表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

第8回小説すばる一次選考通過作品



   春


 春は浅く、桜はまだつぼみだった。ただ、春の訪れが、間違いなく近づいていることだけは確かだった。

 その日、成績表を渡された愛沢真太郎は、正式に留年が決定した。晴れて、いや、雨が降ってとでも言うべきか、大学五年生への学年延長が決まったのである。これがひと昔前の時世であれば、落第である。世間からは冷たくあしらわれ、親からは勘当同然に仕送りがストップしてもおかしくはない状態だった。

 しかし、そんな真太郎は至って呑気だった。それは、この大学の文学部の男子学生のほとんどが、さほどの抵抗感もなく、簡単に学年を延長するからだった。大勢の同期の者が五年生になるので、いっしょに付き合う友達には不自由はしなかった。

 ところで、この時代、つまり一九八十年代初期は、円高不況のあおりを受けて、学生の就職状況もあまり芳しくはなかった。一流企業の採用人数を例に取ってみても、会社によっては、その後に到来する平成バブル景気の時の十分の一程度だった。

 真太郎が入学した一九七八年などは、石油ショック後のインフレや、総需要抑制策による不況感がまだ尾を引き、就職も安定志向の公務員などを志望する者が多かった。また、大学の学部選択にあたっては、これまた安定感のある教師への道が開かれている文学部や教育学部の人気が高かった。

 その文学部に入学した真太郎だが、それは初めから就職や職業を考えてのものでは毛頭なかった。何故なら、将来は、郷里である北海道に帰って、納豆の製造・販売をしている家業を継ぐことを、両親に約束させられていたからだ。

 もともと真太郎の両親は、彼に法律や経済を学ばせたかった。だが、真太郎がどうしても文学部へいって、歴史をやりたいというので、家業を絶対に継ぐということを条件に、文学部への入学を許可したのである。しかし、大学生活を五年間送っても良いということまでは許しておらず、その意味で、この留年の件では両親と一悶着ありそうだった。

「愛沢、おまえは家を継げばいいから、気が楽でいいなあ・・・何も俺たちに付き合って、留年なんかしなくたってよかったのに・・・」

 学部事務所の出入口で、同じ歴史学科の友人である元樹孝宏といっしょになった。

 元樹に限らず、これが真太郎に対する周囲の友人の大方の意見だった。

 ところで、その元樹も五年生への延長が決まっていた。が、その理由が真太郎とは根本的に違っていた。元樹はマスコミ、中でも新聞社を志望しており、昨年の採用試験ではことごとく惨敗を喫し、今年再度チャレンジすることになっていた。

 このような事情で留年する者は、元樹の他にも沢山いた。新聞・出版・テレビ・ラジオ、そしてこの頃からは広告代理店などへの就職志望者のうち、その採用試験を突破できなかった者の多くが、再度マスコミに挑戦しようとしていた。

「おまえ、また新聞社一本でいくのか?今度は危ねえから、滑り止めに一般の企業でも考えておいたほうがいいぜ・・・」

 真太郎は、他人事ながら元樹のことが心配だった。

「ああ・・・」

 と言いながら、元樹はうつむき、一息ついた。そして、ゆっくりと歩き出し、

「今年は公務員試験も受けようと思っているんだ。ほら、この通り、通信教育のカタログをもらってきたぜ」

 とカバンの中から、公務員試験のバイブルともいわれている、ある出版社が発行している教材と通信教育のパンフレットを取り出した。

「なんだ、おまえも公務員試験を受けるのか!」

「ああ、しょうがねえよ。俺たち文学部生じゃ、一般企業も相手にしてくれねえしなあ・・・まあ、最悪でも公務員だったら、いいかなあって思って・・・」 

 事実、文学部の男子学生が、一般の一流企業に就職するのは至難の業だった。真太郎たちの所属するA大学では、ただでさえも学生数が多かったので、政治経済学部や法学部、商学部の学生たちだけで、すぐに企業のA大学の採用枠が一杯になってしまい、とても文学部生などには御鉢は回ってこなかった。むしろ、先の三つの学部や、文学部を志望して受験したにもかかわらず合格できずに教育学部や社会科学系の夜間部に回った者の方が、文学部生よりも企業から厚遇されていた。つまり、文学部は入学難易度においては、高い方にありながら、一流企業就職率においては、最下位にランキングされていたのである。 この大学の文学部では、特に、ジャーナリストへの志望熱が強く、一般の営利企業に入って、物を作ったり、売ったりして利益を上げることには馴染めない性格の者が多かった。一方、このあたりの事情を企業側も良く心得ていた。A大学文学部の出身者を採用しても、性格が変わっていたり、組織で最も重要視される協調性が欠如している者が少なくなかったので、採用を手控えていたのだ。また、文学部生はマスコミ受験の滑り止めに採用試験を受けているケースが多かったので、企業側も同じA大学の中でも、法律・経済系の学生を採用し、あえて文学部生など相手にしていない所がほとんどであった。

 一般企業の受け入れ体勢がこのような状況にあったから、文学部生はマスコミ受験の保険として、点数さえ取れば確実に合格できる公務員試験を受験しようとしたのである。

 そして、この公務員試験を保険とする現象は、マスコミ受験に限らず、不況になって一般企業の採用人員が大幅に減少する時、他の学部の学生にまで伝播するのであった。

「おまえ、ほんとに公務員なんかでも、いいのかよ・・・」

 元樹の置かれている状況を知りながら、真太郎はあえて、けしかけるように言った。

 元樹はそこを突かれると弱かった。

「まあ、そう言うなよ。また新聞社が駄目だって、決まったわけじゃねえんだからよ・・・」

「そりゃそうだけどさあ」

「それに、俺、そんなに公務員が嫌なわけでもねえしな。公務員っていうと、すぐに役所の窓口にいる暗い戸籍係を連想するけど、あんなのはこっぱ役人の仕事だからな。役所には、都市のマスタープランを作る企画局や環境問題に取り組む環境局、地域の産業を活性化させる産業局や観光局など色々なものがあるんだ。だから、直接的に行政にタッチできるし、面白いじゃねえか」

「なるほど、そういう考え方もできるなあ」 真太郎はそのように相槌を打つのがやっとだった。昨年までは、何が何でも新聞記者になりたいと言っていた元樹だったが、だいぶ現実的になってきたようだ。とにかく今は、自分のこれからの行動を、無理に理由付けしようとしている元樹の気持ちが、真太郎には手に取るようにわかった。

 二人は、文学部の校舎と正門とを結ぶゆるやかなスロープを下った。

「それにしても、おまえは気楽でいいなあ」「ああ、みんな、そう言うよ」

 周囲の者からそう言われるのに、真太郎はすっかり慣れていた。

「ところで、これからの一年、どうするつもりだい。世界一周でもするのか」

 元樹はスロープにころがっていた小石を蹴った。真太郎が納豆の製造・販売の家業を継げることなど、決して羨ましくはなかったが、精神がすり減り、胃が痛くなるような就職試験を受けずに、この一年間を、自由気ままに過ごせることが、心の底から羨ましかった。

「この一年間、俺も働いてみようと思うんだ」

「え、働く?」

 はなっから、真太郎がこの一年間、何もせずにぶらぶらと遊びまくると推測していた元樹は、その意外な返答に驚いた。

「このまま、親父の会社を継ぐんじゃ、他の実社会というものを見ないで終わってしまうしな。どうせ残した単位は、どうでもいい楽勝科目一つだ。出席も取らねえし、期末にレポートを提出すれば、誰でも単位はもらえる。だから、一年間まるまる大学には来なくたって済むからな」

「そうか、それもそうだな。親父さんの会社に入れば、一生やめるわけにはいかねえだろうからなあ」

「親父の会社に入ってしまえば、北海道の田舎で、後はつまらねえ人生が待っているだけさ。今、付き合っている智子を連れていって結婚しない限り、地元で見合いでもして、適当に結婚して、ガキが生まれて、普通に親父になっていくだけさ・・・」

 真太郎は、両親によって完全にレールの敷かれた人生が、嫌でたまらないというより、むしろ、せつなく、やるせない気持ちの方が強かった。

「それも、そうだなあ」

「確かに大きく経営しているとはいえ、どうして納豆屋の一人息子なんかに生まれたんだろう、と運命を恨みたくもなるぜ」

「・・・・・・」

 元樹は無言ではあったが、言われてみれば、真太郎の言うことももっともだと思った。「まったく、ジャーナリストになって、日本、いや世界を駆け回ろうとしているおまえが羨ましいよ・・・」

 一度落ちても、再度マスコミにチヤレンジしようとしている元樹が、真太郎はたまらなく羨ましかった。

 二人は、正門を出て、地下鉄の降り口で別れた。

 誰が植えたのか、足元の小さなプランターには、すみれの花が狭苦しそうに咲いていた。


「やっぱり、そんなことだろうと思ったよ」 それが、留年が決まったという知らせに対する真太郎の母展子の第一声だった。

「なんだ、母さんもわかってたのか」

「おまえの大学は、親元に成績表を送ってこないし、おまえの方も成績表を一度も見せないし、ちゃんと四年で卒業できるのかって、いつも父さんと心配していたんだよ」

 頭ごなしに怒られるかと思っていた真太郎だったが、しんみりとした母親の口調に、親不孝の自分が、今更ながらに幾分申し訳なかった。

「それで、来年は間違いなく卒業、できるのかい」

 成績が悪くて真太郎が卒業ができなかったと思い込んでいる母親は、一年分余計にかかる学費や生活費のことや、家に帰って家業を手伝うのが一年先送りになってしまうことよりも、あと一年で本当に卒業することができるのか、ということの方を心配していた。

「大丈夫だよ、科目はあと一つだけだから」「なんだ、あと一つ頑張れば良かったのか」 真太郎は、この正月に帰郷した際に、父親にはそれとなく計画留年のことを告げていたが、母親には話していなかった。というのも、父安太郎が、真太郎の気持ちもわからなくはないが、母展子に言うとまた気を揉むから内緒にしておけ、と言っていたからだ。

 今回の件を母親が知らないところをみると、父親の口からもまだ伝達されていなかったものと思われる。

「母さん、実は俺、わざと留年したんだよ」「え、わざと!」

 母親がすっとんきょうな声を上げた。

「そっちに帰って、家を継いでしまえば、一生殻に閉じこもってしまって、本当の社会が見られないから、一年間だけどこかで働こうかって思うんだ」

「『働こうっか』っておまえ、大学の方の授業も出なければならないだろうし、そんな時間があるのかい・・・」

「あとは一科目だけ取ればいいわけだから・・・それは専門科目の選択科目だから、授業の出席を取らない、楽で確実に単位の取れる科目を三つぐらい登録しておけば大丈夫さ」「まあ、そのへんのことは良くわからないけど、おまえがそう言うんなら・・・」

 そんなふうに説明されても、母親には良く理解できず、あとは真太郎を信じるしかなかった。

「大学の授業の方は心配ないさ。それに元樹も神谷も鈴木も、みんな計画的に留年するから大丈夫さ」

「え、元樹君も神谷君もかい?」

「ああ、仲のいいやつらはみんなそうさ」

「まったく、困った子たちだねえ・・・」

「・・・・・・」

 母親は、元樹や神谷などいっしよに留年する連中が、再度就職試験を受け直すためとは知らなかったが、詳しく説明するとややこしくなりそうだったので、真太郎はそれについては黙っていた。

「それで、働くっていったって、なにか仕事でも決まっているのかい」

「いや、それがまだなんだ」

「呑気な子だねえ・・・まったく・・・」

 母親はなかば呆れていた。

 とにかく、そのようにするからと宣告して、真太郎は電話を切った。

 ベッドの上に大の字になり、白い天井を見上げた。目覚まし時計の秒を刻む音だけが、むなしく聞こえていた。

「本当にこれで良かったのだろうか?」

 真太郎は改めて自問自答した。


 翌日は家庭教師のアルバイトの日だった。教え子は、新宿区箪笥町にある大きな材木屋の末の息子だった。それは二年前の四月、つまりこの教え子が中学一年の時から始めていた。

 ちょうど三月中旬の三学期の期末試験の最中だったので、その日の午後から集中授業を行った。

 この家庭では、教え子である息子を、弟同然に可愛がっていた真太郎の将来のことを、真剣に心配していた。したがって、余計な気をもませては悪いと思った真太郎は、今回の留年の件について、ずいぶん前から知らせていた。

 夕刻、授業が終わり、いつものように夕食が出され、真太郎が遠慮なく食べていると、ちょうど土曜日だったせいで在宅していた父親が、ダイニングに顔を出した。

「そういえば、愛沢君、一年間働くって言ってたけど、仕事、見つかったの?」

 材木屋を営んでいる主人が、真太郎に気さくに話し掛けてきた。

「いえ、それがまだなんです」

 真太郎は教え子の母親と話をするのは慣れていたが、父親とはめったに話さなかったので、何となく彼に対して、苦手意識があった。

「だったら、一つ働き口があるんだけど・・・」

 主人がたばこに火を付けた。女房を初め、教え子とその兄と姉が、いっせいにたばこの煙を迷惑そうに手で扇いだ。

「まったく、これだから嫌になっちゃうよ」 家族から煙たがられ、父親が一人言をつぶやいた。

「それであなた、働き口ってなんなの」

 母親が口を挟んだ。

「松五郎伯父さんが、ほら福島で町会議員をやってるだろ、その同じ派閥の系列の代議士が、学生のアルバイトを探しているって言うんだ」

「誰なの、その代議士というのは」

 真太郎ではなく母親が身を乗り出した。

 それを見て、父親がたばこを大きく吸って、ゆっくり吐き出してから言った。女房に対して、わざともったいを付けていた。

「自連党で、伯父貴と同じ派閥で、福島二区選出の板垣麟蔵だよ」

 主人のたばこから出る煙をよけるために、身を反らせながら女房が、

「そんな人、いるの?聞いたことがないわよ・・・」

 と首を傾げた。

「うーん、伯父貴の話によると、大臣は経験したことはないが当選は八回ぐらいしているらしい」

「八回っていうと、普通なら大臣になってもいい頃なんでしょう」

 政治に興味のなかった真太郎も、その意見には同感だった。与党の自連党にいれば、だいたい当選六回目ぐらいから、大臣になれるということは知っていた。

「選挙に弱く、二回ほど落選しているらしいが、今は自連党のなんとか部会長をやっているらしい・・・」

「あんまり、偉い人じゃなさそうねえ」

 女房が、真太郎と子供たちの食べ終わった食器を片付けだした。

「まあ、そうはいっても国会議員の事務所でアルバイトなんて、なんか面白そうじゃないか、なあ、愛沢君」

「は、はあ」

 この家庭の主人から、アルバイトの話が持ち出されるとは、思ってもみなかったので、真太郎も多少驚いていた。

「ためしにやってみたらどうだい」

「だけど、政治の世界なんかに首を突っ込まない方がいいんじゃないの。真太郎君は真面目なんだし・・・」

 流し台で皿を洗いながら、振り向きもせずに母親が言った。子供たちは自分の部屋へと戻り、ダイニングキッチンには真太郎たち三人が残った。

「真面目だから、いいんじゃないか。なあ、愛沢君」

「あのー、僕は働くにしても、どんなに長くとも一年しか働けませんが、それでもよろしいのでしょうか・・・」

 正直いって、真太郎はあまりこの話には乗る気ではなかった。薄汚れた日本の政界を心の底から軽蔑していたからだ。

 だが、せっかく家庭教師をしている家の主人が提案してくれた話だから、無下にもできなかった。それに、一年間、実社会を経験するために働くと、威勢のいいことをいっても、具体的に何をするのか、まだ決まっていなかったので、頭から拒否するだけの資格もなかった。

「アルバイトの期間なら、三ヵ月でも、半年でも一年でもいいらしい。どうせ雑用だから、色々なことはやらされるだろうけど・・・まあ、とにかく社会勉強になっていいんじゃないか」

 主人が言う”社会勉強“という言葉を聞いて、真太郎は、それもいいかなと思った。どうせ長くとも一年でやめてしまうのだし、代議士の事務所なら、世の中の、社会というものを見るには絶好の職場といえるかもしれない。

「真太郎君、良く考えた方がいいわよ」

 母親が、テーブルの椅子に座って、林檎を剥きながら言った。彼女は、政治の世界など、素人は関わらない方が良いと、決め付けているようだ。

 剥いてもらった林檎を遠慮がちに頬張った真太郎は、母親の助言をよそに、そのアルバイトをやってみようかな、と心が傾きだしていた。


 事は急転直下に進んでしまった。一昨日家庭教師をしている家の主人からアルバイトの話をもらい、考えた末、昨日、オーケーの返事をした。すると、先方がすぐに来て欲しいと言うので、今日、とりあえず一張羅のスーツを着て、永田町の国会議事堂の裏にある衆議院第一議員会館七七七号室のドアをたたいた。

「はい、どうぞ」

 ドアを開けると、男性二人、女性一人の三人が、いっせいに真太郎の方を向いた。

「失礼します」

 はずかしげに真太郎が頭を下げた。

 すると、一番奥に座っていた四十七、八歳ぐらいの金淵の眼鏡をかけた男が近付いてきた。

「愛沢君だね、第一秘書の桃町です。よろしく」

「はい」

 真太郎も軽く会釈すると、

「彼が、第二秘書の白瀬君、彼女が私設秘書の森高君」

 矢継ぎ早に他の秘書たちを紹介されたので、適当に視線を合わせ会釈した。

 真太郎にはドア付近の小さな机が与えられた。部屋のレイアウトは、中央のドアを開けると、左側の壁に沿って真太郎、その横に第二秘書の白瀬博太、その隣に、代議士の部屋を背にして、つまり、ドアの方に向いて第一秘書の桃町寿男、その横に隣の部屋への出入口があった。右の壁側には、第二秘書の白瀬と向き合う形で、私設秘書の森高聡子が座り、その向かって右隣に冷蔵庫や茶だんすが置かれていた。スペースの関係上、真太郎の机は小さく半端なものだった。

「それじゃ、愛沢君、これ、やってくれる」 左隣の白瀬から仕事が言い渡された。それは、封筒への宛名書きだった。

 秘書たち三人は、それぞれに雑談を交わしながら、机の上で事務を執っていた。

 初日ということもあり、真太郎は、丁寧な字で、できるだけ早く、一生懸命に宛名書きに勤しんでいた。すると、白瀬が、

「愛沢君、そんなに根詰めてやらなくてもいいよ」

 と言いながら、真太郎の書いた封筒をめくった。

「おー、ずいぶん書いたなあ・・・」

 二百枚ほど真太郎は書いていたのに、見ると同じ作業をしていた白瀬は、五、六十枚しか書いていなかった。

「愛沢君、今日は初日なんだから、無理しなくてもいいよ。まだ先は長いんだから・・・それにしても白瀬君、きみは書くのが遅過ぎるんだよ」

 桃町が、真太郎を労いながら、白瀬に嫌味を言った。森高聡子がくすくす笑った。この時、真太郎は斜め左前に座っている森高と視線が合った。彼女は、真太郎と同い年で、スキー焼けのため、真っ黒に日焼けしていた。大きな瞳をくるくるさせて、いかにも当世風の”ギャル“という雰囲気を漂わせていた。 始業は九時半からだったが、すぐに正午になった。桃町は約束があると言って、一足先に出て行った。森高は弁当を持参していたので、結局真太郎は白瀬と昼飯を食べに行くことになった。

 部屋を出る時に、議員会館や国会の中を自由に歩き回れる通交証を手渡された。

 衆議院第一、第二と参議院の議員会館と国会議事堂は地下でつながっていた。これは、日米安全保障条約批准時における、デモ隊による国会議事堂と各議員会館を結ぶ地上の道路の封鎖を教訓として、作られたものだった。

 白瀬と真太郎の二人は、議事堂内にあるそば屋に入った。

「それじゃ、一年間、社会勉強を兼ねて、働くというわけだ」

 天ぷらそばをすすりながら、白瀬が言った。

「そうです」

 金のない真太郎はきつねそばだった。

「まあ、社会勉強にはちょうどいいが、ここは愛沢君の目指している実社会とは、ちょっとかけ離れているかもしれないね」

「・・・・・・」

「みんな欲ボケ、金ボケ、権力ボケで一般庶民のような常識感覚とは、だいぶずれているからなあ・・・」

「そ、そうなんですか・・・」

「まあ、君もそのうちわかるよ」

 と言いながら、白瀬が丼を持って、残っているつゆを飲み込んだ。

「白瀬さんは、おいくつなんですか」

 丼に浮いていた油揚を食べながら、真太郎は話題を変えた。

「二十八だよ。大学を出て五年。ちっとも進歩してないよ・・・」

「・・・・・・」

 白瀬は丼を置くと、爪楊枝をくわえながら、

「こんなことなら、松下政経塾にでも入るんだったよ」

 とため息混じりにつぶやいた。

「といいますと、将来は政治家志望ですか」 真太郎は、白瀬が崇高な理想を持つ青年に思えた。

 白瀬は、七・三に分けた髪をかき上げながら、

「最初はそうだったんだが、だんだん幻滅してきたよ」

 と答えた。

「幻滅、ですか?」

 その返答は、真太郎には意外だった。

「まあ、話すと長くなるから・・・」

 と言いながら白瀬はポケットから金を取り出し、真太郎の分も合わせて払った。それを見て、こんなことならきつねそばなんかではなく、もっと高いものを食べれば良かった、と真太郎は後悔した。

「そんなことより、今日はちょうど一時から本会議があるから、傍聴しておこう、めったに見られるもんじゃないからね」

 真太郎は白瀬について、国会議事堂の中枢部に入った。

 衆議院の本会議場は熱気でむんむんとしていた。

 会議の傍聴は、基本的に国民なら誰でもできるが、議員の紹介などしかるべき手続きが必要だったので、行き当たりばったりに簡単に入れるものではなかった。

 予鈴、本鈴が鳴り、いよいよ本会議が始まった。

 ところが、本会議が始まっても議員たちのざわめきは一向に収まらず、議場には静寂がなかなか訪れなかった。

 それは、まさに小学生の学級会よりも、騒がしかった。採決が行われるまでは、各議員たちは、議場への出入りを繰り返す。中には席の隣近所の者にだけではなく、議席を離れて、あっちへ行ったり、こっちへ来たりと、うろうろしながら、他の議員に話し掛ける者もいる。こんなことをしていたら、学級会では先生に注意されてしまう振る舞いだ。

「これが、国を代表する者たちが、国民に施行する法律を審議する会議の姿だろうか?」 それが、本会議を目のあたりにしての真太郎の第一印象だった。

 テレビでの中継では、ほとんどの場合議場の雛壇しか映し出されなかったので、各議員の一挙手一投足まではわからなかったが、とにかく、「静かにせい」と一喝したくなるような状況だった。

「どうだい、愛沢君、これが国民を代表する国会議員だよ・・・」

「なんか、熱気はすごいですけど、とてもうるさいですねえ」

「それにしても、ほら、」

 と言いながら白瀬が、与党席の後の方を指差した。

「あのへんの連中は、いつも寝てるんだよなあ・・・」

 見ると、椅子に浅く腰掛けた何人かの議員たちが、ふんぞり返って眠っていた。

「こんなに騒がしいのによく眠れますねえ・・・」

「ずうずうしさで、面の皮の厚さが、数センチにも達しているよ」

 白瀬の言い方はなかなか辛辣だった。

「まあ、だけど、本会議に出席しているだけでも、まだましかもしれないな、さぼっている議員も結構いるから・・・」

「そ、そうなんですか」

 国会をさぼるとは、大学の授業ではあるまいし、真太郎はけしからん、と思った。

「欠席して、名札が横に倒れていても、新聞やテレビなどマスコミに出なければわからないからね」

「それもそうですけど・・・」

 良く見ると、議席の所々に空席があった。「去年選挙があったばかりなので、当分、解散はないと判断して、みんな弛んでいるんだよ」

「へえ、そんなもんなんですか・・・」

「それでも衆議院はまだいい方だよ。いつ解散があるかわからないから緊張感があるけど。参議院なんか六年間は遊んで暮らせるんだから、のんびりしたもんだよ。国内旅行に外遊、年がら年中ただで旅行しているよ」

「え、遊んでるんですか?」

「ああ、特に比例代表の連中なんか、選挙区がないから、講演会を開いて、辻説法をする必要もないし、選挙民にたかられることもない。したがって、六年間悠悠自適の生活が送れるっていうわけさ」

「そ、そうなんですか!」

 国会議員の現役秘書である白瀬のリアリティーあふれる話を聞いて、真太郎は参議院の現状に、驚かざるをえなかった。

「だいたい参議院なんかいらねえんだから、二百五十二人なんていう定員も、一挙に五分の一の五十人ぐらいに減らしてしまったっていいんだぜ」

 だんだん言葉が荒くなってきた白瀬は、真太郎に国会を解説しているというよりも、その怒りを眼下にいる議員たちにぶつけているようであった。

「五、五十人に、一挙にですか」

 それにしても白瀬は思い切ったことを言う、と真太郎は思った。

「外交や防衛、科学技術の専門家などを選出して、六年間という時間を与えて、じっくり取り組んでもらえればいいんだよ。そういった分野は、衆議院では選挙民の票につながらないから、参議院が担当すべきなんだ」

「なるほど、そういう考え方もできますね」 白瀬の意見に感心していると、フラッシュがいっせいに焚かれた。拍手と歓声が起こった。どうやら、新年度の予算案が与党の賛成多数で、政府の原案通り可決、成立したようだ。

 そして、その後、まだどよめきとざわめきがさめやらぬ中、議長が何かを読み上げていた。真太郎はじっくりとそれに聞き耳を立てた。それは、議員数人の外遊の場所と日付を読み上げているようだ。

「自連党〇〇〇〇君、フランス、イタリア十五日間。社労党〇〇〇〇君、〇〇〇〇君、オーストラリア、ニュージーランド十日間。公政党〇〇〇〇君、米国、カナダ二十日間・・・」

 それにしても沢山いるものだが、それらは全て外遊の承認を議会に諮っているのだった。その議長の発言に対して議員たちは、当然のごとく異口同音に、大声で、

「意義なし!」

 と答えていた。

 そのやり取りは極めてなあなあだった。真太郎は、こういう場面こそテレビ局ははっきりと中継すべきだと思った。


 以来毎日、真太郎は朝九時半に出勤してから、昼食と三時の休憩を入れて五時半まで、一日中宛名書きと電話番などの雑用を繰り返していた。

 昼食を桃町や白瀬に誘われない時は、その時間を利用して、議員会館内や国会議事堂の中をぐるぐるまわって、探険していた。秘書用の通交証さえあれば、議事堂の中はどこへでも行くことができ、かの有名な国会名物の赤い絨毯を、汚い安物の靴でいつも踏みしめて歩いていた。

 頻繁に歩いていると、首相をはじめ、閣僚や、野党の党首など、いつもテレビを通して見る顔が、目の前に現れて来るので、そんな所にいる自分が何となく落ち着かなかった。しかし、その反面、権力者と急に身近になったような気がして、自分まで偉くなったような気分に陥りそうだった。

 あちらこちらで見かける議員たちは、みな金ばっちを胸に付けて、顎を突き出し加減に、のっしのっしと偉そうに歩いていた。

 国会議員という地位と権力が、一介の地方のいなか者や議員の二世の小倅を、ここまで押し上げてしまうのかと思うと、その並はずれた絶大な力に、真太郎は改めて感服せざるをえなかった。

 俗に大臣は三日やったらやめられないというが、どこへ行くのにも、何をするのにも、秘書官やSPを束ね従えている閣僚の姿を見ると、それもうなずけるものであった。


 ひと月余りが経過した。真太郎は国会議事堂にも、事務所の雰囲気にもだいぶ慣れてきた。

 その日の夕暮れ時、肩がこった真太郎が、首を左右に曲げていると、電話が鳴った。ちょうど、私設秘書の森高が電話中だったので、真太郎が受話器を取った。議員会館一階の受付からの来客を報せる連絡で、相手は会津若松市後援会長の坂下時男だった。

 その旨を告げると、桃町が親指と人指し指を結んで、入館のオーケーサインを出していた。

 五、六分後、坂下とその娘とおぼしき女性が現れた。

「これは、これは坂下先生、さあ、どうぞ、どうぞ」

 桃町、白瀬、森高の三人がいっせいに起立した。それを見て、真太郎も立ち上がった。二人の秘書たちは、坂下親子を歓迎しながら、奥の代議士の部屋に招き入れた。そして、桃町が二人を応対した。

 ソファーに座った親子は、ちょうどこちら側を背にし、向かい合った桃町の顔だけが見えた。

「お疲れだったでしょう」

 桃町がわざとらしく労った。

「いやー、まんず、まんず、このたびは、やっかいになって、すまねえっす」

 坂下が会津訛りを残しながら口を開いた。 娘は紺のスーツに身を包み、背筋は伸ばしてはいるものの、顔はどちらかというとうつむき加減だった。

「こちらが娘さんですか?お綺麗な方ですねえ・・・」

 と桃町が言った瞬間、白瀬が森高と真太郎の方を向いて、無言で吹き出し笑いをしていた。

 それを受けて、一瞬森高が口を真一文字に閉じて、白瀬を睨めつける表情をしたが、すぐに顔を崩していた。

 坂下の娘は、世辞にも美しいとは言えなかったので、桃町が生一杯の賛辞を与えていたものと思われたからだ。

 坂下親子は背を向けていたので、真太郎たちの表情は、全くわからなかった。

 こちら向きになっている桃町が、金淵の眼鏡を外して、ハンカチで顔の汗を拭っていた。坂下は大物後援会長で、地元では医師会の会長も兼ねていた。坂下に対して、桃町はだいぶ気を使っているものと見えた。

 それを知っていた白瀬は、自分がうるさい来客の応対から逃れた喜びから、終始気楽ににやにやしていた。

「坂下嘉子さん、聖心女子大文学部英文科」 桃町が坂下の娘から渡された履歴書を読み上げた。すると、白瀬がかすかに聞こえる声で、

「おー」

 と口をすぼめたので、真太郎もそれを真似た。

「それで、ご希望の会社は」

「はい、商社関係を志望致しております」

 どうやら、坂下後援会長は、娘の就職の斡旋を板垣事務所に依頼にきたようだ。

「具体的に会社名を、あげていただけませんか」

 桃町は、継続的に無理に作り笑いをこしらえながら、発言していた。

「第一志望が、佐藤忠商事です。そして、第二志望が五井物産です。あとは、丸虹、東都商事などです・・・」

 娘の嘉子が遠慮がちにそう告げたが、どの社も女子大生には超人気の一流企業だった。「どうですか、桃町君、何とかなりますか」 坂下は、桃町を君付けして呼んでいた。

「商社は、特に人気がありますから、なかなか縁故関係でも入るのが困難です・・・ところで、学校の成績の方はいかがですか」

 縁故入社の者にとっては関係ないというのに、桃町は大学の成績のことを尋ねていた。「桃町さんは、娘が希望の商社に入れなかった時のことを考えて、早くも言い訳を作る体制に入っているな」

 白瀬が小声で囁いた。

「多分、成績が良くないと商社に入るのは、難しいとでも言うつもりだな」

 白瀬は腕組みしながらつぶやいていた。

「これが成績表です」

 娘が黄色い用紙を差し出した。

「どれどれ・・・うーん、」

 桃町がうなった。

「こ、これは素晴らしい。全部Aですねえ・・・」

 口実を作ろうとしていた桃町も、兜を脱いだ。

「わかりました。全力を尽くしましょう」

 そう言いながら、坂下親子の帰りを見送る桃町の顔は、幾分引きつっていた。

「まいったなあ・・・商社は特に人気があるからなあ・・・」

 ドアを閉めた桃町は困惑していた。

「だけど、うちの最も有力な後援会長の一人ですから、その娘さんを希望の会社に就職させられなかったというと、これは大変な事になりますよ」

 地元の選挙民の就職の斡旋に関しては、桃町の担当だったので、白瀬には当事者意識が全くなかった。

「そうだよなあ、坂下さんは言うなれば、国家老といった存在だからなあ。票の取りまとめも抜群だし、我々にはなくてはならない人物だ。その娘さんの就職だから、何とか希望をかなえてやらなければ、先生にも叱られてしまうなあ・・・それにしても困ったなあ・・・うちは就職関係が一番苦手だからなあ・・・」

 と言いながら桃町は、坂下嘉子の履歴書と成績書を赤いファイルに閉じていた。

 そのファイルには、既に二十枚ほどの履歴書がたまっていた。

 桃町は書類を綴込みながら、憂欝そうな顔をしていた。そして、心当たりを探してくると言って事務所を出て行った。

 真太郎は、白瀬の許可を得て、桃町の机の上に置かれた就職依頼のファイルをめくってみた。

 さきほどの坂下嘉子は一番上に置かれ、商社希望と書かれ、いくつかの希望の会社名が列挙され、赤の◎が付けられていた。

 二番目の履歴書は、大谷修というかなりマイナーな大学の学生で、メーカー希望、一流は無理、と書かれ△が付けられていた。三番目の者もその前のと似たり寄ったりで、△が付けられていた。真太郎は△の意味を、白瀬に尋ねた。

「この△はどういう意味ですか」

「ああ、それはどうでもいいっていう意味だよ。つまり、紹介者の強弱で、うちにとって大切な選挙民かどうかっていうことだよ。後援会長の推薦なら○、その子供なら◎さ。反対に後援会長のように票の取りまとめもしないような普通の人の紹介なら△を付けているのさ」

 なるほど、よく見ると、履歴書の欄外に紹介者の肩書きと重要度が書かれていた。

「だけど、紹介者が大したことがなくても、有名大学なら、話は別だよ。その場合は同じ△でも違う扱いさ、ほら・・・」

 次の書類をめくると、紹介者は大した人物ではなかったが、一流のK大学だったので、特別に☆印が付けてあった。

「この場合は、自力で入れることだってありえるからね、そういう場合も代議士の力で入れてやったんだ、と恩をきせられるじゃないか」

 白瀬の言うことももっともであった。

 このように就職の斡旋には、紹介者の重要度の高低と、学生本人の資質、実力、大学のランキングなどを加味して、行われるのであった。


 翌日、板垣幹生という板垣代議士の弟が来た。彼は、建設業界を代表する馬島建設の常務取締役だった。

「ざっと、数えても二十はあります」

「どれどれ・・・」

 板垣幹生は、背広の内ポケットから眼鏡を取り出しながら、桃町から渡された赤いファイルをめくった。

「ああ、坂下会長の娘さん、もう就職なんですねえ・・・」

「今年は、それが一番のVIPで、それもやっかいな所を望んでいるんですよ」

 森高が出した茶を、音を立ててすすりながら、桃町が眉間に皺を寄せた。

「商社、ですかあ・・・僕の一番苦手な所だなあ・・・」

 幹生は、以前に馬島建設で人事部長をやっていた関係で、兄の板垣事務所に依頼のある就職の斡旋に一肌脱いでいた。

「それも佐藤忠や五井物産など、一流所を希望してますから大変ですよ」

「準大手の中堅クラスなら何とかなりますけど、聖心を出てれば、まあ一流商社じゃなけりゃ、縁談にも箔が付かんでしょうしなあ・・・」

 ゆっくりと茶をすすると、幹夫は腕組みしながら目を閉じた。

「本人も、一流じゃなけれゃ嫌だというような顔をしてましたよ。それに何よりも、坂下会長の愛娘ですから、後にも先にも全力で取り組まなければなりませんし・・・」

 その言葉を聞いた幹生は、閉じていた目を見開いて、

「わかりました。僕の方も佐藤忠や五井の伝手を当たってみましょう。桃町君も、面倒だが、ひとつ兄貴のためと思って、頑張って下さい。特にうちは選挙に弱いから、力のある後援会長は、絶対に大事にしておかなければなりませんから・・・」

 と言いながら、幹生は自分自身に気合いを入れた。

「こちらこそ、いつも力が足りなくて、幹生さんにはご迷惑をおかけいたします」

 いつものように、桃町は、テーブルにおでこが接触するのではないかと思われるくらい、大げさに頭を下げた。人に頼み事をする時の、彼特有のオーバーアクションだった。


 幹生が帰るやいなや、今度は同じ選挙区内である白河市の後援会の保科守春会長から、電話が入った。

「また、就職の依頼かな」

 桃町の受け答えぶりを聞いて、白瀬が言った。

「就職の依頼って結構あるんですねえ」

 宛名書きの手を止めて、真太郎が尋ねた。ちょうど良いタイミングで、森高からコーヒーが差し出された。

「毎年、四月のこの時期になると殺到するんだよ」

 白瀬が、カップに砂糖と粉ミルクを入れながら言った。

「だいたいみんな、希望の会社に入れるんですか」

「世間では議員に頼めば、どこにでも入れると思っている人が多いけど、実際にはそうでもないんだよ。なあ、お聡ちゃん!」

 白瀬をはじめ桃町も代議士も皆、森高聡子を”お聡ちゃん“と呼んでいた。

「意地悪ね、白瀬さん」

 と言いながら、森高がにやにやしていた。「私、実は父が東京二区の与野代議士の後援会長をやっている関係で、就職の時も頼んだのよ。そうしたら、最終で落ちちゃって・・・絶対大丈夫だからと言われていたのに、駄目だったのよ、それで他に行く所がなくなっちゃって、ここに入ってあげたのよ、仕方がなかったから!」

 森高が、白瀬に嫌味っぽくふざけて言い返した。

「だいたい、自分の力じゃなく、人の力に頼ろうとすることが、そもそもの間違いなんだよ」

 白瀬はきっぱりと決め付けた。

「白瀬さん、コーヒー、変な味しない?」

「いや、」

「あ、そう、おかしいわねえ、それに耳粕入れたんだけど・・・」

「えええ、ゲッ」

 ちょうど口に含んだところであったコーヒーを、白瀬はカップに吐き戻した。

「嘘よ。だけど、今度意地悪言ったら、本当に入れちゃうから」

 お聡ちゃんが、茶目っ気たっぷりに言い放った。

「それでお聡ちゃん、どこに入りたかったんですか」

 後援会長の娘である森高を代議士から頼んでも入れなかったのだから、さぞかし人気のある会社だと思われ、真太郎はその会社名をとても知りたかった。

「お聡ちゃんは、ミーハーだからなあ。代理店だよ。広告代理店」

 また、白瀬が口を挟んだ。

「広告代理店と言ってもいっぱいありますから、どこですか」

「決まってるじゃないか、アホバカOLや泣く子も黙る、業界最大手のところだよ」

 白瀬は書類に目を落としたまま、顔も上げずに皮肉っていた。

「ああ、あそこですか、何かすごい人気があるらしいですねえ。僕の大学の連中もかなり受けてましたけど、結構、落っこちてましたよ。知り合いの中では二、三人受かってたかなあ・・・」

「その受かった連中って、親父さんみんな偉いんじゃないの」

 と言いながら白瀬が顔を上げた。

「そう言えば、松下っていうやつは、親父さんはどこかの石油会社の専務とか言ってたかなあ。それから、石原はどっかの事務次官の息子だし、そう言われてみれば、親父さん、みんな偉い人だなあ・・・」

「そうだろう、あそこの縁故関係は、そういうお偉いさんの子供や、せいぜい甥や姪しか採らないんだよ」

 白瀬は確信を持って発言していた。

「そうなんですか」

「どうせ縁故で入ってくるやつなんて、仕事ができるわけなんかないんだから、せいぜい父親の威光で仕事を取ってくるのが関の山さ。それだったら、父親が偉ければ偉いほど、社会的地位があり、権力があればあるほど、役に立つのさ。そういう力を発揮させられれば、社にとって非常に都合がいいのさ。お聡ちゃんもあと一歩の所で・・・惜しかったよねえ、与野代議士の娘であれば絶対に入れたのに・・・お聡ちゃんは東京女子短大という短大の中でも最難関の所を出ているし、優秀なんだから・・・」

「今頃、フォローしても、遅いわ」

「お聡ちゃんなら、普通に受けても、商社やメーカーなら、受かったんじゃないの」

 白瀬は、まだフォローし続けていた。

「まあね、一般企業ならね。よりによって、あの代理店なんか希望しなければ良かったわ」

 森高は、今更そんなことを言っても始まらない、というような雰囲気で、さばさばしていた。

「あーあ、今度は保科会長からだよ」

 代議士の机で電話を取っていた桃町が、自分の席に戻ってきた。森高が入れたてのコーヒーを差し出した。白瀬が桃町の方に向きながら言った。

「保科会長なら、末の息子さん、去年明治を出て、何とかという聞いたことのない薬品会社に、就職の世話をしたばかりじゃないですか・・・」

「それがね、五年ほど前に会長の甥子さんを頼まれて無理に国鉄に入れたんだよ。工業高校卒で、成績は壊滅的で、おまけに白河唯一の暴走族ときてるから、大変だったよ」

 と言いながら桃町が、薄くなりかけていた頭をかいた。

「へえ、そんなことがあったんですか」

「本人は、生意気にも東京で働きたいというから、国鉄に掛け合って、わざと東京の配属にしてもらったんだよ。ところが、今度は親父さん、つまり保科会長の弟さんの体の具合が悪いので、白河に転勤させてくれと言うんだよ・・・」

「保科さんの弟さん、そんなに具合が悪いんですか」

「ところが、それは口実で、どうも本人が東京の生活が嫌になって、故郷に帰りたがっているらしいんだ」

「わがままなやつだなあ・・・」

「全くこの忙しい時に、転勤まで頼んでくるなと言いたいよ」

 桃町がカップの中のコーヒーを、思いっきり力を込めてかき混ぜた。

「だけど、保科さんの依頼じゃ、これまた無下にもできませんねえ。白河地区の票の取りまとめ役ですから」

「ああ、まったくその通りなんだよ」

 カップのコーヒーを一気に飲み干すと、桃町は、国鉄に行くと言って出て行った。


 昼過ぎになると、白瀬が、たまには赤坂にでも行って昼飯を食おう、というので真太郎もついて行った。議事堂や議員会館のある永田町から、歩いて十分ぐらいの地点に赤坂の繁華街があった。普段、下宿先の高円寺と高田馬場の間を、行ったり来たりと繰り返していた真太郎にとって、赤坂の街は初めて見る大人の街だった。

 一ツ木通りにあるてんぷら屋に入って、天丼を食べていると、隣に白瀬の顔見知りの男が座った。

「こんにちは」

「あれ、珍しい所で逢いますねえ・・・彼はうちのアルバイトの学生で、A大学、確か五年生の愛沢君。こちら大上先生の所の山内さん」

「山内です。よろしく」

 真太郎も軽く会釈した。山内は三十歳ぐらいで、白瀬よりも、二つ、三つ上だった。髭が濃く、眉毛が太く、まつげも長かった。顔全体が毛深く”熊ゴロウ“とあだ名を付けたいくらいの男だった。

「やあ、どうだい板垣事務所は。最近は忙しいかい」

 山内は、威勢が良かった。

「それが、今は就職の依頼でてんてこまいですよ」

 白瀬は、さも自分が、その業務で忙殺されているかのように嘆いた。

「この時期はどこの事務所も就職の斡旋で大変だよ。全くどの選挙民も、自分のバカ息子とバカ娘を一流企業に入れようと、必死だからな」

「今年は、うちは後援会長の娘がいるんで、真剣ですよ」

「それで、そいつはどこを志望してるの」

 山内は、運ばれてきた天丼の海老を思いっきりかじった。なかなか豪快な食べっぷりだった。やはり、将来は政治家志望なのだろうか。真太郎は、こんな荒々しい男が、政治家になったら面白いだろうなと思った。

「商社ですよ。うちが一番苦手としている」「だけど、一般企業のOL志望ならまだましだぜ。うちなんか今年は、スチュワーデス志望が二人、テレビ局のアナウンサー志望が一人いるから、もうどうしようもないぜ」

 と言いながら山内は、天つゆの染み込んだ飯を、音を立てて掻き込んだ。

「そりゃあ、大変だ。それで、どうするんですか」

「まあ、スチュワーデスの方は、どこかに押し込むしかないだろう。基本的にあんな仕事はウエイトレスと同じだから誰だってできるからな。特に国内線だったら英語もいらねえし。問題はつらだよ、つら」

「それで可愛いんですか」

「一人はなかなかなんだが、もう一人の方がひどいんだ。よく鏡を見ろと言いたいよ・・・まあ、いずれにしても、どこかに押し込まなけりゃならないだろうが・・・」

「いいですよねえ、大上先生は大臣も何回か経験しているし、今は政調会長ですからねえ。力があるし・・・」

 白瀬は、力のある代議士についている山内に対して、羨望の眼差しだった。

「そうは言ってもアナウンサーまでは面倒見きれないよ。こればっかりは、ちゃんと喋れないと仕事にならないからな」

「それで、どうするんですか」

「テレビ局のアナウンサー試験は、政治家の縁故関係を最も嫌うんだよ。だから、たいていは一次で落としてくれるから、本人には実力がなかったとはっきり言ってやるのさ。なまじっか、情実で二次、三次と、最終近くまで行っちゃうと後が大変だからなあ」

 山内は、茶を音を立てて飲み込むと、つぎ足しを大きな声で注文した。

「なるほど、駄目なら駄目で早めに切ってもらった方がいいわけですねえ」

「それにしてもこの時期は、就職でお互い苦労するけど、うちなんかもう学校の入学依頼がきてるよ」

「え、もう、裏口の話ですか。まだ五月だというのに・・・」

 う、う、裏口入学。話には聞いたことがあったが、真太郎は、本当にそんなことが行われているとは思ってもみなかった。

「全く気の早い連中がいて、嫌になっちゃうぜ」

「それで、どこの裏ですか」

 白瀬がきいた。

 そういう話題なら真太郎も、興味津々だった。傍聴するには、本会議なんかよりも、この二人の会話の方がずっと面白かった。

 山内は爪楊枝をくわえると、チュっと音をたてながら、

「赤学の小学校だよ」

 と言い捨てた。

「赤学って、あの表参道にある赤山学院の小学校ですか」

「そうなんだよ。あそこも昔は簡単に入れたそうなんだが、最近はいっちょ前に難しくなってなあ・・・いずれにしても、何かコネを探さなくちゃならないなあ。まあ、小学校だから、多少できが悪くても、引き取ってくれるだろうが・・・」

 この件に関して山内は、だいぶ楽観しているようだった。

「大学と違って小学校でしたら、何とかなりますよね。あのK大の幼稚舎だって、今だに裏口の噂は、後を絶ちませんからねえ」

「あそこもあるんですか」

 さすがにK大はないだろうと思っていた真太郎は、その話が信じられず、思わず二人の会話に口を挟んだ。

「私立の小学校なんてどこも同じさ。だいたい小学校入学時の能力なんて、よほどの天才でもない限り、そんなに差があるわけがないんだよ。だから、極端な言い方をすれば、普通の能力があれば、誰を入れてしまっても同じなわけさ。K大の幼稚舎に入学して、そのままだぶらず順調に、中学、高校、大学と十六年間で卒業するやつは、全体の六、七割ぐらいだし、あとは留年したり、除籍されたりして、淘汰されてしまうんだよ」

「白瀬君の言う通りだよ。学校側もそのへんのところは良く心得ているから、入学の交換条件に、法外な寄付を吹っかけてきたりするんだ。去年なんか娘を入れるために、学校の近くに駐車場を寄付した俳優がいたよ・・・俺たちは、依頼者に寄付を取り次ぐだけだから、世間で言われているように、裏口入学の斡旋料として、多額の金をもらうなんていうことはないんだよ。全ては票を人質にした選挙民のたかりと、その足元を上手に見て取った学校側の思惑が一致しての現象なのさ」

 どうやら裏口入学というのは、本当に実在しているようだ。

 真太郎は天丼といっしょに出された薄い出がらしの茶を、しみじみとすすった。


 衆議院第一議員会館七七七号室に戻ると、既に桃町が外出から帰っていた。

「さっきの保科さんの件、今国鉄の人事課に行ってきたよ」

 そう言う桃町の顔には、さきほどの困惑さが多少薄らいでいた。だから、何だかの良い感触を掴んだものと、真太郎も白瀬も、そう思った。

「先方も、いきなり今すぐに、白河に戻してくれというのは無理だというんだ。だから、再来月の人事で、東京と白河の中間地点である宇都宮に、いったん異動させて、来年春の人事異動で、白河に戻すというんだ。そうしなければ、人事全体の構想にも影響してしまうし、他の帰郷希望者の手前、偏向人事と受け止められてしまってもまずいというんだ」 と言いながらも桃町は、だいぶ肩の荷がおりているようだった。

「それもそうですよね。だけど、中間地点の宇都宮だなんて、国鉄とはいえ、いかにも役人っぽい発想ですよね」

「ああ、だけど、この際、役人の発想だとか何とか言ってられないからな。うまい妥協案だと言って、何とか保科会長を説得しなければならないよ」

「それでしたら、もうしばらく保科会長には連絡をせずに、われわれが色々と動いて頑張っていると思わせてからにした方がいいですよ。あのじいさん、すぐにつけ上がるところがありますから」

 前回の選挙では、福島二区内の選挙区のうち、会津地域は比較的早く票が開き、白河など県南の地域が遅かった。最初板垣は会津地域の開票の段階では次点の六位にいて、最後の県南の、それも白河市の大量得票で、逆転当選した。だから、その後その地域の後援会長である保科氏の発言力が増大し、鼻息もだいぶ荒くなってしまったのである。

「白瀬君の言う通り、一週間ぐらい放っておくことにしよう・・・」

 すると、そこに森高が遅い昼食から戻ってきた。

「さきほど、先生の弟さんから、坂下会長の就職の件で電話があり、業界八位の西洋商事ならどうかって、言ってましたけど」

「あ、そう。それじゃ、本人にきいてみることにしよう」

 と言いながら桃町が、坂下の娘に電話を入れた。

 白瀬をはじめ真太郎や森高の三人が、固唾を飲んで桃町の電話を聞いていた。が、案の定、その会社では嫌だという彼女の答が返ってきた。すぐに桃町は、その旨を代議士の弟である幹生に伝えた。

「しょうがない、こうなったら奥の手を使うか」

 桃町はおもむろに立ち上がった。

「派閥の方ですか」

 白瀬が桃町を見上げながら、確認した。

「十文字先生の伊藤さんに頼むしかないだろう・・・」

「あの人、根暗だから、僕、苦手だなあ・・・」

「君が頼みにいくんじゃないからいいだろう」

「それもそうですけど」

 桃町は、今度は十文字派の事務所に行った。

「私も伊藤さんって嫌ーい」

 森高が、顔をしかめた。

「ああ、秘書のくせにあんなに愛想の悪いやつも珍しいぜ。いくら十文字先生をはじめ、派閥議員の就職の斡旋の業務を担当して、余禄が多いからといって、あんまり威張るんじゃねえよ、と言いたいね」

 その伊藤という男を、白瀬は心の底から嫌っている様子だった。

「その人、就職の斡旋を専門にやっているんですか」

 真太郎が尋ねた。そんな仕事を専門にやっている秘書がいるなんて、真太郎は信じられなかった。そのような秘書だって、元はといえば、国民の税金で雇われているのだから・・・そんな仕事のために国民は税金を払っているのか・・・全くふざけたことだ。真太郎はそう思わざるをえなかった。

「そうなんだよ。十文字先生自身に依頼のあるものはもちろん、その他に、派閥内のそれぞれの議員の所に依頼にきたもので、手に負えないものを引き受けているんだよ。つまり、派閥の親分は、子分の所にきた就職の面倒もみているというわけさ。企業の方も力のない代議士から依頼されるよりも、派閥の領袖から頼まれれば、断わり切れないじゃないか」

「なるほど、うまいシステムになっているんですねえ」

 真太郎は、その要領の良いやり方に感心した。

「ところが、去年の秋にそのシステムがマスコミに流れちゃってねえ。週刊誌に出ちゃったんだよ・・・何もそこまでやらなきゃいいのに、年に一度、そのシステムで企業に就職をした者を集めて、懇談会というかOB会みたいなものを開いているんだよ。もちろん、伊藤さんの主催で。十文字先生も参加するんだが、その一部始終がマスコミに流れたというわけさ。もっとも、そのマスコミ自体にも何人かの連中が入っているから、ばれるのも仕方ないけど・・・普段は派閥の存在は諸悪の根源だ、なんて報道している大日本テレビなんか、結構入っているよ」

「そういえば、夕方六時からのニュースで、よく現場から中継してくる野津君なんかもそうよねえ」

 と森高が思い出したように、発言した。

「そう、そう、あいつなんかよく派閥の事務所でバイトしてたよ。それなのに、この前もテレビ画面で、派閥があるのは害悪だなんて言ってたなあ・・・愛沢君、世の中色々とあっておもしろいだろう・・・」

 と言いながら白瀬が、真太郎の肩をたたいた。

 真太郎は、おもしろいというよりも何よりも、世の中の裏に隠されている沢山の真実が、一挙に押し寄せて来て、その収拾に頭の中がくるくる回っていた。


 夕方、再度桃町が戻ってきた。

「・・・というわけで、伊藤さんは、後援会長の娘というだけでは弱いというんだ」

 桃町が、軽く頭を抱える素振りをしていた。

「うちにとっては大事な人でも、十文字事務所として押すだけの大義名分がいるんでしょうねえ・・・」

 就職の斡旋は桃町の担当だとはいえ、最後の手段も効かないとなると、板垣事務所全体に影響しかねない事態となるので、白瀬もシビアに受け止め出した。

「それで、よくよく考えてみたんだが、確か坂下さんのかみさんは、福島県知事のはとこだったことを思い出したんだ。そうすれば、坂下嘉子は、県知事の又従姉妹の娘ということになり、この上ない血筋ということになる。それを言ったら、伊藤さんも、『それは最高だ。その線で何とかしよう』と言ってくれたよ」

 思いがけない坂下の血筋に、一筋の光明が射していた。

「それはよかった。伊藤さんがそこまで言うんなら大丈夫でしょう」

 それを聞いて白瀬もほっとした。

「ああ、あの人はできないことは、初めから断るからなあ」

「それにしても、派閥事務所だったら商社ぐらいいくらだって、コネはあるでしょうけど、問題はその就職希望者本人が、誰の血縁かということが重要なんでしょうねえ」

「そういうことだよ。人気企業ともなれば、どこだって、採用人数と同じくらいの数の推薦人を、社長が持ってくるというからなあ。社長の隣の家に住んでいるだけで、推薦をもらえてしまうから。誰の息子か娘か、そいつを入社させることが、どれほど有益か、ということが客観的に把握できなければ、企業も受け入れないというわけだよ」

 会津若松市後援会長・坂下時男、白河市後援会長・保科守春、うるさ型の国家老二人の依頼に目星が付いたので、その晩、真太郎は、桃町、白瀬、森高たちに誘われて、赤坂の街に繰り出した。昼間と違って、夜の赤坂は一種独特の雰囲気を醸し出し、真太郎には、覗いてはいけない世間のとびらをまた一つ、開いてしまうような気がしていた。



   夏


 春が過ぎ、初夏となった。

 ”金帰月来“とは、文字通り金曜日に帰って、月曜日に来る、という意味だが、国会議員の世界では、これが定番となり、常識となっていた。つまり、金曜日に地元に帰って、各種会合や宴席を回って顔を売り、月曜日の朝一で東京に帰って来る、ということだ。それは、どんなにつまらない会合であっても、有力な後援者から出席の依頼を受けたり、間違いなく票につながると判断したものには、必ず代議士自身が顔を出すのである。

 真太郎は、この行為が最も馬鹿馬鹿しいものであると思っていた。仮にも国会議員ともあろう者が、地方の小都市で開かれる米粒ほどの小さな会合に出席するとは、何たる無駄なことであろうか。確かに選挙を考えた場合、どんな人間であっても、一票にはかわりがなかったが、そんな暇と時間があったら、国家のための外交や教育、福祉などいくらだって、政策の研究や法律の立案、そして数えきれないほどの勉強ができるはずだ。

 与党自連党が、自分たちの選挙や票のために、県会議員や市・町・村会議員レベルのことで、地元を駆けずり回っているうちに、国政は官僚に委ねられ、その結果、官僚に国家を牛耳られてしまったのである。

 ところで、ご多分に漏れず、板垣麟蔵代議士もこの金帰月来のパターンを繰り返していた。

「愛沢君、今日はお聡ちゃんが休みだから、代わりに切符、散歩がてらに取りに行ってきてよ」

 白瀬に、代議士が乗車する列車の切符を取りに行くよう頼まれ、真太郎はすぐに席を立った。イスにばかり座っているとからだがなまってしまうので、こういう雑用が本当に嬉しかった。今日は森高が風邪で休んでおり、代議士の入室の予定もなく、桃町も外出したまま直帰だったので、板垣事務所はのんびりとしていた。

 議員会館の中に、JTCという業界最大手の旅行会社が入っていた。これも一種の利権だった。なぜなら、国会議員が乗車する電車、バス、飛行機、船など輸送機関の全てのチケットの販売を扱っていたからだ。法律で議員の交通費は全て国費で負担することになっていた。議員は全ての交通機関をタダで乗っていた。だから、議員の事務所からその都度、切符の注文を受けるこの旅行会社は、値引きもせずに定価で、それもグリーン車やファーストクラスのチケットを販売することができ、おまけに請求先は国家なので、未収になるような事態もなく、笑いの止まらない商売をしていた。衆参合わせて七百六十三人もの議員のうち、ごく少数の会派を除いて、ほとんどの国会議員が、ここを利用するので、その扱い金額から得る販売マージンは、莫大なものだった。

 真太郎は、金曜日の会津若松行きの特急グリーン車の指定席券と乗車券、同じく月曜日の復路の分を購入した。請求は国庫にいくので、現金は無用だった。

 チケットを購入した真太郎は、すぐに事務所には戻りたくなかったので、散歩がてらに国会議事堂の本体の中に入った。

 薄汚れた赤絨毯を踏みつぶしながら、院内を歩いた。それにしても、自分のようなまだ実社会も知らない青い若造が、大手を振って赤絨毯の上を歩いても良いものだろうか、という嫌悪感を少しだけ抱いていた。

 ”共新党議員控え室“”公政党政策審議室“”自連党政務調査会室“など各政党の部屋があった。真太郎は通りがかった時に、空き室でドアが開いていた”自連党総務会室“の中に入った。照明の消えた部屋は薄暗く、テレビで映るような華やかさはなかった。議員の出欠用の名札が無造作に倒され、金華山の模様の豪華なソファーも寂しげに横たわっていた。

 真太郎は、ソファーに座り、誰かの名札を立てて、目を閉じた。そして、あたかも自分が国会議員になったかのような気分に浸った。目蓋の裏には、野次や怒号、歓声や拍手、これでもかと照らしだされる熱いスポットライトを浴びる自分の情景が映し出された。

「俺が国会議員になるなんて、夢のまた夢だ・・・だけど、それにしても、政治の世界もひどいものだなあ・・・」

 数分の間、政治の裏世界の大したことのなさを、改めて反芻した。

 そして、目をあけると真太郎は、いきなり靴を脱いで、ソファーの上に立った。ちょうど体もなまっていたので、その上でピョンピョンと跳ね出した。ボン、ボン、とソファーのスプリングが低い音を立てて軋んだ。

 真太郎は、国会の象徴の一つでもある金華山のソファーを、思いっきり踏み付けることによって、政界という権力を、木っ端微塵に踏み潰してしまいたい気持ちで一杯だった。

 部屋に戻ると、白瀬の学生時代の友人である斎藤真司という男が来ていた。彼はある新聞社の広告局に勤務していた。今日は現在改選中の参議院の選挙広告の件で議員会館を訪問したとのことだった。

「へえ、半分もバックしちゃうの」

 白瀬が目を剥き出して驚いた。

「ああ、五回で約八百万、半分で四百万さ。これじゃ、かなわないよ」

 斎藤がお手上げの状態だという気持ちをこめて、両手を広げた。

「それって、何のことですか」

 途中から話に加わった真太郎は、彼ら二人が何のことを話し合っているのか良くわからなかった。

 すると、白瀬が身を乗り出して真太郎に説明を始めた。

「つまり、参議院の候補者には、選管から五枚の新聞広告をやれるクーポン券が渡されるんだよ。それを受け取った候補者は、どこの新聞でもいいから五回広告が出せるというわけなんだが、その時にバックマージンという黒い絡繰りがあるというわけさ」

「その広告というのは、あの数センチ四方の小さいやつですね」

 両手で小さなスペースを作りながら、真太郎が言った。

 今度は斎藤が真太郎に説明を始めた。

「そうだよ、その広告さ・・・候補者は五回広告を出せる権利があるから、全ての全国紙に、たとえば北朝、読南、西毎、産中、商経というように、一回ずつ出してもいいし、読南に三回、北朝に二回、というように出してもいいんだ」

「ということは、同じ新聞に五回出してもいいんですね」

 真太郎は斎藤の方へ向き直って質問した。「そうだよ、だけど、本当に広告という効果を考えた場合、同じ新聞に出すよりも、色々な新聞に出した方がいいに決まっているんだ、何故なら、いくら同じ新聞に五回も出しても、それを見ている読者は変わらないからね。それに対して全て違う新聞に出せば、読者が違うから、より多くの人の目に触れ、選挙民への到達率が高くなるというわけさ」

「それなら、たいていの候補者は一回ずつ違う新聞に出すんですね」

 そのように考えるのが普通であると真太郎は思った。

「ところが、広告には必ず広告代理店が間に入るので、そいつらが絡むとややこしくなってくるのさ・・・たとえば、西毎のような新聞社は、候補者が決定した広告代理店からクーポン券を、自社の専属広告代理店に入れさせ、そこから西毎の広告局に持ってこさせるのさ。すると、西毎は自社の広告代理店に広告費の六十%をバックし、そこから候補者の代理店に五十五%をバックする。そしてそこから候補者に、五十%をバックする」

「ということは候補者に金が入るということですか」

 今度は真太郎が目を剥きだして驚いた。どうして、選挙広告をやると、候補者に金が入るのか、合点がいかなかった。

「通常広告のマージンは十五%なんだが、選挙広告を取るのも各新聞社の競争だから、少しでも多くのクーポン券を取るために、マージンを余計に返したりするのさ、それも新聞社が直にやると後が面倒だから、自社の専属広告代理店を使ったりするのさ。まあ、この方法を採っているのは、もっぱら西毎新聞と、どうせ当選するわけがないと思っている泡沫候補だけだが、東京地方区だけだって、泡沫候補は五十人ぐらいいるんだから、金額的に見ても馬鹿にはならないんだ。西毎の一回の金額が百六十万、五回で八百万だ、半分戻したとしてなんと四百万だ」

「金の入る新聞社には悪いが、新聞広告なんて国費で負担してやらせる必要なんてないんだよ。だいたい各家庭には選挙公報というのが配布されるんだから、候補者の人となりはそれを見ればわかるんだから、何も高い金を使って、新聞に広告なんか出させることはないんだよ、税金の無駄遣いもいいところさ」 と言う白瀬はかなり立腹していた。

「俺は新聞社の広告局にいるから、大きな声じゃ言えないけど、白瀬の言う通りだと思うよ」

 この件に関して白瀬、斎藤の意見は一致していたが、初めて耳にする選挙の新聞広告の絡繰りに、真太郎は頭が爆発するくらいに驚いていた。

 そして、こんなに汚い世界に、アルバイトの身とはいえ、これ以上関わり続けていて良いのだろうか、と何度も何度も自問自答していた。


 七月も二十日を過ぎ、例年通りに梅雨が明けた。

 真太郎が魑魅魍魎の世界に突入してから四ヵ月が経過した。議員秘書という政界の裏舞台に身を浸し、このあたりで辞めた方が良いのではないだろうか、汚い現実を見過ぎると、歪んだ人間になってしまうのではないだろうか、などと色々と悩み続けてはいたものの、結局この仕事を継続していた。

 その日午後から、真太郎は外出した。それは、板垣代議士の代わりに、急遽、全日本樹木普及促進協会の大会に出席するためであった。

 ちょうどその日は、板垣代議士は急に所用ができて、選挙区に帰っており、桃町は親しい企業の会長の社葬に行き、白瀬はもう一つの別の協会の大会に、代議士の代わりに出席していた。

 いったん桃町と白瀬は、全日本樹木普及促進協会の大会は欠席にしようと考えた。が、それに対して、衆議院の環境委員長ともあろう者が、代理も出さずに済ますのはまずい、という代議士本人の判断と指示があった。それを受けて、桃町、白瀬の苦肉の策として、真太郎にお鉢が回ってきたのであった。

 板垣代議士は、今月から衆議院の環境委員長を務めていたのである。

 内幸町の交差点を曲がり、日比谷公園内に入った衆議院環境委員長用の黒塗りのハイヤーを降りた真太郎は、急いで会場となっている日比谷公会堂に入った。

 受付で板垣代議士の名刺を差し出すと、真っ赤な来賓用の花札を付けられた。

 おかしいなあ、ただ名刺を渡すだけでよいと聞いていたのになあ、と真太郎は訝ったが、猶予なく係員に公会堂の中に連れて行かれた。真太郎は、てっきり観客席に案内されるものとばかり思っていたが、引率者は舞台脇の控え室を通り抜けた。あれっ、と思う間もなく導かれたのは、なんと雛壇の上だった。壇上は、眩しいばかりの数々のスポットライトに照らされていた。

「衆議院議員〇〇〇〇先生。参議院議員〇〇〇〇先生」

 それは、ちょうど議員の紹介が始まったところだった。名前を呼ばれた議員は、すっと立ち上がり、拍手と歓声に答えて、調子良く手を振っていた。

 そうこうしているうちに、スポットライトが少しずつ真太郎の方へ近付いてきた。まいったなあ、こんな話は聞いてないなあ、と思うやいなや、

「衆議院環境委員長、板垣麟蔵先生!」

 いっせいにスポットライトが真太郎に集中した。あまりの熱さで、体中が沸騰しそうだった。起立はしたものの、緊張の余り膝ががくがく震えていた。が、拍手と歓声に答えなければいけない、と思った真太郎は、おずおずと右手を上げた。そして、精一杯振り回した。その動作がぎこちなく、どうしても様になっていなかったせいか、それとも若造の代理人を哀れんだのか、観客席から、より一層の拍手が湧き起こった。

 真太郎は、滴り落ちるほどの何リットルもの汗を、頭のてっぺんから爪先まで、全身にくまなく掻いていた。

 席に座った直後、安堵感からか全身から力が虚脱し、腰が抜けそうになった。体中に全く力が入らなかった。しかし、心臓だけは、張り裂けそうに鳴り続けていた。


「そうか、それは大変だったね」

 桃町がにやにや笑いながら言った。

「どうせ、中道、左寄りの団体だから、別に問題ないでしょう」

 白瀬が、机の下に頭を入れて、靴を磨きながら言った。

「もちろんだよ。あの団体だったら、代理だろうが、何だろうが、顔を出すだけで充分だ」

 桃町のその発言を聞いて、真太郎も、ほっと胸を撫で下ろした。何故なら、自分が行ってきた代理出席が、そのぎこちなさ、頼りなさから、後になって全日本樹木普及促進協会から、どうしてあんな学生アルバイトを代理になんかよこしたんだ、と代議士にクレームが入りはしないかと、危惧していたからだ。「代理ついでにだな、愛沢君。今夜の上郷派の金子孝迪先生の励ます会に出てきてくれるかい」

 ずり落ちた眼鏡を上げながら桃町が言った。その目はにやにや笑っていた。

「え、僕がですか」

 桃町の再度の代理の提案に、真太郎は驚いた。

「僕には務まらないと思います」

 真太郎は、これ以上の代理出席など、とても務まらないと思った。それに、気を使うのはもうこりごりで、こんなに精神が疲労困憊しては、心がいくつあってもたりないと思った。

「大丈夫さ・・・」

 と言いながら、靴磨きを終えた白瀬が、机の下から顔を出した。

「受付で名刺を置いて、後はのらりくらり、会場をぶらついて、ご馳走を食いたいだけ、それこそ腹がはち切れそうになるくらいまで食ってくりゃ、いいのさ」

 その白瀬の言い方があまりにも安直過ぎたので、昼間の一件のように、事前に聞いていたことと、実際に行ってやらされたこととの違いから、真太郎は余計に心配になった。そして、

「どうして、板垣先生やみなさんが、お出にならないのですか」

 と基本的な質問をした。

 すると、桃町が、

「うちの先生と金子先生とは、同じ厚生族同士で、仲が悪いんだよ。何かと利害がぶつかり合って・・・金子先生は立ち回りがうまいから、今までずいぶんうちの先生は、貧乏くじを引かされて、煮え湯を飲まされ続けているんだよ」

 と自分の仕える代議士の要領の悪さに、ほとほと愛想を尽かしているかのごとくつぶやいた。

「だから、金子先生の励ます会には出たくないのさ」

 しかたないのさ、と言わんばかりの表情で、今度は白瀬が言った。そして、

「それに、うちの先生が、励ます会をやった時に、入場券の購入を辞退した企業が、今夜の金子先生のパーティに、ずらりと顔を並べていたんじゃ、そんな所に乗り込む先生だって、面子が丸潰れだからな」

 と大げさに両手を広げ、やる瀬なさを表現するかのようなジェスチャーをした。

「なるほど・・・」

 と納得しながらも真太郎は、ということは、桃町や白瀬だって、出たくはないはずだ。いや、励ます会の入場券の購入を拒んだ企業の人間と顔を合わせたくないのは、本当は板垣代議士本人よりも、むしろ、その秘書を務めている桃町や白瀬の方ではないのか、と思った。だが、さすがの真太郎も、アルバイトの分際で、そこを指摘し、彼らの心髄まで入り込むことを、差し控えた。

「本当に、食べているだけでいいんですか」「ああ、誰かと口をきかなければならないという決まりもないし、誰かに媚び諂うこともないよ。ただただひたすら食ってりゃいいのさ。気楽なもんだぜ」

 甲高い声であっさりと言い切る白瀬の言葉を聞くと、万更嘘でもなさそうだった。それに、真太郎が森高に視線を送って同意を求めた時も、彼女は黙ってうなずいていたから、どうやら白瀬の言うことは真実のようだ。

 ここ二、三日、ろくなものを食べていなかった真太郎は、食べ物に釣られて、ついに金子代議士の励ます会への代理出席を決心した。そうと決まって、さっそく帰り支度に取り掛かった。


 真太郎は、白瀬に教わった通り、地下鉄丸ノ内線に国会議事堂前駅から乗り、霞が関駅で日比谷線に乗り換え、神谷町駅で降りた。が、根っからのいなか者で、地理に疎く、おまけに方向音痴だったので、路地を一つ間違えたため、目的地までその駅から通常なら徒歩六、七分の所を、二十五分もかかってしまった。

 会場となっているホテルオーサワに着くと、”衆議院議員・自連党政調副会長 金子孝迪君を励ます集い“とでかでかと看板が掲げられていた。 

 真太郎が到着した時には、開始から約四十分が経過していた。既に受付にはほとんど人がおらず、代理として板垣麟蔵の名刺を差し出すのも、周りにいる秘書たちにじろじろと見られている気がして、とても後ろめたかった。

 会場の中に入った。大きく豪華なシャンデリアのもと、数多くの人々が、所狭しと詰め込まれていた。さすがは、当選六回、次の内閣では入閣間違いなしと言われているだけあって、昇り調子の政治家の勢いがいやおうなく感じられた。

 金子代議士が上郷派という他派閥に所属していたせいもあり、幸いにも真太郎には顔見知りの者が誰もいなかった。これなら、誰にも気兼ねせずに、思う存分たらふくメシが食える、そう思った真太郎は、とにかく嬉しくて笑いが止まらなくなってきた。

 辛うじて笑いを噛み殺した真太郎は、料理の確認をした。それらは、屋台の出店形式で並んでいた。食べたい人が、食べたい物の所へ行って、自由に取って食べる形式だった。 出店は手前の方から、ケーキ、フルーツ、おでん、そばなどと並び、前の方に行くにしたがって、寿司、鰻、ローストビーフなど高級なものになっていった。

 黙って立ち止まって、全景を見ながら料理の偵察していると、すぐにホテルのボーイがやって来て、ウイスキーの水割りを差し出してくれた。喉がからからに渇き切っていた真太郎は、ありがたくそれを頂戴すると、グラスの大半を飲み干した。そして、

「さあ、食うか」

 とさっそく活動を開始した。

「この際、遠慮もへったくりもない」

 どうやら、白瀬の言っていたように、気楽に食っているだけでいい、というのは本当だった。

 まず何から食べようか、真太郎は迷いながらあたりを見渡した。すると、出席している来客たちは、このような場に慣れているはずなのに、正直なもので、寿司、鰻、ローストビーフなどの高価な食べ物の前に、列を作って並んでいた。一方、おでん、そば、サラダなどふだんでも容易に口にできる物の前は、人影も疎らで閑散としていた。

 高級ホテルでのこのようなパーティなんか、いつも沢山出ていて慣れているんだぞ、といかにも偉そうな顔をしている連中だって、本当はそのような豪華な料理を、いつもいつも食べているわけではないのだ。実際にこういう高級料理を、本当に食べ飽きているのは、企業の一握りのトップクラスや国会議員、官僚でも局長クラス以上だけで、それ以外の者は、そうそう頻繁に、こういう料理を口にすることはできないのだ。

 真太郎のように議員の代理で来ている者をはじめ、局長の代理の木っ端役人、企業の重役の代わりの課長、係長など、よくよく観察して見ると、列をなしてがっついて食べている者たちは、日頃豪華な料理を口にしていないという点においては、真太郎とさほど変わりのない連中だった。

 とりあえず、おでんと焼き鳥をつまんだ真太郎は、鰻のブースに並んだ。七、八人は並んでいたが、すぐに順番が来て、黒い漆塗りの椀を渡された。蓋を開けると、七センチ四方の蒲焼きと少量の飯が盛られ、ささやかな鰻重を形成していた。

 ほとんど一口で、真太郎はこれをたいらげた。すぐにまた列の後ろにつき、二膳目の鰻重を食べた。そして、もう一回食べようかな、とも思ったが、今度は十人以上の列ができていたので、隣の寿司にまわった。タイミング良く二、三人しかいなかったので、握りたての寿司をすぐにもらえた。小皿の上に、とろ、穴子、あま海老、カッパ巻きとてっか巻きが乗っていた。

 これも一気に飲み込んだ。胸がむせりそうだったの、通りがかりのボーイの盆から、烏龍茶を抜き取ると、がぶかぶとたらしこんだ。そして、すぐに二皿目に並んだ。今度は、いくら、いか、はまちなどだった。これも烏龍茶と共に勢い良く、飲み込んだ。

 どうやら、寿司のブースは、ちょうど盛りが終わった直後とみえて、人垣ができずにすんなりと寿司を口にすることができる。真太郎は、また寿司に並び、三皿目を受け取った。この時、寿司屋の職人と目が合い、にいちゃんまた食うのかよ、という呆れた顔をされたが、そんなことには動じなかった。今は、タダで寿司がたらふく食えるか食えないかの大事な瀬戸際で、ホテルの給仕やコック、まわりの来場者の視線など、気にしている暇などなかった。

 結局、五皿の寿司を食った。最後に寿司屋に睨まれた時など、学生だと思ってなめるんじゃねえぞ。俺は、代議士の代りに来てるんだぞ!という威張った顔付きで睨み返してやった。もっとも、代議士の代理人ともあろう者が、まるで寿司を食べたことがないかのように、どうして寿司をがっついて食べるのか、と問われたら、答えようがなかったが・・・

 次は、ローストビーフだった。牛肉が自由化になっていなかったこの時代、この肉はそうそう口にできるものではなかった。北海道の田舎では、子供の時から、ほとんど豚肉一筋で育ってきた真太郎にとって、こればかりは、初めて見る代物だった。

 一口食べると、牛肉の柔らかい歯ざわりが口の中に広がった。真太郎の口は、豚肉で慣らされていただけに、非常に新鮮な歯応えだった。

 これも結局五皿食べた。

 いつの間にか、壇上では〇〇大臣や〇〇会社社長など、いわゆるお偉いさんの挨拶が始まっていたが、もちろん真太郎にとってそんな言葉はどうでも良く、馬耳東風だった。今は、食べることで頭が一杯だった。

 伊勢海老を食べながら、真太郎は冷静に場内を見渡した。すると、このような場には不釣り合いな、ワイシャツの襟が背広からはみ出していたり、婦人であるにもかかわらず髪がぼさぼさであったり、いかにも地方から出てきたという格好をした人々が百人程群れをなして、料理をついばんでいるのを発見した。いったい、こいつらは何もんだ?

 中には、立食であるにもかかわらず、中央に据え付けられた氷の彫刻の台の部分に、皿と箸を持ちながら、ちゃっかりと腰をおろして、料理を食べている者もいた。それはそれはとても見苦しいものだった。

「金子先生は青森だっけ、選挙区の後援会の連中を呼ぶのもいいけど、あれじゃ、せっかくのパーティもだいなしだねえ・・・」

 たまたま真太郎の周囲にいる者たちが囁いていた。どうやら、その場違いな人種は地元の選挙区の後援者たちだった。

 国会議員が東京で励ます会や出版記念パーティーなどを開催する時、選挙区にもその事実を告知するために、後援者を招待して、その晴れの舞台を生で体験させて、地元に帰ってから、大げさに宣伝させるのであった。だから、議員によっては、何台ものバスをチャーターして、地元から後援者を呼び込む者もいた。票というものを気にする余り、国会議員ともあろう者が、このようなみっともない事態を繰り返していた。この状況は、一流ホテルの立食パーティーには、完全にミスマッチだったが、一方ではこれが、地方出身の国会議員の励ます会の有り様を象徴していた。「下には下がいるものだな」

 それが、それらの人々を見ての真太郎の感想だった。

「この連中がいる限り、少しぐらいいやしく、料理を食べていたって、大丈夫だ」

 むしろ、その状況は、真太郎にとって好都合だった。

 真太郎の前に、フルーツのマスクメロンが食べきれないほど並んでいた。

 真太郎は、安心して馳走を食べ続けてた。メロンを噛る口元から、飛沫が飛び散っていた。


 八月に入ると、うだるような暑さが続いていた。例年なら、実家に帰って、だらだらとした日々を過ごしていた真太郎だったが、これが東京で送る最後の夏だったので、一日でも多くこの大都会で過ごしたかった。東京での、大好きな夏を取り逃がしたくなかったのである。

 一足先に社会人になった恋人の智子は、忙しいせいでもあるのか、学生時代よりも付き合いが悪くなった。華やかな商社に勤務していたので、やれ同期会だとか、社内のサークルだとか、英語の勉強会だとか、花の稽古だとか、何かとかこつけては、真太郎の誘いを拒んでいた。

 智子と交際して二年、真太郎が本格的に付き合った初めての女だった。当然、今では智子の体のほくろの位置まで知っており、情も移り、気心も知れていた。反面、新鮮味がなくなり、胸がときめくような恋心は、互いにとうの昔に消え去っていた。

 智子にとって初めての男が自分であることを、真太郎はいつも認識し、彼女が最初に体を許した自分の手元から、いなくなるなどということは、夢にも思っていなかった。したがって、別れの兆候である、「忙しいから会えない」とか、「予定が入っている」などという智子の言い訳の真意が、全く理解できずに、呑気に構えていた。

 それに、もし結婚をするのであれば、近い将来、智子を北海道の片田舎に連れていかなければならない。東京育ちの智子は、付き合いだした初めのうちこそ、真太郎といっしょなら、どこへ行ってもいい、などと言っていたが、この頃では、東京を離れたくないと主張しだしていた。

 どうやら、智子の気持ちは、真太郎から遠い所に行ってしまっていた。だが、真太郎はそれには気づいていなかった。

「愛沢君、明日の日曜日、彼女とデーと?」 六月の半ばから、毎週の日曜日には海へ行って、真っ黒に日焼けていた森高が、大きな瞳をぎょろつかせながら言った。事務所には真太郎と森高以外誰もいなかった。

「うーん、別にデートっていうわけじゃないけど・・・」

 何を隠そう一昨日、智子に海へ行かないかと誘ったところ、会社の同期の連中と金曜日の夜から泊まり掛けで、伊豆の保養所にいくからと言われて、断られていた。完全週休二日制が定着している商社なので、土曜日の昼下がりの今頃は、既にひと泳ぎしている頃だった。

 あ、ということは、あいつ、他の男に水着姿をさらけ出しているんだな。同期の子たちと行くなどと、いかにも同性同士のような言い方をするが、当然その中には男が含まれているに違いない。いや、男の中に女が含まれているといった方が適当であるかもしれない。

 と当たり前のことではあったが、今更ながら認識を新たにすると、真太郎は幾分腹立たしくなってきた。

「どうしたの、愛沢君、なんか顔色が悪いみたいだけど、悩みでもあるの?」

 ふだんは鈍感そうに見える森高ではあったが、男女の機微には敏感だったようだ。

「いや、別に・・・」

 と言いながらも真太郎は、こんなに暑い夏の日、海かプールにでも行って水面をかき乱しながら、思いっきり泳ぎたかった。とにかく今は、最後の東京の夏を目一杯満喫したかった。

「愛沢君、明日空いてるなら、いっしょに海、いかない」

 森高が冷蔵庫から、冷たい麦茶を取り出して、グラスに注ぎながら、後ろ向きのまま、真太郎に提案した。

「え、海!」

 真太郎は、海に行きたがっている自分の心を、森高に見透かされているような気がした。

「隣の桧山先生の事務所の梨奈ちゃんといっしょだけど・・・」

「梨奈ちゃんて・・・あ、あのすらっとしたお姉さんタイプの人?」

 梨奈は、どう見ても真太郎よりは年上の、細面の美人だった。話をしたことはなく、というよりも、余りにも大人だったので、相手にされていないと真太郎は思い込んでいた。「お姉さんタイプだなんて、つまり、おばさんって言いたいの」

 机の上に麦茶を差し出しながら、森高特有の人をからかう時の意地悪っぽい眼差しを、真太郎に投げ掛けた。

「いや、そういうわけじゃないけど・・・ただ、俺よりずっと、年上だと思って・・・」 真太郎は、あわてて言い訳をしながら、麦茶を飲んだ。

「年上だと思うでしょう・・・ところが彼女、二十三歳よ。だから、私たちと同い年よ」「え、そうなの。もっと上に見えるけどなあ・・・」

「彼女、色っぽいから、そう見えるんじゃない。自分でも、昔から老けて見られるって言ってたわ」

 それにしても海に行かないかという森高の提案は、いまの真太郎にとって、渡りに船だった。

「だけど、お聡ちゃんたちせっかく二人で行くのに、俺がいっしょだったら邪魔じゃないの・・・」

 一応真太郎は、控えめに出た。

「別に、三人いた方が楽しいかなって思って・・・それに私たち、ナンパされたりしないし、仮にされたとしても、海なんかじゃ、ろくな男に声を掛けられたりしないしね・・・梨奈ちゃんも真面目でそういうの嫌いだし・・・」

 へえ、そういうものなのかな、と真太郎は思った。

 二つ返事で行くと言ってはなんとなく恥ずかしかったので、真太郎はわざとトイレに立ち、ちょっとだけ考える素振りを見せてから戻ってきた。

 そして、森高に明日の待ち合わせ時間と場所をきいた。


「南原は、女好きが抜け切らないのよ」

 梨奈が冷たいアイスティーをストローですすりながら言った。南原は、梨奈が所属する桧山敦夫代議士の第一秘書だった。

「へえ、男の人って見かけによらないものだなあ」

 そう言いながら森高が顔を上げた時、心地好い潮風が通り過ぎた。

 森高、梨奈、そして真太郎の三人は、鎌倉駅に十時に集合し、材木座海岸へ来ていた。森高の幼なじみである不動産屋が経営しているコスタという海の家に入っていた。真太郎はひと泳ぎした後、女性の二人はビーチでひと眠りした後、昼食をとっていた。

「だけど、愛人がいるっていったって、南原さんみたいな変な顔した人、もてる訳がないのに、どこで知り合ったんでしょうねえ・・・」

 先祖代々江戸っ子で、新宿生まれの新宿育ちの森高の発言は、なかなか歯に衣を着せていなかった。

 真太郎は、黙って女性陣二人の話を聞いていた。

「それが、大きな声じゃ言えないんだけど・・・」

 梨奈が、周りの人の気配を気にしながら、顔を寄せ、声をひそめた。梨奈の横にいる森高が顔を寄せるので、前にいる真太郎もほんの少し頭を突き出した。すると、梨奈の決して大きくはないが、形の良い胸元に、ゆっくりと汗が流れ落ちていくのが視界に入った。いつまでも見つめていてはまずいと思った真太郎は、自分が飲んでいるアイスコーヒーのグラスに視線を落とし、ストローで氷をかき混ぜた。

「最近、はやっている愛人バンクに登録しているらしいのよ」

「え、愛人バンクですって!」

 森高が小さく驚愕した。真太郎も驚いた。れっきとした国家公務員である代議士の政務秘書ともあろうものが、愛人バンクに登録して女を囲っていようとは、想像を絶することである。

「第二秘書の大野が、南原に来ていた封筒を代議士宛てのものと間違って開けてしまったのよ。そうしたら、アムールとかいう愛人バンクからのもので、三ヵ月分の請求書だったらしいわ」

「請求書って、それどういう仕組みになってるの」

 森高が興味津々身を乗り出した。

「私も詳しいことは、知らないんだけど、大野の解釈によれば、まず何十万円かを入会金として払い、何人かの女の子を紹介してもらって、双方が気に入ったら契約し、月に十万円程度、その愛人バンクの口座に振り込むらしいのよ」

「双方が気に入るって、南原さんみたいなの、気に入る人がいるのかしら、汗っかきの色白で、頭も薄いし、お腹が出てぶよぶよしてるし、私は生理的に駄目だわ」

 汚い蠅でも追っ払うかのように、手を払いながら森高が言い捨てた。

「やっぱり、お金のためだから、ああいうのでもいいっていう子もいるんじゃないの」

「南原さんって、いくつなんですか」

 派閥こそ違ったが、議員会館の隣の部屋の住人ということもあって、廊下やトイレで顔を合わせた時は、真太郎も軽く会釈ぐらいは交わしていたが、年齢はいくつかわからなかった。

「もうじき五十になるんじゃない。四十八、九のはずよ」

「奥さんも、子供さんもいるんでしょう。あーあ、奥さんかわいそう」

 森高がため息混じりに、そう言った。

「他人の家庭の事情だから詳しくは知らないけど、別居しているらしいのよ」

 詳しくは知らない、とは言いながらも、梨奈は確信を持って言っていた。

「大学生の一人娘は、アメリカに留学してるから、南原は今一人で生活しているらしいのよ。この間なんかクリーニング屋さんの整理番号の紙を付けたまま、ワイシャツを着てきたのよ」

 と言いながら、梨奈がクスンと笑った。

 真太郎には、その笑い方が何とも言えず可愛らしく思えた。ずっと、年上の大人の女に見えていた梨奈が、実は同い年で、実際に話してみると、思っていたよりも子供っぽくて、愛らしかったので、真太郎は梨奈のとりこになりそうだった。

「男の人っていやね」

 と言いながら、森高が両腕を上げながら背伸びをした。そして、

「さあ、もう少し焼きましょう」

 と言いながら席を立った。

 それに引きずられるように、梨奈も立ち上がった。すらりと伸びた脚くびと引き締まった尻が、真太郎の視線を釘付けにした。

 代議士の秘書が愛人バンクに登録して、女を買っているという事実を知って驚いたが、それ以上に、隣の部屋の梨奈と知り合いになれて、明日からの出勤が楽しみになった、と真太郎は思っていた。


 八月も十日になると、議員会館でもそろそろ帰省し始める者が目立ってきた。

「桃町君、ちょっと」

 その日は、珍しく板垣代議士が朝から在室していた。何やら机の上で、様々な書類に目を通していた。

 代議士に呼ばれていた桃町が、秘書たちの部屋に戻ってきた。

「これ、こっちで書いておけって・・・」

 と言いながら、白瀬に書類を見せた。

 白瀬は、しげしげとそれに目を通した。

「あ、これS新聞からのアンケートですね」「もうじき終戦記念日がやってくるんで、それに関連した国会議員たちの意識・信条調査だよ」

 白瀬から書類を戻されると、桃町がペンを握った。

「ええと、大東亜戦争は、日本の侵略戦争だと思いますか・・・」

 桃町が質問を読み上げた。

「先生だったら、『侵略ではない』と答えますよ」 

 と白瀬が言った。真太郎は、それを聞いて驚いた。戦後の教育を受けてきた者にとって、日中戦争をはじめとした大東亜戦争は、日本の侵略戦争と教えられてきたからだ。

「あの時の世界情勢など色々と言い分はあるだろうけど、中国や韓国の立場からみたら、侵略と言われても仕方がないだろう」

「桃町さんの世代でさえ、そう思うんですから、僕たちは言わずもがなですよ」

 やはり、白瀬は自分の世代に近いな、と真太郎は思った。

「まあ、野党をはじめ党内の鳩派の連中も、日本が悪い、悪いと言い過ぎるから、右の連中が反発するんだよ。サンフランシスコ講和条約や各国との国交回復時には戦争責任を謝罪したんだから、もう侵略だとか、そうじゃないとか、もめるのはやめてもらいたいね」 桃町は、これ以上不毛の論議を繰り返しても仕方がない、という意見だった。

「それじや、桃町さん、侵略の方に丸をつけるんですか」

「そうさ、先生に君に任せると言われたんだからいいだろう。要するに、こんな問題は些末なことで、先生も相手にしていられないということだよ。それに、侵略じゃないとでも答えてみろ、無記名ではあっても、いつばれるかわからないじゃないか。そんな考えがわかったら、マスコミの格好の餌食となってしまうよ」

 いつになく桃町の要領の得た回答だった。「それもそうですね」

 白瀬も納得した。

「ええと、次は靖国神社の参拝について。あなたは、参拝をなさいますか」

 読み上げながら桃町が、出なくなった万年筆のインクを取り替えていた。

「また、その問題ですか」

 白瀬がうんざりとした声を上げた。

 その時、

「どうだ!進んでるか!」

 いきなりドアが開いて、板垣代議士が入ってきた。

 白いストライプの入った渋い濃紺のスーツに小柄な身を包み、オールバックにまとめられた黒髪混じりの白髪頭には、てかてかにポマードが塗られていた。そして、鼈甲の眼鏡の奥には、小さな瞳があった。

「あ、先生。今、靖国神社のことで・・・」 桃町は、あわててスペアインクを詰めると、万年筆の中心部のねじをくるくる回して元に戻した。

「ううん、またその話か・・・わしは、いつも通り参拝するぞ!」

 と言いながら、桃町の背中を思いっきりたたいた。

「は、はい。それではそのように丸をつけておきます」

 桃町は、アンケート用紙にペンを走らせた。代議士に背中をたたかれて、真剣な表情で書類に目を落としていたが、内心では自分に任せておきながら余計な口を出しやがって、と桃町がにがにがしく感じているに違いない、と真太郎は思った。

「公式とか公式じゃないとか、公人だとか私人だとか、そんな馬鹿馬鹿しい議論は無駄だ。純粋な気持ちで英霊を慰めるだけだ!」

 と主張すると、板垣代議士は迎えにきた環境委員長用のハイヤーの運転手を伴って、出て行ってしまった。

「今日の先生、ずいぶん威勢が良かったなあ。あれぐらい外でも力強く立ち回ってもらえれば、こっちも助かるんだけどなあ」

 廊下で代議士を見送った白瀬が、ドアを閉めながら言った。

「ああ、まったくだ」

 桃町は再び書類を読み上げた。

「現憲法では、靖国神社の公式参拝が認められない場合、憲法を改正すべきだと思いますか」

「こりゃ、またすごい質問ですねえ」

 白瀬が腕組みした。

「憲法を改正すれば、公式参拝って認められてしまうんですか」

 と真太郎が発言した。それは、素朴な疑問だった。

「新しい憲法で国の宗教は、神道だと強引に決めつけてしまえば可能だな」

 と桃町が天井を見上げながら言った。すると、白瀬が、

「すごいやり方ですねえ」

 と半ば呆れ顔で言った。

 真太郎は、

「そうしたい気持ちはわかりますけど、信教の自由を保障している一方で、国家は神道ですよ、なんていう憲法がありえるでしょうか。どう考えたって無理だと思います」

 と主張した。すると、桃町が、

「その通りだ。この問題は、憲法を改正することによって、合法的に軍備を持てるようになるなどということと違って、論理的に大義名分が成り立たないんだ」

 と言いながら、インクの出が悪いのか、万年筆を上下に振っていた。

「前にも桃町さんとその件について話したことがあるんだが、国できちんとした平和きねん館みたいなものを作って、そこに民間人も含めて戦死した人々の全ての霊に集まっていただくんだ」

 白瀬は珍しく真剣だった。

「平和きねん館、この場合、”きねん“の意味は、”メモリー“であっても、祈るという”プレイ“であってもいいと思うんだが、論理的にどんなものにも太刀打ちできる、つまり、特定の宗教にとらわれない、どんな宗教にでも対応できる理念のあるものを作って、そこに参拝に行けばいいだ。そして、内閣をはじめ心ある人たちが、そこへ行って信教にかかわりなく彼らを慰めるべきだと思うんだ。その他に靖国神社へ行きたい人は行って、英霊を慰めればいいのさ。戦死者の全ての霊が、靖国に帰ってきているとも限らないしね」

 白瀬は一層真顔になっていた。

「うーん、その気持ちはわかるんだが、万一の時は、靖国で会おう、言って死んでいった人たちが大半だから、その戦死者たちにいまさらなんとか記念館を作ったら、そっちに来てくれといったって無理だろ。やはり、国家としては靖国の参拝はかかせないだろ」

「こうなるといつも桃町さんとは、平行線をたどるんだよなあ・・・」

「そうだな」

 と言いながら、桃町が一呼吸おいた。

「まあ、いずれにしても、戦後、靖国にこだわる余り、本当の慰霊というものを忘れてしまったとも言えるな。だから、白瀬君の言うのも一理あるよなあ」

 桃町は、腕組みをしながらひとりで納得していた。

 アンケート用紙の上に置かれた万年筆の先が、ピカリ、と光った。

 ふだん、選挙民の就職の世話や雑用に追い立てられている二人であったが、本当は真面目に国家のことを考えているのかもしれない、と真太郎は認識を新たにした。



   秋


「お知らせでーす」

 ドアが開き、色白の美しい女性が顔を出した。

「景子ちゃん、ご苦労さまです」

 森高がコピーされた一枚の書類を受け取った。

「あら、旅行のお知らせね・・・景子ちゃんも、行くの」

「ええ、多分行くと思います。お聡ちゃんは、どうするの」

「私は、まだわからないわ。ほら、うちの二人の兼ね合いもあるし、色々と面倒なのよ・・・」

 と言いながら森高は、不在中の桃町と白瀬の机の方向を指差した。

「そうね、色々、あるしね・・・」

「それに私、あんまり行きたくないの。だって、おじさんばかりでつまらないでしょう」「そうよねえ、私も本当は行きたくないのよ・・・でも、もし、お聡ちゃんも行くことになったら、その時はいっしょに行動しましょうね」

「うん、いいわよ」

 ほのかにコロンの香りを残して、ドアが閉まった。

 板垣事務所には、さきほどから森高と真太郎の二人しかいなかった。

「ねえ、愛沢君、今の子、可愛いでしょー」「うん、けいこちゃんとか言ってたけど、どこの事務所の子?」

「さっすが、ちゃんと名前を覚えているわねえ」

 森高はいたずらっぽい視線を真太郎に向けた。

「派閥の事務所にいる今里景子ちゃんよ」

「ふーん、派閥の事務所にも秘書の子がいるんだ」

 真太郎の仕える板垣麟蔵代議士は、与党自連党の十文字派に所属していた。

 自連党には、この十文字派の他に、五島派、山本派、木原派、上郷派があり、全部で五つの派閥で構成されていた。どの派閥も都内一等地に事務所を構えており、十文字派の事務所は、紀尾井町にある一流ホテルの中にあった。

 今里景子は、年に一度、毎年十月の第三週目の週末に行われる、十文字派に所属している議員の秘書たちで構成されている”十文字派秘書会“の旅行会の案内状を持ってきたのだった。

「派閥の事務所は、各界のうるさ方の出入りが激しいから、女の子はみんなきれい子を揃えているのよ」

「へえ・・・それじゃあ、今里さんみたいな可愛い子が沢山いるんだね」

「そうよ。だけど、景子ちゃんは、その中でも飛び切り可愛い方ね・・・」

 その時、ドアが開いて、桃町と白瀬の二人が帰ってきた。

「旅行会のお知らせです」

 森高が、さきほど景子が持ってきたコピーを桃町に手渡した。

「ああ、もう旅行会のシーズンかあ・・・早いなあ・・・」

 桃町は自分の席に着くと、その案内状をしげしげと眺めた。

「今年は、どこへ行くんですか。もっとも、どっちにしろ僕は行きませんけど・・・」

 白瀬は初めから旅行会には参加する意志がなかった。

「えーと、どこかな、あ、伊豆の稲取だ」

「また伊豆ですかあ。去年も確か伊豆でしたよね。オヤジ連中の旅行会だからしょうがないけど・・・」

 白瀬は、捨て鉢気味に言い捨てた。

「まあ、そう言うなよ。派閥の付き合いだから、誰かが出なければならないだろう。どうせ、君たちは行く気はないんだろうから、また、僕が参加しなけりゃならないなあ」

 板垣事務所の秘書たちは、板垣代議士と同様に、社交的ではなく、どちらかというと交際下手だった。

「そうだ、愛沢君も行ったらどうだ」

 白瀬は、自分が行かないので、無責任な言い方で、真太郎に参加を呼び掛けた。

 すると、桃町から、

「それはいい。愛沢君、顔を広げるには絶好のチャンスだ」

 と言われた。が、真太郎は、別に派閥の秘書たちの間で、顔を広げたいとは思っていなかった。だいいち一年後には北海道に帰って、納豆屋を継ぐので、顔を広げる必要など全くなかった。

「どの事務所からも二、三人は出るから、うちもそうした方がいいですよ」

 白瀬が靴を磨きながら、熱のこもらない言い方で、そう言った。

「そうよ愛沢君、景子ちゃんも行くし」

 森高が、片目を瞑って目配せした。

「誰だい、景子ちゃんって」

 桃町たちは、景子の存在を知らなかったようだ。

「いえ、何でもありません」

 森高が気をきかせて、とぼけてくれた。

 真太郎は、秘書の間で顔を広げる気など、さらさらなかったが、美しい景子が行くので、いっしょに参加するのも悪くはないな、と思った。

 まんざら行く気がないわけでもない真太郎のそんな気持ちを見透かしてか、桃町は既に、出席者の氏名欄に”愛沢真太郎“の名前を記入していた。

 アルバイトの身分である真太郎ではあったが、桃町に連れていかれることになった。


 旅行の当日となった。

 集合場所は、事前に配られた東京発伊豆急下田行き特急踊り子号のチケットに指定されている座席だった。

「おはようございます」

「おはよう」

「あ、どうも。天気が良くて良かったですよねえ」

 あちらこちらで、秘書同士の会話が聞こえた。

 前も後ろも、右も左も真太郎は初めて見る顔ばかりだった。

 当初、真太郎の横には桃町が座る予定であった。けれども、発車間際になって、北島源三文部大臣の秘書官を務めている大槻秘書が、真後ろにいるのを見つけた桃町は、

「若者は若者同士座った方がいいだろう」

 と勝手に決め付けて、大槻の横にいた秘書と入れ替わってしまった。社交下手の桃町ではあったが、大槻とは何故か馬があった。そんな彼が後ろにいたので、これ幸いとばかりに、桃町は移動してしまったのである。

 代わりに真太郎の横に来たのは、木ノ内というやはり文部大臣を務めている北島代議士の秘書だった。木ノ内は本来なら北島の第二秘書だったが、第一秘書の大槻が秘書官となって、文部省に詰めていたので、その後を繰り上がり、第一秘書となっていた。

 大臣に就任すると、その省庁のプロパーの秘書官が何名か付くが、大臣自身が自分の好きな者を一人だけ秘書官に起用することができた。だから、その省庁の分野に長けたブレーンを民間から秘書官として連れていくこともできた。

 だが、たいていの場合は、自分の気心の知れた、それまで苦労を共にしてきた第一秘書を伴うのが通例だった。

 だから、自分が仕える議員が出世して大臣に就任すれば、秘書もそれにつられて出世して、行政府の歴史の名簿に残る大臣秘書官に就任できるのであった。

 ところが、せっかく秘書と二人三脚で、入閣を果たして大臣になっても、ひどい議員になると、第一秘書ではなく、密かに将来の自分の後継者に考えている無能な息子を、政治の世界とは全く縁もゆかりもない所からいきなり連れてきて、秘書官にしてしまうケースがあった。これでは議員と共にしてきた何十年という苦労が報われなかった。まさに、秘書の悲哀だった。

「初めまして、北島事務所の木ノ内です」

 車内左側二列の通路側に座っていた真太郎に対して、木ノ内が名刺を差し出してきた。 あわてて起立した真太郎は、その名刺を受け取り、自分がまだ学生の身で、板垣事務所でアルバイトをしていることを告げ、木ノ内を窓側の席に通した。

「そうかあ、学生かあ。いいなあ、色々と可能性があって・・・」

 木ノ内は、まるで独り言のようにしみじみとつぶやいた。年齢は三十代半ばだろうか、シルバーフレームのメガネが良く似合い、こまごまと雑用に走り回る議員事務所の秘書というよりも、学者や研究者の風貌だった。

「愛沢君は、やはり将来、政治家に?」

 ゆっくりと列車が東京駅を走り出すなり、木ノ内が真太郎に問いかけてきた。ただでさえ、政務秘書のバッジを付けた年長者を横にして、緊張していた真太郎にとって、その質問には驚いてしまった。とにかく、落ち着きを払って、自分の現在の立ち場と、来年大学を卒業したら、家業の納豆屋を継ぐことを告げた。

「そうか、社会勉強にねえ。それではいささか刺激が強過ぎる世界じゃないかな」

「は、はい」

 そう答えながら真太郎は、今度は反対に木ノ内に聞き返してみた。

「木ノ内さんは政治家志望ですか」

「まあ、一応そうだけど・・・」

 そのように答えはしたものの、木ノ内の顔には、その希望をかなえるのはなかなか困難だ、という気持ちが溢れていた。

「うちの大臣には、長男の康寛氏が後継者と決まっていて、現在地元の事務所に入って、準備を進めているから、少なくとも、私が後継者となることはできない。かといって他の選挙区から出るにしても、障害が多過ぎて、党の公認なんかもらえそうもない。だから、代議士に立候補しようと思っても、なかなかうまく行かないのが実情なんだ」

「・・・・・・」

「うちの先生だけは、後継者に息子を指名するようなことはないと思っていたんだが。ところがつい先月、それが覆ったんだ。七十歳を迎えたうちの先生は、自分の目の黒いうちにジュニアにバトンタッチしてしまおうと考えたらしく、康寛氏をそれまで勤務していた製鉄会社を辞めさせて、選挙区である神奈川二区の地元の事務所に引き入れたんだ」

 木ノ内は身内の内情を吐露しながらも、憤懣やるかたなしといった表情だった。

「そ、そうですかあ・・・」

「都市部の選挙区では、地方と違って、与党の自連党なんて、五人区でもせいぜい一人か二人しか当選できないからね。党の公認をもらわなければ、保守系は絶対に当選しないよ。その点、板垣先生の所の福島二区なんて羨ましいよね。定数五人だったら、自連党が四人。場合によっては五人独占なんていうこともあるからね」

「一方では、定数の格差という問題もありますしね」

 真太郎は常々一票の重みに格差があるのはおかしいと思っていた。

「それなんだよ、問題は。だいたい福島二区なら、五万票取れば当選できるが、神奈川二区では十万票取っても落選するからね。これじゃ、都市部の選挙民は白けちゃって、投票にも行かなくなるし、政治離れを起こすのも無理はないよ」

「僕もそう思います。地方の人は選挙が身近ですが、東京の人たちは全然違いますね」

「そりゃそうだよ。地元に道路や橋ができて便利になれば、誰だって票を入れるよ。今まで自連党は、不平等選挙の元で、簡単に票になり安い地方・農村地区の人たちを、レベルの低い政策で騙し、かつ甘やかしながら選挙に勝ってきたんだ」

 木ノ内は、話しているうちにだいぶ熱がこもってきたようで、身振り手振りを交えてきた。さながら、小演説の開始といったところだった。

「その結果、農業が破綻した。確かに、農村地区にはりっぱな道路や橋、場違いな文化施設や公民館ができたが、農家一軒当たりの年間所得が大幅に増えたわけではなく、一向に生活の質は向上していない。農家は、農機具メーカーにうまく勧誘されて、最新型の農業機械などをすぐに購入するので、農協から恒常的にローンの借入れがある。農民は農業優遇策をとってきてもらった割りには、ちっとも金持ちになっていない。それに、競争原理がないので、努力してうまい米を作っても高く売れるわけではない。まさに今の農業政策は、社会主義が導入されているといっても過言ではないんだ」

 木ノ内は一息つくと、発車前から自分だけで開けていた缶ビールの残りを飲んだ。上唇のまわりにほんの少しだけ、泡が付いていたが、長い舌をさらっと出して、飛沫を消し去ると、再び力説し始めた。

「つまり、農民は、政府与党をはじめとする国会議員たちに、農業という本業での収入増ではなく、橋や道路の増設という生活の利便性を与えられて、機嫌を取られてきたのだ・・・その結果、日本の農業は破綻し、その利益を享受したのは、自連党の議員と、定価販売で売りまくっている農機具メーカー、談合しながら公共工事を請け負ってきた土建屋、そして、独占企業の農協などの、数少ない連中なのだ」

 木ノ内の話に力がこもりだした時、前の席から、煎餅や菓子がまわってきた。

 しかし、それらを受け流すと、木ノ内は再び低い声で主張を始めた。

「大変なのは国家だ。そのように低次元の、民度の低い地域から、少ない票で選出されてきた、選挙民の顔色ばかりを気にしている議員たちが、議会の大多数を構成し、内閣を築いて政治を行うものだから、ろくな政策が出てこない。ふだんから外交や防衛・安全保障、教育など票になりにくいものを真剣に取り組んでいないから、ここぞという時に、タイムリーな政策が打てずに、後手後手に回り、外国にも舐められるんだ。そして、どんなに諸外国に援助をしても尊敬されないのが日本だ。それは金をばらまいているだけだからだ。援助に気持ち、心が込もっていないんだ。ハート、ハートがないんだよ」

 と言いながら木ノ内は、自分の左胸を何度も叩いた。そのアクションに引きずられ、真太郎も首を縦に振りながら、無言の相槌を入れた。

「そして、一方では膨大な都市部の人々が犠牲になった。東京など都市部では世界一の物価高と、通勤時間の長さを記録し、世界で最も住みにくい街というレッテルを貼られている。この人たちは、働いても働いても、自分たちの意向が政治に反映されない。それに嫌気がさした人々は、サイレントマジョリティを形成して、金を稼いで貯えるという金儲けだけに撤するようになった。日本の中で最も優秀な人材が隠れているこの都市部の人々が政治から離れ、無能な地方、農村部の、これまた無能な二世議員などによって構成される大多数の議会によって指名された、多くの国民からはなって欲しいとは思われてはいな人物が首相になって、内閣が構成され、凡庸な政治が行われるのさ」

「どうして、首相を、国民がみんなで好きな人を選べないのでしょうか」

 今度は、今里景子が前の方から飲み物を持って歩いてきた。にっこり微笑むと、真太郎は缶ビールを二つ受け取った。議員会館の事務所で逢ったあの日と同じ香水の匂いが、かすかに立ち込めて行った。

 木ノ内は二個目の缶ビールの栓を抜くと、ぐいぐいと飲み込んだ。そして、話を再開した。

「それはわが国の憲法が議員内閣制を採用しているから無理なんだ。アメリカのように大統領制にしていれば、直接選挙によって、ダイレクトに国家をゆだねられる代表者を選ぶことができる。ところが、アメリカが戦後の占領時代に、天皇制との兼ね合いから、イギリス型議員内閣制を導入してしまったんだ」「それでは、天皇制がある以上、今のような仕組みでなければならないんですか」

 真太郎は、木ノ内の言っていることがややこしくなりかけていた。

「いや、そんなことはない。象徴天皇制を維持しながら、大統領制を導入するこどだってできるんだ。しかし、この場合、憲法を改正しなければならない」

「僕はその方がいいと思います。その方が民意が反映されますから」

「まあ、直接国家の代表者一人を選べなくても、きちっとした平等定数のもとで、選挙が行われた議会で、首相が選ばれれば、まだ納得ができるんだ。今のように、最大格差のある、兵庫五区と千葉三区の票の重みが五倍もあるようでは、正確に民意が反映されていないんだ」

「最近では、裁判所に定数是正を訴える人々もいますね」

「最高裁からは、一対二以上の格差は違憲だという判決が出されており、最近の小選挙区制導入の論議にも、二倍以内というのを目処にされているが、この数字にだって、合理的な根拠はないんだ。どうして二倍以内ならいいのか。最高で二倍も開きがあっても、良しとするのは、あまりにも曖昧過ぎる。冗談じゃないといいたいよ」

 この時列車が、木ノ内の仕える北島文部大臣の地元である、神奈川二区内にある川崎駅に停車した。

 木ノ内は、ホームにたたずむ人に、窓からちょっと目をやると、再び視線を戻して話を続けた。

「定数が二倍以内なら良いという理屈からいくと、たとえば、東京のある所で、百九十九人が利用する道路を作ってくれと主張したとしよう。ところが、同時に、どこかの地方で、百人が利用する道路を作ってくれと要請されたら、議員の多数を考慮すると、百人しか利用しない方を、優先的に作るということになるんだ。この場合都市部は、あと一人足して二百人になって初めて、地方部と同じ土俵に上れるわけだ。これじゃ、いつまでたっても日本の大多数の国民は幸せになれない。実際には格差も現状では最大で五対一の開きがあるから、四百九十九人が利用するものよりも、百人の方を優先させているわけだ・・・それにしても、政府は、上越新幹線よりも、私鉄とはいえラッシュ時に乗車率の限界をはるかに超えている小田急線の複々線化を急ぐべきだったんだ。上越新幹線によって、メリットを得る者より、小田急線のそれの方が、何百倍も多いからね・・・このような今の仕組みだと、より多くの人々が幸せにならないんだよ。この意味でも、定数は限りなく一対一に近付けなければならない・・・」

 例示をしてわかりやすく説明する木ノ内の演説に、暫し真太郎は聞き入っていた。

「つまり、農業問題にしろ、都市部での人々が幸せにならないシステムにしろ、優秀な政治家が誕生しないことにしろ、全ての根源は定数格差のある不平等選挙によってもたらされているんだ。それは、日本国民自らが犯した、大きな、大きな失敗といえるんだ」

 小演説がまだまだ続いていたが、木ノ内に派閥の領袖である十文字自連党幹事長の秘書からお呼びがかかった。木ノ内はやむなく席を立った。

 この続きはまた後で、と言いたげであった。

 ふだん、あまり考えてもいなかった大所高所に立った国家論を聞き、真太郎はなかなか自分の頭で消化ができなかった。

 列車が横浜駅を過ぎた頃には、真太郎はうとうと眠り込んでいた。


 東京駅を出発したのが午後三時半だったので、目的地の伊豆急下田駅に着いたのは六時半に近かった。一行は、駅前で出迎えに来ていた旅館のバスに乗り込み、そこから数分の所にある新下田旅館に到着した。

 真太郎が、バスの中で配られた部屋割りの一覧表をもとに、自分の部屋に指定された”椿の間“に入ると、既に同部屋の三人が到着して着替えをしていた。三人とも自分と同じくらいの年齢だったので、真太郎は内心ほっとした。

 自己紹介もそこそこに、三十分後に宴会が始まるので、大至急風呂に入ろう、と誰かが言いだしたので、真太郎たち他の三人もそれに追随した。

 入浴後、ステージ付きの宴会場に集合した。全てテーブル席だった。十文字派の議員は衆参合わせて、七十人を越えていたので、今回の旅行会の人数は、一議員につき平均二人が参加していたとしても、総勢で百四、五十人は集まっていた。大勢が集まっているせいか、場内はかなりの熱気だった。空調が効いてはいたが、人熱れで汗ばんでいた。旅行会の幹事のうちの一人が、宴会場の係員に、もっと送風を強くするよう、要求していた。

 そうこうしているうちに、幹事の進行で会が始まった。色々な人々が入れ代わりたち代わり挨拶していたが、一番後ろの席にいた真太郎は、誰が誰やら、全く区別が付かなかった。それに、何よりもその人たち、つまり秘書会のお偉方に対して全く興味がなかった。 真太郎は、周りに座り合わせた同部屋の三人にビールを注いだ。三人は、この春大学を卒業したばかりの新人秘書だったので、大学五年生の真太郎とは同期だった。その意味でもいくぶん気が楽になったが、他の三人は周囲の先輩秘書たちに、ものすごく気を使っていたので、乾杯と同時に、あちらこちらのテーブルへ行ってビールを注ぎまわっていた。後に取り残された真太郎は、何もやることがなかった。

 料理は、バイキング方式で取って食べることになっていた。真太郎は初めのうち遠慮していた。だが、ひと通り秘書たちが料理を取り終えた後、これ以上空腹を我慢仕切れなくなり、料理を取りにいくことにした。

 数々の料理が前の方に並べられていた。真太郎は、一番前の目立つ所で、鶏の唐揚げを三個取った。すると、

「そこの君、僕にも唐揚げを取ってくれないか」

 という声がした。

 振り向くと、一番前の席に座っていた恰幅の良い禿頭の男が、こちらを見ていた。

 真太郎は、面倒くさいなと思いながらも、鶏の唐揚げを二個皿に乗せると、愛想笑いを浮かべながら、そのテーブルへ運んだ。

「ああ、ありがとう」

 その禿頭の男は、なかなかどすのきいた低音の言葉を発していた。彼は、ちょこまかちょこまか動きまわる秘書たちの中にあって、珍しく重厚感のある雰囲気を漂わせていた。「はあ」

 真太郎は、その男のぎょろっとした目に凝視されて、すっかりびびってしまった。だから、余計なことを話し掛けられないうちに、すぐにその場から立ち去りたかった。テーブルの上に皿を置く自分の格好も、腰が引けてるな、と自覚していた。

 皿を置いて、立ち去ろうとしたまさにその時、

「君は、どこの事務所かね」

 とその男に尋ねられてしまった。

「い、板垣事務所です」

「板垣先生の所か・・・」

 真太郎は、正規の秘書と思われるとまた後が面倒になりそうだったので、すぐに自分が大学生で、アルバイトの身分であるということを明かした。すると、

「どこの大学かね」

 禿頭の男は、他に話す相手がいなかったとみえて、真太郎をなかなか解き放してくれなかった。

「A大学です」

「おお、それじゃあ、俺の後輩じゃねえか」 そう言いながら急に目を細めると、禿頭の男が自分の横の空いている席に座るよう、真太郎を促した。それには、真太郎の拒絶の意志など問答無用であるという凄味があった。 一刻も早くその場を立ち去りたかった真太郎ではあったが、失礼します、と小さな声で言いながら、仕方なく指示された通り、男の横の空席に座った。

「学部はどこかね」

 禿頭の男は、真太郎が運んできた唐揚げを口一杯に開けて、むしゃぶり付きながら言った。

「文学部です」

 真太郎は、はだけそうになった浴衣の紐を結び直しながら、そう答えた。

「ほう、それで学科はどこかね」

「歴史学科です」

「歴史かあ・・・それじゃあ江戸中期専攻の大前秦吉教授は元気かね」

「はい、今年の三月で定年になり、名誉教授になったようです」

 真太郎は、直接大前秦吉教授の授業を受けたことはなかったが、彼は名物教授のうちの一人だった。

「そうか、定年になったか。懐かしいなあ・・・俺は、徳川吉宗が好きだったから、良く文学部に潜り込んで、大前さんの授業を盗聴したもんだよ」

 禿頭の男は、懐かしそうに目を輝かせながら、ビールを豪快に飲み込んだ。

「失礼ですけど、学部はどちらだったのですか」

 唐揚げを申し分けなさそうにちびりちびりと噛りながら、真太郎が尋ねた。少しはこちらからも話し掛けないとまずいのではないかと、気をつかった。

「俺は政経だよ。国際政治学をやってたんだが、教授たちが三流学者ばかりで、面白くもなんともなかったよ。俺は好きな歴史がやりたかったから、文学部の学生が羨ましくてしょうがなかった」

 彼は、ひと呼吸おいて、二個目の唐揚げをがぶりと噛った。

「大学時代は、就職や親の意見などにとらわれずに、好きな学問をやるのが一番だよ。俺みたいに、親父の言うことをきいて、政治学なんていうくだらねえ学問を専攻してしまったおかげで、道を誤って・・・」

 と言いながら、ビールを飲み込み、

「・・・まったく政治家の秘書なんていう因果な商売に就いてしまったよ」

 と凄味のある声でつぶやいた。

「はあ・・・」

 謙遜なのか、卑下なのか、その言葉に対して、真太郎は判断がつきかねた。そして、何て答えて良いのかわからなかった。

 真太郎が首を捻っている、まさにその時、「馬鹿者!この上座のお席を何と心得ているんだ!」

 いきなり、頭の上から罵声が飛んできた。それは、甲高い怒声だった。真太郎は初めのうち、誰が怒鳴られているのかよくわからなかった。

「かりにも、十文字先生の筆頭秘書・大和田先生のお隣のお席であるぞ!」

 という発言を聞いて、真太郎はもしかしたら自分が怒鳴られているような気がした。

 大声を張り上げていたのは、小柄で痩せた、金縁の眼鏡をかけていた口のうるさそうな中年の秘書だった。怒りの余り、こめかみがぴくぴく動いていた。

 何もこの席に座りたくて座ったわけではない真太郎にとって、そんな風に怒鳴られるのは、極めて心外だった。が、このように理不尽なことが蔓延しているのがこの世界の習わしとも思えたので、とりあえずこの場は謝らなければならないのかな、と思った。

「まあ、まあ、いいじゃないか河上君。俺が座るように言ったんだから」

 やっと、その禿頭の男が助け船を出してくれた。どうしてもっと早くそう言ってくれなかったんだ、と真太郎は思ったが、その河上とやらの甲高い金切り声の怒声の勢いに、禿頭の男も、呆れてしまっていたのかもしれない。

「大和田先生がそうおっしゃっていることに今回は免じてやるが、この次から、上座に座るなんていうことのないよう、気をつけろよ。まったく百年早いぞ。ガキの分際で!」

 河上秘書は、何度も何度も真太郎の方を人差し指で突き刺しながら、そう言い捨てて去って行った。

 そこには、後味の悪さが残った。その直後に、派閥の親分である十文字幹事長の筆頭秘書である、その大和田氏のところに、どこかの秘書がビールを注ぎに来たので、それを機会に真太郎は、その場を辞した。

 何も好き好んで大和田の横に座ったわけではなく、真太郎にとっては、全くいい迷惑なひと時だった。腹いせに鶏の唐揚げを思いっきり噛ったが、滴れが充分にしみ込んでいないのか、味気ない肉だった。

 ところで、その大和田秘書が、その年の暮れに内閣総理大臣になる十文字雁助の、側近ナンバーワンの秘書官に就任し、以後六年もの間、陰に、暗に、内に、裏に、官邸に君臨するとは、真太郎は知る由もなかった。

 宴会の中締めが行われ、大半の者が席を立ち始めたので、真太郎も自分の部屋に戻った。

 部屋に着くやいなや、幹事のうちの一人が来て、催し物があるので良かったら”蓮華の間“に集まるように、と呼びかけて行った。 真太郎たち四人は互いに顔を見合わせながら、特にこれといってやることもなかったので、せっかくだから行ってみよう、ということになり、部屋を出た。

 廊下に出て歩いていると、隣の部屋からさきほど電車の中で隣り合わせた北島文相の木ノ内秘書が出てきた。

「おう、愛沢君も行くのか」

「は、はい」

 酒が入っているせいか、木ノ内はご機嫌だった。

「君も好きだねえ・・・」

 木ノ内がにやけて言った。

「はあ?」

 真太郎は木ノ内の言っている意味が良くわからなかった。

「また、とぼけちゃって・・・とにかく急ごうぜ」

 木ノ内は真太郎と肩を組んで、廊下を早足に歩いた。

 ”蓮華の間“に入ると、蛍光灯が消され、小さな光と影だけが、天井に描かれていた。既に部屋の奥の床の間の前に、二十人以上の人集りができていた。集合した人々を観察すると、女性がいなかった。十畳ほどの部屋は、男たちの熱気でむんむんしていた。

 真太郎は、一瞬何が行われているのかわからなかった。ただ、「おー」とか「すげえ」などという喚声が起きていたので、何か盛り上がりのある小イベントが行われていることが予想された。

 真太郎たちが立っている後ろの方からは、人の頭ばかりが視界に入り、その他は床の間に飾ってある掛け軸の上の方の一部分しか見えなかった。

 どれどれ、と言いながら、木ノ内は人集りを掻き分けて中へ入っていった。

 真太郎も木ノ内の後を追って、少しずつ中へ入った。

 前進すると、光が見えてきた。な、なんと、そこには真っ裸の女が二人いた。何やら芸をやっていた。いわゆるお座敷ストリップショーが開催されていた。真太郎は思わず生唾を飲み込んだ。

 右側の髪の長い細身の女が、上半身を反り返らせ、両足を開くと、ヘアをまさぐりながら、局部にゆで卵をスッポリと入れた。まるで、それは卵を呑み込んでいくような動きだった。

「うおー」

 口々にどよめきが起こった。

 卵を呑み込んだ裸の女は、上体を起こすと今度は、しゃがみこんだ。そして、次の瞬間、ポトリ、と畳の上にさきほどの卵を落とした。あたかも、鶏が卵を産み落とす時のような仕草だった。

「お見事!お見事!」

 どこからか喚声が飛び、拍手喝采大喚声が巻き起こった。

 すげえ、よく卵がつぶれないなあ。初めて見るその光景に、真太郎も非常に感心した。 いかがわしさが醸し出す熱気に包まれながら、一番前で裸の女に懐中電灯をあてていたのが、こともあろうに文部大臣秘書官の大槻だった。彼は、とても大きな声を張り上げながら、光を上に下に、左に右に、斜めにと当てて、懐中電灯を激しく動かしていた。

 文部大臣の秘書官もただの男か、そう思うと、真太郎はなんとなく愉快だった。

 今度は、もう一人の女が立ち上がった。彼女は色白で小太りだったが、瞳がくりくりしていて愛くるしい顔立ちだった。

 あんなに可愛らしい顔をしているのに、どうしてこんな所で、ストリップなんかやっているのだろうか。真太郎は、彼女の生きざまに合点がいかなかった。が、この際、そんなことはどうでも良かった。まずは彼女の動きを注視することにした。

 女は、右手に筆、左手に色紙を持ち、両手を頭の上に掲げた。いっせいにどよめきが起こった。観客の中には缶ビールやコップ酒を抱えている者がおり、アルコールの含有量もアップしていたので、女のちょっとした動きにも大げさに反応していた。

 畳の上に色紙を置くと、なにやら女は右手に持っていた太い筆を、少しずつ少しずつ自分の局部に差し込んでいった。

 大股を開いた女は、体を少し移動させて硯の中に筆を降ろし、墨を付けた。

 さきほどまでの喧騒が、水を引いたように、一瞬静かになった。

 女は再び体を移しながら、色紙の真上にしゃがみこみ、筆を動かし始めた。腰や尻、膝を上手に使って文字を書いていった。

 驚嘆と野次に包まれながら、出来上がった色紙は高く掲げられた。そこには、「愛」という文字が書かれていた。

 大歓声が巻き起こった。

 真太郎は、秘書会の旅行に参加して、出張ストリップを見るとは思いもしなかった。また一つ社会を勉強したような気がした。

 「愛」と書かれた色紙を受け取った大槻文部大臣秘書官は、ことのほか満悦そうに、こう言った。

「これがほんとの毛筆だな」

   

「なんだ、君も見ていたのか、全然気がつかなかったなあ」

 真太郎も”蓮華の間“にいたことを、桃町は知らなかったようだ。と同時に、桃町がいたのも真太郎は気がつかなかった。

 月曜日に出勤すると、板垣事務所は秘書会の旅行の話で持ちきりだった。

「へえー、例年にない企画だなあ。お座敷ストリップなら、盛り上がっただろうなあ」

 あんなくだらない旅行は行くものか、と言っていた白瀬ではあったが、夜の粋な催しを羨ましがっていた。

「とにかく部屋が真っ暗で、男の熱気でむんむんして、酒もだいぶ入っていたから、誰がいたのか全然わからなかったよ」

「それで、ストリッパーはどんな子だったんですか」

 森高が給湯室に行った隙に、白瀬が詳細を尋ねた。

「それが、ずいぶん可愛いんだよ」

「桃町さんは、若い子ならみんな可愛いんだから。愛沢君から見て、どうだったの」

 白瀬は、面食いではなかった桃町の感想など当てにならないとみえて、真太郎に意見を求めた。

「なかなか良かったですよ。一人は細面で髪が長く、もう一人はぽっちゃりした色白の美人でした。どうして、あんな所でストリップなんかやっているのか、不思議で仕方がありませんでしたよ」

 欠席した白瀬を羨ましがらせたいと思った真太郎は、正直に感想を述べた。

「ほらみろ、愛沢君だって、良かったって言っているじゃないか」

 桃町も、旅行に参加しなかった白瀬を後悔させようと、わざと大げさな言い方をした。「それで、踊り子の踊りは上手だったんですか」

 ポットに湯を入れて森高が戻って来たので、桃町が身を乗り出して、声をいくぶんひそめながら、

「踊り子とはいったって、踊りなんかやらないんだから」

 と、もったいをつけるように言った。

「え、それじゃあ何を?」

 今度は白瀬が身を乗り出した。

「女は二人ともいきなりスッポンポンになって、あそこで芸をするんだよ」

「『あそこで』って、あそこでですか」

「そりゃ、あそこに決まっているだろう」

「ねえ、二人とももう少し大きな声でお話して下さらない。私も聞きたいですから」

 森高が意表を突いてきた。

「え、こんな話、女性の前でしていいのかなあ」

 と言いながら桃町が、曲げていた背筋をきちんと伸ばした。

「ゆで卵をだな、あそこに入れちゃうんだよ。丸ごとスッポリと・・・」

「へえ、ゆで卵をねえ。そりゃすごい」

 政治に関しては白けている白瀬ではあったが、今日はいつになく熱心に聞き入り、感心していた。

「そして、元のままの形で、生み落とすんだよ」

「え、つぶれないでですかあ・・・」

「そ、そうなんだよ・・・こう、このくらいの穴に、そのお・・・」

 桃町が身振り手振りで、解説を施そうとした。

 その時、ドアがノックされ、いきなり大勢の男たちが入ってきた。

「県議団の者ですが、板垣先生はいらっしゃいますでしょうか!」

 ぞろぞろと入室してきた連中は、福島の県会議員たちだった。

 あわてた桃町と白瀬が素早く立った。そして、桃町が、

「あいにく代議士は、十時から委員会が始まっておりまして・・・ま、とにかくこちらの方へお入り下さい」

 と言いながら、奥の代議士の部屋に通し、ソファに座らせた。が、十数人いた議員たちは全員が座れず、一部の者はソファの後ろに立っていた。

 森高が顔をしかめながら、茶の用意を始めた。真太郎は、人数を数えて森高に告げた。 議員団の親分格と思われる太った小さな男が、真ん中にふんぞり返った。

「福島空港の創設開港は、ひとえに板垣先生のお力にかかっております」

 議員たちは、福島空港開設の陳情のために、上京してきたようだ。

 彼らは、矢継ぎ早に言いたいことだけ口にすると、森高が入れた茶もそこそこに、部屋を出て行った。

 真太郎は、一応起立して陳情団を見送り、静かにドアを閉めた。

「まったく、何がひとえに板垣先生のお力にかかっていますかだ」

 そう言いながら桃町が、陳情書を机の上に放り投げた。

「本当に調子のいい連中だ。どこの事務所に行っても、ああいう風に言ってるんだろうなあ」

 白瀬もあきれ顔だった。

「あの県議の親分、池上派だったな」

「今日の連中は、運輸関係ですから、池上、立脇、佐藤派の面々ばかりですよ。うちの派の牟田さんは入院中だから、全員他派閥ということになりますよ」

 各県の県会議員たちも、代議士の派閥によって分かれていた。福島二区には、同じ自連党から、板垣の他に、池上、立脇、佐藤の三人が選出されていた。だから、県会議員たちは、この四人のどれかの派閥に属していた。これは、市会議員や町会議員に至るまで同様だった。

 その上、自連党の各国会議員たちは、これまたいずれかの派閥に属していたので、中央から地方まで全て派閥一色の縦のラインでつながっていた。

 今日のように、十数人いた県議団の中に、板垣派が皆無であるということを考えてみても、県政に及ぼす板垣の力が、いかに脆弱であるかがうかがえた。

「官房長官の池上のスケジュールに合わせてやって来たに違いないな」

 池上は、当選回数こそ板垣に一回少なかったが、持ち回りの要領と立ち回りの良さで、上郷派の重鎮となり、現在第二次上郷内閣の官房長官を務めていた。当然、集金力も絶大で、先輩議員であるにもかかわらず板垣は、池上の足元にも及ばなかった。

 代議士に力があると、必然的に秘書にも優秀なのが付いていて、池上官房長官の秘書官になっている者は、元地裁判事。二人の政務秘書は、いずれもハーバード大学大学院の出身で、将来は国政に出る意向で、第一秘書の鈴木は次回の参議院議員選挙に出馬する予定であった。

「福島に空港かあ、なかなか難しいだろうなあ」

 白瀬が、陳情書をぱらぱらとめくりながら言っていた。

「うちの代議士が力を持って、空港の開港に寄与すれば、選挙も楽に戦えるんだけどね・・・それにしても、県議の連中、運輸省の接待とかこつけて、今夜あたりはどこかで芸者でもあげるんだろうなあ、全く県民税がもったいないよ」

 森高が入れた茶をすすりながら、桃町がそうつぶやいた。



   冬


 十二月に入ると、木枯らしが吹き始め、寒い季節が、少しずつ、少しずつ到来しようとしていた。

 国会議員の秘書のアルバイトを開始して、早いもので十ヵ月以上が経過しようとしていた。今では、真太郎は議員会館の生活にすっかり慣れ親しんでいた。

 朝から雨が降り続いていたその日は、第二秘書の白瀬と歳暮の品物を配ることになっていた。代議士の板垣は、衆議院の環境委員長を務めていたので、その委員会に所属するメンバーたちに、歳暮を配っておいた方が何かと良いだろう、という桃町の判断からだった。しかもそれは、与党自連党だけに留まらず、野党に対してもだった。

 選挙民に歳暮や中元を渡すことは、法律で禁じられていたが、議員の間でのやり取りは可能で、決して珍しくはなかった。自分が所属する同じ党の者同士はもちろんのこと、他党の議員とのやり取りも、政治家という同業者のよしみから、結構頻繁に行われていた。 各議員たちは自分の出身地の名産や、選挙区内の名物を歳暮や中元に選んでいた。東京の下町地区選出の議員は、ほうずきや人形焼きを、青森県の者はりんごを、大分の者は焼酎を、といった具合だった。福島二区選出の板垣事務所では、以前に会津地方・喜多方の名物であるラーメンのセットを配ったが、今回の歳暮では、白河名産の”薄皮饅頭“を選定した。

 昨日宅急便で届けられ、自分の机の上にうずたかく積まれた”薄皮饅頭“を、真太郎は五つほど風呂敷に包むと、白瀬と共に部屋を出た。

 最初に向かったのは、同じ階にある市島代議士の事務所だった。市島は元運輸大臣で木原派に所属し、現在は自連党の副幹事長を務めていた。

 白瀬が市島の部屋をノックした。どうぞという女性の声がしたので、ドアを開けると、いきなり、

「エーイ! ヤー!」

 という怒鳴り声が聞こえてきた。一瞬、真太郎はたじろいだが、白瀬がすんなりと部屋の中に入って行くので、その後についた。

「エーイ! ヤー!」

 気合いが入るたびに、振動で入り口近くの茶だんすのガラスが、ガタガタ、ガタガタと震えていた。

 年配の女性秘書が白瀬を見るなり、眉間に皺を寄せながら、

「また、いつものやつよ」

 と親指で、気合いの発している方向を指差した。その女性と白瀬は、旧知の仲のようだった。

「そうですか、それじゃお邪魔ですね。これ、白河名物の薄皮饅頭です。お歳暮ですので、ご笑納下さい」

 と言いながら、真太郎が抱えている風呂敷包みの中から箱を一つ取り出した。

「これはこれはご丁寧に」

 女性が急に恐縮した。

「どなたか、おこしかー」

 気合いのかけ声の合い間に、低い中年の男の声がした。

「板垣先生の所の白瀬さんでーす」

「どうぞ」

 奥の部屋に入るよう、促されたので、白瀬と真太郎は恐る恐るドアを開けた。見ると、鉢巻きをして上半身が裸姿の男が二人、木刀を振りかざしていた。

 後ろから女性秘書がやってきて、

「お歳暮をいただきました」

 と言いながら、薄皮饅頭の箱を見せた。

「それは、どうもすいません」

 第一秘書と思われる四十代半ばぐらいの男が、鉢巻きを取って、額の汗を拭いながら恐縮し、

「板垣先生に宜敷くお伝え下さい」

 と言って、軽く頭を下げた。どういたしまして、とにっこり微笑むと、白瀬と真太郎は、素早くその事務所を辞した。

 廊下を歩きながら白瀬が、

「あそこは物凄い右翼なんだ。憲法改正、軍備増強、靖国参拝・・・代議士から秘書までそれはもう凄い右寄りだ」

 と言った。

「恐ろしい雰囲気でしたね。ちょっと、ここがいかれているような・・・」

 と言いながら、真太郎が自分のこめかみのあたりを人差し指でさした。

 それは、あの光景を目のあたりにすれば、真太郎に限らず誰もが抱くであろう率直な感想だった。

「毎朝、ああして木刀を振りかざして、気合いを入れているらしい」

「それにしても凄い声でしたねえ、あの気合い・・・」

 真太郎にはその気合いの声の大きさが、尋常のものとは思えなかった。

「ああ、まったくだ」

「ですけど、右寄りとはいえ、結構真面目で純朴そうな人たちでしたよ」

 口を真一文字にして木刀を振りかざしている姿を見て、真太郎は彼らがとても真面目そうに見えた。

「それが、そうじゃないんだよ」

「え、違うんですか」

 首を振る白瀬の反応が、真太郎には意外だった。

「思想的に右寄りだから、当然右翼も寄ってくるだろう・・・連中は人の世の影の部分を沢山握っているから、それをねたに上手に利益を上げているのさ・・・」

 人目のある議員会館の中ということもあり、抽象的な言い方しかできず、今一、白瀬の言っている意味が、真太郎にはわからなかった。

「それはどういう意味ですか」

「つまりだな・・・」

 白瀬が周りに人がいないのを確かめてから言った。

「たとえば、この間もある電力会社の社長に、二十年来の愛人がいることを、市島事務所の子飼いの右翼が突き止めてきたらしいんだ。それを種にその社長をゆすったのさ。直接金を巻き上げるとまずいから、これまた市島代議士の親しい商社から、売り込み依頼のあったヘリコプターを、その電力会社に無理矢理に買わせたのさ」

「えー、電力会社にヘリコプターを、ですか?」

 真太郎は、電力会社にヘリコプターを買わせることが、どうして市島にとって得になるのか、よくわからなかった。

「つまりだな、ヘリコプターを売り付けることによって、市島にはその商社から、仲介の手数料が入るというわけだ。一機何億円もするだろうから、数千万、いや場合によっては、億単位の金が転がり込んでいるかもしれない」

「す、すごいですねえ」

「そのうちの一部を右翼に報奨金としてバックするんだ。だから、市島事務所に出入りをする右翼たちは働きもしないで、いつも街宣車に乗って、怒鳴り声を上げられていられるのさ」

「ああ、なるほど、そういう仕組みになっているんですね」

 その絡繰りにとても感心していた真太郎は、またこれで悪の仕組みを一つ覚えてしまった、と思った。

 次に訪れたのは、野党第一党の社労党の女性代議士、鳥居広子の事務所だった。

 部屋に入ると、六十歳ぐらいだろうか、かなりの年配である女性秘書が丁寧に応対してくれた。

 社労党の鳥居は、党内左派護憲派の代表的人物で、何ものをも恐れない勇猛果敢で豪傑な論客ぶりには、党内はおろか、与党自連党の議員たちも舌を巻いていた。

 そんな男勝りの鳥居ではあったが、議員会館内の事務所には、一面に渡ってぬいぐるみが所狭しと並べられていた。手のひらサイズの小さな物から、等身大程度の大きな物まで、犬猫はもちろん、うさぎやパンダ、カンガルーやカバに至るまで、そこには動物であればありとあらゆる物が静かに棲息していた。「わざわざご丁寧にありがとうございます。うちの鳥居は甘い物には目がないんで、とても喜ぶと思います」

 年配の女性秘書は、白瀬から差し出された薄皮饅頭を丁重に受け取った。

「野党の人でも、受け取るんですねえ」

 真太郎は、歳暮とはいえ、ふだん論戦を張っている与党からの贈り物を、野党が簡単に受け取ることが、何となく不思議だった。

「まあ、野党とはいっても、国会議員という同業者だから、そういう意味での仲間意識はあるんだよ。だから、政策で争っても、人間関係までぎすぎすさせたくないんのさ。お互いに・・・」

「なるほど、そんなもんなんですね」

 それまで真太郎は、与党と野党は非常に仲が悪く、いつも啀み合いをしているものとばかり思っていたが、どうやら実態は、そうではなさそうだった。

「特に、国対族なんか、馴れ合いの仲良しだから、いつも与野党入り交じって麻雀をしているよ」

「ま、麻雀をですか!」

 与野党、そこまでの仲とは、真太郎も驚いた。

「自連党が野党を動かさなければならない時など、わざと麻雀を負けてやるのさ。もちろん金を掛けてね」

「そ、それじゃ、買収と同じじゃないですかー」

「まあ、企業の営業マンが顧客を接待するのも、与党が野党を接待するのも、基本的には同じというわけさ。政治の世界もそんなもんだよ。結局、人間のすることだからね」

 たとえ、世間がそういうものとはいえ、こればっかりは、こと国の命運がかかっている政治の世界であるから、白瀬のようには真太郎は簡単には割り切れなかった。

 三軒目に入ったのが、同じ十文字派の若手代議士深田信行事務所だった。ちょうど同輩の秘書たちがいたので話が弾み、そこで長居をしてしまい、午前中は結局五件しか配れなかった。

 昼食後、桃町の不在中に立て続けに来客があり、白瀬が応対していたので、歳暮を配布しないまま、時計が四時をまわってしまった。

「食べ物だから今日中に配ってしまった方がいいな」

 と言いながら、白瀬が饅頭の箱を抱えた。 二人で配っていると効率が悪いので、二手に別れることにした。真太郎は、衆議院第二議員会館に入っている環境委員たちの部屋をまわることになった。

 一人で顔を出すので、はじめのうちはドキドキしながら各事務所をまわっていったが、数をこなしていくうちに、だんだん慣れてきた。

 七階から順番に降りてきて、二階の共新党の議員まで配り終えた時、真太郎はまだ一箱余っていることに気付いた。おかしいな、と思いながら白瀬から渡されたメモをもう一度確認してみると、七階にある自連党の元防衛庁長官、横尾壮吉の分を届け忘れていることに気が付いた。

 面倒ではあったが、再び登りのエレベータに乗った真太郎は、横尾事務所のドアをノックした。

 が、何も応答がなかった。留守だとは思いながらも一応、ドアのノブを回してみた。すると、鍵が掛かっていなかった。

「こんにちはー」

 手前の部屋には誰もいなかった。もし、不在でも部屋に入ることができたら、板垣の名刺に歳暮と書いて、それを添えて机の上に置いてくるように、との白瀬の指示があったので、その通りにして、真太郎は部屋を出ようとした。とその時、

「ガタッ」

 という物音がした。どうやら、その音は奥の部屋からのようである。秘書や代議士が在室中に、黙って歳暮を置いていっては失礼になると思った真太郎は、一度置いた薄皮饅頭を再び手に取ると、奥の方の部屋に向かい、そのドアの前に立った。すると、女性の声で、

「せんせい、やめて下さい・・・きゃー」

 という小さな悲鳴がした。

「きみ、子供じゃないんだから、わしに恥をかかせんでくれ・・・」

 何やらもみ合っている音に紛れて、男と女、それも多分、代議士と女性秘書と思われる二人の言い合いが聞こえてきた。

 真太郎は、えらい現場にきてしまった、と思った。そしてすぐに、ドアの前から離れた。が、持ち前の好奇心からか、再びドアの前まで引き返した。

「いや、や、やめて下さい・・・」

 なおも女は、拒み続けているようである。「ききわけのない子だな」

「せんせい、大きな声を出しますよ」

「出せるんなら、出してみなさい。そんなことをしたらきみが一番困るんだよ」

 二人の発言はなかなか生々しかった。こんなにリアリティーのある声が聞けるなんて、内線電話を使って、白瀬を呼んであげたいくらいだった。

「なかなか大きいじゃないか。おいしそうなオッパイだ・・・チュッ、チューッ」

「ひどいわ、せんせい・・・」

 どうやら、乳首を舐め回しているようだ。「ちゃんと、脚を開きなさい」

 まだもみ合っているようである。それにしても白昼大胆にも議員会館の事務所で、国会議員が強姦まがいのことをしているとは、いったい日本の政治はどうなっているのか。

「わしをこれ以上、怒らすな!」

 それは物凄い声だった。一瞬、沈黙があって、女がしくしく泣き出した。

「さあ、泣かなくてもいいだろう。きみには麹町にマンションを買ってあげよう」

 女の声は、泣き声と呻き声の混ざり合ったようなものになっていった。

 真太郎は、怒りと興奮のせいで、頭から爪先まで、体中が今にも爆発しそうだった。

 その日朝から降り続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。外から差し込む雨上がりの西陽が、ドアに付いているくもりガラスを通して、真太郎の顔をオレンジ色に照らしていた。


「横尾壮吉!」

 白瀬が大きな声を上げた。

「あれはひどい女たらしだよ。秘書の女の子には、軒並み手を付けてるらしい」

 さきほどの場面を黙って胸にしまっておくわけにはいかなかった真太郎は、詳細にわたって、白瀬と森高に報告した。

「そうよ、私たち自連党の秘書の女の子たちの間でも、あの人にだけは気をつけなさいともっぱらの噂よ。晩御飯になんか誘われたら最後、無傷では帰してもらえないそうよ・・・」

 白瀬や森高も知っているところをみると、どうやら、横尾壮吉は、そっちの方では有名な議員のようだ。

「多分その子は、この四月に入ったばかりの新人の女の子だわ。他に若い子はいないから。可愛そうに・・・」

 森高が怒りを込めて断定した。

「どんな子だい。可愛いの?」

 白瀬はその女の容姿が気になるようだ。

「髪が長くて、胸の大きい子」

「なんだ、それじゃ、まさに俺のタイプじゃないか」

 軽く指を鳴らしながら、白瀬が悔しがった。

「あ、そうそう、この前来たわよ。確か先々週の土曜日の午前中だったかしら。励ます会の通知を持って」

「え、あの子かい。あれゃ、なかなかいい女だよ。もったいないなあ」

 美しい女性とわかって、白瀬は一層悔しがった。

「まったく、女の敵よ」

 森高も悔しがっていたが、白瀬と悔しさの観点が違っていた。

「だけど、愛沢君、どうして助けてやらなかったの」

 森高の鋭い視線が飛んできた。

「そ、そんなこと言っても、僕は黙って部屋に入ってしまったんだし・・・」

 そう指摘されても、真太郎は辛かった。

「お聡ちゃん、それはいささか、酷な話だ。もしかしたら、その子だって、嫌とは言いながらも、まんざらではなかったのかもしれないよ」

 白瀬が助け船を出した。

「そうかしら」

 森高は不満そうだった。

「もし、どうしてもいやなら、大声を出すなり、窓ガラスを打ち破るなり、色々と手はあると思うんだ。どうも愛沢君の話を聞いていると、必死に逃げようとしている感じがしないんだなあ・・・」

 にやけている白瀬に対して、尚も不満そうな森高は、

「それにしてもひどいわ・・・あんなおじいさんと関係しちゃったなんて、私、あの子の顔、まともに見れなくなっちゃう」

 と言いながら顔をしかめた。

「とにかく、秘密にしておいてあげようよ。もしかしたら、その子にも彼氏がいるかもしれないし、ましてや院内にいるやつだったら、彼女だけではなく、その男の方も可哀相だからなあ」

 その女が付き合っているかもしれない男のことにまで心配するのが、白瀬らしかった。「そうね、そうしましょう。桃町さんにも内緒ね。あの人、意外と口が軽いから」

 森高が人差し指を立てて、口元に当てた。「意外なんていうもんじゃないよ。口の軽さと頭の軽さは天下一品さ」

 白瀬が両手を広げて、大げさなジェスチャーをした。

「白瀬さん、そこまで言うと、後で桃町さんに言いつけるわよ」

 と森高が笑いながら言った。

 そして、とりあえず、その出来事は三人の秘密ということになった。 その時、板垣事務所にも、雨上がりの夕陽が差し込んでいた。



   そして、春


 春まだ浅い三月から、真太郎が社会勉強を始めたその年が暮れた。そして、迎えた新しい年も、あっという間に二ヵ月余りが経過した。

「愛沢君、すまんが合格発表、見てきてくれるかなあ」

 桃町が申し訳なさそうに言った。

「誰ですか、そんなことを頼んでくるのは・・・」

 白瀬が顔をしかめながら、口を尖らせた。「喜多方の古畑会長だよ」

 古畑留吉は、喜多方市の後援会長で市内では大きな建設会社を経営していた。会津若松市の坂下時男、白河市の保科守春と並んで、板垣麟蔵衆議院議員を後援する三羽烏と呼ばれていた。彼らは、いわば地元を守る国家老で、中でも古畑は、板垣代議士自身の出生地である喜多方市の後援会長を務めていることから、家老は家老でも筆頭家老を自負していた。おまけに、武家の流れを汲む古畑家と板垣家は先祖伝来の付き合いで、身内同様の、いやそれ以上の昵懇の間柄だった。その上、古畑は板垣の一歳年上で、泣き虫でひ弱だった板垣を、弟同様に面倒を見たことから、他の誰もが呼ぶように、「板垣先生」とは、決して呼ばず、「麟蔵」、「麟蔵」と呼び捨てにしていた。それに対して、板垣代議士も古畑のことを、「兄貴」、「兄貴」と慕っていた。

 そのような状況であるから、当然、古畑の発言力は強く、板垣代議士に対する要求は、度胆を抜いていた。一族の就職のことはもちろん、裏口入学、市や県の公共事業等の発注の便宜、上京の際の、ホテルの手配から、銀座や吉原の接待まで、ありとあらゆるものをねだっていた。

 ところが、このようなたかりの後援会長であっても、ひとたび選挙戦になると、俄然力を発揮し、喜多方市内での板垣の得票数は、全候補者の中でも群を抜いていた。だから、古畑留吉は板垣事務所にとっては、なくてはならない絶対に必要不可欠な最重要人物だった。

 その古畑会長からの申し出であれば、板垣事務所としては、たとえ火の中、水の中、どこにでも行って、何事でも全うしなければならなかった。

「最近、何も要求してこないから、ほっとしていたところだったんだが・・・」

 と言いながら、桃町が頭をかいた。

「まあ、その程度で良かったですよ。だけど、どうして合格電報を頼んでいかないんでしょうねえ」

 白瀬があきれ顔で言った。

「俺も、電報を頼まなかったんですかと言ったんだが、あれは、アルバイトの学生がやっているんで信用できないというんだ。中には色々な大学の学生が、あっちこっちの大学に行って、稼いでいるらしいんだ。なあ、愛沢君」

 大学の話になると、桃町はいつも現役の大学生である真太郎に意見を求めた。

「ええ、うちの大学でもサークルや、にわか作りのグループが、電報屋をやっていますけど、K大やN大などの他大学にまで遠征して稼いでいるみたいです。逆にうちの大学は受験者数が多く格好の市場となので、他の大学から出稼ぎにやって来ているようですが・・・」

「古畑会長の御子息が受験したのはA大学だから、愛沢君の母校だ。すまんが見てきてくれるか・・・今日が最後仕事の日だというのに申し訳ないが・・・それから、送別会は、僕も白瀬君も今夜は所用があるからできないから、また日を改めてやることにしよう。今日は土曜日だし、そのまま直帰していいから・・・」

 今日が真太郎の秘書のアルバイトの最終日だった。

 真太郎はコートをとった。そして、午後所により雨という天気予報を思い出して、空模様を確かめるため、奥の代議士の部屋へ入った。そして、代議士の机の前の窓ガラスから外を見下ろした。

 外は雨が降るような気配はなく、暖かい春の陽光が射していた。茶色い首相官邸が眼下にあった。ゆっくりと行き交う人々を見て、日本の国家は何事もなく平穏無事に動いているように思えた。

「国会議員は、皆こうして首相官邸を見下ろしながら、極めて確率の低い内閣総理大臣への就任を、昔も、そして現在も、日々祈願してやまないのだろう・・・この情景を目にするのもこれが最後だな・・・」

 と、いつになく真太郎は感傷的になった。 そこに二、三分滞留した真太郎は、今度は足早に衆議院第一議員会館の七七七号室を後にした。そして、国会議事堂前駅から丸ノ内線に乗り、大手町で東西線に乗り換えた。

 母校のA大学では、商学部の入学試験の合格発表が今まさに行われていた。千二百人の定員のところに、三万人近くが受験していた。

 真太郎は桃町から渡されたメモを開いた。受験番号”一五七八五“。見間違えてはいけないと思って、何度も何度も確認した。

 そして、人込みの中をかき分けて、掲示板に近づいた。

 再度、メモに書かれている受験番号を確認した。”一五七八五“間違えてはいけない。真太郎は、そればかりが心配だった。

 顔を上げ、番号を探した。ちょうど太陽が差し込んでくる位置だったので、とてもまぶしく、目が慣れるまでに多少の時間がかかった。

”一五六五一“の次に”一五六八八“が見えた。だんだん番号に近づいた。が、その次は、”一五八〇二“だった。なんと、百番以上が飛んでおり、一五七〇〇番台は、一人も合格していなかった。これなら間違えるはずはないと思った真太郎は、安心して公衆電話から桃町に報告した。

 それにしても代議士秘書はこんな仕事まで、やらなければならないのだろうか・・・真太郎は、やるせない気持ちでいっぱいだったが、これも今日限りと思えばすっきりした。 真太郎は、母校のキャンパスを歩きながら、一年前の留年の決定の日を思い出した。

 北海道の実家に帰って、稼業の納豆屋を継ぐ前に、わざと大学を留年して卒業を一年延ばし、何かの仕事をして社会勉強をしたい、という当初の目的は達成したように思えた。それにしてもこの一年、色々なことがあったが、とても良い社会勉強になった。

 真太郎は、キャンパスを抜け、帰路についた。地下鉄の駅の脇には、ちょうど一年前と同じようにすみれの花が咲いていた。が、その色も、花の数も、一年前より増えているような気がした。

 地下鉄東西線に乗った真太郎は、日本橋で銀座線に乗り換え、銀座駅で降りた。そして、四丁目の交差点の近くの喫茶店に入った。そこには、板垣事務所の隣の桧山事務所の秘書、梨奈が座っていた。

 梨奈とは、昨年の海水浴以来交際を続けていた。鎌倉海岸へ同行してから、約一週間が過ぎた日、終業間近の時間に偶然梨奈と廊下ですれちがった。二、三歩歩いた時、真太郎も梨奈も互いに振り返った。そして、梨奈が客からもらったケーキが残っているので、食べにこないかと真太郎を誘った。真太郎は遠慮したが、桧山事務所の秘書が全員、地元に帰っていて、留守であることをきいて、部屋に入った。

 ケーキを食べた後、真太郎は、梨奈のこぼれ落ちそうな瞳を見て、その衝動を押さえ切れずに強引にキスをしてしまった。

 初めは猛烈に怒った梨奈であったが、結局真太郎を受け入れた。

 以来、付き合いを重ねていた。

 若い二人の愛の営みは激しく、その愛の行為は、桧山代議士や他の秘書たちが留守がちな事務所の来客用のソファを常用した。また、時には閉会中の国会議事堂内にある委員会室のソファの上でも、愛を確認し合っていた。

 梨奈は、真太郎といっしょであるのなら、納豆会社の経営者の夫人になっても良いと言っていた。

 真太郎は、この正月に、梨奈を郷里の北海道に連れて行き、両親に会わせた。両親は手放しの喜びようだった。

 真太郎は、梨奈と付き合ってから、三ヵ月が経過した時、彼女が桧山代議士の孫娘であることを聞かされた。

 一年間の社会勉強を終えた真太郎にとって、春はかなり深まっていた。 

                                          ―おわり―

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ