過ちを溶かす空色に
「ほら、早く来なさい。主からの命令よ」
命令。わたしがその言葉に弱いと、彼女は知っています。強気で、かつ艶やかさをも孕んだ笑顔を向けられて、わたしはただ、従うより他にないのです。
「……わかりました」
ベッドに座って手招きをする彼女の隣に、おそるおそる腰掛けます。彼女がゆったりとした動きで、美しい空色の髪を纏めると、白磁のような首筋が露出しました。そこに居座るのは、紫黒い傷痕。わたしの犯した罪。
彼女はなにが楽しくて、わたしにこんなことをさせるのでしょうか。いつも不思議になります。
メイドとして、主の要望には忠実に応えなければなりません。
だからわたしは、白皙のなか、その毒々しい場所へ顔を寄せて、そっと口付けを──。
◇
セレフィア・アストレアお嬢様は、非常に尊く美しい方です。わたしのお仕えしている名門貴族アストレア家における、ただひとりの娘であり、見目の麗しいだけでなく、素晴らしい人格までもを兼ね備えています。
幼い頃、わたしは彼女に、非道な行いをしてしまいました。いくら後悔をしてもしきれず、しかし、できることといえばただ、最大限この家に奉仕することだけです。
「クラリス、紅茶を淹れて」
「承知いたしました」
「……いいえ、ありがとう」
感謝をしたいのは、いつもこちらのほうなのに。こういうとき、彼女は必ず律儀にお礼を述べてくれます。
そんな丁寧で優しいところを、わたしはとても好ましく思います。
「今日はずっと気を張っていたから、疲れたわ。ようやく羽を伸ばせる」
彼女はあまり、身体が丈夫なほうではありません。午前には孤児院の定例訪問、午後には客人の対応と、体力をかなり消耗してしまっているようでした。
「わたしのことは気にせず、ゆっくり休んでくださいね」
「それを言ったら貴女も、働きすぎはだめよ? ここ最近、やけに張り切っているようだし」
ティーポットに手をかけるわたしに、心配げな視線が注がれます。ありがたくて、くすぐったくて、そして申し訳ないです。
「大丈夫ですよ。お仕事の割り当てはかなり減りましたし……新しい方が入ってきたからでしょうか」
やることがなくて、むしろ暇なくらいです。
手持ち無沙汰で、彼女に許可をとってこの部屋を掃除していたら、埃はおろか塵すら見つからなくて困り果てていたのでした。欲を言うならば、もっと仕事がほしいです。
ポットのなかで茶葉を軽く混ぜます。手作業はなかなか面倒ですが、魔法を使うのには抵抗があるのでした。
そうして出来たものを、彼女にお渡しします。
「どうぞ、紅茶です」
「……私の分だけ?」
「へ」
「一緒に飲まなきゃ意味がないでしょう? 自分のも淹れなさい、クラリス」
「そう……です、ね」
わたしは言われるがままに、もうひとつのカップにも紅茶を注ぎます。
べつに、わたしとしては、長い睫毛を伏せてカップに口をつけるセレフィア様の喉仏が上品に震えるさまを眺めていられるのなら、それで充分なのですが。
「うん、美味しい」
テーブルの向かい側から、咲きかけの花のようにそう笑いかけてくれる、あなたに。
生涯をかけて献身できるよう、わたしは努力をしなければなりません。
勉学に勤しみ、適度に身体を鍛え、使用人業にも精を出して……わたしは一人前の、立派な人間になりたいのです。胸を張って、彼女の傍に立っていたいのです。
うっかり欠伸を零して、彼女に間抜けな顔を晒してしまいました。
「ふふ、子どもはもう寝る時間ね」
「……ほとんど大人です」
「いいえ、14歳なんて子どもよ。いつも頑張っていて、とっても偉い」
徐ろに椅子から立ち上がると、セレフィア様はわたしの背後へ歩いてきて、そのまま頭を撫で始めます。心地いいけれど、それはそれとして不満もありました。彼女だって、わたしと3つしか歳は変わらないのに、どうしてここまで子ども扱いをされなければならないのでしょうか。
すごく納得がいきません。
「もう、いいですから……」
「ごめんなさいね、綺麗な髪だったから。ねぇ、今夜は一緒にいてくれる?」
彼女はときどき、こうしてわたしを誘ってきます。堂々としているようでその実、寂しがりでもあるのです。
この広くて豪奢な部屋でひとりきりの夜を過ごすのは、たいそう心細いことでしょうし。
けれど、今回に限っては断らなければならない理由がありました。
「あの、ええと、今夜は……約束が、あって」
「約束?」
「秘密の女子会とやらに、ガーベラさんから誘われておりまして」
ガーベラさんは、近ごろ新しく入ってきたメイドです。優しげでおおらかなお姉さんという風で、人見知りをしがちなわたしでも、すぐに打ち解けることができました。
そこで定期的に開催されることになったのが、秘密の女子会というものです。どちらかの自室で夜通し、楽しくおしゃべりなどをするのです。彼女はセレフィア様のもっとも上のご令兄に、以前から淡い恋心を寄せているらしく、甘酸っぱいお話をよくしてくれます。
「そう。悲しいわ、こうやってクラリスも、徐々に私から離れていくのね」
おどけたような困り顔の、ずっと奥のほう。なんだか切実で悲しげにほの光るものを、読み取れる気がしました。
彼女は誤魔化せているつもりなのかもしれませんが、わたしの目を誤魔化すことは叶いません。ずっと、いつも、見ていますから。
「断ってくるので、少々お待ちください」
「……えっ、いや、なにもそこまでしなくたっていいのよ? 無理強いしたいわけではないし」
「お気になさらず。セレフィア様の、お望みとあらば」
彼女はまだ、なにか言いたげな様子でした。薄い唇を震えさせて、瞬きを繰り返して、やがて諦めたように頬を緩めました。そして、じとりとした視線を投げてきます。
早く戻ってきてね、と、そう主張したいように思えました。
「あらっ、わかったわ。残念だけど、また今度ね」
「はい。すみません」
ガーベラさんの返事は、あっさりとしたものでした。もとより、この人が怒っているところには一度も居合わせたことがありませんが。
「お嬢様に関係していること?」
彼女の何気ない質問に、わたしは驚きます。
先ほどからの会話でセレフィア様の名前を出した覚えが、一切なかったのです。
「クラリスちゃんとお嬢様には、特別な絆みたいなものを感じるの! 素敵ね、すごーく」
「絆……ですか」
「うん。違った?」
純粋で澄み切った瞳を向けられて、澱んだわたしは浄化されていくようです。
絆。前向きで、とても素敵な言葉です。しかしわたしがセレフィア様に抱く気持ちは、どろどろに濁っています。
彼女のほうがどうなのかは知る由もないですが、片方が駄目ならばその時点でもう、破綻しているのです。
「そう在れるのは、どんなに理想的でしょうか」
「……いろいろあるみたいねぇ。相談なら、いつでも乗るわ」
すべてを優しく包んでリボン結びまでしてくれるような、そういう笑顔。
大人の女性はすごいのだなぁと、わたしは単純な感想を持ちました。
「遅かったわね」
戻ると、セレフィア様が少しだけ不機嫌でした。大きな両目が細められて、わたしを射抜きます。
すぐに謝ろうと、頭を下げかけると、凛とした声に制止されました。
「いいから、こっち」
彼女はベッドのそば、こぢんまりした空間に膝を立てて座っていました。ここは彼女のお気に入りの場所で、常時クッションが置かれています。
狭いほうが落ち着くのだと、以前語っていた気がします。
白い天蓋に四方を囲まれて、世界には彼女とわたししかいないのではないかと、ふと錯覚しました。
「お互い眠くなるまで、お話しでもしましょう」
「……はい」
蝶々が蜜を求めるように、自然に、彼女のもとへ誘われて。
左隣に腰を落ち着かせるわたしを、試練ともいうべきものが襲いました。
「ここ、舐めて」
不健康なまでにほっそりしたその指は、自らの首に刻まれた異様な傷をさしていました。わたしは途端に、嫌な動悸に全身を支配されます。
舐める、とは。額面通りに受け取るのなら、舌で、対象をなぞるということです。……いつもは口付けで済ませているこの傷痕を、舐める?
「な、なぜ」
「理由、必要なの?」
「いえ……あなたが必要ないと仰るのなら、必要ないのだと思います」
「なんなのかしら、その理論は……」
セレフィア様はどこか不機嫌でしたが、毒気の抜けたように苦笑いをしました。それを見届けて、わたしは安心します。
「けれど、そういうことなら──」
言いかけて、彼女はやんわりと目線で圧をかけてきます。心なしか羞恥に染まったその表情は、屈折することなく、まっすぐこちらに届けられました。
わたしの顔まで、朱く染まっていたらどうしましょう。
「はやく、して」
「……わかりました」
まずは口付けから。
柔らかな皮膚は、驚くほど迷いなく吸い付いてきます。
舌先をそっとねじ込んでみると、彼女の上半身が、僅かながらもぴくりと反応しました。そして背後からじんわりと染みてくる、後ろめたさ。ぞくぞくして若干、息が弾んでしまいます。
静かに、慈しむように舌を動かして、傷痕のざらついた触感を味わいます。心臓の躍動が激しくて、味などわかったものではないのですけど。
チョコレートのように、繰り返し舐め取れば消えるのなら、どれほどよかったでしょうか。この瘡蓋は彼女の細やかな肌にいつまでも残り、身体を蝕み続けるのです。もう、元には戻らないというのです。それでも足掻きたくて、わたしは滑稽にも舌を強く押し付けます。
唾液で、なにもかも、溶かしてしまいたくて。
「……なんだか、赤ん坊みたいで、かわいい……」
顔は見えないけれど、彼女が微笑している気配がしました。本物の赤子を扱うかのようにわたしの頭を撫でるので、つい、口答えしたくなります。
「わたし、赤ん坊じゃありません」
「だって……一生懸命、舐めてくるんだもの」
「なにを言っているのですか。もう、こんなことだってできるのに」
細くて薄い、彼女の肩に両手を置いて、じりじりと力を込めます。そして軽く押してみると、セレフィア様はいとも簡単に床へと倒れ伏しました。
艶やかな水色の長髪が無造作に広がって、もはや芸術と見紛うほどの美しさでした。
彼女の瞳が、驚きで揺らぐのがわかります。そこに映っているものは、わたしだけ。その事実がわたしをこの上なく高揚させます。
「……恥ずかしいわね、この体勢」
「力の強さなら、あなたよりも自信があります。わたしが赤ん坊でも子どもでもないこと、理解してくださいましたか?」
身長は高くないけれど、こうしてセレフィア様を押し倒せるだけの力は持ち合わせています。
さっきは彼女のほうが不機嫌だったのに、いまはわたしが拗ねているだなんて、考えるほどおかしなお話でした。
「ごめんね、子ども扱いしてしまって。反省するわ」
その言葉は、落下して気楽にも跳ね返りそうなほどに軽い響きだったので、またもや不満が芽吹いてしまいます。
わたしはまた、彼女の首筋に唇を寄せました。
より激しく、奔放に。わたしの舌は滑らかな肌を這います。浮き上がる鎖骨に指先で触れて、胸が儚く締め付けられるような切なさを覚えました。こんなにも繊弱な身体で、彼女は一生懸命、わたしのすることを受け入れているのです。
このような下品な行為、早くやめるべきなのに、ブレーキが故障でもしているようでした。
セレフィア様は、上気した顔でいつもよりも荒い呼吸を繰り返し、ときどき苦しそうに声を漏らしています。内腿がもぞもぞと擦れ合っていました。その扇情的な姿を、わたしは全身に浴びて。
首筋からもっと上の場所へ、舌を這わせていきます。その位置が上がるにつれ、彼女がわたしの袖を掴む力も強まっていくのを感じ取りました。
柔らかな耳朶を甘噛みしたあと、耳の内部を舌でまさぐるように動かします。腰がかわいらしく跳ねたのも、もちろん見逃したりはしません。
どこを舐めても水飴のような、愛しのセレフィア様。
こんな身勝手な想い、どうかいつまでも、心に秘めたままで。
「……くらっ、り、す……」
彼女が名前を呼びます。わたしの頬に両手を添えて、頭を持ち上げて、目線を合わせてきます。
嬌艶かつ無邪気な笑顔が、そこには咲いていました。
「はしたないメイドね、まったく」
蕩けた声でそんなことを言われて、わたしはようやく、正気に立ち返ることができました。
いまさっきまでしていた行為を、思い返して。彼女の言葉の意味も、理解して。
わたしは逃げるように、これまでの人生のなかで最も俊敏にベッドへ潜り込んで、ぼそりと呟きました。
「おやすみ、なさい……」
目を瞑っても、客観視された先程のわたしたちの姿がコマ送りで流れてきます。必死に振り払います。
ほどなくして、彼女も布団に入ってきました。
大馬鹿者のわたしにも、温もりは与えられるようです。
◇◇
目覚めると、まず感じたのは頭痛だった。遅れてやってくる倦怠感に、熱っぽさ。見事に体調を崩したらしい。
隣ですやすやと眠っているクラリスを、横目で見る。年相応のあどけない寝顔に癒されつつも、彼女を起こす。
「おはよう、クラリス」
「……おはようございます」
目の焦点が合わないのも一瞬で、すぐに大きく開いた黒目が訝しげに私を射抜いた。
「顔色が、よろしくないです」
手のひらをおでこに当てて、具合を確認してくる。彼女の手は、肌は、いつだってひんやりとしていて気持ちがいい。けれどそれは無機質な氷の冷たさではなくて、秋の夜のような冷たさだった。たしかな温かさもまた、同居していた。
「熱があるので、今日は安静にしていてください」
「で、でも」
早々に布団から出ようとするクラリスを呼び止める。
でも、だって。今日は予定がないから、貴女と散歩でもするつもりだったのに。
そう口に出そうとして、気恥ずかしくて続きが出てこなかった。
「……安静にするなんて、つまらないわ」
「しかし、困ります。迷惑でさえなければ、またわたしが話し相手になりますので」
「それはもちろんお願いするけれど、そういうことではなくて……その」
「無理に動いて悪化してしまったらと思うと、いやです」
クラリスは私に背中を向けて、そんな殊勝な発言をする。愛おしくて、いじらしくて。
ただ、からかってやりたいだけだった。
「はぁ……私がここまで軟弱な身体になった原因は、いったいどこの誰にあるのかしら?」
「…………え」
本当に、何気なく放ったその言葉は。
もしかしたら、彼女の小さな背中を、鋭利に刺し貫いてしまったのかもしれない。
沈黙が続いた。彼女の肩は上下に動いて、まるで過呼吸でも起こしているようだった。やがてすくりと立ち上がって、扉のほうへ歩いていく。皺まみれになったメイド服を身に纏うその姿は、陰鬱。ちゃんと寝間着に着替えてから寝ればよかったのに、と意味のない感想を抱いた。
「ごめんなさい」
最後に振り返って、クラリスはそう言う。否、呟く。
昨夜の盛った表情など初めからなかったように、いまの彼女はとにかく暗かった。捨てられた子犬みたいに、見つめられて。
「ま、待って──」
そんな私の声が届くことはなく、彼女は部屋から出ていく。私はその場で頭を抱えて、掻き毟って、髪の毛がぷちんと抜けて。
ああ、やってしまった。思いっきり、失敗した。
◇
お父様は非常に顔が広く、近くにある孤児院の院長とも昔から親交がある。幼かった私も度々、連れられて施設へ赴いていた。同年代の子どもたちと遊ぶことができたから、不満はなかったのだけど。
そこにいたのが、他でもないクラリスだった。
彼女はその頃からおとなしくて、でもよく笑う女の子だった。波長が合うのか、私たちはすぐに仲良くなった。
あれは私が8歳、クラリスが5歳のときだったと思う。他に誰もいない庭で、ふたりで遊んでいた。
『みて、セレおねえちゃんっ』
彼女は舌足らずにそう言って、人差し指を伸ばした。そして指先にほわりと浮かぶ、淡い光の球。魔法だった。
『わー、きれい! クラリスは天才ね!』
『えへへ、あとね、こんなこともできるの』
球が指を離れて、宙に浮く。それを彼女は、自在に操っていく。その光は太陽の下でもはっきりと輝いていた。
私もクラリスも、なにもわかっていなかったのだ。
光の球と私の追いかけっこになって、彼女が制御を間違えて、うっかり首筋に当たってしまった魔法。昔から私は魔法の才能がなかった。それは体質的な問題でもあり、私の身体と魔法は絶望的に相性が悪かった。
だから、クラリスの魔法によって刻まれたその傷は、完治しない。免疫機能がやられてしまったらしく、私は体調を崩しやすくなった。激しい運動も控えるようになった。
もちろんこの事件は騒がれて、私たちは一度は引き剥がされた。いまがあるのは、私が必死に抗議したからだ。
『私がかぞくになってあげるって、約束してたのっ!! いっしょにいられないなら家出するっ!』
なんて泣き喚いて、無事に再会を果たしたのだ。そこからは成り行きで、クラリスは我が家の使用人という立場に落ち着くようになって。
そういう、昔の苦い想い出。
大怪我を負ったわけでもあるまいし、私のなかでは些細なことなのだけれど、彼女はずっと罪悪感を抱え続けているようだった。それに気づいていたのに、私はあまりにも軽挙な言葉を投げてしまった。
大好きな女の子を、傷つけてしまった。
◇
ご飯や薬を部屋まで持ってきてくれたのは、ガーベラさんだった。クラリスはひどく憔悴している様子だったから、代わりに仕事をぜんぶ引き受けることにしたらしい。
私はなんとなく、彼女を避けて過ごしていた。何故って、ただの嫉妬である。
この家に来て間もないというのにすっかりクラリスと打ち解けていて、ほんの少しだけ、敵対意識があった。私だってあの子と女子会とか、してみたいのに。絶対的な立場の差がある以上、私たちが昔のように気楽な関係になることはできないのだと思うと、無性に世界が恨めしい。
「お身体は自分で拭いてくださいねー、タオルは蒸らしてあるので」
「ええ」
「……こういうとき、クラリスちゃんにはやらせたりしてるんですか?」
「はぁ!?」
いつでも朗らかで、仕事はそれなりにできて、色恋事が大好き。それがガーベラさんだった。
私の恋心もなぜだか見透かされているらしく、ときどき暖かい視線を感じる。厄介なタイプだ。熱に浮かされてなにか変なことを口走ってしまわないか、気が気ではない。
「事情は知りませんけど、早く仲直りするんですよっ! 見守ってる私はハラハラしっぱなしなんだから!」
去り際にそんなことを言われて、私は曖昧に首を振った。……いや、見守らないでほしいのだけど。
その日はそうして夜を迎え、横になったはいいけれどなかなか眠れなかった。この寂しい暗闇に、クラリスの温もりがあればどれほどいいだろう。昨夜の熱い舌の感触を思い返して、ひとり赤面する。
押し倒されたときはさすがに、驚いた。嫌なわけがないから抵抗もしなかったけれど。
またあんなふうに、私の上に乗って首や耳を舐めてほしい。どろどろに、溶け合いたい。
そう願うのならまずは、仲直りしかなかった。
翌朝、ほとんど平熱に下がっていた。経験則でいつもはもっと長引くので、今回は運がいい。
具合を確認しに、また来たガーベラさんにその旨を教えると、彼女の反応は案外あっさりしていた。
「それなら私、戻りますね。なにかあったらまた──」
「クラリスに、夜になったら部屋に来てって、伝えておいてくれるかしら?」
「…………」
なるべく平静を装い、私は要望を伝える。
ちょっぴり沈黙があって、朝日の眩しさをかき集めてきたように、きらきらした笑みを浮かべるのだった。
「もちろん! 大丈夫、きっと上手くいきますから。とびっきりの惚気話、いつか聞かせてくださいね、お嬢様?」
ぱちん、と完璧なウインクをひとつ。そして彼女は、軽やかに去っていった。
こういうメイドがいるのもまぁ、新鮮で悪くない。そんなことを思った。
ベッドの上に正座して、私はクラリスを待っている。足を伸ばそうにも、心臓から手が生えてきて押し戻されそうになる感じ。端的に言えば、緊張していた。
私たちの間には不可視の壁がそびえていて、それをいままで見て見ぬふりしてきた。ただ、ツケが回ってきただけなのだろう。だから必要なのは、真摯な対話だった。
いくら水を飲んで喉を潤しても、内側からどんどん乾いていく。それでも滲んでくる唾液を呑み込んだ瞬間、扉が叩かれた。
一旦、深呼吸をして。
「入って」
「……お邪魔します」
1日ぶりのクラリスの姿に、全身を巡る血が歓喜に湧いていく感覚があった。
ガーベラさんのお陰でしっかり休みをとれたのか、通常通りの様子だ。小さく呼び寄せると、私に倣ってかちょこんと真向かいに正座してきた。
無言で気まずい雰囲気のなか、私は先に口を開く。
「来てくれてありがとう、クラリス」
「セレフィア様……ごめんなさい」
「すぐに謝る癖を直しなさい。悪いことなんて、なにもしてないでしょう」
俯く彼女に苦笑いしながらその手に自分の手を重ねると、怯えるように肩が跳ねた。震えた声が、たどたどしく届く。
「悪いこと、しました、わたしが迂闊だったせいで、セレフィア様の人生を壊しました」
「……違うわ。私は壊されただなんて思わない。クラリス、あのね」
彼女の冷たい右手を取って、首筋に引き寄せる。
「この傷は、私の宝物なの」
突拍子のない発言に、夜空を飼うようなその瞳が動揺していた。顔の端々から困惑が読み取れる。
「意味が、わかりません」
「だってこの傷痕、一生消えないのよ? 私は死ぬまでずっと、貴女がつけてくれた傷と、一緒に生きていくことができるの。それってすごく素敵で、愛おしくてたまらないわ」
「余計に、わかりません……どうして、どうしてあなたが嬉しそうにしているのか。わたしのせいで、昨日だってセレフィア様ほ体調を崩しました。それまでは運動もお好きだったのに諦めざるを得なくなりました。ぜんぶ、わたしのせいで……」
「あーもう! 自分を責めるのをやめなさい! 私はね、本当に、気にしてないの」
これ以上、卑屈に顔を歪めるクラリスを見たくはなかった。気に病んでしまう性格なのはわかっていたけれど、ここまで罪の意識を持たれているのは予想外だった。
いったいどうすれば、私の思いを理解してくれるのだろうか。
と、不意に。
彼女の頭がぽすんと、胸に落ちてきて。
「あなたはどうして、そんなにも、優しいんですか……?」
必死に絞り出したような、悲痛な声。クラリスの身体は小刻みに震えていた。
どうして、って。そんなの、決まっている。
「……貴女のことが、す、好きだから」
「へ──」
「恥ずかしいこと言わせないでよ」
確実に熟れている頬を彼女に見られたくなくて、彼女の背中に腕を伸ばして強引に抱きしめる。顔を上げられないように、きつく。
「貴女になら、なにをされても嬉しい。逆に貴女が自分を責めていたら、私は悲しい」
「……わたし、も……」
顔を埋めたまま、クラリスが口を開く。か細くて聞き逃すところだった。
「好きです、セレフィア様」
はっきりそう言うと、彼女は空いていた両手を私の腰に添えてきた。
絶対に、いま、口元はだらしなく緩んでいる。好きな女の子に好きと言われて、これほど喜ばしいこともなかった。
「嬉しいわ」
「でも、だからこそ、わたしはわたしを赦せません。心から愛するあなたを傷つけたという事実は、消えません」
「また、そういうことを……」
私はクラリスを束縛から解放して、目を合わせる。
「私が赦すから、それでいいでしょ?」
赦す、とか。そんな単純で、幼い子どもでも言えるようなことが、私たちには欠けていたのだと気づいた。諭すようにゆっくり伝えると、彼女は少しだけ、笑ってくれたような気がした。
「たしかに、そうかもしれません」
「わかったなら、この話はお終いよ」
どうにか丸く収まったらしく、ようやく肩の荷が下りる感じがする。ガーベラさんには改めて、ちゃんと感謝を述べなければならない。
しかしまだ続きがあるようで、私の服の裾をかわいらしく掴んでくるクラリス。
頬を染めて、ものすごく躊躇いがちに。
「では……わたしがあなたに劣情を抱くことも、赦してくださいますか?」
一瞬、その意味を咀嚼できなかった。遅れて照れがやってきて、なんだか微妙な雰囲気が私たちの間に生まれる。見つめ合うほどに、身体じゅうが熱くなる。
どちらからともなく顔を近づけて、触れるだけの口付けをした。
柔らかい唇の感触が、私の気分をおかしくさせる。
「ええ、赦してあげる。でも……そうね」
ばくばくと躍動する心臓の上に、彼女の手を持っていった。そのまま後ろへ倒れて、左の首筋を露出させる。そして、誘うような視線を送ってみる。
クラリスの眼光が変化した。私はぞくりと、興奮して。
「一昨日の続き、しなさい」
彼女の瞳に浮かぶ星々が瞬いて、私を照らした。
近頃はずっと百合に生かされています。




