4.三人目の来訪者
「あんたが太ってると、世界が滅ぶの?」
あたしがまたしても椅子をきしませふんぞり返って言うと、デブも真似をして言った。
「違うんだな~。痩せないと、滅ぶんだ」
さらに、右手の人差指をぴんと立てて、リズミカルに左右に振った。「チッチッチ」である。実に腹立たしい光景だったが、あたしはここで怒り散らしてなるものかと我慢して、努めて冷静に対応した。
「……同じでしょ」
「違うんだよ」
「……あっそ」
「……わかっていただけましたか」
イセリナがほっ、とため息をついた。ため息というよりは吐息と表現した方がしっくりくるか。いちいち仕草が艶めかしい。そんなことより、何がわかっていただけたと勘違いをしているのか突き止めないと、またこの変態どものペースになってしまう。
「なにがよ」
あたしが自分の表情に、不機嫌さと不信感を最大限に表すため、限界まで眉根を寄せて言うと、イセリナは小首を傾げて答えた。
「ですからわたくしたちが、わざわざ地球までやってきて、ダイエット合宿を敢行するに至った経緯ですわ」
それを聞いたあたしの右こめかみに、激しい拍動性の痛みが走った。これは、怒りのあまりに血管が浮き出ているに違いない。血圧が上昇し、呼吸が荒くなる。叫び出しそうになる自分を必死で抑え込み、あたしは先ほどよりもさらに努めて冷静に、彼女とデブの発言を思い返して検証することにした。
まずこいつらは、二人そろって精神を病み、同じ妄想に囚われているのか、自分たちが本気でジュエルなんとかという別世界からやって来たと信じている。
このデブは救国の勇者で、痩せないと世界が滅ぶとか。いったいどれだけ危うい構造で成り立っているのかわからないが、この二人はそれが事実であると信じ込んでいる。
さらに、マジシャンではないらしいが、手が突然光ったり風を生んだりと、怪しい人外の力を持っている。これはあたしが体験したことだから事実だと言いたいが、人の認識なんてそれこそ危ういものだ。今この瞬間だって、奇人変人に襲われて精神が崩壊したあたしが見ている幻かもしれない。いっそ夢だったら、どれほど幸せな目覚めを迎えられるだろうか。
イセリナはM星雲の住人で、デブは亀甲縛りの達人だ。こいつらが変態であることは間違いない。
そして『わざわざ』冬月にやって来た目的は、ダイエット合宿だそうだ。そういえば、予約の電話でそんなことを言っていたし、あたしもそのつもりでヘルシーメニューを用意しておいた。
つーか『わざわざ』ってなんなのよ。別にあたしがお願いしたわけでもないし、「わざわざお越しいただいてすみませんねぇ」などと言えるわけもない。
だめだわ。ものすごく腹が立ってきた。
再びこめかみに拍動性の痛みが戻って来た。
あたしはロダンの彫刻のようなポーズから顔を起こし、二人を見た。イセリナはニコニコし、デブは丸々としていた。
あたしは左の拳を握りしめ、振り上げた。もちろん、テーブルに向かって叩きつけ、「出て行け」というつもりだった。
――ピンポーン――
インターホンが、かわいらしい電子音を発したのは、あたしがまさに握りこぶしを振り下ろさんと意を決した瞬間だった。
「!!」
立ち上がろうとしたデブをイセリナが右手で制した。そして、あたしの目をまっすぐに見つめてきた。湖面のように静かな、しかし強い意志が宿った視線だった。
「……なによ」
あたしはイセリナの迫力に押され、振り上げていた拳を降ろした。
「……来客ですの?」
「わかんないわよ。出てみないと」
冬月のインターホンは、残念ながら画面付きではない。玄関や庭へと続く裏口、その他侵入可能な窓には監視カメラを設置しているが、それは夜間や不在時の備えであって、日中は機能させていない。
あたしは、少しだけ安心していた。
イセリナの強い視線に正直恐怖し、あたしが玄関に出られないように、また亀甲縛りしてくるのではと考えたが、二人とも椅子に座ったまま動こうとはしなかった。
イセリナが、真面目な顔のまま口を開いた。
「お願いがございます」
「やだ」
「ドアの向こうの方がどなたであっても、わたくしたちのことは秘密にしてくださいませんか」
「……」
あたしの言うことを完全に無視して、また勝手なことを言いだした。あたしがそれを無視し返して立ち上がろうとすると、おデブも口を開いた。
「アリサ。僕からも頼むよ」
「はあ?」
「僕らだって、いきなりジュエルミナスからやって来たなんて言われたアリサが、混乱して、警戒もされるってことは分かっていたんだよ。でも、僕らの世界は本当に危ない状況なんだ……さっきも言ったけど、僕が痩せないとジュエルミナスは滅んでしまう。こっちで面倒が起きて、帰還が遅れれば間に合わないかもしれない。だから――」
お願いします。
そう言って、エルバインは頭を下げ、イセリナもそれに倣った。
さりげなく呼び捨てにされたことはひとまず置いてくが、世界が滅ぶとかなんとか、スケールが大きくてまったく現実味を感じられない。だが、二人の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようにも見えないし、どうしたものか。日本人は、頭を下げられると弱いのだ。
――ピンポーン――
再び、インターホンが鳴らされた。
「……とにかく今は、あれに対応するわ」
「よろしくお願いします……」
イセリナが再び頭を下げた。あたしはそれには答えず、玄関へと向かった。
「はーい、どちら様……」
あたしは来訪者の正体を確かめようと声をかけつつ、ドアを半分ほど開いたところで、その隙間からにゅっと顔を出した男の顔を見て、あたしは絶句した。
「いやあ、奥さん。ご無沙汰しております」
白い息とともに吐きだされたのは、安物のタバコと歯槽膿漏が進行した患者の独特の口臭。
よれよれのスーツにうっすら黄ばんだワイシャツ、葬式にでも行くのかと問いたくなる黒くいネクタイは緩んでいた。
額が後退し、チリチリとした黒髪に何をつけているのか、べたつくそれを申し訳程度に生やした頭皮を左手でぼりぼりと掻いている。
「神崎……」
本日三人目の来訪者は、忘れもしない。最後まであたしが冬人を殺したと疑っていた刑事だった。
「おや、覚えていてくれたんですねえ。どうもどうも」
何を勘違いしたのか相好を崩し、神崎がもともと細い目をさらに細めた。神崎も過剰に脂がのった体つきをしているが、無精ひげと吹き出物が潰れて固まった跡が目立つその顔が、喋るたびに揺れる頬と二重アゴの贅肉が、彼のもつ全ての要素が、嫌悪の対象だった。
「……なんの用?」
警察組織のことはよくわからないが、少なくとも長野と東京では管轄というものが違うだろう。まさか三年も経った今でも、冬人の死について調べているというのだろうか。
「奥さん……そんな風に冷たくしないで下さいよ……。旦那さんの事件を調べてるってわけじゃないんですから」
「これが普通なのよ。用がないなら帰ってくださる?」
「くくく……。いやなに、この度長野県警に異動になりましてね。奥さんがここに住んでるってことは知ってましたからね……ご挨拶に伺った次第ですよ。何しろ物騒な世の中だ。女性の一人暮らしってのは、猶更でしょう。困ったことがありましたら、いつでもご連絡を――」
「それはご丁寧にどうも。じゃあ失礼します」
これ以上臭い息と揺れる贅肉を眺めるのには耐えられない。あたしが強引にドアを閉めようとすると、革靴を差し込んできた。雪道を歩く可能性があるのに、ボロボロのビジネス用の革靴だった。あたしの中の良心が、脆弱すぎる装備の足を挟む寸前でドアを止めた。
「そういえば、一つだけ」
足だけの状態で神崎が言った。
「……なんでしょうか」
「この辺で、妙にでかい甲冑を着た何者かが歩いていたっていうね、通報があったんですよ」
「!!」
あたしは一瞬、びくりと反応してしまった。その僅かな動きが、ドア越しの神崎に伝わったかどうかは分からない。
「奥さん……何かご存知じゃありませんか?」
「……知らないわ」
どうにか返したが、あたしの心拍数は急激に上昇していた。尋ねてきた警察官が、神崎という男でなければ、二人の存在を明かしていただろうか。
「そうですか……。ちなみに奥さん、ここはペンションなんでしょう? 今日お客さんは……?」
「ええ、ご予約の方が」
これを隠しても、中に人がいるのはすぐに分かる。神崎が「ちょっと中を見せてください」などと言いだしかねない。それを肯定すれば、食堂に彼らがいることがばれてしまい、拒否すれば要らぬ疑いを持たれてしまう。
あたしの中でグルグルと思考が巡る。どうにかして、神崎をやり過ごさなければ。彼らを警察に任せたいが、こいつだけはダメだ。
「商売繁盛のようで。ちなみに何名ですか?」
「言う必要がありますか」
「差し支えなければ」
「……二名様です」
「内訳は?」
「男女一名様ずつです」
「ははあ……カップルですかな?」
「そんなこと、あたしにはわかりません」
神崎からあたしの顔が見えないのが幸いだ。おそらく今あたしは、顔面蒼白になっている。この汚らしい刑事が、次に発するだろう言葉を予測して、身体が震えだした。
「そうですか……。そのお二人に、お話を聞けますかね?」
「ご自分でどうぞ。レステロール様と言って、外国の方なんですけど」
「ははあ、そりゃあいけませんな。恥ずかしながら、外国語はからっきしで」
お前が語学堪能だったら、逆に気味が悪いわ!
ここでふと、あたしは思った。この尋問のような問答に、付き合う必要などないのではないだろうか。そろそろ寒くなってきたし、喋れば喋るほど、何か口を滑らせてしまうかもしれない。
「刑事さん、もういいでしょうか。お食事の支度をしないといけませんから」
「ああ、こりゃあ、業務のお邪魔をしてしまいましたかな? では、お客さんにも一応、奥さんから聞いておいてくださいますかね? で、何かありましたら、またお願いしますよ」
そう言って、ドアの隙間から毛がまだらに生えた、太い手が侵入してきた。人差指と中指の間に、角が折れた名刺が挟まれていた。
「ええ。聞いておきます」
あたしはそれを受け取り、ドアを引く手に少し力を込めた。もちろん、はやく足をひっこめろという意味を込めて。
「では……失礼します」
ゆっくりと足が引き抜かれた。
あたしは乱暴にドアを閉め、大きくため息をついてハッとした。ドアに神崎が密着して、中の音を聞いているかもしれないと思ったのだ。
「……」
あたしは音を立てないようにドアに手を突き、のぞき窓に左目を合わせた。
神崎の目がアップになって見えたりはしなかったが、玄関口にしゃがみ込み、足跡を子細に見ている神崎がいた。
あたしは、途方に暮れた。
これであたしは、異界の人間を匿ったことになってしまったのだ。