第十六話
昔話をしよう。どこかのとある世界のお話だ。魔法ではない、科学の世界で生まれた一人の少女の物語……
高度経済成長を終え、暫くの時が経過した日本。そんな国の中で、旧家と呼ばれるとある家系の末娘として生を受けた者が居た。
上に姉が一人。更に兄が居り、彼女は礼儀に厳しい家系でありながらも比較的甘やかされて育った。
日本人特有の漆黒の艶やかななストーレトロング。きっちり揃えられた姫カット。外にあまり出ない為か、日本人にしては随分白く肌理細やかな肌。
少したれ目の二重に重たげな睫毛。細い眉はややハの字気味であり、その表情はどこか庇護欲を誘う。
百五十あるかないかの少し小柄な身長。実年齢より二歳は若く見られる童顔。コンプレックスでもある起伏の少ない肉体。
凡庸に、一言で言えば美少女とそう言い換えて差し支えない娘であった。
政略結婚に関して言えば姉が受け持つであろうし、跡取りは兄が居る。少女は唯一兄弟で枷を受ける事がなかった。
旧家としてはそれなりに有名な家系であり、それなり以上に政財界への発言力を有した一族。
その為に礼儀作法その他勉学は勿論、習い事も多かったが、それでも差し引いた結果としてはとても恵まれた立場である。
――――とある一点を除けば、であるが………少女は生まれつき病弱であった。
人より病原菌に対しての免疫力が弱いらしい。有名な病程ではないにせよ、それは日常生活に影響を与えるレベルだ。
ゆえに少女は運命に引かれるように外に出る事もなく、基本的には屋敷の中で過ごす事となっていく。
それは皮肉にも裕福な家庭に生まれ、最低限の枷で多くのモノを生まれながらに得た少女への対価のようですらあった。
多くの者より自由を謳歌出来る立場でありながら、それを存分に享受することが出来ない矛盾。気づかない内にわだかまる苛立ち。
そんな少女であったが家族は優しい。政略結婚と言う、時代錯誤な結果婚姻を結んだ両親だが仲は良く、少女をとても可愛がってくれる。
兄も姉も妹を疎ましく思うどころか、積極的に構ってくれた。
世界の中でも有数の自由を得られる身でありながら、病一つで自由を逃した少女。少女にとっては生まれつきの付き合いであったのだから、もしかしたら不自由とは考えていなかったかもしれない。
それでも対外的に、客観的に判断するのであればそう結論付けるに十分ではあった。花よ蝶よと愛でられ育ちながら、狭い箱庭の中で自由と言う名の飼い殺しを甘受する。
そんな生活を疑問に思うこともなく幼少時代を過ごし、やがてエスカレーター式の名門女子校。俗に言うお嬢様学校の中等部に繰り上がる頃から、少しずつ自分の境遇を理解していく。
自分はとても恵まれている立場なんだと……それは弱い身体を持つ不幸に嘆いていた己が、どれだけ傲慢であったのかを知るには十分過ぎた。
結果的にはその考えがより少女をよい方向へと導いたと言っていい。一つ、無知から知を獲得した少女は賢き者へと近づく。
病弱であったため、必然学業は休みがちであったが、その心優しい性格もあいまって友人に事欠くこともない。
少女の家には度々学友がお見舞いに訪れたものである。そう言う意味でも少女はとても恵まれていた。
学業は楽しく。同じ学友は皆優しい。兄も姉も自分にとても良くしてくれる。自分の立場をほんの少し理解しただけで、幸せはまるで風船のように膨らんでいった。
社交界にも縁の少ない少女は良い意味で清らかに、悪い意味でとても世間知らずに育っていく。
中等部三年間、少女はとても幸せだった――――
高等部に繰り上がる頃、両親が少女に一つの提案を持ちかける。それは今の病弱な肉体を本格的に治してみないかと、そう言う内容であった。
それを少女は二つ返事で頷いた。成功率はほぼ百パーセント、一度の手術で完治すると言われたからだ。
事実、その病の治療はそう難しいものでもなく、誰もが少女の晴れやかな笑顔を予想してやまなかった。
少女の反対の言葉にも是と言わず、病院まで押しかけてきた両親ばかりか兄に姉。姉は縁談が進む重要な頃だったし、兄は次期党首として社交界へと忙しい。
整ったマスク、高身長、高学歴、次期党首……持てはやされて然るべき立場ながら性格も良し。自慢の兄である。
姉も以下同文であり、少女は劣等感すら抱くこともなく純粋に誇りに思っていた。
そして母はともかく、父だって現党首としてやることは多い筈なのだ。親ばかだとか、シスコンだとか、そんなことを思うよりもその気持ちが少女にはたまらなく嬉しかった。
そうして誰もが笑顔で見送る中、少女は手術室へと消えていく……
「どうしてこんなことに……む、娘は。娘は一体どうなるんだっ!!」
壮年の男性が白衣を着た初老の男性に掴み掛かっている。
その顔は恐ろしいまでの怒気に染まり。まさしく視線で人を殺せたなら、白衣の人物はそうなっても可笑しく無いほどだ。
男性に詰問され白衣の男性は淡々と事実を口にする。手術は失敗です、と――――
失敗する筈のない手術。ほぼ百パーセントの成功率。更に“親戚”から紹介された名医による執刀。
それでも結果は覆らなかった。だがしかし、本当にそれは偶然であったのか……
否。つまり、少女は下らない八つ当たりの標的になっただけであった。親戚そのものか、それとも別の家か。
とにもかくにも、少女はこの家を良く思わない者により、故意的に手術を失敗させられた。
結果少女は病弱な肉体をそのままに、半身不随のおまけすら身に負う羽目となる。
麻酔から覚めてから告げられた内容。“二度と地を踏みしめる事は出来ない”と言う、その内容は少女にも衝撃であった。
軽い気持ちだった。父も母も、兄も姉も、誰もが失敗など考えてはいなかった。それが下らないしがらみで失敗に導かれてしまう。
少女以上に、父は、母は、兄は、そして姉は怒り、猛った。しかし、どれだけその身を憤怒に焦がそうとも少女の半身は戻らない。
既に進んでしまった針を巻き戻す事は叶わない。それは既に神の所業である。
現代の医学では、少女の半身を戻す事は不可能。執刀した医師は既に姿をくらませている。
怒りの矛先は親戚筋へと向かうのは簡単な帰結であった。言わば分家に等しい者達が犯した事態。
背後関係を調べる必要はあったが、少女以外の家族にとっては些細な事。日本でそれなり以上に権勢を誇る家にとって、国内で敵に回せない者など居はしない。
そんな物騒にすぎる思考を各人巡らせている時、病院の個室で横になっていた少女が口を開いた。
「私なら大丈夫だよ。今は無理でも、五年、十年先は分からないよね?」
そう口にした言葉に誰もがハッとして息を呑む。一番苦しいのは少女である筈なのに、外野があれこれ熱くなっていた事実に各人が静かに恥じた。
「とにかく、暫くは安静にせんといかんな。自宅での療養で構わんのだろう?」
少女ににこやかな笑顔を向けた後、傍にいた医師に流石は現党首と言わんばかりの鋭い視線で睨み付ける。
その迫力に呑まれ頷く医師に対し満足気に首肯し、その日の内に少女の退院は決まった。
――――数ヵ月後。少女の姿は名門女子高、お嬢様学校にその姿があった。以前と違うと言えば、その身は電動式の車椅子に座っており、常に一人の執事が付き添っていることだろうか。
普通なら虐めにあっても可笑しくない境遇だったが、ここは仮にもお嬢様学校。皆良い意味で穢れを知らず、悪い意味で世俗を知らない。
少女に対してもまるで我が事のように嘆いたり、知り合いの医師を紹介することはあっても、蔑むことなどありはしなかった。
しかし、その優しさが少女を苦しめる。優しくされればされるほど、動かない半身を思い知らされた。
事故ならよかった。あるいは純粋に医療ミスでもまだ救いがあっただろう。父や母達は黙しているが、病院での出来事、それに僅かな空気で少女はそれが何か人為的なものであったのだと感づいた。
――――誰かの我欲によって己の半身は奪われた。
その思考は少女の精神を知らない間に蝕む。どうして自分が、なんで、どうして、暗い感情は更に暗い思考と感情を呼び、病は気からと言う通り、徐々にその病弱な体質もあいまって寝込む事が多くなっていく。
兄の励ましも、姉の婚姻の愛でたい報告も、父の土産も母の話も。どれも一時的には少女を慰めてくれたが、時間と共に再び戻ってしまう始末。
少女は不幸かもしれない。だが更に不幸な者は居るだろう。主観的に見れば間違いなく居る。たとえば少女の境遇を不幸と仮定し、では紛争地域で足掻く身寄りのない子とどちらが不幸かと問えば、大多数の人が後者を選ぶに違いない。
下を見ればキリがないが、そう言う意味では少女は結局未熟であったのだ。それでも感じている不幸のみを取れば、少女の不幸は紛争地域の子に勝るとも劣らないだろう。
何故なら客観的に不幸であろうと、本人がそれをどう受け取っているかで不幸の度合いが変化するからだ。
痛みに慣れた者が感じる苦痛と、慣れない者へと同じ痛みを与えた場合の苦痛。どちらがより痛苦を感じるかを問うに等しい。
同じモノでも、受け取る側によっては差が生まれる。そう言う意味で考えれば少女の不幸は確かに誰に比べられるものではなかった。
悪化する症状が生む悪循環は少女をどんどん蝕んでいく。遂には一日の大半をベッドで過ごすようになる。
学校は無期休暇扱い。幸い寄付金のおかげで退学扱いにはならなかったが、卒業式に出るのはこのままでは無理だろう。
周りがなんとか元気付けようとし、一時的に活力を取り戻してはまた戻る。そんなサイクルの中で少女はやがて自由と言う言葉に憧れるようになった。
動かない半身。体力のない肉体。些細な事で体調を崩す不甲斐無い身体。
ベッドで暇つぶしに読む本には様々な冒険譚が存在し、その数だけ自由があった。それは酷く弱った少女には眩しく見えたものだ。
気付けば少女は本に傾倒し、一年が過ぎた頃には屋敷に小さな書斎が出来る程。僅かながらネガティブな渦から抜け出した少女に、両親と兄に姉は揃って涙し少女に望む本を与え続けた。
(異世界……行って見たいな……そこでなら、私はまた昔のように地を駆ける事が出来るかな)
ベッドの横にある窓から青空を眺め、読み終わった本を隣の机に置いて少女は思う。
本のお陰か幾分体調は快復傾向にあったが、それでも常に微熱に苛まれる身体は少しずつ少女から現実と物語の境界線を取り払っていく。
抗鬱剤や精神安定剤に含まれる成分による眠気、それも少女から現実を取り払う手助けをしている。
ふと、読み終わった本のタイトルに目が行った。“ロ○ホライズン”、最近発刊された小説で、ゲームをプレイしていたら異世界に飛ばされたと言う内容だ。
多く、様々な本を読み。そして行き着いたライトノベルと呼ばれるジャンル。その中には現実から異世界へと足を踏み入れると言う、荒唐無稽な内容のものが多く存在した。
(世界の表は仮初で。裏側で能力者達が暗躍していて、今日もどこかで人知れず私達を守ってくれている……)
そしてそんな裏側にひょんな事から半歩足を突っ込んでしまう少年。そこから始まる非日常の日々。
文章で語られるそんな物語の数々は少女に歪な希望を与えてくれた。
「私も、異世界に言ってみたいな……」
心からなのか、冗談なのか、判別の付かない独り言は誰に聞かれることもなく、広い寝室にまるで溶けるように掻き消えた――――