019 見えない所に存在するもの
上流に向かって歩いていて、改めて思ったこと。
くさい、確実にくさい。風向きが変わって、川沿いを歩いている俺たちの方へ向かって臭いが運ばれるようになったせいだな。
二人を見ると、やはりこの臭いに辟易しているようだ。
「やっぱりくさいよね、これ」
「もう! 何なのよ、このくささは!!」
「なんか気分が悪くなってきました……」
これはあれだな、糞の臭い。人のものか動物のものかは分からないけど。そしてたぶんそれだけではないものも混じっていて、川の水は茶色く濁っている。
テレビの歴史ものや雑学もので、中世はくさかったという話を何度か見たことある。しかし、この世界はそんなことはなかった。そのことに随分ホッとしたものだが、まさか川がひどいことになっていたとは。
モンスターを発見できずにいるのも、まさかこのくささが嫌で引っ越した? いや、まさか。
このまま川のそばにいたら俺はともかく、二人が本当に体調を崩してしまうかもしれない。これはそろそろ撤退した方がいいかと思ったとき、川から何かが顔を出した。
そう、まさに頭を出したという感じで、頭だけが水面に出ている。十二歳前後ぐらいのショートヘアの少女だ。
「ひゃあっ!?」
その子は驚いて一度頭を引っ込めたが、またしばらくするとひょこっと頭だけ出して、今度はこっちをじーっと見つめている。
「やだ、あの子、可愛い」
「本当ですねえ……」
女子二人はそんな彼女の魅力にあっという間にやられている。
「こんにちは」
俺がとりあえず挨拶をしてみると、その子はまた小さな悲鳴をあげて頭を引っ込めたが、またしばらくすると頭だけ出して、すいーっとこちら側に泳いできた。
「こ、こんにちは、人間さん」
そして、その子が近づいてくると、濁っている水でも全体像が見えてきた。
その全体像を把握して、クレアとティナは声にならない悲鳴をあげる。
それもまあ仕方ないだろう。なぜなら、その子の体は言ってみれば赤い芋虫だ。女の子は苦手だよね、こういうの。
上半身から腰にかけては、正面から見たら裸の人間の少女のように見えるが、その状態から芋虫の着ぐるみを身に纏っているような姿で、下半身は人間の足のかわりに芋虫の胴体部分がつながっていて、上半身には人間の腕がなく、小さな鉤爪のような手が生えているだけだ。
そんな姿の女の子が、ゆらゆらと踊るように水中を泳いでいる姿は、俺に改めてこの世界が異世界であることを思い起こさせていた。
「あ……!」
「……?」
俺は唐突にある光景を思い出して声を出していた。その女の子は、そんな俺を首をかしげて見つめている。
思い出した。この姿はあれだ、アカムシだ、間違いない。
高校のとき、生物でやった授業が今でも忘れられない。教科書にのっている有名な解剖実習だ。何かの染色体が大きくて観察に適しているんだっけ。生きたまま頭を引っこ抜くんだよな。解剖実習は、これとイカしかやったことないからよく覚えている。
……頭を引っこ抜くとか、口が避けてもこの子の前では言えないな。
そして、アカムシを思い出したら、成虫の名前も思い出した。ユスリカだ。
「君は、なんてモンスターかな?」
「グリーン・モスキートの幼虫だよ」
……ここではそういう名前になっているのか。
なお、クレアとティナはようやく初見の衝撃から立ち直ったようだ。水の透明度が低いことが幸いしているのかもしれない。俺の目では結構細かい部位まで分かるが、たぶん二人にはそこまで細かく見えていない。
「ねえねえ、この川にグリーン・モスキート以外のモンスターっている?」
クレアがナイスな質問をする。そうだよ、この子に聞けば何か分かるかも。
「私、最近生まれたばかりだし、ここから動かないからよく分からないけど、ウンディーネのお姉さんたちがたまに来るよ」
「詳しく!」
クレアの瞳が急に輝きだす。
しかし、その子はウンディーネのことをあまりよく知らず、普段は上流にいるらしいこと、たまにここらへんまで来ること、自分にとても優しくしてくれることを教えてくれた。
その頃には芋虫のような姿にも慣れたらしく、クレアとティナは楽しそうにその子と話していた。
「これから、どうする?」
グリーン・モスキートの子と別れた頃には、もう太陽は天高く昇っていた。
「少し資料を調べなおしたいし、今日はここまでね。おなかがすいたから、途中でご飯にしましょ。リューイチの分もあるわよ」
「それはありがたいね」
さすがに川の近くは臭いが気になるので、ある程度歩いた先にあった広々とした草原で食事をすることになった。
クレアはパンを入れたバスケットを脇に置き、わざわざ大き目のシートを地面に敷き始める。別に地面にそのまま座ってもいいだろうに。
「実は人気のパンを運よく買うことができてさ。だから、こうやってしっかりと準備をして食べたいわけ。分からないかなー」
「もしかして、パトリックさんの店のパン? すごいじゃない、クレアちゃん」
「そうでしょー」
こういうのは、地球も異世界も変わらないな。
……って、待て、モンスターの気配を感じるぞ。
「二人とも! モンスターの気配がする!」
『え?』
そのとき、何かの影が現れたかと思うと、パンが入っているバスケットを手にしてそのまま向こうへ走り去る。
「あああああ!? 私のパンが!?」
あれは、小柄な体をした少女に見えるが、頭には灰色の大きな丸い耳があり、腰のあたりから長い尻尾が生えている。
ネズミ……それもこの臭いはたぶんドブネズミの系統か。
「ワーラットですよ!? 私、初めて見ました!」
ワーラットね、なるほど。
とりあえず追いかけよう……と思ったら、クレアの方から魔力が満ちるのを感じた。
「こらぁ!! 待ちなさい!!」
ワーラットの方に向けた杖からバスケットボールほどの大きさの炎が飛び出してワーラットの近くに着弾、爆発する。
「うきゃあっ!?」
う、うわ、いきなりなんてことするんだ、この子は。やっぱり魔法使いなんだなと感心するより暇もありゃしない。
「あれ、パンも一緒に吹き飛んでるんじゃないか?」
「……だ、大丈夫! 手加減したし! 炎の温度は下げたから火傷はしないはず」
爆発がどう考えてもまずいと思うんだけどなあ。さっきのワーラット、無事だといいんだけど。
……って、思ったより抜け目がなかったみたいだな。
爆発した場所の近くには穴が掘られていて、しかもその穴は結構深そうだ。
「ネズミは穴を掘るのが得意だったっけ。ここから地上に出て、さっきは逃げ道として使ったみたいだな」
「逃がしはしないわよぉ。ティナ!」
「えー、追いかけるの?」
「追いかけるかどうかは結果次第!」
ん? どういうことだ?
今度はティナが杖を掲げて何か集中しているようだ。ティナから魔力が地面に向けて放射されているのを感じる。
「これは一体……」
「ティナは大地を操る魔法が得意なの。今は、地面から地下にかけての構造を調べているってわけ」
……そりゃすごいな。そんなことができるのか。
「落とし穴を仕掛けるときとか便利だったわ」
「何で落とし穴を仕掛ける必要があるんだよ……」
クレアの学院生活の一端がうかがえる台詞だったな。
それからしばらくして、ティナは魔法を解除したようだ。何だかかなり疲れたようで肩で息をしている。
「クレアちゃん、これは無理だよ……」
「どういうこと?」
「地下にいくつか通路があるみたい。かなり長くて私の魔法ではどこまで続いているか分からなかった。それに、ワーラットが横道っぽいのをたくさん作っていて、かなり複雑になっているの。追いかけたら出られなくなるかも」
通路? どういうことだ?
いや、少し考えれば分かる話だな。
「たぶん、王都から川までいくつも地下に道があるんだろう」
クレアとティナはどうもピンときてないようだ。ひょっとして、一般にはあまり知らされていないのか?
「下水道だよ」