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アリサと勇者が出会うまで 2

 あっという間に時間は過ぎて、葛城親子が滞在する当日を迎えた。

 

 親子が泉水に到着したのは、三時ちょうどだった。女将以下、手の空いている仲居が全員で出迎えたのは、別に葛城親子に気を使ってのことではない。泉水では、それがスタンダードなのだ。

 

 月子は、以前テレビに出ていた時と少しも変わっていなかった。上下黒のパンツスーツを着こなし、三角眼鏡も相変わらずだった。とても湯治に来たとは思えないほど、その立ち居振る舞いには緊張感が漂っていた。

 

 冬人にしても、ジャケットがカーディガンに変わっただけで、黒のスーツに白いワイシャツ姿だった。黒いストレートの髪は眉毛の上で切り揃えられていて、後頭部なんか刈り上げだった。中肉中背。これといって特徴のない顔。考えてみれば冬人の見た目はこの当時から全然変わっていない。母親のインパクトが強すぎて、スーツを作りに来た時の彼の顔は、まったくもって覚えていないが、きっと同じような顔だったのだろう。


 少しだけ、女将の衣装がいつもより華やかな着物になっていたことと、お世辞にも顔のつくりがいいとは言えない若社長を、目を$にして見つめるあまり、いつまでも解散しない仲居たちを、番頭のおっさんが追い散らすのに時間を要したこと以外は、いつものお出迎えだった。


 続いてお部屋へのご案内、お茶の提供がなされ、「どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ……」と、あたしが三つ指立てて、襖をそうっと閉めるまで、「恥ずかしくありませんの?」が炸裂することはなかった。


 そう、あたしが葛城親子のお世話係だ。


 本来はメインの仲居がいて、あたしは補佐の予定だった。メインを張る小春姉さんは「玉の輿ゲットしたる!!」と意気込んでいたのに、なぜか風邪で欠勤した。

「あんたもそろそろ独り立ちしなきゃならないし、ちょうどいいよ」とは、東京出身の女将さんの言であった。仕事の覚えは速い方だったし、自信もあったが、それは葛城親子がお客様である場合を除いてだ。


 いつ、(くだん)の三角眼鏡がギラリと光るかとびくつきながら、それを態度には出すまいとしていたあたしの襦袢の下は汗まみれであった。


 だが、部屋にご案内するだけが仲居の仕事ではない。


 雑事はあれこれあるが、最大の難関は食事であろう。季節や仕入れに影響されて、日々変わるメニューを覚え、説明し、給仕もこなす。


 飲食店でのバイトを多く経験してきたあたしにとっては、そこまでの難関ではないのだが、それは、しつこいようだが相手が葛城親子でない場合に限る。


 しかし幸いなことに、葛城親子は三泊の滞在の中で、部屋食を希望したのは最終日だけだった。


 宿泊を予約した際は一日たりとも希望していなかったらしいが、なぜ最終日だけ希望したのかを知った夜、まさか冬人と結婚することになるとは、当時のあたしはまったく予想していなかった。


 一日目、二日目はつつがなく進んでいった。


 葛城親子は、泉水に二部屋しかない和洋折衷のスイートに宿泊していた。120平米もある客室には、メインの洋寝室と和室、アンティークのソファーが置かれたリビングの他に、やたらと広いパウダールームを抜けると露天風呂までついている。

 

 あたしが宿泊客ならここで、七十二時間風呂に入り倒してやるところだが、親子は朝早くでかけ、夜まで戻らない。そのため朝食の給仕も必要なかった。親子が出かけた後に部屋を掃除し、手の付けられていない茶菓子を交換する。寝た形跡だけはあるベッドのシーツと布団カバーを交換し、各種アメニティも新品にする。

 

 夜になって、やはり昼間と何一つ変わっていない部屋に入り、露天風呂にゴミや虫が浮いていないかを確認する。カーテンを閉めて、部屋を出る。もちろん、ドアはオートロックだった。

 

 そのような状況で、仲居の仕事に失敗することなどあり得なかった。

 

 あたしはほっと胸を撫で下ろし、三日目の朝を迎えた。

 

 今日が一日を乗り切れば――当時のあたしはそればかりを考えていた。朝から夕方までは、最初の二日間と変わらなかった。

 

 夕食の予定時刻は十九時。冬人は十七時には泉水に戻ってきたが、月子は十八時になっても戻らない。

 

 すでに調理場では前菜の盛り付けが終わり、蒸し物料理が蒸籠に入れられていた。

 

 あたしが調理場と泉水のエントランスを行ったり来たりしていると、女将さんがレセプションのカウンターから顔を出して、あたしに手招きしていた。


「あんた、今夜は一つ、頼まれてくれないかい?」


「なんでしょうか。もうすぐお部屋食の時間なので、あまり遠くへは行けませんが……」


 女将さんが仲居を手招きして、お使い仕事を持ってくるのはしょっちゅうあることだった。あたしは軽い気持ちで事務室に入って行く女将さんに従ったのだが、あたしが事務室に入ると、女将さんがドアを閉めてカギをかけた。


「女将さん……?」


 そのとき彼女は、後ろ手にドアノブを握ったまま、唇をかみしめて足元を見つめていた。従業員に弱さを見せない、姉御肌の女将さんの顔が口惜しげに歪んでいるのを見て、あたしはさっぱり状況がわからず、混乱していた。


「スイートのお客さん。葛城様がね……」


 女将さんの口から葛城の名が出た時点で、クレームかっ!? と思った。胃の辺りがキリキリと痛みを発し、背筋に冷たい汗が流れた。


 三日目にしてついに、月子の雷が落ちるのだと想像するだけで、暗鬱とした気持ちになった。


「今晩、あんたと食事をしたいって」


「はあ?」


 女将さんといえば、旅館において最高権力者と言える存在だ。入社一か月の小娘ごときが取っていいリアクションではなかったと、今思えば赤面ものだが、あの時は仕方なかったとも思う。誰がどう考えても、突拍子もない話だと思うだろう。


「あの、それはどういう……?」


「いや、私だってそう聞いちまったよ。そしたらあの若旦那、『母が急用で先に帰ってしまった。当日の夕方にこんなことを言いだされても、すでに準備されている食事が余ってしまう。それでは忍びないので、滞在中お世話になった仲居さんへの心づけだと思ってお付き合い願えないだろうか』と言うんだよ」


 女将さんは「どうだい?」と言ってあたしを見た。あたしの答えは決まっている。


「お断りします」


 正直に言えば、泉水のスイートで提供される食事には惹かれていた。料理好きかつそれを食べること好きだった父親の影響もあってか、美味しいものには目がない。だがある事情から、あたしは食べ物を制限して暮らしていた。


 残念なことに、父の『太りやすい』という遺伝子をも受け継ぎ、母親不在のまま、父の作る美味しい料理を食べることを無上の喜びと認識していたあたしは、丸々とした幼少期を過ごし、進学した中学でお菓子の味を覚えて激太りした。


 身長の伸びが止まり、山道を自転車で進むたびに感じる激しい動悸、止まらない汗と食欲、当時のあたしのあだ名は『ぷんぷん丸』だ。空腹になると不機嫌になるところから名付けられた。


 ぷんぷん丸はしかし、中二の夏に一念発起した。


 ダイエットである。


 山で暮らし、ペンションの仕事を手伝ことと通学のために早朝に起床することが苦でなかったあたしは、一日のスタートに一時間のウォーキングをすることにした。


 爽やかな朝も、霧で三メートル先が見えない朝も、雪で膝まで埋まってしまう朝も、ひたすら歩いた。おかげで近所に出没する鹿たちが、あたしを見ても逃げなくなった。


 朝から山道をウォーキングなどすれば、当然腹が減る。ここでご飯を茶碗に一杯で我慢することが、当時体重が七十キロを越えていたあたしにとって、どれほどの苦行であったかは、想像に難くないだろう。


 そして、給食制であった中学においては、揚げ物、肉類は男子に献上し、デザートは女子に順番で配給してやった。


 周囲の連中はあたしのダイエットを揶揄したが、高カロリーなおかずとデザートを食べて、強力にダイエットをサポートしてくれる仲間だと思い、耐えた。


 分かってもらえるだろうか、揚げパンが他人の口に放り込まれていくのを、涙をこらえて見つめていたあたしの気持ちを。


 そんな生活が一年半続き、あたしは高校入学時、身長164cm、体重49kgとなっていた。


 高校三年間はテニス部に所属していた。さすがに食事制限は少々緩和されたが、短大に入学して成長期が終わった時には身長がさらに5cm伸びていた。


 母の遺伝子と不断の努力によって、現在もあたしのプロポーションは維持されている。今から五年も前の当時なら、肌の色艶だって段違いとは言わないが、今よりはいい。確実に。泉水の食事は美味しいが、スイートで供されるような豪勢な料理を食べるなど、考えただけで腹に肉が付きそうだ。


 さらに、冬人があたしを食事に誘った(女将を通じてという、実に女々しいやり方で)のも、どうせ旅の終わりに、かわいい娘とご飯でも食べたいと思っただけなのだろうと思ったあたしは、きっぱりと断った。


 だが、女将さんは渋面を作った。


「そこを何とか頼むよ……先方も是非にと言ってくれてるんだからさあ」


「この旅館では、そういうサービスも提供しているんですか」


 本気で葛城家と関わり合いになりたくなかったあたしは、さらに失礼なことを女将さんに言ってしまった。


 しまったと思ったときにはもう遅い。人生とはそういうものだとつくづく思う。女将さんは眉間に皺を寄せて「あんたねえ……」と低い声で言った。剣呑な空気が狭い事務室に満ちていった。


 しばらく気まずい沈黙が続いたが、ここで謝ったりすれば負けだと思ったあたしは、何とか沈黙に耐えた。すると女将さんが「困ったねえ」と言ってため息をつき、いつもの雰囲気に戻って言った。


「実はね、うちの経営が危ないんだ」


「へ?」


 まだ勤めて日が浅いが、毎日宿泊客が大勢いて、皆忙しそうに働いている泉水の経営が危ないと言われても、ピンと来なかった。


「社長がマカオで事業に失敗してね……借金の返済が追いつかないんだよ……。どこで調べたのか、葛城の若旦那はそれをご存知でねぇ」


 秘密を吐露して心が軽くなったのか、あっけらかんとした様子で女将さんは言葉を続けた。


「で、あんたを見初めたらしい若旦那が、一晩の食事に付き合うようあんたを説得してくれれば、マカオの件はなんとかしましょうなんて言うもんだから、あたしもつい、必死になっちまったよ。悪かった! 忘れておくれ」


 はたしてそれが本当だったのか、女将さんの方便だったのかは今でもわからない。ただ、当時のあたしが考えたのは、それを忘れてここで働き続けるなんて、気まずすぎるということだけだった。


「女将さん」


「なんだい?」


 話は終わった。代わりに誰かを付けるから、今日はもう上がんなという女将さんに、あたしは告げた。


「お食事の件、お受けします」


「ええ!? だってあんた……」


「こんなあたしを拾ってくれた、御恩返しです」


 食事だけならササッと食べて逃げてくればいい。月子がいないなら、マザコン坊やなど敵ではないなどと、高を括っていたのが間違いだったのだ。




もーちょっと、お付き合いくださいませ

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