もったいない、その後――顔の見えてたあの子が、うちに来た
初めてのデートは、結局、水族館になった。
紗央里が行きたいと言ったからだ。
理由を聞けば、
「暗いから」
だった。
「お前、暗いところ好きなのか?」
「うん」
「……怪異だから?」
「知らない」
本人も知らないらしい。
朝から紗央里は機嫌がよかった。
服を何度も着替え、髪を何度も直し、玄関を出る直前になって、
「これ、変じゃない?」
と聞いてきた。
「昨日から何回聞くんだよ」
「いいから」
「似合ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
それでようやく満足した。
俺も靴を履く。
玄関の扉に手をかけたところで、外を見る。
普通に晴れていた。
朝からかなり日が照っている。
ふと思った。
「お前、昼間でも出れるんだな」
「うん」
「日とか平気なの?」
「平気だよ」
「怪異って、そういうの駄目なのかと思ってた」
「何それ」
「知らん。イメージ」
紗央里は首を傾げた。
「あとな」
「なあに?」
「今日って、みんなに見えないんだよな?」
「見えるよ」
「見えるの?」
思わず振り返る。
「デートだから」
「それで切り替えられるのかよ」
「うん」
「じゃあ普段、見えない時は?」
「見えなくしてる」
「自分で?」
「うん」
初耳だった。
「……結構自由なんだな、お前」
「そう?」
「そうだろ」
「今日はちゃんと見えるし、触れるよ」
「俺はいつでも触れるだろ」
「夫だから」
「はいはい」
もう、その説明にも慣れた。
「じゃ、行こ」
「ああ」
外へ出る。
日差しの中へ普通に歩いていく紗央里を見て、やっぱり怪異の常識なんて考えるだけ無駄なんだと思った。
数歩進んだところで、左手に何かが触れた。
見る。
紗央里の手。
「何」
「手」
「見れば分かる」
「つなぐ?」
「好きにしろ」
「うん」
指を絡めてきた。
普通に恋人みたいだった。
いや。
指輪まで渡したのだから、恋人より先へ行っているのかもしれない。
順番がおかしい。
駅へ着いた。
改札へ向かおうとしたところで、後ろから声がした。
「あれ?」
聞き覚えがある。
振り向く。
会社の同僚だった。
女。同じ部署で、仕事中ならほぼ毎日顔を合わせる。
「あ、おはようございます」
「おはよう」
休日に会うのは珍しい。
向こうも私服だった。
そして当然のように、俺の隣を見る。
「あの……」
紗央里を見る。
ちゃんと見えている。
さっき本人に聞いたばかりなのに、少し安心した。
「もしかして、彼女さんですか?」
俺が答えるより早かった。
「妻です」
紗央里が言った。
「えっ」
同僚が俺を見る。
「結婚したんですか!?」
「いや」
否定しかける。
紗央里が俺の腕に抱きついた。
左手の指輪が、ものすごくよく見える位置だった。
「夫です」
「お前ちょっと黙ってろ」
「なんで?」
同僚の視線が、俺と紗央里と指輪を行ったり来たりする。
「えっと……ご結婚、おめでとうございます?」
疑問形だった。
「ありがとうございます」
紗央里が嬉しそうに頭を下げる。
「お前が答えるのかよ」
「妻だから」
もう訂正するのが面倒になってきた。
同僚が紗央里を見る。
「すごく綺麗な奥さんですね」
「ありがとうございます」
また本人が答えた。
しかもかなり嬉しそうだ。
「今日はデートですか?」
「はい。水族館行きます」
「いいですね」
普通に会話している。
俺は二人を見た。
「……本当に見えてるんだな」
思わず口に出た。
同僚が首を傾げる。
「え?」
「いや、何でもない」
危ない。
紗央里が横で笑っている。
「じゃあ、お邪魔したら悪いので。また会社で」
「ああ、また」
「いってらっしゃい」
紗央里まで手を振った。
同僚も笑って手を振り返し、別の改札へ向かっていく。
姿が見えなくなってから、俺は紗央里を見る。
「お前な」
「なあに?」
「妻って即答するなよ」
「妻だよ?」
左手を上げる。
指輪。
「ほら」
「それを証拠みたいに出すな」
「違うの?」
「……もういい」
紗央里が笑う。
それから俺の手を握った。
「ちゃんと見えてたでしょ?」
「ああ」
「よかった?」
「まあな」
これで少なくとも、今日の紗央里は俺の頭の中にしかいない女ではないらしい。
その確認方法が会社の同僚というのも、どうかと思うが。
「行こ、夫」
「会社の人いるところでそれ定着させんなよ」
「もう聞かれたよ?」
「お前が言ったんだろ」
笑いながら、紗央里は俺の手を引いた。
そのまま二人で改札へ向かった。
水族館では、紗央里は思った以上にはしゃいだ。
大水槽の前で立ち止まり、クラゲをずっと見る。
ペンギンには妙に気に入られた。
紗央里が柵の前へ行くと、何羽も集まってくる。
「お前、なんかしてない?」
「してないよ」
「本当に?」
「うん」
その直後。
一羽のペンギンが紗央里へ向かって、深々と頭を下げた。
俺は何も言わなかった。
紗央里も何も言わなかった。
たぶん、聞くだけ無駄だ。
昼飯を食べる。
紗央里が俺の皿を見る。
「それ、一口」
「自分の食え」
「違うの頼んだもん」
「交換するか?」
「一口がいい」
仕方なく差し出す。
食べる。
「おいしい」
今度は自分の皿から俺に差し出してきた。
「はい」
「いらない」
「なんで?」
「お前が食え」
「一口」
「子どもか」
結局食べた。
紗央里は嬉しそうだった。
帰り道。
駅前を歩いていると、紗央里が足を止めた。
ショーウインドーに、俺と紗央里が映っている。
並んで。
手をつないでいる。
紗央里の左手には指輪。
その姿を、紗央里はしばらく見ていた。
「どうした」
「夫婦みたい」
「みたいじゃなくて、昨日お前が夫って言ったんだろ」
「うん」
笑う。
「夫婦」
「何だよ」
「言ってみただけ」
また歩き出す。
手は離さなかった。
それから、何となく俺たちの生活は変わった。
大きく何かが変わったわけではない。
紗央里は相変わらずドラマを見る。
菓子を食う。
料理をさせると妙なものを入れようとする。
俺が仕事から帰れば、
「おかえり」
と言う。
ただ。
距離が近くなった。
ソファに座れば、いつの間にか隣にいる。
そのうち肩へ頭が乗る。
「重い」
「重くないよ」
「重い」
「じゃあ軽くなる」
次の瞬間、本当に重さが消えた。
頭は肩に乗ったままだ。
「そういう意味じゃねえ」
「軽くなったよ?」
「怖いんだよ」
「わがまま」
俺が悪いらしい。
テレビを見ている時もそうだった。
ふと気づくと、紗央里が俺の手を握っている。
「何だよ」
「なにも」
「じゃあ離せ」
「やだ」
「なんで」
「夫だから」
最近、それを言えば何でも許されると思っている。
寝る時も。
以前は気づけば隣にいた。
今は、俺がベッドへ入ると当然のように寄ってくる。
「暑い」
「わたし冷たいよ」
「そういう問題じゃない」
「気持ちいいよ?」
確かに少し冷たい。
夏場は便利だった。
冬になったらどうなるのかは知らない。
キスも増えた。
最初は紗央里からだった。
出勤前。
玄関で靴を履いている時。
「いってらっしゃい」
「ああ」
顔を上げた瞬間、唇に触れた。
俺が固まる。
紗央里は何事もなかったように笑っている。
「……何した」
「いってらっしゃい」
「それは聞いた」
「じゃあ早く行かないと遅れるよ」
追及する暇もなく会社へ行った。
翌日。
玄関。
「いってらっしゃい」
紗央里が少しだけ顔を寄せる。
俺は先に額を指で押した。
「毎日やる気か」
「だめ?」
妙にしょんぼりした。
「……別に」
「じゃあいい?」
「好きにしろ」
嬉しそうに笑った。
そこから毎朝になった。
帰宅時も増えた。
そのうち休日も。
気づけば俺からすることもあった。
一度。
俺からキスした時。
紗央里が完全に固まった。
「……何だよ」
返事がない。
「紗央里?」
「もう一回」
「嫌だ」
「なんで?」
「その反応が面白いから」
「もう一回」
「嫌だ」
その日は一日中しつこかった。
それと。
紗央里は外でも、俺にしか見えない状態になることがある。
俺には見える。
触れる。
手もつなげるし、抱けばちゃんと身体がある。
ただし。
周りから見れば、俺一人だ。
最初にそれを知った時、紗央里は嬉しそうに言った。
「夫だから」
「何が」
「見えるし、触れるよ」
「俺だけ?」
「うん」
紗央里が俺の腕に抱きついた。
普通に重さがある。
俺には。
「このまま歩いても、誰も分からないよ?」
「分かるわ」
「なんで?」
「お前は見えなくても、俺は見えてんだよ」
紗央里が首を傾げる。
「俺が何もないところに腕回して歩いてたら変だろ」
「あ」
今気づいたらしい。
「じゃあ、抱いたまま歩いても大丈夫だよ?」
「何も解決してねえ」
「誰も分からないよ?」
「俺が変な奴に見えるんだよ」
「でも、わたしには見えてるよ?」
「お前の話じゃねえ」
問題は。
それだけではなかった。
ある日。
電車に乗っていた時だった。
紗央里は「見えない方」だった。
隣の席は空いている。
もちろん紗央里はそこに座っていたが、他の乗客には何も見えていない。
俺だけが知っている。
俺だけが触れられる。
そして。
ほんの一瞬。
俺が余計なことを考えた。
紗央里がこちらを見る。
「……お前、今分かっただろ」
「うん」
「忘れろ」
「したい?」
「ここで?」
「うん」
「電車だぞ」
「でも、わたし見えないよ?」
「俺は見えてる」
「周り、気づかないよ?」
「そういう問題じゃねえ」
「服着たままで大丈夫だよ?」
「何が大丈夫なんだよ」
紗央里が少し近づく。
「誰にも分からないよ?」
「俺が分かる」
「夫婦なのに?」
「夫婦なら外で何してもいいわけじゃねえ」
それでも紗央里は納得していない。
「したいんでしょ?」
「……ちょっと思っただけだ」
「じゃあする?」
「だから、ここではしない」
そう言った。
はずだった。
二駅後。
俺は逃げるように電車を降りた。
紗央里も何事もなかったようについてくる。
ホームへ出たところで振り返る。
「お前な」
紗央里は満足そうだった。
「ほら」
「何が」
「電車の人、気づかなかったでしょ?」
「だからってやっていいことにはならねえんだよ」
「でも大丈夫だったよ?」
「俺が大丈夫じゃない」
紗央里は少し考えた。
それから。
嬉しそうに言った。
「でも、たくさん出たじゃん」
「言うな」
「家より多かったよ?」
「比較するな」
「外だから?」
「分析するな」
紗央里はますます嬉しそうになった。
嫌な予感がする。
「じゃあ、また外で――」
「しない」
「でも、たくさん」
「それを根拠にするな」
「したいのに?」
「したいかどうかと、していい場所かどうかは別なんだよ」
「難しいね」
「お前の倫理観が雑なんだよ」
紗央里は少し考えて、
「家ならいい?」
「……家ならな」
笑った。
ものすごく嬉しそうに。
言わなきゃよかった気がした。
それ以来、俺がそういう気分になると、紗央里はすぐ気づく。
家ならまだいい。
問題は外だ。
「今したい?」
「思っただけ」
「する?」
「帰ってから」
「今できるよ?」
「できるかどうかじゃねえ」
だいたい、このやり取りになる。
どうやら紗央里の中では、
したい。
できる。
誰にも見えない。
なら、する。
それで全部らしい。
人間社会には、その間にいくつか挟まるものがある。
紗央里には、まだよく分からないらしい。
ただ。
紗央里は紗央里だった。
夜中。
喉が渇いて目を覚ます。
隣を見ると、いない。
トイレかと思って廊下へ出る。
紗央里が壁に半分入っていた。
「……何してんの」
「探しもの」
「壁の中に?」
「うん」
「何を」
「前に落としたやつ」
「何年前だよ」
「分かんない」
しばらくして壁から腕を抜く。
手には、見たことのない古い簪があった。
「それ、この部屋の壁から出てきたのか?」
「ううん」
「じゃあどこのだよ」
「向こう」
やっぱり聞くんじゃなかった。
ある朝は。
目を覚ますと、紗央里が天井にいた。
普通に寝ていた。
「……おい」
返事がない。
「紗央里」
「んー」
「なんで天井」
「寝相」
「嘘つけ」
眠そうに目を開ける。
「あ」
それから、ゆっくり落ちてきた。
俺の隣へ。
布団が少し沈む。
「おはよ」
「おはようじゃねえ」
「おはよう」
もう慣れた。
見えない方で外へ出る時も。
犬は紗央里だけを見て尻尾を振る。
猫は寄ってくる。
赤ん坊も、何もないはずの場所を見て笑う。
「お前、今ほかの人には見えてないんだよな?」
「うん」
「じゃあ、あいつら何なんだよ」
「知らない」
本人も知らないらしい。
そんな生活が続いた。
奇妙だった。
普通ではない。
間違いなく何かに憑かれている。
でも。
仕事から帰って、部屋を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
その声が聞こえる。
それだけで、妙に落ち着くようになった。
ある夜。
夕食のあと。
ソファでドラマを見ていた紗央里が、何でもないことのように言った。
「明日、李菜がくるよ」
俺は冷蔵庫から出したビールの缶を開けながら、聞き返した。
「李菜?」
「うん」
知らない名前。
そう思ってから、缶を口元まで持ち上げた手が止まった。
「……ん?」
どこかで聞いた。
いや。
聞いたんじゃない。
俺が――。
「待て」
紗央里を見る。
「李菜って、あの時俺がつけた名前だよな?」
「うん」
紗央里はテレビから目を離さない。
写真の裏。
な 前 かんがエテ
そう書かれていて。
毎晩のように紗央里が来るものだから、俺が必死になって考えた名前。
李菜。
確かに、そうつけた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「李菜って」
「娘」
ようやく紗央里がこちらを見た。
にこにこしている。
「明日くるよ」
「ちょっと待て」
「なあに?」
「くるって、どこに」
「ここ」
「ここって」
俺は床を指した。
「うち?」
「うん」
「なんで」
「お父さんに会いたいって」
さらっと言われた。
俺はしばらく何も言えなかった。
お父さん。
誰が。
俺が。
いや、理屈では分かる。
写真も見た。
俺の赤ん坊の頃によく似ていた。
名前だってつけた。
だが、実感があるかと言われれば、ほとんどない。
「……何歳なんだ」
「李菜?」
「他に誰がいる」
「来たら分かるよ」
「なんでそこ隠すんだよ」
「隠してないよ」
「じゃあ教えろ」
「来たら分かる」
会話が進まない。
いつものことだった。
翌朝。
目が覚めると、紗央里はもう起きていた。
珍しい。
しかも掃除をしている。
もっと珍しい。
「何してんだ」
「李菜くるから」
「普段からやれよ」
「今日やってるよ」
「そういう意味じゃない」
紗央里は楽しそうだった。
朝食を済ませても落ち着かない。
時計を見る。
九時。
十時。
十一時。
「何時に来るんだ」
「もうすぐ」
「そのもうすぐ、二時間前から聞いてるぞ」
「もうすぐだよ」
昼前。
インターホンが鳴った。
俺と紗央里が同時に玄関を見る。
紗央里が立ち上がった。
「きた」
走っていく。
俺も後を追った。
玄関の扉を開ける。
そこに。
女の子が立っていた。
俺は何も言えなかった。
五歳くらいだろうか。
いや。
六歳?
長い黒髪。
白いワンピース。
小さな鞄を両手で持っている。
顔は、ちゃんと見える。
女の子の目元を見ていると、妙に落ち着かなくなった。
知っている。
この顔。
「……俺?」
思わず呟いた。
女の子が首を傾げる。
鼻。
口。
眉。
昔、実家で見た自分の幼い頃の写真。
そっくりというほどではない。
でも、間違えようがないくらい俺の面影がある。
「李菜」
紗央里が呼んだ。
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「おかあさん!」
紗央里に抱きついた。
紗央里も抱きしめる。
そのまま二人で何か話している。
俺だけ置いていかれている。
しばらくして、李菜が俺を見た。
少し緊張した顔。
俺も緊張した。
何を言えばいい。
初めまして?
いや、娘だ。
だが初対面だ。
その場合、初めましてでいいのか?
俺が悩んでいると、李菜が小さく口を開いた。
「……おとうさん?」
心臓にきた。
思っていたより、ずっと。
「……ああ」
それしか出なかった。
李菜が笑った。
その笑い方だけは。
紗央里によく似ていた。
それから数日は、妙な生活だった。
三人で朝飯を食う。
李菜は俺が仕事へ行く時、
「いってらっしゃい」
と言う。
帰れば、
「おかえり!」
と玄関まで走ってくる。
紗央里より早い。
「ただいま」
そう返す。
最初は変な感じだった。
だが、三日もすると慣れた。
怖いくらいに。
李菜は、普通の子どもに見えた。
テレビを見る。
菓子を欲しがる。
風呂ではしゃぐ。
歯磨きを嫌がる。
寝る前には絵本を読めと言う。
「もう一回」
「三回目だぞ」
「もう一回」
「明日な」
「おかあさんは読んでくれるよ?」
「じゃあ母さんに頼め」
「おかあさん、字読むのへただもん」
俺は紗央里を見る。
「読めるよ」
「昨日、桃太郎が途中から浦島太郎になってた」
「似てるよ」
「似てねえよ」
李菜が笑った。
こういうところだけ見れば、本当に普通だった。
朝飯の時。
少し焦げたトーストの端をちぎって、皿の隅へ置いた。
李菜がそれを見る。
「お父さん、それ食べないの?」
「焦げてるからな」
「捨てる?」
「まあ」
李菜が少し眉を寄せた。
「それ、もったいないよー」
俺の手が止まった。
「……何?」
「まだ食べれるじゃん」
李菜は何でもない顔をしている。
その横で。
紗央里が笑っていた。
「……お前が教えた?」
「何を?」
「いや。いい」
李菜は俺の皿から焦げたパンを取った。
「じゃあ李菜が食べる」
「焦げてるぞ」
「これくらい大丈夫」
そう言って普通に食べた。
ただ、それだけだった。
本当に。
ただの、食べ物を粗末にするなという話だった。
なのに。
――勿体ない。
あの日、耳元で聞いた声を。
俺は少しだけ思い出していた。
ただ。
李菜も時々、普通ではない。
ある朝。
なくしたはずのテレビのリモコンを李菜が持ってきた。
「どこにあった?」
「向こう」
「向こうって?」
李菜が壁を指した。
「そっち」
壁しかない。
俺は紗央里を見る。
「あるある」
「何がだよ」
風呂に入っていた時は、脱衣所から李菜の声がした。
「お父さん、タオル忘れてるよ」
「ああ、悪い。そこ置いといて」
「はい」
声がすぐ横でした。
振り向く。
閉めたはずの浴室の扉の内側に、タオルだけが掛かっていた。
扉は開いていない。
「……李菜?」
「なあに?」
声は脱衣所から返ってきた。
もう聞かなかった。
夜中に目を覚ましたこともある。
李菜が廊下に立っていた。
誰もいない暗がりへ向かって、小さく手を振っている。
「李菜」
振り向いた。
「何してる」
「おやすみ言ってた」
「誰に?」
李菜は首を傾げた。
「みんな」
「……みんな?」
「あ」
少し考えてから、
「おやすみ、お父さん」
と言って寝室へ戻っていった。
俺はしばらく廊下に立っていた。
翌朝、紗央里に聞いた。
「昨日、李菜が誰かと喋ってたんだけど」
「そうなんだ」
「『みんな』って誰だ」
「さあ?」
笑っている。
その顔を見て、追及するのをやめた。
スーパーへ三人で買い物に行けば、李菜は普通に菓子売り場へ走っていく。
少なくとも李菜は、他の人にも普通に見えているらしい。
店員にも声をかけられる。
子どもとすれ違えば、普通に目が合う。
そのあたりは紗央里より分かりやすい。
「一個だけな」
「二個」
「一個」
「おかあさんは三個いいって」
「紗央里」
「わたしも食べるから」
「お前の分を混ぜるな」
結局三個買った。
帰り道。
李菜が俺と紗央里の間を歩く。
右手で俺。
左手で紗央里。
両方の手を握って、楽しそうに歩いている。
その姿を見て、ふと思った。
数日前まで、俺はこの子の存在すら実感していなかった。
今はもう。
三人で歩いていることに、ほとんど違和感がない。
ある休日。
そんな生活にもすっかり慣れた頃だった。
三人で昼飯を食べていた。
李菜がハンバーグを頬張っている。
紗央里は俺の皿からポテトを一本取った。
「自分のあるだろ」
「こっちの方がおいしい」
「同じだ」
「違うよ」
どう違うんだ。
李菜が笑っている。
そんな、どこにでもありそうな昼だった。
だから俺も、何となく聞いただけだった。
「李菜」
「なあに?」
「向こうでは、ずっと一人だったのか?」
李菜が首を傾げた。
「ひとり?」
「ああ」
「ううん」
俺の箸が止まった。
「……ううん?」
「弟と妹いるよ」
隣で紗央里がポテトを食べている。
俺はゆっくりそちらを見た。
紗央里は目を合わせない。
「おい」
「なあに?」
「弟と妹いるって言ってるぞ」
「いるよ」
「初耳なんだが」
「聞かなかったから」
またそれだ。
俺は額を押さえた。
李菜は何も気にせず、ハンバーグを小さく切っている。
「じゃあ、その弟と妹は?」
「まだこっち来れないよ」
「なんで?」
「まだ名 前ないから」
箸を落としかけた。
李菜が俺を見る。
「お父さんが決めたら、来るよ」
俺は紗央里を見た。
紗央里が笑った。
あの笑い方。
何かを隠している時の顔。
「……待て」
頭の中に数字が浮かんだ。
七。
最初に李菜の名前を決めるまで。
毎晩来た。
七回。
俺は紗央里を指さした。
「じゃあ俺、あと七回、名前つけるのか?」
紗央里は答えない。
笑っている。
「おい」
「なあに?」
「七人いるのかって聞いてる」
そこまで言って。
俺は、自分で口にした数字に引っかかった。
七。
七回。
いや。
それは最初の一週間だけだ。
李菜の名前を決めたあとも、紗央里は来た。
俺がそういう気分になるたびに。
必ず。
そして、
「もう、ここにいろ」
と言ってからは。
毎晩。
欠かさず。
一度で終わる夜なんて、ほとんどない。
俺の身体はいつの間にか、十代の頃より元気になっていた。
二度。
三度。
最低でも、そのくらい。
最近では、それ以上の夜だってある。
俺は箸を置いた。
「……待て」
紗央里を見る。
笑っている。
急に背中へ嫌な汗が流れた。
「俺、今まで何回――」
「七?」
李菜が不思議そうに首を傾げた。
俺はそちらを向いた。
「ん?」
李菜も少し考えるように首を傾げる。
「もっと――」
「李菜っ」
紗央里が遮った。
俺は固まった。
李菜も固まった。
紗央里がこんな声を出したのを、俺は初めて聞いた。
「あ」
李菜が口を閉じる。
言っちゃいけなかった。
そんな顔だった。
俺はゆっくり紗央里を見る。
「……おい」
「なあに?」
いつもの笑顔に戻っている。
「今、李菜が『もっと』って言ったよな」
「ごはん冷めるよ」
「誤魔化すな」
「おいしいよ?」
「そういう話してねえんだよ」
李菜が俺と紗央里を交互に見る。
しばらくして、小さな声で言った。
「お父さん」
「何だ」
「名 前、考えるの嫌?」
言葉に詰まった。
嫌。
なのか。
俺は李菜を見る。
俺によく似た顔。
紗央里によく似た笑い方。
少し前まで、写真の中にしかいなかった娘。
今は朝になれば、
「おはよう」
と言う。
仕事へ行けば、
「いってらっしゃい」
と手を振る。
帰れば玄関まで走ってくる。
まだ数日しか経っていないのに。
それがない生活を、もう少し寂しいと思い始めている。
「……嫌じゃない」
そう答えた。
李菜の顔が明るくなる。
「よかった」
「ただな」
俺は紗央里を見る。
「人数は知りたい」
紗央里が目を逸らした。
「おい」
「なあに?」
「何人いる」
答えない。
「七より多いんだな?」
答えない。
「毎晩の分、全部とか言わないよな?」
「全部が子どもじゃないよ?」
「……は?」
そこで初めて、紗央里が答えた。
ただし。
それは安心できる答えではなかった。
「じゃあ、残りは何なんだよ」
紗央里が笑う。
「おい」
答えない。
「そっちは答えねえのかよ」
「うん」
「なんで」
「まだ」
「何がまだなんだよ」
紗央里は、それ以上何も言わなかった。
その笑顔を見ているうちに。
ふと。
以前の会話が蘇った。
――子ども、何人作る気だよ。
――名 前、いっぱい考えられるね。
あの時。
俺は布団をかぶった。
紗央里は楽しそうに笑っていた。
ただの冗談だと思っていた。
今までは。
「……待て」
紗央里が首を傾げる。
「なあに?」
「あれ、本気だったのか?」
「あれ?」
「名 前、いっぱい考えられるってやつ」
紗央里が瞬いた。
それから、本当に不思議そうな顔をした。
「うん」
「……マジかよ」
「名 前、いっぱい考えられるねって、言ったよ?」
俺は黙った。
確かに。
言っていた。
ただ俺が、その意味を勝手に軽く受け取っていただけだ。
「……いっぱいって」
喉が妙に乾いた。
「何人だよ」
紗央里は答えない。
「おい」
李菜が黙々とハンバーグを食べ始めた。
「李菜」
「おいしい」
「今それ聞いてない」
「おいしいよ?」
完全に母親と同じ逃げ方だった。
俺は頭を抱えた。
「……何人分、名前考えればいいんだよ」
返事はない。
顔を上げる。
紗央里は俺を見ていた。
とても嬉しそうに笑っている。
その顔を見ていると。
あの日。
逢魔が時に耳元で囁かれた声が、ふいに蘇った。
「……勿体ない」
あの時は。
こんな顔で言っていたのかもしれない。
続けて読んでくださっている方。
気になってましたよね?
子ども。
ちゃんといました。
しかも、李菜だけじゃありませんでした。
あと何人いるのかは、私も知りません。
主人公も知りません。
たぶん紗央里は知っています。
でも、教える気はなさそうです。
「七?」
「もっと――」
「李菜っ」
……何人いるんでしょうね、本当に。
とりあえず、お父さん。
名前、いっぱい考えてください。




