075 新たな生命
俺はグローパラスの公衆浴場の近くに最近できた建物にやって来た。診療所が必要だろうということで用意した建物だが、まだ医者に心当たりがない。
なお、神に仕える司祭が使う神聖魔法は直接的な怪我を治すことには長けているが、病気の治療はなかなか難しいようだ。高司祭の中でも相当な実力者になれば可能らしいが、そのレベルの高司祭は滅多にいないようだ。普通の司祭の場合は、生物が持つ病気を治す力を強化することで病気の治療を早めることしかできない。その場合、病気の原因が分かっていたり、治療のための薬草などを併用して使うとその効果が増す。そのため、神聖魔法が存在する異世界においても、医者や薬師の存在は貴重であるわけだ。
うちの場合は、モンスター娘を診ることを考えると、医者を探す難易度が非常に高い。できれば、園内で不測の事態が起きたことを考えて、人間の怪我や病気を診ることもできた方がいい。まあ、そんな人材が簡単に見つかるはずもないので、今も捜索中だ。
診療所に話を戻すが、今は診療所ではなく別の目的で使う機会がきた。
そう、妊婦をここに集めることにする。妊婦を全員集めることができる場所を手配した結果、いくつか候補があがった場所の一つだ。助産婦のペナンガランから綺麗なお湯をすぐに入手できるようにしたいという要望があったので、公衆浴場の近くにあるここはうってつけというわけだ。ある程度巨大なサイズのモンスター娘のことも考えて大きい建物としたために完成が遅れたが、妊婦を全員収容することができるのは幸いだった。
「湯の確保は私に任せて」
「助かる」
公衆浴場の担当をしているムニラには話をつけておいた。
公衆浴場と銘打っていることから分かるように、園内の客も入ることができるのだが、利用客はほとんどいないようだ。いまだ利用客の多くは王都在住の人間であり、彼らは王都にある公衆浴場を利用しているので当然と言えば当然だ。男からは「モンスター娘と一緒に入れますか」という質問がいくつかあったようだが、ここはそういう場所ではないので断っている。……気持ちは非常によく分かるが。
俺が一人で男湯に入っているとモンスター娘が乱入してくることがあるので、もう公衆浴場ではなくモンスター娘と俺やクレア、ティナ専用にしようと検討しているところで、たぶん大浴場と名前を変えることになるだろう。
「それより、火の魔法を使えるモンスターの手配はまだ?」
ああ、そう言えば風呂を沸かすためにニ、三人必要とか言われていたっけ。現状はムニラが一人でこなしているんだよな。クレアがいるときはクレアも手伝っているみたいだけど。俺の魔法の場合は火力が足りないようだ。魔力はグローパラスの住人の誰よりも強いのに、進化魔法以外はまだまだ未熟なのが歯がゆい。
「ウィルオーウィスプに声をかけてはいるんだけど、元々の住処は離れがたいらしくてさ。それに、スコルのザザを相手にするのにウィルオーウィスプも数が必要だからなあ」
「火の魔法を使える妖精を何人かこっちに手配できたりは?」
「それも検討してはいるんだけどさ、なんというか、まだ具体的に形になっていないというか」
他にやるべきことが色々あって、後回しにしているうちに忘れていたとは言えない。いや、たまにどうしようか考えることもあるんだけど、そういう時に限って優先順位が高い何かが起こったりするんだよね。
「そのうち、そのうちな……」
「本当に頼むわよ?」
何とかしないとなあ。
でも、現時点で最大の懸案事項は、ブラック・ローチの三人の妊婦の予定日が近づいたことにある。
すでに彼女たち三人だけでなく、妊婦全員が明日こちらに入院する手配はしているし、ペナンガランも準備万端だ。ラーナ神殿は、予定日の前日からベテランをこちらに派遣してくれることになっている。グローパラスのこのエリアは一般客が近づかないように道の封鎖も完了した。
このグローパラスで新たなモンスター娘が生まれる日が刻一刻と近づいている。そのことから、園内全体が若干浮き足立っている気がする。やはり、皆気になっているようだ。
「私たちは人間の男がいないと子供を残せなくなったからね。妊娠する機会がなかなかないモンスターが多いから、今の妊婦たちを皆がうらやましがっているし、将来の自分に重ねてもいるみたいよ」
「ムニラもか?」
思えば、最初の出会いではまだ巨大だったサンディに襲われて、サンディから助けてもらうかわりにしばらく一緒に暮らせともちかけられたっけ。
「砂漠にいた頃だとそうだったかもね」
「ん? 今は違うのか?」
「このグローパラスって場所が思ったより気に入ったみたい。私たちギルタブルルは門の守護者、ひいてはその門から繋がる場所の守護者だけど、守護するに値する場所は年月を経ると共に少なくなったのよね。でも、私はこのグローパラスを守護すべき場所と思っている。だから、今は自分のことよりもグローパラスのことを優先するの」
まさかそんな思いをムニラが抱いているとは思わなかった。出会った時はなんてやる気のない守護者だと思ったものだが。
「ムニラ、ありがとう」
俺はそんなムニラに、ただ礼を言うことしかできなかった。
「やめてよ、私が好きでやっていることなんだし。私こそ、こうした場所を作ってくれてありがとうって言いたいぐらいだし。守護すべき場所があるってことは、私たちギルタブルルにとって本当に幸せなことなんだから」
……妊婦たちの問題が一段落ついたら、火の魔法を使うモンスター娘を本格的に探さないとな。
そして、ついにその日がやってきた。
ブラック・ローチの中で最も早い予定日が今日だ。朝から俺は診療所に詰めている。そのブラック・ローチの担当をしているペナンガランはつきっきりで、ラーナ神殿から派遣された司祭二人もすでに用意ができている。
まあ、俺は現場から追い出されているんだけどね。こういう時にできることがない以上、邪魔でしかないし。
俺は出産、いや彼女の場合は産卵ための部屋の外でただ祈るしかない。ここには俺だけでなく、クレアとティナ、そしてローナをはじめとするブラック・ローチの仲間たちも駆けつけている。なお、数が多いと迷惑ということでブラック・ローチはローナを含めて四名にしぼってきたそうだ。
予定日はあくまで経験則に基づいたものなのでずれることもあるわけだが、その日の昼に陣痛が始まった。
俺のイメージとしては、産みの苦しみに妊婦が額に汗を流して耐えるって感じだが苦痛の声はまったく聞こえてこない。ラーナ司祭の神聖魔法で苦痛を大きく和らげているとか。そして、ブラック・ローチ担当のペナンガランは、ブラック・ローチなどのゴキブリ系モンスター娘の助産婦を務めた経験があるため、終始妊婦は落ち着いていたらしい。
陣痛が始まってからどのぐらいの時間が経ったか……おそらくそんなに長い時間ではない。部屋からペナンガランや司祭たちの歓声が聞こえ、産卵が無事終わったことが分かった。
ペナンガランから入室の許可が出ると、ローナたちブラック・ローチがまず我先にと入室し、それから俺、クレア、ティナが続いた。
「とても元気な卵ですよ」
いや、その表現は何かおかしい、とツッコミを入れたくなるペナンガランの発言が届いた。
妊婦だったブラック・ローチは己が産んだ卵を大切そうに抱いていた。
ブラック・ローチ、つまりはクロゴキブリの卵はネットで見たことがある。がま口財布のような黒い直方体にいくつもの卵が格納されているんだよな。卵のうだったっけと思っていたら、卵鞘だと訂正された。あー、そうだったな。
しかし、ブラック・ローチの卵鞘はちょっと違うようだ。見た目は四十センチぐらいの黒い枕で、全体的に膨らんでいる。なんでも、その中には三十センチぐらいの卵が一つだけ入っているそうだ。
よく見たら、卵鞘はたまにうねうねと動いている。卵の中で赤ちゃんが動いているからだそうだ。
「産卵、おめでとうございます」
ローナたちが泣きながら祝福をしている中、俺も声をかける。
「ありがとうございます、リューイチさん。あなたのおかげで、こうして無事産卵の時を迎えることができました」
「ちなみに、何日ぐらいで孵化するんでしょうか」
「この卵の動き方からして、明朝だと思います」
ペナンガランが俺の質問に答えてくれた。なんか、こうなると卵の状態でいる意味がどのぐらいあるのか分からないな。まあ、そこらへんの生命の仕組みや生命の神秘は俺ごときが理解できるものではないだろう。
その日はそこで俺は去ったが、ローナたちは徹夜で卵を見守ることに決めたらしい。ローナたちの群れで子供が生まれるのは数年ぶりのことらしいから、期待感が大きいようだ。本当は俺も卵を徹夜で見守りたいが、他の業務をさぼるわけにはいかない。モンスター娘で留守にしがちなので、グローパラスにいる時はグローパラスの巡回や書類の処理をメインとして、色々とやるべきことがある。
翌日、俺たちは卵鞘を見守っていた。ちょっと前からうねうねとした動きが激しくなってきている。徹夜のブラック・ローチ組は祈るように両手を握っていた。もちろん、一番強く祈っているのは母親となるブラック・ローチだろう。
「あ……!」
それは誰の声だったか。
卵鞘から褐色の小さな手が現れた。それからもう片方の手、触覚、そして小さな頭がちょこんと出てきた。
卵鞘の一番前に陣取っていたのは当然母親であり、母親は満面の笑みを浮かべてその赤ちゃんに手を差し伸ばす。赤ちゃんは母親を見ると顔をほころばせた。母親の匂いを覚えているためにすぐ見分けられるそうだ。フェロモンとかだろうか。
少しずつ体を卵鞘から出していく。その動作が苦労しているような感じのため俺たちはハラハラとしながら見守る。そんな時間がしばらく続き、赤ちゃんはようやく卵鞘から抜け出る。
全長は三十センチぐらいで、ほとんど人間の赤ちゃんと変わらないな。ゴキブリはいわゆる不完全変態のため、幼虫の頃から成虫とほとんど変わらない姿をしている。そのため、ローナたちを縮めたって感じだな。
「私の子供……!」
母親がその子を抱き上げるとひしっと抱きしめた。俺を含め、その瞬間に歓声を上げる。いやあ、こういうシーンに初めて立ち会ったけど、他人なのに想像以上に感動するもんだ。
いや、他人ではないか。グローパラスとその近くに集落を作るモンスター娘たちは、俺の中ではもはや身内という感覚が強いのかもしれないな。
こうして、グローパラスにおいて初めてのモンスター娘の子供が生まれた。それからの五日間で残り十一人のうち八人の子供が生まれ、一段落ついた。残りはワーラット二人とフェアリー一人だが、こちらはまだ予定日が先だ。なお、フェアリーについては直に妖精界から出産の経験が豊富なフェアリーが派遣されることになっている。
なお、この五日間はグローパラス全体でお祭り騒ぎだった。俺だけでなく、他のモンスター娘たちも、身内という感覚がある程度あるのかもしれない。もしそうならこんなに嬉しい事はない。
そして、これを堺に娼館勤めを希望するモンスター娘が増えた。
これからグローパラスでの出産は増えるだろう。それに伴い、モンスター娘の数が増えていく。もちろん、他からモンスター娘を勧誘するのはこれからも続ける予定だ。
グローパラスは新たなステージへと入った。
俺はそう感じた。




