたいぐらいだ。
「こんな目だけど……」
「目は関係ないと思う。俺だって幽霊と漫才まがいのことやるような奴だけどいいのか」
こくりと魑魅は頷いた。それを見て圭一も頷く。
「ところで、切さ……魑魅。溢喜は見てないんだよな?」
「飛んでいくのは見た。どこに行くかはちょっと」
それを聞くとちょっと安心した圭一だった。
溢喜は昇天したわけじゃなくただ外出しているだけだってことだ。
ということは、だ。いったいどこへ向かったのかという謎が残ってしまう。
夜も遅くなので魑魅に別れを告げてドアからでようとした圭一。
自分の部屋の鍵が自分の部屋に入ったままという事実を思い出しベランダに。
もう一度あの恐怖を味わうのかと思うと魑魅の部屋に泊まりたくなる圭一だった。
外では工事現場のおじさんたちの浮遊霊が頑張れぼうず。
と楽しそうに笑っているのが見えた。
なんでそんな暑苦しい程の声援を送ってくるんだろう。止めてほしい。




