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アリサと勇者が出会うまで 1

 白黒の垂れ幕に囲まれて、椅子が並んでいる。

 

 遺族のために用意されたそれらがほぼ空席なのは、彼女もあたしも、遺族と呼べる家族がほとんど、いやまったくと言っていいほどいないからだ。

 

 葛城月子の通夜に訪れる人の列は、葬祭殿を出て歩道まで続いているが、遺族席にはあたしと夫しか座っていない。

 

 葬儀社の方で用意できる最大限を、大きく超えた予算を投じて、盛大に飾られた祭壇に鎮座する遺影は、月子が五十代の頃、一人息子で私の夫である冬人が、博士号を取得した年に撮られたものだ。

 

 葬祭殿の中は、これでもかと焚かれた、生前彼女が愛したラベンダーの香が立ち込めている。呼吸するたびに嫌でも嗅覚が刺激され、葛城家嫁入りと、そこに至る日々の記憶が甦って来た。


 葛城家は母一人子一人で財をなした。


 冬人が開発した空前のクリーンエネルギーである、通称ネオ水素。詳しい内容は知らないが、彼が大学で開発した新しい水素エネルギーの利用理論に基づく、ネオ水素電池は、精製水を注ぐだけで、電気自動車なら時速八十キロで九十六時間の継続走行が可能だとかなんとか。


 とにかくその特許技術を売り払うことなく、裸一貫でもって起業し、エネルギー業界で石油王クラスの財力を持った葛城家に、私は嫁いだ。


 冬人との出会いは、七年前の二月。都内の大手デパートの紳士服売り場だった。とある女子短大で家政学を学んでいたあたしは、そこで臨時のアルバイトをしていた。


 テイラーが採寸し、生地や仕立ての説明をして、あたしはそれを記録していた。


 月子とともにそこへやってきた冬人は、彼女に言われるままに、スーツの仕立てを決定していった。


 あたしはそれを台帳に記録しながら、赤い三角のワイヤーフレームが本当によく似合う、月子の顔をチラチラと見ていた。


 年齢相応に白髪が混じっているはずの髪は、黒く染められてテカテカと光り、後頭部できっちりと結い上げられていた。


 丸出しの額には数本の横皺が浮き始めており、やや上向きに描かれた眉は太過ぎず、細すぎず。常に眉間に皺を寄せて、三角眼鏡をクイっと押し上げる動作が頻繁にみられるのは、彼女の鼻が低いせいもあるが、神経質な性格の表れだったのだろう。


「こんなんが母親だったら、嫌だなあ」


 というのが、正直なあたしの感想だった。


 そんなあたしの思いを知る由もなく、赤いルージュが薄く塗られた口からは、本職のテイラーもたじろぐほど、スーツの仕立てについて事細かに指示が飛んでいた。それをあたしのような素人が理解できるわけもなく。


「そうだわ、ラペルのボタン穴は、ミラネーゼにしていただけます?」


 ほんの数十秒、テイラーの秦野さんが席を外している間に、月子があたしに聞いてきた。月子があたしの方に向き直った際に、ふわりと香ったのも、ラベンダーの香りの香水だった。


「ミラネ……? いえ、あの……秦野さん(テイラー)に聞いてみませんと……」


 派遣のアルバイトに専門用語で質問すんなよBBA! などと思った当時のあたしに、月子の叱責が飛んだ。


「あなた、アルバイトの方?」


 私の左胸には、正規の売り場職員ではないことを示す、手書きのネームプレートが留められていた。それと私の目を交互に見た月子が、眼鏡を押し上げながら言った。


「はい、そうですけど……」


 持ち上がった眼鏡のレンズが、蛍光灯の光を反射してギラリと光った。キラリとではない。ギラリとだ。


「一時的とはいえ、制服に袖を通して売り場に立つ以上、客にとってはアルバイトも正社員も関係ありませんわ。紳士服の仕立てに関して、この程度の基礎知識もないなんて、恥ずかしくありませんの?」


「……!」


 見ず知らずのおばさんに、突然怒られたことなどなかったあたしは、驚きと恥ずかしさ、反発心が同時に湧き上がってきて、目を見開いたまま何も言えなくなった。


 あたしの様子を見た月子は、片方の眉を上げて、口元を歪め「はんっ」と言った。それが、彼女独特の嘲笑であった。


「も、申し訳ありませんでした!」


 どうにかそれだけ言って、あたしは頭を下げた。


 秦野さんが戻ってきてからは、月子はあたしの存在を完全に無視して商談を進めていった。


 その後は特に問題なく仕事を終えて、バイト仲間と打ち上げに赴き、BBAの悪口を肴に酒を飲んだ。


 酔いが回って、紳士服売り場から引っ張ってきた若い社員とともに、タクシーに乗り込む頃には、月子のことなどすっかり忘れて、夜を楽しんだ。


 そして翌日から私は、短大に通い、適当にバイトをこなすいつもの暮らしに戻った。




 翌年五月。短大を卒業できたのはいいものの、就職氷河期の煽りか、自身の至らなさのためか、あたしはフリーターになっていた。


「アリサは、田舎に帰って来んかや?」


 とは、年に数回交わされる、父との短い電話の枕詞である。長野の田舎でペンションを営む父は、熊のような見た目の大男だ。あたしが人並み以上のプロポーションと、短大のミスコンに出られるくらいの見た目を形質として発現できたのは、あたしを生んですぐに他界した母の遺伝子おかげなのだ。


 その日、派遣のバイトは休みで、あたしは昼頃起きだしてきて、コーヒーテーブルを挟んでむき出しのフローリングに置かれているテレビを付けた。


 いつものお昼の報道番組『ニュースバード』には、最近太ってきたと出演者から指摘され、ダイエット企画が進行中の司会が、話題の新エネルギーについての特集を紹介していた。


 ネオ水素電池なる商品を開発し、エネルギー業界に革命を起こしたベンチャー企業の社長と、その母親のインタビューの様子が、生放送で流されていた。


 そこに映っていたのは、月子と冬人のコンビだったのだが、あたしは当初、どっかで見た顔だなーとしか思わなかった。


 もちろん若い社長のことではなく、その母親の方を見てのことだ。


 記者の質問にモゴモゴと答える冬人の言葉を、ほとんど月子が引き継ぐ形でインタビューは進んでいった。和やかだった空気が一変したのは、記者の質問が冬人の女性関係と結婚願望に及んだ時だった。


 会社の応接室だろうか、テレビ画面越しにもわかる、豪奢な造りの応接セットに腰かけ、一枚のA4くらいの紙を持っていた八重子が、それをテーブルに叩きつけたのだ。


「事前に頂いた質問リストには、今あなたが言った内容は含まれていませんわ。どういうことか説明していただけます?」


 それまで前のめりになっていた記者が、叩きつけられた紙と月子を交互に見て「社長ほどの有名人ともなれば、世間の方々は、こういったことについても関心を持たれるのではないかと……」と、わずかに声を震わせながら答えると、月子はもう一度テーブルをピシャリと叩いた。

 

 そしてソファーから立ち上がった月子が、眼鏡を押し上げながら凍り付いた記者を見下ろした瞬間、あたしはベッドから立ち上がり、画面を指さして「あー!」と叫んでいた。


 もちろん、月子がいつかのBBAだと認識し、忌まわしい紳士服売り場での出来事が思い出されたからである。


「今回取材をお受けしましたのは、当社の事業内容やその沿革を、わかりやすい形で一般の方々に配信していただけるというお話を信頼してのことですわ。質問リストの内容もよく吟味されていて、好感の持てるものばかりでした」


「はあ、それは……ありがとうございます」


 恐縮した様子の記者を見下ろしたまま、月子が再び眼鏡を押し上げた。撮影用のライトの光だろうか、何かがレンズに反射し、ギラリと光った。あたしは「くるぞー」と思った。


「ですが、葛城の結婚願望や女性関係と、当社の事業内容の間には何の関連性も見いだせませんわ。事前に質問リストを送って内容を詰めていた以上、相談もなく質問内容を追加するだけでも言語道断です。さらには、仮にも報道番組としての看板を掲げておきながら、下世話なパパラッチのような真似をして、あなた、恥ずかしくありませんの?」


「出たー!!」

 

 私は思わずテレビに向かって声を上げていた。「恥ずかしくありませんの?」は、生前の月子の決め台詞だ。これを言われて「恥ずかしくない!」と返せる人間などいまい。


 その後画面はCMに切り替わった。


 葛城インタビュー事件は、しばらく民放、ラジオ、インターネット上を騒がせていたが、別段女性関係での噂があったわけでもなく、それ以来テレビに出演することもインタビューに答えることも無くなった親子のことなどすぐに忘れられた。


 もちろん、ネオ水素電池自体は、世界のエネルギー事情を大きく揺るがし、葛城の企業自体は成長を続けていた。


 当時のあたしは、二度とあのBBAと遭遇することがありませんようにと、神様にお願いして、またもその存在を記憶の彼方へ葬り去ることに成功していた。




 それから三年後の一月。相変わらずフリーターとして自由な人生を歩んでいた私は、二十三歳になっていた。正月にも実家に帰らず、バイト仲間や彼氏と遊んで暮らしていたあたしの携帯が鳴り響き、看護師を名乗る知らない女性の声で告げられたのは、父が倒れたという一報だった。


 原因は、心筋梗塞。


 たまたまお客さんがいるときに倒れて、救急車を呼んでもらえたおかげで一命を取り留めたものの、手術や入院、その後の費用などで出費がかさみ、実家の経済状況はひっ迫していた。


 あたしは実家に帰ることを余儀なくされ、就職活動を再開し、アルバイトと面接、ハローワークに足を運びつつ、父の病院に足繁く通う日々を送った。


 二月。


 心臓の機能が低下して、慢性的に酸素が不足している父の唇は紫色になっていた。血液の循環が悪く、腎機能が低下しているとのことで、尿道にはカテーテルが挿入され、看護師さんが定期的に尿を引きにやって来る。それでも身体に水が溜まってしまうらしく、むくみが酷い。腫れ上がった瞼に溜まった眼脂を拭いてやりながら、あたしは泣いていた。


 それでも、病院に泊まり込みが必要な状況ではないと説明され、仕方なく二時間かけて父のペンションすなわち実家へと戻ったあたしは、小学生の頃から使っているベッドに倒れ込むと、そのまま眠り、寒さで目覚めてようやく風呂に入り、暖房費を節約するためにしっかりと厚着をして、また眠る。


 四月。


 父の病状は相変わらずだ。


 以前は意識を取り戻すこともあったが、入院中に脳梗塞を併発してからは、言葉を発することも無くなった。


 あたしは徐々に病院に足を運ばなくなった。


 自身の生活を立て直そうと、家政学科出身であることを生かして、実家近くの老舗旅館『泉水』に就職口を得ていた。


 仲居兼調理補助、住み込み可という好条件だが、勤務時間は一日平均十三時間だ。仲居の夜は晩く、調理場の朝は早い。


 だが、これらは父に会いにいかないための口実のようなものだった。

 

 言葉を発しない、回復の兆しもない。食事は鼻から通したチューブから与えられる液体のみで、むくんでいた身体は現在骨と皮だけになっている。焦点が合わないまま、見開かれた目はしろく濁っていた。


 それでも父の心臓は、弱々しく、震えるように拍動を続けている。


 あまりにも変わり果てた父を見るのが、怖かった。


 ようやくスキー客がいなくなり、春の登山や渓流釣り、ゴルフなどを楽しむ客でにぎわう旅館に、お忍びで若い大富豪の社長と、その母親がやってくると噂になった。


 エネルギー業界の寵児である若社長とその母親のコンビは、観光業界でも有名人らしかった。日々の激務に疲れ果てていたあたしは、噂話の輪には加わらなかったが、聞いてはいたのだ。そして輪の中の誰かが「あー! あのテレビで記者を怒鳴りつけたあいつでしょ!?」と言うのを聞いて、ピーンときた。


 あたしはこのとき、またあのBBAが現れるのかと思い、戦々恐々としていた。万が一お部屋の世話係りになってしまったら「恥ずかしくありませんの?」が炸裂するに決まっている。


 それを恐れて、葛城親子の滞在予定日に休暇を申請しようと考えたが、勤めてたったの一か月で休暇を申請する阿呆はいない。まあ、広い旅館の中で、そうそう対面することもあるまい。そもそもこちらが勝手に意識しているだけで、向こうはあたしのことなど覚えているわけもない。


 あたしはそんな風に考えて、嵐が過ぎ去るのを待つことにしたのだった。


勇者登場までもう少しお付き合いください

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