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少女が、あの日の世界を、まさしくこれこそが世界だ、と思った理由は、そこが天国でも地獄でも煉獄でもなかったからだった。
慈悲はなく、そして無慈悲もない。
良心はなく、そして邪念はある。
哀れみはなく、そして憐憫はある。
最低であり、最高である。
大凶であり、大吉である。
世界は残酷なまでに、世界でしかなくて。
何かをすることで世界を変えることはできないのに、ちょっとしたことで世界は変わってしまう。
それを止めることも、早めることもできず、世界は無慈悲にも、夜の女王然とした、すました顔しかしない。
さぁっと初夏の生ぬるい夜風が頬を撫でるけれど、汗は全く引かないし、首筋をどくどくと血が流れる音が体中で鳴り響いて、外にまで漏れ出しているのではと不安になる。
木陰に隠れて、体を休めていると、全身が虚脱感に覆われていることに気づく。
元々は青くて、綺麗なチャイナドレスのような、胸や腰などがプロテクターで覆われているその服は、まるでパーティドレスのように綺麗で、しかし戦いのための道具であることが如実に分かる形状をしていた。それが、カーボン素材のように軽く、その実、象に踏まれても壊れない篭手であり、少女の脇に置かれた盾と片手剣だった。しかし、それは今土にまみれ、擦り傷や切り傷が服のところどころを赤く、黒く染めていた。
息を整えると彼女は木陰からそうっと道路を伺った。
そこは真っ赤な月の光が照らす公園で、噴水の音が遠くから聞こえるなか、人の姿はない。
また彼女は木陰に隠れると、体育座りをして、うつむく。
「怖いよ……」
ふとつぶやいた言葉すら震えている。そのことに気づいて、逃げるためにかいた汗とは違う汗が吹き出てくる。
涙すら零れそうになって、体をじっと縮こまらせる。
いつもと同じはずだった。
数ヶ月まえ、高校の入学式から一週間たったころの夜を少女は覚えている。
その日、彼女は運命に出会い、力を手にした。
それからいろいろなことがあった。
初めての戦い。
突然の黒い少女との邂逅。
学校での再会。
再度、激突。
和解。
中学校のころからの友人との、望まぬ戦い。
別離。
たくさんのことがあった。
そのたくさんの戦いを終えて、いつも彼女はこう思った。
また次もこうだといいな、と。
それは実際に『こう』ならなかったときを知らない故に、危機感に欠けたものだった。
今までは、何があっても、こんなにはならなかった。
黒い少女の手伝いを拒まなければ。
もう少しの注意力があれば。
今日でさえなければ。
あの日、運命なんて信じなければ。
力さえ手に入れなければ。
力を手に入れたから。
力なんて、手に入れたから。
力。
力のせいで。
力を手に入れたせいで。
私は殺されかけている。
その事実に気づいたそのとき、彼女の体は木陰を飛び出していた。
盾と剣を持ち、飛び出した彼女に向けて哄笑が響き渡る。
後ろを振り向くと、さっきまでいた場所に何十本もの短剣が降り注ぎ、葉を散らしている。
飛びだした勢いで、道路の反対側の木陰に隠れようとするが、道を塞ぐように短剣が降ってくる。
よけながら、周りを見渡すが、焦っているせいか敵の姿は見当たらない。
いつのまにか、彼女は噴水のすぐ近くまで来ていた。
月光で真っ赤に染まった噴水は、まるで自分のこれからを暗示しているようだった。
少女は突然の衝撃で、吹き飛ばされる。
噴水の中に大きな音を立てて落ちる。
くらくらしながら目を開けると、真っ赤な月光の下であっても、なおはっきりと分かるほど赤い服を着た女性、美女が歩いてくる。悠然と歩いてくるその女性、魔女が着ているのは魔法の文言が織り込まれたローブだった。
「……手こずらせてくれる」
首から下で唯一ローブから出ている右手には、細身の剣が握られている。
絶望が、少女の脳内を染める。
いまの衝撃で剣も盾もどこかに飛ばされた。びしょ濡れの体は、ガクガクと震えている。それが、濡れて寒いことが原因だなんて強がりが、頭を覆う。現実を俯瞰するような心が、体を覆う。
死の恐怖から切り離された心と体が、世界をぼうっと見ている。
近づいてくる。
水音を立てて、赤が近づく。
目の前に。
ローブが濡れる。
洗濯どうするのかな。
大変そうだな。
頭上にまっかな月が。
剣を振り上げ。
今まで吸ってきた血を。
吐き出すように。
まっかなきらめきが。
振り下ろされる。
目をつむる。