第六話(加筆版)
2012 6/11 誤字脱字の修正を行いました。
『こんなところだろう』
「ぱぱ、これは?」
ヴラドが満足気に思念を零すと、エルが不思議そうな顔で訊ねてきた。
目の前には樹海の入り口付近で周囲の木々を伐採し、空いた地に丸太や削られた木材を使い組まれたロッジが建てられている。
嵌め込み式を使っているが、綺麗な切断が出来ない為、強い揺れが起きれば崩れる可能性は高い。方法は単純で鋭利化した触手で削れる分は削り、それで無理なら塩基を扱い溶かすように削っていく。
後は触手を嵌め込む型と同じ形にし、そのまま塩基を用いて穴を空けるだけだ。それなりに時間は食うが、何とか出来なくもない作業である。
一応建築に関しての知識と実践は生前叩き込まれたが、何も道具がない状況ではそれも満足に発揮出来なかったのだが、一応形にはなった。
『家だよ。私達は今日からこの中で暮らすんだ』
「ぱぱとえるのおうち? いままでのところは?」
不思議そうな顔でエルが疑問を口にする。ヴラドはフォレストアントの件は話していない。
そもそも水浴びをする時にやってくる生物の始末一切、エルには話していなかった。
もしかしたら聡いエルのことだから、なにか感づいているかもしれないが、とりあえずヴラドから話すつもりはない。
家族間での隠し毎は正直あまりヴラドにとって気持ちの良いものではないが、それでも必要であればそれを許容したりもする。
『エルも私も少しずつ大きくなってきたからな。今までの場所は狭かったろう? それとも、エルは広い家は嫌か?』
「ううん。える、ひろいおうちもすきだよ」
『よし。それじゃあ、今日は家具の準備だな――』
そう言って「かぐ?」と家具が何か知らないらしく、またもや疑問を口にするエルに説明しながら、ヴラドは再び高レベルの塩基などを扱い木材を削っていく。
触腕を鉄並みの硬度、そして鋭さを持たせられれば大分楽なのだろうが、今のところそこまでの変化は出来なかった。
結局雑なベットにテーブルや椅子などを作るだけでその日は費やされこととなる……
『完成したな』
「ぱぱ、ぱぱ! える、ここでねてもいい?」
家具作りも無事終わった頃には既に日は暮れ、太陽は草原の遥か彼方に見える地平線へと殆ど沈んでいた。
椅子、机、ベッド。どれも形はお世辞にも綺麗とは言えないが、それでも使用することは出来る。
エルもあまり役に立たなかったとはいえ、運ぶのを手伝ったりした為か、その喜びようも一入と言った感じだ。
『ああ、元々それはエルの為に用意した寝台だ。私はこんな身体だからベットは必要ない』
そう言うとエルがちょっと残念そうに、それでも元気一杯といった感じでベットに横になる。
ベッドと言っても、木材を板状に整え、四方に足を組み込みそのまま壁際に置いた程度の代物なのだが。
それでも敷物は手触りのよいオオカミ型の生物から剥いで用意したものだし、板との間も弾力性に優れた植物の繊維を敷き詰めてある。
掛け布団も毛皮で出来ており、保温性はそう悪いものでもないし、肌触りもなかなかのものだ。
「えへへ……」なんて締まりのない表情で、毛皮に頬をすり付けその滑らかさを堪能するエル。
今までまともな寝具はなかったのだ、きっと本人にとってはヴラドが思っている以上の何かがあるのだろう。
ヴラドからすれば、この程度のことしか出来ないことが心苦しいのだが、嬉しそうに笑みを浮かべるエルを見ているとそんな気持ちも和らいでいく。
『今日はもう寝よう。エルはそのままそこで寝るといい』
「はいっぱぱ!」
何時もより威勢のよい返事と共に、臭いを消臭し、ヴラドの生成出来る液体によりある程度の滅菌を施された毛皮にエルがその身体を滑り込ませる。
「ぱぱ、あったかい……」
『そうか。暖かいか』
「うん……える、こんなにあたたかいところでねるの……はじ…め…て……すぅ…すぅ…」
まだまだ夜遅くまで起きるているにはエルは幼い。気づけば言葉の途中で寝入ってしまっていた。
ヴラドが触腕を伸ばし、ずれている毛皮をしっかりと首元まで引き上げてやる。
『さて、私も眠るとしよう――』
エルの寝ている部屋の隣、夢で見た小屋と同じく簾で仕切られたリビング。
その玄関の近くでヴラドは身を縮めるように固定する。流動体である為、意識しておかないと起きた時にあらぬ形や場所に移動している事があるのだ。
機能的に意識を落とし、眠りの状態へと持っていく訓練はそれなりに得意であった。僅か数分もせず、ヴラドの意識は夢へと旅立つ。
ふと、気付くと己が夢の中に居るのだと言う考えが唐突に心の中に浮かぶ。そして聴こえてくるノイズ交じりの音。
またこの夢か……と思いつつも、最終的にこの夢がどこへ向かっていくのか少し興味もあった。
聴こえてくる音は相変わらず強いノイズに紛れているが、今回は以前より少しだけその雑音が晴れている事もあり、肉声であろうことが判明する。
『lxpw.xp[qま,qimxさ.xo@wへmxpjco3さい』
女性なのか男性なのか。それは未だ判別出来ない。それでもどうやら誰かが喋っているだろうことは分かる。
夢は願望であるとか、記憶整理であると言われるが、ヴラドにこのような摩訶不思議な願望などない。
記憶の整理と言う線における、継ぎ接ぎによる夢。と言う線は零でもないが、こう何度も見るとやはり意味があるようにも思えた。
結局その夢ではそれ以上の事は分からず、気付けば別の夢。エルとの穏やかな日常の夢へと変わっていた――――
「パパっ! みてみて! ほらっ、エルがたおしたんだよ!」
ロッジもどきを建築してから一年と数ヶ月。数ヶ月前から始まったエルの戦闘訓練も、今ではヴラドの同伴すら必要ないレベルに到達していた。
ロッジのドアを開け放ち、嬉々とした表情をし、“片手”で引き摺っていた獲物をきらきらとした満面の笑顔で差し出してくる。
人型の生物のゴブリンをもう少し大きくしたような姿。ヴラドが“ホブゴブリン”と呼んでいる種族だ。
エルに殴殺されたのだろう。肉体のあちらこちらには打撲や鬱血、頭部などに至っては陥没してしまっている。
引き千切られたらしい右腕の付け根から血が微量流れているのが見えた。引き摺る間に殆どの血液が流れ出してしまったに違いない。
『エル、嬉しいのは分かるが、ロッジを血で汚すのはいけないぞ。食事の為ではないのなら、捨ててくるんだ』
「でもパパ、これエル――」
『捨ててくるんだ』
「……はい」
ヴラドの冷たい言葉に見る見るうちにその笑顔が曇り、俯いたかと思うと沈んだ声音で返事を返し、とぼとぼと外にホブゴブリンを捨てに行く。
それを見届け密かにヴラドは溜息を零す。本当は『よくやった』と褒めてやりたいし、頭を撫でてやりたかった。
だが甘やかすだけではエルの為にはならない。生き物を殺すのはいい。この世界では力こそが絶対であり、少なくともこの樹海ではそれがルール、真理、法則なのだ。
外来者たるヴラドですらそれを理解し、是としている。それを否定し人の価値を押し付けるような真似は出来るならヴラドはしたくなと思っていた。
だが目的なき殺傷はいただけない。それは知らないうちに戦闘狂いへの道に続いていく。
エルはヴラドがいるからこの程度ですんでいるが、元はかなり残忍な性格をした種族なのだろう。
殺しと言う部分に欠片も躊躇がない。そして本人は気づいていないが、それを楽しんでいる節さえあった。
種の本質に逆らった教育はエルに負担を与えかねない。だからヴラドは殺しそのものを否定することはない。
なんせ自身が数え切れない程生物を殺めているのだ、その背を見てきたエルに殺しはいけないことだと説くのは酷であるし、そもそもこの世界にそぐわない観念だ。
ヴラドの役割は凄まじい成長速度で実力を増しつつあるエルを、せめて戦闘狂に堕ちないよう導いてやることだろう。
親の役目とは、子に可能性を与える事だとヴラドは認識している。それが例え辛いことだとしても、将来あらゆる道をより多く選択出来るよう、様々な知識と経験を与えていく。
それらが結果的に子を成長に導き、あるいは助けになることだろう。事実、ヴラドは生前そうして子を育てたのだから。
今は素直にヴラドを慕い、言う事を聞いているが、いずれ子は親を離れるものだ。その時エルがどんな成長をしているのか、それは神ならぬ身のヴラドには知る由のないことではあるが、少なくともエル自身が己を誇れるように導いてやりたいと思っている。
そんな事をヴラドが考えていると、エルが戻ってきた気配を感じドアに視線を映す。
「……パパ? あ、あのね、ちゃんとすててきたよ、えっとだから――」
『私は怒ってはいないよ。エルはまだ子供なんだ、知らないことだってあるだろうし、間違いだって沢山するだろう。私は知らない事があれば教え、間違いがあればそれを指摘するが。得た解答や選択をどうするかはエル次第だ。ほら、おいで』
「おこって、ない……?」
『ああ、怒ってなどいない』
ヴラドが優しく声を掛ければ、ロッジの入り口からもじもじと顔だけ見せていたエルが、ぱっと花が咲くように笑みを浮かべ、そのままヴラドに抱きついてくる。
エルの体重を支えるくらいに弾力性を増したその身体を、まるで椅子のようにしてエルは座るのを好んでいた。
ヴラドが人であれば、今の代わりに膝に乗せて座らせていたのかもしれない。密着するようにヴラドの上に座ったエルから、子供特有の高い体温がヴラドに伝播していく。
残念ながら感覚の鈍い肉体の為、ややぼんやりとした温もりだが、それでもヴラドはこの体温をとても気に入っていた。
それはエルも同じなのか、その大きな瞳を細め、中心の盛り上がりに安心し切った表情で背を預けるようもたれ掛かる。
さっきまでの沈んでいた様子とのギャップに、第三者が見ればエルが演技をしていたのでは? などと邪推してしまうかもしれない。
この世界で現状二人っきりで過ごしてきたヴラドには、無論それが演技ではないと知っている。
ふと、エルの頭が前より高い位置にあると気づく。どうも人外となってから、時間の感覚が曖昧と言うか、非常に物事を長期的に見るようになっていた。
エルも今こうして気づけば随分と成長している。身長だって伸びているし、髪も肩までだったのが今では背中に掛かっている。
毛先の付近で少しウェーブの掛かったクセ毛だが、触れるとふんわり柔らかくまるで綿菓子のようだ。
そしてエルが人でない最大の証である翼。かなり自由に折りたたみが出来るらしいそれも、デフォルされたような大きさから、少しずつ成長していた。
お饅頭みたいにぷっくりした頬も、少しだけ丸みが取れてきているのが分かる。手の指も紅葉みたいな感じから、しっかりしたものに変化しつつあった。
子供の成長が早いのは、子育てをしたことのあるヴラドも知っていたが、ふと意識するとそれを突き付けられる感じである。
何も成長は見た目だけではない。言葉も日本語ではあるが、発音もしっかりしてきたし、知識面もより豊かになり、情緒面も非常に安定している。
暇があれば、算学も教え込んでいた。こちらは言葉などとは違い、確実にエルの為になる筈だとヴラドは考えている。四則算に関してはそう時間も掛からずエルは覚えてしまった。
他にも戦闘面での成長も著しい。今はまだヴラドの方が殺し合いでは上回るだろう。
相性の問題もあるのだが、それでもエルの驚異的な膂力、見た目にそぐわない頑強さ、驚異的な筋力から得られる高速移動能力は脅威的だ。
純粋に速度の乗った拳の一撃を放つだけで、頑強な昆虫タイプの甲殻すら呆気なく砕け散る。増していく膂力に最近では振り回され気味なため、加減も教えないといけない。
エルの頭を触腕で撫でつつこれからの行動を考えていく。エルの予想以上の戦闘能力は嬉しい誤算だ。
衝動はより強い相手に強く反応する傾向があることから、助けた時の状況を考えれば至極当然の帰結なのだが、どうも容姿のせいですっかり失念していたらしい。
この分であれば、ヴラドの努力次第と、エルの肉体的成長度合いの有無で樹海を出る事も考えてもいいだろう。
ヴラドがこの地に居るのは、効率的な自身の成長を鑑みた結果だが、別に世界に興味が無い訳ではない。
冒険者、あるいは旅人。それらの言葉は中々に魅力的だし、こうして異世界に来たのだから実践したいとも思っている。
しかし、世界基準での実力の位置が分からない以上、少なくとも樹海で上位に食い込むまでは外に出ないようにと考えていた。
ヴラドの実力も増しているが、それでも未だスライムだし、樹海でもやっとこさ下位中位上位で言えば中位に差し掛かったばかりだ。
だが不思議とヴラドには確信があった。そう遠くない先、この肉体が成長していけば、なにか“劇的な変化”が身に訪れるだろうと………
広大な大草原。その一角で三つの物体が高速で移動していた。一体は体長十メートル近い、猪のような姿の生物。
その生物を挟撃する形で二つの物体が高速で動き回っている。一体は不定形な肉体を様々な形に変え、予想以上の速度と軟体を用いて相手を翻弄している。
対して傍らは不定形生物より一回り以上も小さい人型だが、その移動速度は優に三体の中でダントツであった。
草色のワンピースを着込み、スカートからは白い足がちらちらと覗いている。
まだ幼い表情を何が嬉しいのか笑みで染め、圧倒的な力が生み出す速度で地を跳ねるように駆け回り、その細い腕から信じられないような膂力で持って、現在追い詰めている“獲物”の肉体を強打していく。
一撃放つだけで鉤爪のように曲げられた指先がその肉を引き裂き、鮮血を大地に撒き散らす。爪先に付いた赤黒い血をぺろりと舐め、その顔をにたりと狂気的な笑みに染め上げる。
瞬間、その猪の巨体が予想以上の俊敏さで幼子に振り返り、その口元に生えた一対の雄雄しい牙を振り回す。
それをバックステップで避けるが、そのまま猪は雄叫びを上げ言葉通りに猪突猛進で突き進む。
直線でのその速度は凄まじく、あわやその小さな身が牙の餌食になるかと思えば、横合いから迫った触腕がその身体に巻きつき、軽やかにその小さな身が宙に放り投げられる。
絶妙なタイミング、まさに息のあった連携にその身は重力の楔から逃れたかのように宙を舞う。
燦々と煌く太陽の輝きを背に、その背に畳まれた漆黒の小さな翼を広げ気流を調整し、そのまま宙でくるりと曲芸染みた動きで回ると、そのまま踵を振り下ろす形で落下していく。
「ドーンっ!」
幼子が踵落しの直撃と同時に口にするが、実際にはドゴンッと言う明らかに異常な音を響かせ、猪の頭部が陥没し、その目をぐるりと回して地面に倒れこむ。
ズズンッ! と重たい響きが鳴り、小さな振動が地面を駆け抜けていく。
明らかな致命傷。恐らくは即死。幼子がそのままストンっと軽やかに地面に降り立ち、喜色満面の笑顔で「パパー!」と手を振る。
その両手は血に塗れ、来ている衣服にも血が染み込んでいるのだが、その溢れ出る陽気な雰囲気が血生臭さを感じさせない。
その微笑ましくも猟奇的な姿に内心苦笑しつつ、その場に近づいていく犬の姿をしたゲル状の生物。
『お疲れエル。大分二人での狩りにも慣れてきたな』
「えへへ……」
最近バリエーションが増えた変形形態、犬型から元の不定形に戻り、そのまま触腕を伸ばしエルの頭を撫でてやる。
エルの戦闘訓練を開始してから一年近く、最近では新たに判明した事実もあって二人で大型生物の狩りに出る事も多くなっていた。
と言うのも、協力して生物を倒した場合、その後の祝福は戦闘に参加した全員に及ぶらしいのだ。
どんな判定の結果なのかは不明だが、お陰でエルとヴラドは共に成長することが出来た。
尤も、一人で倒す場合に比べれば当然と言うか効率は落ちるのだが、疲労や時間効率を考えればエルとの連携は中々悪くないものである。
ヴラドには元から決め手となる決定打に欠けていた為、エルのような一撃を持つパートナーは非常に相性がよかった。
『まだ日は高い。もう少し獲物を探してから今日は戻ろうエル』
「はいパパ! そういえば、どうしてパパはいきものをころすの?」
さて、行こうかと姿を変えようとし、エルが返事を返したままふと不思議そうに訊ねてきた。
言われて気づく。エルに話した事はなかった、と。別段隠すような事でもないのだが、逆に話すようなことでもなかった為か、ヴラドから口にすることはなかったようだ。
少しの逡巡の後、まぁいいかと口を開く。
『私は強くなりたいんだよ。それこそ何者にも負けないくらい』
「それならエルがつよくなるよ? エルはパパをころさないし、パパがきらいなひとはみんなエルがころしてあげるよ。そしたらパパはだれにもまけないよね、それじゃあだめなの?」
エルの過激な言葉にもヴラドは驚かない。種としての特性上この手の思想や思考はどうしようもないのだ。
それでもエルはこうして何をするにも目的を置いてくれる。それが例え父の役に立ちたいと言う、子供心から来るものであろうと、エルは目的なき殺生をしようとはしない。
その一点こそが重要であり、大切なのだ。ヴラドはこれからもエルには快楽を得るための殺しだけはして欲しくないと切に願った。
それさえエルが守る限り、戦闘狂へと堕ちる事は決してないだろう。
『男ってのは意地っ張りなものなんだ。古臭い考えだが、男に生まれたからには何かでかいことやってなんぼだとな。これは受け売りだが、少なくとも私はそう思っている。そしてあくまでこの道は私の夢路であって、それは例えだれであろうと邪魔出来るものではない』
「でも、エルはパパのてつだいがしたいよ?」
『なに、手伝いを駄目だと言っているのではないよ。そうだな、何時かエルがもっと大きくなって、何か夢を見るようになったら、私の気持ちも分かるかもしれない』
「ふーん。エルはパパのやくにたてればいいだけなのに」
『エルにも何時の日か夢を持つ日が来るさ。さて、そろそろ行こうか』
「うん!」
威勢良く返事したエルを後ろに、即座に犬の形を模したヴラドが、その四足を駆使し広大な草原を駆け抜ける。
それに追走するようにエルが並ぶ。当初からは比べるまでもない速度で駆け抜け探すは大型の生物。
気配を消したり、誤魔化したりすることが出来ないエルは樹海での狩りは苦手だ。
結果草原で大型の生物を狙う事となる。今、二人はとても充実した毎日を送っていた――――
ふと、エルが寝てしまったその日の夜。ヴラドはここ最近、あの夢を見ていない事に思い至る。
ほんの半年前まではそれなりに見ていた夢。そう、あのノイズ交じりの肉声を延々と聴く夢だ。
最後に聴いた時にはついにその声の持ち主が、恐らくは女性だろうと言うところまで判明していた。
それも恐らくは十代。かなり若い、少女と呼べる年齢である。他にも結局は文脈もあやふやであったが、何かヴラドに語りかけているらしいことも判明している。
それがこの半年程気付けば全く見ていない事を思い出す。これも物事を長期的に見るようになってしまった弊害だろうかと思いつつ、まぁ、見なくなったのであればそれはそれでいいと、ヴラドは眠りについた――――
『ん? エル、少し待ってくれ』
「パパ?」
日が暮れ始め、既に空は茜色に染まる誰彼時。誰そ彼と問うたが始まりの言葉。
そんな時刻の中で、今日の狩りを終えてロッジに向かっていたヴラドが立ち止まる。
丁度太陽が沈む方角、光でやや見辛かったが何かチラリと視界に映った。何時もなら気にもしないのだが、妙に意識に引っ掛かってしまい気になってしまったのだ。
仕方なく立ち止まって視界を凝らすと、そのぼやけた輪郭が何か小型の生物だと判明する。
なんとなく興味が引かれ、近づいていくと分かった色は黒。体長は三十センチにも満たないだろう。
黒の毛は見事な色艶で、その顔も何だか品があるように見える。
と言っても、瞳は閉じられグッタリと大地に倒れ伏しているし、その毛皮は黒で判別し辛いがべっとりと血液が付着していた。
「パパ、どうしたの――――これは?」
『多分だが、猫……だな』
「ネコ?」
『そうだ。私も昔飼っていた事があった。愛玩用の動物だよ』
「ふーん。でも、ネコさんしにそうだよ?」
エルの言うとおり、このまま放置すれば恐らくそう時間も経たずにこの猫らしき生き物は息絶えるだろう。
触腕を伸ばし触れて見るが、抵抗するだけの力は残っていないのか、力無く「フゥーッ!」と威嚇するだけであった。
さわさわと身体中を撫で擦った結果、傷は腹部と判明。そこまで深い訳ではないが、出血が激しく、このまま放置すればやはり間違いなく死に至ることだろう。
所詮は自然の摂理。何があったかは不明だが、ここで息絶えるのがこの猫の運命。弱き者はより強き者に搾取される、それがこの地のルール。
が、それはあくまでも“獣”たる、この世界に住む者達の掟に過ぎない。今でこそヴラドはこの世界の住人だが、本質は来訪者に過ぎない。
ならばその掟に縛られる必要も無い。郷に入っては郷に従えと言うのも一理だが、それだけでは自ら選択を放棄するに等しいだろう。
「パパ?」
『なに、昔飼っていた猫も黒だったと思ってな。エルも興味はないか?』
「パパがほしいならエルはどっちでもいいよ」
『そうか。なら私が欲しいと思ったんだよ。さぁ、帰ろう、私の肉体で包めば止血くらいは出来るが、ロッジにある薬草を使った方が確実だ』
「はいパパっ!」
エルを助け出した時のように猫を触手で持ち上げ、そのまま肉体に取り込み酸素を窒素などで割って巨大な泡を作り出す。
その中に猫を入れ、内部のゲルの強度を強化。そのまま犬の姿に変形し、沈み行く太陽を背景に、我が家への帰宅を急いだ……