死に誘う腕
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零.
……キラ、もうすぐ着くよ……アキラ。
まどろみの中、俺を呼ぶ声が聞こえる。意識がぼんやりと現実に引き戻される。
眠っていたということを、ようやく認識し始めた。ここは……どこだ。ゆっくりと記憶を辿ろうとする。
身体に感じる振動。そうだ、俺は車に乗っている。
「起きた?」ヒカリがこちらの顔を覗き込み、聞いた。いつものアルカイックスマイルが目に映る。
そうだった、俺は旅行の途中で。
コイツ、日向ヒカリに無理やり引きずられる形で、二泊三日の旅行に出かけているのだった。今日は初日だ。日中、ヒカリと一緒にハイキングをした記憶が、徐々に蘇ってきた。
「どのくらい寝ていたんだ」ヒカリに尋ねる。
「十分くらい、かな」ヒカリが答えた。
この女も疲れていただろうに。決まった時間以外は、コイツは絶対に眠らず、起きもしない。もっとも、二十年くらいコイツのことを知っていながら、その習性を俺が知ったのは、一年半ほど前のことだが。
「疲れてたんですね、アキラさん」運転席の方から声が聞こえた。「もう見えてきましたよ」
「ああ、佐伯さん。本当に助かりました。ありがとうございます」
「すごい吹雪き強くなってきたしね。ホント、ありがとうございます」ヒカリも一緒になって礼を言う。
この車を運転しているのは、佐伯雄太という医大生だ。佐伯さんとの出会いは、数時間前に遡る。俺達二人の宿泊先は山中にあり、最寄りの道の駅から車で三十分ほどかかる場所にある。俺達は車を使わず、徒歩で移動をするのだが、車では通れない山道を行き、ショートカットをすることで、二十分ほどで到着する予定であった。道の駅で買い出しをし、いざ宿泊先に向かおうとした時に、突然雪が降り出し、強くなり始めた。そんな状況で、山道を歩くことは危険である。食堂で軽食を取りながら、さてどうしたものかと完全にまいっていたところ、佐伯さんと相席になったのだ。話をすると、偶然にも彼も俺達と同じペンションに宿泊するという。そして、彼は車で移動をしているというのだった。俺達は、佐伯さんの車に乗せてもらうこととなり、現在に至るというわけである。
佐伯さんが車をペンションの前で停めた。
「ああ、ここだここだ。久しぶりだなあ」いつもの笑顔を更に輝かせてヒカリが言った。
いや、お前は数か月ぶりだろ、とツッコミを入れる。ヒカリはこのペンションに、友達と夏の終わりの旅行で一度訪れているのだった。ここは知る人ぞ知る穴場であり、山中にも関わらず施設は充実し、サービスもいいという。ヒカリはとてもこのペンションを気に入ったようであり、今度は俺を巻き込んで、冬休みを利用して訪れたというわけである。ヒカリは、今回の宿泊を非常に楽しみにしていた。
それが災厄を招くことになるとは、知る由もなく。
このペンション『翡翠』で、俺達は奇妙な事件と遭遇することとなる。
翡翠荘の殺人
練習問題・死に誘う腕
一.
豪雪の中、アキラ達を乗せた車は、ようやくペンション翡翠の前まで辿りついた。既に時刻は七時半になっており、当然、あたりはすっかり暗い。
「先に入っていて下さい」佐伯が言った。「僕は車を停めてきますので」
「本当にありがとうございました」ヒカリが改めて礼を言う。
「お世話になりました、佐伯さん」アキラも礼を言い、二人は車を降りた。
「あとで、一杯やりましょう」降りる二人に佐伯が呼びかけた。
呼びかけに笑顔で手を振り、了解と応じたのち、アキラはドアを閉めた。
車がすぐそこの駐車スペースに移動する。アキラ達はペンションの入口まで移動した。冷たい空気の中、扉の窓から漏れる明かりが、あたたかな印象を与える。
ヒカリが先導し、扉を開けて中に入った。アキラはそれに続く形で中に入る。ヒカリが玄関で靴を脱ぎ、置いてあるスリッパに履き替えた。玄関のすぐ正面には受付がある。受付用の控えの部屋だろうか、さらに奥には扉の開いた部屋があり、そこには二十代半ばとみられる女性が見えた。このペンションの人間だろう。
アキラがスリッパに履き替えたころ、ヒカリはすみませんと受付で声を上げた。その声に気が付き、ペンションの女性が慌てた様子でこちらに向かってきた。
「遅くなりました、二人で予約している日向です」ヒカリが言う。
「日向様、お待ちしておりました」女性が答える。しかし、どこか女性の様子はおかしい。表情をこわばらせ、たどたどしい口調で言う。「申し訳ございません。今トラブルが起こっておりまして、警察の方が来るのを待っているんです」
「トラブル?」アキラが尋ねる。「警察って、何か事件でもあったんですか?」
「それが……」やや間をおいて、女性が重々しく口を開いた。「お客様が、どうやら……お部屋で自殺されたようなんです」
二.
しばし、沈黙が続いていた。アキラがヒカリを見ると、目を見開き、右手を口に当てたまま硬直していた。とにかく状況を把握して冷静になろうと、アキラは思い切って踏み込んで尋ねてみた。
「自殺って、どういうことですか?」
そのタイミングで、後ろから扉が開く音がした。佐伯である。三人で一斉に佐伯を無言で見た。こちらの重々しい雰囲気が伝わったのか、佐伯は少し動揺したようである。
「あの、予約していた佐伯ですが」たどたどしく、佐伯が言う。「あの、何か?」
「事件があったようなんです」アキラが答えた。
「あの、皆さん」と、女性が呼びかけた。「とにかく、御説明いたします。中へ、こちらへいらして下さい」
リビングルームへ招かれると、そこには二人の女性がソファに腰掛けていた。一方はショートヘアに、凛とした顔立ちをしており、活発な印象を与える。もう一方はロングヘアで、優しげな瞳、どこかおっとりとした感じである。ベクトルの違う二人だが、何故か顔の印象と雰囲気がそっくりであり、アキラは彼女達が姉妹であると一目でわかった。自分達とさほど歳は変わらないだろう。宿泊客だろうか。
「皆さん、どうぞお掛け下さい」ペンションの女性が言う。「私、このペンションの責任管理を任されております。いわば管理人ですね。ここは私一人でやっておりますので、御用の際は私に申しつけくださいませ」
御用もなにも、こんな状況では皮肉のようですが。と、管理人は付けたした。なんとか自身を落ちつけようと喋っているように、アキラには思えた。
「あの、それで結局、何があったんですか?」アキラが再び尋ねる。
「お客様が自室で亡くなっていたんです」先ほどと同じことを管理人は言った。
「亡くなっていた? さっき自殺と言っていましたが」とアキラ。
「バスルームでリストカットをしていたんです」左腕をさすり、うつむきながら、管理人は語り出した。
自殺したのは、時田淳一という客だという。夕食の時間である七時過ぎに、内線で時田の部屋に電話をかけ、呼び出そうとしたが、一向に出ることはなかった。そこで管理人は、二十分ほど待ってから時田の部屋に行き、直接呼び出そうとした。しかし、ノックをしても彼は出てこない。このペンションは、施設が充実しており、娯楽室や図書室などがあることから、時田は部屋を留守にしているのかと思ったが、ドアノブを捻ってみると、鍵が掛かっておらず、部屋の中は明かりも付いていた。失礼します、そう断りを入れ、中に入るが時田の姿は見えない。しかし、バスルームの扉が開いていることに気が付いた管理人は、さらにその奥、浴槽に寄りかかるようにして倒れている時田を発見した。
「すぐに救急車と警察に連絡をしたのですが」と管理人。「この豪雪で到着が遅れてしまうとのことでして」
黙って聞いていた佐伯が、そこで口を開いた。「あの、時田さんは間違いなく死んでいるんですよね?」確認しましたか、そう佐伯が尋ねる。
「思い切って調べてみたのですが」管理人は左腕を強く握りながら、言った。「間違いなく、亡くなっているみたいです。脈とか、心臓とか、止まっていましたし」
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」佐伯が言いだした。「僕は医者の卵みたいなもので、時田さんの状態はある程度解ると思います」
管理人は驚いた様子だった。
「いえ、流石にそれは。ああいうのって、現場保存というのですか?」慌てた口調で言う。「下手にいじったりすると怒られるのでは……」
「でも、警察や救急車は暫く来ないのでしょう? 佐伯さんに色々調べてもらった方がいいんじゃないですか?」ヒカリが言った。「本当に自殺かどうかは分からないし」
最後にヒカリがとんでもない発言をする。アキラがすかさずツッコむ。
「お前、何アホ言ってるんだ? リストカットだって聞いてなかったの?」
「ちょっと待って下さい!」姉妹のショートヘアの娘が叫んだ。「時田さんの他に、宿泊客は私と姉しかいなかったんです。私達、そんなことしてません!」
「ああ、すいません」アキラが眉間を指で挟み、謝罪した。「このアホが、大変失礼なことを言いました」
そう言って、ヒカリの頭をつかみ、強引に下げさせる。前々からこの女はおかしいんじゃないかと感じていたが、今の瞬間疑いの余地が無くなった。
「僕は、そんなつもりじゃないんです」佐伯が言った。「リストカットで亡くなるケースっていうのは非常に珍しいんです。だからちょっと気になって」
「あの、あなたはお医者さんなんですか?」管理人が尋ねた。
「大学院生です。そろそろ研修医になります」佐伯が答えた。「検死についても多少心得があるので」
「わかりました」ややあって、管理人が了承した。「時田さんのお部屋は二階です。ご案内致します」
三.
二階にある時田の部屋に案内される。ペンション内は非常に綺麗だった。山の中の独特な木のいい匂い、真っ白い壁からは清潔な印象を与えられた。何故か佐伯達に着いていくヒカリを追いかける形で、アキラも二階の廊下を歩いていた。
ヒカリはミステリ好きである。部屋に何冊もミステリ小説が置かれており、ときどきアキラにも勧めてくるが、あまり活字に慣れていないので、アキラは本というものが好きではない。
まさか、こんな体験できるなんてねえ。軽い口調で不謹慎なことを言うヒカリに対して、アキラは呆れたような、諦めたような、そんな感じである。
「こちらです」管理人がドアの前で足をとめた。ドアの表札に『ヤマセミ』と書かれている。この部屋の名前だろう。佐伯がドアノブに手をかけ、中に入って行った。
その様子を見たアキラは、『自殺ではないかもしれない』というヒカリの言葉を思い出した。もし、佐伯がそう言ったら、どういうことになるのだろう。何故か、そのことが唐突に気になり始めた。ペンションにいる人間について知りたくなり、尋ねることにした。
「下の彼女達もお客さんなんですか?」
「ええ、そうです」管理人が答える。「本日のお客様は、日向様、佐伯様、下のお二人の九条様、そして時田様の四組となっておりました」
「従業員の方は、他には誰もいないんでしたよね?」
「はい、お料理なども、全て私一人でやっております」管理人が小首を傾げた。「どうかしましたか?」
「いえ、それは大変ですね……?」ふと、異変に気が付いた。
「ヒカリは?」ヒカリの姿が見当たらない。佐伯についていき、ヤマセミに入ったのだ。
「あのアホ!」ヒカリを追い、アキラはヤマセミに急いで飛び込んで行った。
バスルームにつくと、佐伯とヒカリが『それ』を眺めていた。時田の死体。浴槽に寄りかかる形で、倒れていた。左腕は浴槽に溜まったお湯のなかにつかり、お湯は生々しい赤色に染まっていた。右腕は浴槽の外側に、だらりと垂らしており、手の近くには血のついた大型のナイフが転がっている。浴槽のヘリに、血がべっとりと付着していた。時田の顔は、青白く、まるで眠っているかのように目をつぶっていた。あまりの凄惨さに顔をしかめ、ヒカリの手を引き、バスルームから放り出す。
「ふげあっ」間抜けな声を出すヒカリ。アキラをなだめるような笑顔で抗議した。「ちょっとくらい、いいじゃない。アキラあー」
「いいわけあるか、この困ったちゃんが」眉間にしわを寄せて言った。「脳みそどうかしてるだろ、お前。おかげで俺まで死体を見ただろう」
「けどさ、アキラ」神妙な顔つきでヒカリが言う。「どうして、時田さんはこんなところで自殺したのかな?」
「自殺する人間の心理なんて知ったことか」左手首をさすりながら、アキラが答える。「わざわざ、手首を切って。こっちまで痛くなってくる」
「さっき、佐伯さんも言ってたけどさ」とヒカリが言う。「リストカットで死に至るケースって、すごい少ないらしいんだよね。かなり深くまでいったんじゃないかな」
「お前」ヒカリの異常なまでの精神力に、いよいよ呆れを通りこした。「よくもまあ、そんなにあっさり分析できるな」
「グロテスクなのは全然平気だよ。ゲームや映画で慣れてるし」いつものアルカイックスマイルだ。「それに、こういうのってミステリの探偵になった気分になるじゃない?」
「理解できん」アキラは眉間にしわを寄せ、天然のパーマのかかった髪をかき上げた。
ヒカリは改めて、室内をきょろきょろと見渡し始めた。
「あれ、お酒?」テーブルの上に着目したようである。
「おい、触るなよ」テーブルに近づいたヒカリを注意し、無意識に彼女を見張るため、アキラ自身もテーブルに近づく。
「わかってるよ」とヒカリが答えた。
テーブルの上にはウイスキーのボトル。氷が解けたのだろう、水の溜まったグラス。そして、ナッツの入った皿があった。テーブルは円形をしており、アキラ達の前と、テーブルを挟んだ反対側に、それぞれ椅子が置いてある。手前の椅子側に、左から順に、ボトル、グラス、皿という並びで置いてあった。
ピリ、と。アキラの脳裏に小さな火花が散った。ほんの一瞬のことである。妙な違和感のようなものを覚えた。ごく僅か。あっさりと見落としても不思議でない、ささいなことが、アキラの胸に引っ掛かった。
「時田さん、死ぬ前にウイスキー飲んでたんだね」ヒカリが言った。
「ああ、感覚を鈍らせるために酔おうとしたんじゃあないか」アキラが左手首を手刀で切るジェスチャーをし、答えた。つまりは、手首を切る感覚のことだ。しかし、そう言いながら、アキラはやはり妙な違和感を覚える。左から、ボトル、グラス、そして皿。
「とにかく、下に戻ろうか」もう満足したのだろうか。ヒカリが提案した。
「ああ……。そうだな……」死人の部屋を訪れるのに、消極的なアキラであったが、何故か答えの歯切れを悪くしてしまった。
ヒカリに着いていく形で、アキラも部屋から出ようとするが、最後にもう一度室内を振り向いた。ベッドサイドテーブルに、高級そうなカメラが置いてあるのが目に映った。
四.
管理人は既に一階のリビングに戻っていたようである。戻ってきたアキラ達を見ると、こわばった顔で尋ねてきた。
「あの、お二人も時田さんを見られたんですか?」
「はい」ヒカリは明るく答える。
「見てしまいましたよ」アキラは苦笑して言った。「このバカタレのせいで」
お茶を飲んでいた姉妹のうち、ロングの方がヒカリに尋ねる。
「あの、自殺だったんですよね?」
「事故ってことはなさそうですよ」ヒカリが答えた。「大型のナイフを使ってましたから。普通は浴室に持ち込まないですよね。死体の姿勢からしても、誤って手首を切ったって状態じゃなかったと思いますよ」
今度は、ヒカリが笑顔で二人に尋ねる。
「お二人は、姉妹ですよね? 大学生?」ヒカリの笑顔は人懐っこく、すぐに人と打ち解けられる。それが彼女の長所であり、表情があまり変わらないアキラとは反対の性質だった。
「私は、日向ヒカリって言います」ヒカリがぺこりとおじぎをした。「初めまして」
「私達、双子で」ショートの方がヒカリにつられ、笑顔になり答えた。「今、高三です」
「三年生かあ。もうじきセンター試験とかじゃない?」
「私達、私立で」ロングの方が答えた。「エスカレーターで大学まで行けるんです」
そっかそっか、とヒカリが相槌をうつ。話を聞くと、ショートの娘が妹の九条舞衣。ロングの娘が姉の九条優衣というらしい。二人は四時にはペンションに到着したという。
「さっきはごめんね」ヒカリが突然謝る。「『自殺じゃないかも』なんて。事故かもしれないって意味だったんだけど、紛らわしかったよね?」
「いえ、こちらこそ」と、舞衣が言う。「変な勘違いしちゃって。すみませんでした」
その直後である。佐伯がリビングに現れた。全員の視線が佐伯に集まる。
「お待たせしました」佐伯が話し始めた。「時田さんですが、やはり完全に亡くなっています。正確には分かりませんが、死後一時間以上経過しているのは間違いないと思います」
「一時間」アキラは呟いた。「今は七時五十分だから、遅くとも六時五十分には……」
「じゃあ、私が呼びに行った時には既に」と管理人。
「亡くなっていたでしょう」佐伯が答える。
「そうですか」管理人がぽつりと呟いた。気分を落ち着けているようだった。「あ、皆さんお茶をお持ちします。どうぞ、ソファにお掛け下さい」
そう言って、管理人はリビングから出て行った。
リビングに、しばし静寂が続いた。
「そういえば」ヒカリは気になっていたように疑問を口に出す。「誰か時田さんを見た人はいますか?」
「あ、私」舞衣が答える。「二階に男の人が上がっていくの、すれ違いました」
あれが時田さんだったんじゃないかな、と舞衣が言う。
「それって何時頃だった?」ヒカリが身を乗り出して尋ねる。
「四時二十分です」舞衣は即答した。「私、リビングのソファで本を読みたくて、一階に降りるときだったんです。そのとき、丁度リビングの時計を見て……」
ヒカリは時田さんの死亡推定時刻を狭めたいのだと、アキラには分かった。ミステリ好きの血が騒いでいるのだろう。しかしながら、なるほど。そうなると、時田の死亡推定時刻は、四時二十分から六時五十分の二時間半というわけだ。
「あれ、二人は一緒じゃなかったの?」軽い調子でヒカリが聞き出す。
「あのときは、二時間くらい別行動だったよねえ?」舞衣が優衣の顔を見て確認する。
「私はシャワーを浴びたくて」優衣が答えた。「舞衣がリビングにいる間、二階の部屋にいました」
そのとき、管理人がお茶とプリンを持って戻ってきた。
「優衣さんはシャワーを浴びられた後、このプリンを作って下さったんですよ」管理人が言う。「こんなときですけど、折角ですので持ってきちゃいました」
「へえ、優衣さんが作ったの?」ヒカリが驚いたように言う。「偉いね、宿でお菓子作りって」
「いえ、無理を言って作らせていただいたくらいで」優衣は照れたようにはにかんだ。
会話をしているうちに、重苦しい雰囲気が和らいできた。話が弾みだす。
「丁度、私と入れ違いで一階に来たんだよね?」と舞衣が確認する。「私は本読んだ後は二階の自分の部屋にいたなあ」
「このリビングは日の入りに暗くなりますからね」と管理人。「丁度、そのタイミングで舞衣さんはお部屋に戻られましたよね」
「そうそう」と、舞衣は合掌して言った。「ここの窓、日の入り前は明るくて電気も要らないくらいなんだけど、日が沈むと突然暗くなっちゃって。それで自分の部屋に戻ったんです」
「確か、五時二十分でしたよ」管理人が言った。「私はずっと一階にいて、舞衣さんが二階に上がる音が聞こえて。それが五時二十分でした」
「一時間も本読んでたんだ」とヒカリ。
「舞衣って意外と読書家なんですよ」優衣が言った。
「なんだかアリバイ調査みたいだな」と佐伯。「警察からも色々聞かれるんでしょうか?」
「実はうち、玄関に防犯カメラが付いてるんです」と管理人。「階段が映るので、警察の人に色々聞かれるようでしたら、それを見せようと思います」
「それにしても、警察遅いですねえ」ヒカリがぼやく。アキラには、どこかしらじらしく思えた。
九条姉妹のアリバイが何気なく手に入った。大した腕前だと、ヒカリに対して大いに感心してしまったアキラだった。
五.
リビングの窓のカーテンを開け、外を覗く。外は相変わらずの吹雪だった。草木には雪が積もっている。アキラは、その景色を見ながら、先ほどの九条姉妹の情報を整理していた。
まずは、妹の舞衣だ。舞衣は四時二十分に一階へ降り、リビングへ向かったという。その際に時田とすれ違った。これが生きた時田の最期の目撃情報である。舞衣はその後、リビングで一時間ほど本を読んでいたが、日の入りと共に急にリビングが暗くなり、二階にある自室へ戻った。次に、姉の優衣。優衣は日の入りの五時二十分まで、二階の自室にいたという。その後、一階へ降り、食堂の調理場で菓子作りをしていた。二人とも、一階にいる間は、ずっと管理人が近くにいた。二人が合流したのは六時二十分頃のことだったそうである。
アキラがそこまで考えたとき、佐伯が隣に立ち、窓の外を見ながら言った。
「警察はまだなんでしょうか」
「いくらなんでも、もうじき来ますよ」とアキラは答える。「この豪雪でも、ずっと来れないことはないでしょう」
時刻はとうに八時を過ぎている。ヒカリは九条姉妹と管理人と、ソファでプリンを食べながら会話をしていた。
「時田さんなんですが」唐突に佐伯が言う。「何故、リストカットを選んだか、よくわからないんです」
「自殺する人の心理など、様々では?」とアキラ。
「いいえ」佐伯は首を振り、言う。「時田さん、どうやら、かなりの量の睡眠薬を飲んでから手首を切ったようなんです」
「睡眠薬? かなりの量とは?」アキラが尋ねる。
「おそらく、出血の間、眠るようにして死にたかったのでしょうね」でもそれがおかしい、と佐伯は付けくわえた。「もっと多くの睡眠薬を使えば、リストカットで死ぬよりも、明らかに楽に逝けそうです。なのに、何故手首を切ったのでしょう?」
「どうして睡眠薬のことが分かったんですか?」先ほどから感じている違和感。それがアキラの中で何故か膨らんでいく。
「バスルームの洗面台に殻が沢山ありましたよ」と佐伯が答える。「おそらく、そこで睡眠薬を服用したのでしょうね」
そうだ、確かにあった。バスルームに一瞬入ったとき、確かにちらりとそんなものが目に入った。それを思い出した途端、胸騒ぎが始まった。大きく膨らんだ違和感が、警告をしているかのように。アキラはしばらく思案した。しかし、ここで迷っていても、心の内に溜まった膿のような違和感は抽出されない。
「ちょっと、見てきます」アキラはもう一度、現場を訪れることを決意した。
リビングを抜け出し、二階に上がり、ヤマセミの部屋へと向かう。
アキラの予感は的中したようだった。ヤマセミのバスルーム。そこには、確かに薬品の殻が洗面台の右側に。奥には使用済みの歯ブラシ。そして、取っ手が左を向いたコップが洗面台の左側にあった。
気付いてしまった。
真相を垣間見、奇妙な感覚を全身に覚えながらバスルームを出る。
何か他に、決定的な根拠はないだろうか。
ふと、ベッドサイドテーブルのカメラが目に着いた。現場保存など気にせず、カメラを持ち上げてみる。高級そうなデジタルカメラである。少し小さめで、シャッターが左側に付いていた。
真っ黒なレンズがアキラを覗く。戦慄した表情の自分が映っていた。
ゾクリとした悪寒を感じた。
もはや疑いの余地はない。
カメラを置き、窓のカーテンを開けた。一階のリビングで見た時と、同じ景色が見えた。
そうか。そうだったのか。
カーテンから手を離と、パサリと垂れた。
ふ、とため息を吐く。
時田は自殺じゃない。
『彼女』に殺されたのだ。
後方で扉が開く音がして振り向く。ヒカリがやってきたのだ。
「どうしたの? アキラ」ヒカリが不思議そうに呼びかけた。
「ヒカリ」自身を落ち着かせるよう、ゆっくりと言った。「俺の推理を聞いてくれ」
問.
一:時田の死は自殺ではない。その根拠を述べよ。
二:犯人は誰か。以下の選択肢から選べ。
・藤田明
・日向ヒカリ
・佐伯雄太
・九条舞衣
・九条優衣
解決篇は、作者が真相を思いついてから。