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アリサと勇者が出会うまで 3

「失礼いたします……」


 スイートの呼び鈴を鳴らし、返事を確認して中へ入った。すでに女将さんによって料理が運び込まれており、和室のテーブルには前菜と船盛が置かれていた。


 調理場でしか見たことがない、一抱えもある船盛の向こうには、当然冬人の顔があった。


「船盛は、サービスだよ」


 小声であたしに言って目配せすると、女将さんは部屋を出て行った。余計なカロリーを追加してくれた女将を横目で追った。どうせすぐに、お椀と蒸し物を運んでくるはずだ。そう思うと、安心できた。


「やあ、アリサ。来て、くれたんだね」


「……」


 いきなりの呼び捨てに絶句した。日中はコンタクトだったのか、今は丸いレンズの黒縁眼鏡をかけていて、夏目漱石の小説の登場人物のような出で立ちになっていた冬人は、呼び捨てにしながらもおずおずと、あたしに話しかけてきた。


 入室から一分も経たず、冬人の放ったジャブで、あたしの決心は大きく揺らいでいた。あと一発いいのをもらえば、それでノックアウトだ。女将さん、早く来てタオルを投げて。などと考えていると、冬人が再び口を開いた。


「座ってくれ、食事を、始めよう」


 ここで機嫌を損ねるくらいなら、始めから来なければよかったのだ。決断してから後悔することなどいくらでもある。あたしは腹を括って、冬人の向かいに座った。


「あの、本日はお招き頂きまして、ありがとうございます。頂きます」


「頂きます」


 お礼と食事開始の宣言を同時にしたのは、できるだけ冬人に喋らせないようにするためだった。あとは、泉水の料理を楽しめばいい。間違っても気に入られたりしないように、できるだけ、お行儀悪く。この場にBBAがいなくて本当によかったと、あたしは不幸中の幸いを神に感謝した。

 

 前菜は、信州ワサビを楽しむ二品で構成されていた。


 甘海老と雲丹を、塩とほんの少しのオリーブオイルで和えたものに、みじん切りにして、醤油にくぐらせたワサビの葉を加えたもの。氷で作られた小さな器にほんの二口分だけ盛られたそれを、一口で口中に投入した。


 さすがにくちゃくちゃと音は立てなかったが、会話の無い和室にあたしの咀嚼音が響き渡った。甘海老のねっとり感に、雲丹がとろりと絡まってさらに甘さを加え、ほんのりワサビと醤油の香りが鼻から抜けていった。今食べたら、きっとこのように表現できただろう。あたしが食べた和食の中でダントツの味だったはずだが、当時は味などよくわからず、急いで胃に流し込んだ。


 続いて信州牛のモモ肉を使ったローストビーフ。香草の類は使用せず、ブランデーで香りづけされた薄切りのそれに、ワサビの根の千切りが巻かれていた。実はその中心に、蕎麦の実のワサビ漬けがほんの少し入っており、鮮烈な生のワサビの香りを、程よく落ちた肉の脂が包んだのちに、おや、と思わせる味の構成になっていた。


 それも、十秒もかからず胃に落ちていった。


 船盛も、続く料理の数々も、あっという間に消し去り、最後の水菓子までササッと頂いた。


「ごちそうさまでした」


 そうあたしが言うまで、本当に一言の会話もなかった。


 冬人の方を見れば、料理の大半がまだ残っていた。


「あの、食べますか?」


 あたしが見ていたのをそういう意味だと勘違いしたらしい冬人は、鮑のステーキの皿をこっちによこそうとした。そんなにものほしそうな顔をしていたつもりはない。断じて。


「いえ、もう食べられません。ごちそうさまでした」


 再度、食事の終了を宣言して、あたしは立ち上がった。


「葛城様、本日はありがとうございました。仕事に戻らせていただきますね」


 本来なら、相手が食事中だというのに、このような態度を取るべきではないことぐらい承知していた。だが八重子もおらず、控えめな態度の冬人の前ならば、咎められはしまいと考えたあたしは、早々にこの場を立ち去ろうと、女将が残して行った盆に、皿を片付け始めた。


 ちなみに、あたしは前掛けを外しただけで、仕事着の着物から着替えてはいなかった。それは、食事がプライベートではなく、あくまで仕事の一環であると主張する意味があったのだが、冬人にそれが伝わったかどうかはわからない。


「あ、あの、待って……」


「……何か?」


 満腹過ぎて少々吐き気を催していたあたしは、かなり険悪な表情になっていたと思うが、あたしと目線を合わせようとしない冬人は、そんなことには構わず、おずおずと話しかけてきた。


「あの……覚えてない……かな」


「何を、でしょうか?」


「僕を」


「いいえ。葛城様は有名人ですから、存じてはおりますが、お会いするのは初めてです」


 あたしは、あっさりと嘘をついた。実際、きちんと覚えていたのは月子だけで、冬人の存在感はあたしの中でゼロに等しかった。


「僕は、覚えているよ」


「……」


 さて、この不毛な会話をいかにして終わらせようかと、あたしは考えていた。もう水菓子が出されていたので、しばらく女将さん(タオル)も期待できなかった。


「五年前……新宿のデパート……紳士服売り場……」


 手札をめくるように、キーワードをポツリポツリと呟く冬人であったが、あたしは、そんなことをしなくても、御逗留くださる前からきっちり思い出してますよと思っていた。そんなあたしの気持ちを知らない冬人の言葉は続いた。


「覚えていないかい? 君はあの日、紳士服売り場でアルバイトをしていた。母が他人に説教することはよくあるけど、まともに謝罪もできない奴ばかりだった。若い女の子は特にそうだったね。泣き出したり、仕事を放り出して逃げ出す人も珍しくなかった」


 冬人は下を向いていたが、急に饒舌になって、さらに語った。


「僕は感心してしまった。君は、母が言ったことに対して言い訳も口答えもしないで、頭を下げた。そして、自分の仕事を最後まで投げ出さなかった。母が帰り道に、気が強そうな娘だったと褒めていたよ」


 それは絶対に褒めてないだろう。そう思ってあたしは眉をひそめたが、それを無視して冬人の独白は続いた。


「あの日以来、君のことが頭から離れなかった。泉水のエントランスで君を見かけたとき、口から内臓が飛び出すかと思った」


 あたしは別のものが胃から飛び出しそうになるのを、必死に我慢していた。おかげで冬人の話には頷くくらいしか反応できないでいた。それをいいことに、冬人は立ち上がってあたしに近づいてきた。


「これは、運命だと確信した。アリサ、僕と結婚してくれ」


 あたしの目の前にひざまずいて、冬人が小箱を開いた。中には鶯豆くらいのダイヤがあしらわれた、指輪が入っていた。運命というセリフと、演出ゼロのストレートな告白。相手が葛城の性を名乗らない坊ちゃんだったなら、あたしはそれをOKしていたかもしれなかった。


「あの、ごめんなさい」


 喋った分だけ胃の内容物が上がってくるようだった。あたしはどうにかそれだけ言って、今がチャンスとばかりに走り去ろうとした。もちろん、目指すはトイレだった。


「待ってくれ!」


 しかし私の手を握り、冬人が逃走を阻んだ。


「病院に行って、君のお父さんに会ってきた」


「……?」


 意味が分からず、あたしは停止した。あまり激しく動くと危ない。すでに食道と胃を隔てる噴門は、用をなさなくなっていた。


「この三日間で、君の身辺を調べた。お父さんの状態は、お世辞にもいいとは言えないね。それは、病状のことももちろんだが、看護の状況も含めてのことだ」


 冬人は、にわかストーカーであることを告白した。このときのあたしは、それに対する嫌悪よりも、決してよいとは言えない環境に、父を放置していることを責められているような気になっていた。泉水の仕事が忙しいことを理由に、医師の病状説明も聞きに行っていなかった。


「僕と結婚してくれれば、君は仕事をしなくてもいい。お父さんをもっと、設備の整った病院に移してもあげられる。僕は今、最低な提案をしていることは自覚している。君がお父さんのことを放置しているなんて陰口を叩く看護師がいたんでね。だいたいの事情は察しているつもりだ。だが」


 そこで言葉を切って、冬人は再び小箱を取り出して、片手で器用にそれを開いた。


「そこにつけこんででも、打算が目的でも構わない。僕は、どうしても君と一緒にいたいんだ」


「う」


「う?」


 冬人のまっすぐな視線と、和室のしょぼい蛍光灯の光を反射して煌めくダイヤモンドに向かって、あたしは盛大に内容物を吐き出した。

 



 葛城社長と夜の密会! 謎のゲロとアリサの電撃結婚宣言!? スイートルーム『鳳』で起きた怪事――通称フェニックス事件は、瞬く間に泉水の全職員の間を駆け巡った。もちろん女将さんは緘口令を敷いた。あたしもプロポーズを受けたつもりなど無かったが、出立時に冬人が再び跪き、あたしの左手をとって、薬指に例の指輪をはめて「要らなかったら、捨ててくれていい」と言い置いてからタクシーに乗り込んでいったおかげで、泉水は大変な騒ぎに包まれた。


 そんな状況で、働き続けられるほど、あたしの神経は太くない。本気で泉水を止めようと思った三日後には、月子が泉水に乗り込んできて「冬人さんから話は聞きました。葛城家の嫁として、恥じないように精進なさい」とのたまったものだから、周囲の勘違いは加速する一方だった。


 あたしは、打算でも構わないと言った冬人の言葉に傾きかけていた。十八で上京し、就活に失敗してフリーター生活をしていたあたしを、父は支援し続けてくれた。その父が倒れ、あたしは田舎に戻ってきたが、泉水の仕事に逃げた。


 あたしは、疲れていたのかもしれない。


 父が枯れていく姿を見るのにも、そこから逃げ出した自分を見つめる時間を仕事に充てるのにも。


 あたしが誰と一緒になろうと、父は反応を示さないし、玉の輿にのったあたしに何か言ってくる親族もいない。


 気が付くとあたしは、フラフラと月子の前に進み出て、三つ指を立てていた。


「不束者ですが、よろしくお願いいたします」


 後ろで見守っていた仲居たちと女将さんが、歓声を上げた。




 こうしてあたしと冬人は結婚し、豊洲の高層マンションの最上階に用意された新居へ移り住んだ。


 当然のように、月子と同居だった。


 父は、新居から一駅で会いに行ける病院に転院させて貰えることになった。


 一泊二万円もする特別室で、最期の半年間を過ごさせてもらった。前の病院に居た時とは違い、身体も清潔に保たれ、口中から異臭もしなかった。


 そのおかげか、常にゴロゴロと音を立てていた喉の痰もほとんどなくなった。


 自発呼吸が弱まり、気管に管を通して人工呼吸器を使用するかどうかの選択を迫られたとき、あたしは丁重にお断りしたのだが、冬人がそれをよしとしなかった。


 月子が姑であるということは、きっと毎日「恥ずかしくありませんの?」が飛んでくる、地獄のような生活だろうと、あたしは防災頭巾を被って過ごす覚悟であったが、実のところそんなことにはならなかった。


 彼女はあたしに、社交の場におけるマナー、言葉の使い方や話題の選び方などを丁寧に教えてくれた。わからないことを罵倒することもなく、あの三角眼鏡がギラリと光ることはなかった。


 葛城の家においては特別なルールなどはなく、せいぜい「二日続けて揚げ物はNG」とか、「掃除は毎日する」あとは、「洗濯物は畳んで収納する」などの、その辺の家と変わらなかった。


 ちなみに、家政婦さんが全部やるのだから、あたしはそれを監督する立場だった。


 慣れとは恐ろしいもので、あたしは三か月もすると、あれほど忌避していた葛城家での暮らしが好きになっていた。むしろ、長野の田舎から救い上げてくれたことに感謝していたぐらいだ。


 肝心の冬人との夫婦生活だが、冬人とあたしが顔を合わせるのは、何かのパーティーに出席した時ぐらいのもので、終わるとすぐにどこかに出かけていくか、家に帰っても、朝までウェブ会議なんてざらであり、寝室に用意されたキングサイズのベッドで一緒に眠ったのは、結婚初夜だけだった。


 あたしは、家政婦さんが作るご飯を食べ、父に会いに行き、少し散歩をしたり、料理教室に通ったり、様々な通信教育に手を出したり、たまに懐かしい新宿のデパートに行って、冬人のスーツを選んだりして過ごした。

 

 結婚半年ほどで、父が逝った。

 

 いよいよ心拍数が落ち始め、それが停止した朝、月子と冬人も駆けつけてくれた。

 

 父の死に顔は、穏やかだった。




 一年が経過した。


 結婚一周年を祝うために、冬人は休暇を取った。といっても、その日一日だけのことで、翌朝にはアラブへ出張に出かける予定だった。


 あたしは、冬人が休暇を取ってくれたことを素直に喜んだ。


 家政婦さんにも休みを取ってもらい、あたしはその日の朝から腕によりをかけて、料理を作った。


 月子は「夫婦二人でお過ごしなさい」と言って、一足先にアラブへ向かった。プライベート旅客機をチャーターして。


 冬人がシャンパンと花束を買ってきてくれた。


 あたしは、よく冷やしたそれの詮を抜き、盛大に溢れさせて慌てる冬人を見て笑った。まるで、今夜初めて二人で過ごすかのような感覚を覚えていた。


「……ごめん。アリサ」


 ポリポリと頭をかいて、両手とワイシャツがびしょびしょになった冬人にタオルを渡してあげて、あたしはテーブルと床を拭いていた。「手伝うよ」と言ってしゃがみ込んだ冬人が、テーブルに頭をぶつけた。


 あたし達二人は顔を見合わせて、大笑いした。


 空港へ向かう月子を乗せたタクシーが、事故に遭ったと連絡が入ったのは、その直後だった。


 居眠り運転の末に横転したトレーラーと衝突し、月子は爆発炎上した車内で死んだ。




次回で出会いますです。

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