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怒ってるわけじゃない話

作者: 旨米もぐ
掲載日:2025/10/27

「何言ってんの!」


 彼女が声を上げた。それは二人でソファーに座って思い出話をしていた時のことだ。

 キンと響くような甲高い大声に肩が跳び上がるほど驚いて、隣に座る彼女の顔を見る。一拍の間を開けて、彼女を怒らせてしまったという答えにたどり着く。


 またやってしまったと相変わらずの自分に落ち込む。今月で三回目だろうか。


 彼女は俺の行いに怒ることが多い。

 食べた後は食器を流し台に持って行って。誕生日にあげたピアスをつけるのをめったに見たことがない。早く帰るって言っていたのに遅くて心配した。というように、とにかく俺はよく怒られる。


 彼女が怒る内容は確かに悪かったなと思うようなことが多いため、俺はよく彼女に謝っていた。俺が言い返して言い争いになることもたまにあるが、本当にたまにだ。


 いつもの彼女は謝ったらすぐに許してくれる。彼女も怒ったことを謝って、そして一緒に料理を作って、談笑しながらそれを食べる。それがいつものことだ。


 だけど、今日は違った。彼女の言葉を聞いて、なぜ怒っているのかを推察して謝ると余計に怒らせてしまった。


「そういうことじゃない!」


 俺は見当違いの謝罪をしてしまったらしい。

 化粧を落としているはずの彼女の顔がとても赤い。彼女があまりに顔を赤く染めて怒るものだから、俺はそんなに怒らせてしまってごめんと謝った。


「別に、怒ってるわけじゃない」


 彼女はそっぽを向いてそう呟く。怒ってないなんて説得力がないなと思う。それほど彼女の頬と耳は真っ赤だ。

 これほど彼女の顔が赤く染まったのは四年前に彼女が俺に恋人になってくれませんかと告白してきた時以来だが、あの時とは状況が違う。今の彼女は明らかに怒っているし。


「もう、バカ!」


 彼女は立ち上がり、持っていたクッションを投げつける。俺にではなく座っていたソファーに。

 やっぱり人には投げないのか。クッションくらいなら俺に投げてもよかったのにな。と、少しだけ注意が逸れる。


 しかしそうしている間に彼女は自分の部屋に引きこもってしまった。


 逸れていた注意が元の場所に戻る。

 なんてことだ。これはやってしまったか。


 そんなつもりはなかったなんて言う資格は俺にはないのだろう。そんなつもりがなくとも彼女を傷つけたのは俺なのだから。


 やってしまった。彼女は完全に怒っている。もしかしたら別れ話を切り出されるかもしれない。言い争いになっていないのに仲直りができなかったのだから十分にあり得る。

 今日中にそういった話になることがないとしても、近いうちにそういった話になるかもしれない。今回のことが原因で会話が減って、空気が悪くなって、そしてそのまま別れることになってしまうかもしれない。そんな不安が湧き出てきた。


 心臓の動きが少し速くなる。本当にどうしよう。

 もし彼女に別れましょうなんて言われたら俺はきっと泣いてしまうだろう。想像するだけでこんなにつらいのだ。間違いない。


 恋は三年で冷める。誰かが言ったその言葉が恐ろしい。

 俺は冷める前に何度も彼女に惚れ直している。俺の好みに合わせた料理を作ってくれる彼女に、桜の下で柔らかく笑う彼女に、気が強いが俺には素直に甘えてくる彼女に俺は何度も惚れ直してきた。

 四年経った今でも別れたいなんて思わないくらい彼女のことが大好きだ。


 しかし彼女の方はどうだろうか。いつも一生懸命な彼女にとって、彼女に甘えてばかりのだらしない俺はいい彼氏ではなかったかもしれない。彼女が俺に甘える時間より俺が彼女に甘える時間の方がずっと多い。


 どうすれば別れ話を切り出される可能性を避けることができるかを考える。彼女が好きなお菓子やコーヒー豆を買いに行ったら仲直りできるだろうか。

 物で釣ろうとするんじゃないとまた怒られるかもしれない。だけど、他にいい方法が見つからない。こういった彼女の機嫌の直しかたも分からないところが問題なのだろう。いつも許してくれる彼女に甘えていた自分のせいで恋人関係崩壊の危機だ。


 何が正解なのかは分からない。でも何もしないというのはさすがに不正解だろう。とりあえず動かないと。

 俺はすぐに外用の服に着替えて、鍵と財布を持って外に出た。


 ドアを開けると、吹き込んだ風が顔を刺す。コートを羽織り、マフラーを巻いても少し寒いと感じる季節だ。太陽が沈んでいるため尚更寒い。冷たい風が目に染みる。不安も相まって少し涙が出そうになった。


 出かけた涙をこらえてアパートの階段を下りる。階段に靴底が触れる度に静かな住宅街に冷たい鉄の音が響いた。いつもは気にしない音に不安を掻き立てられる。それでも今更部屋に戻るつもりはない。何もしないで戻る方が気まずい。


 階段を下りてようやく少し安心する。そして目的の場所に向かって歩みを進めた。


 住んでいるアパートの近くにある一軒家の駐車場にはライトアップされたサンタとトナカイが飾られている。フェンスに飾られた平べったいそれらは淡い光を放ちながら朗らかに笑う。


 飾りを見て、つい足を止めた。

 クリスマスは今月だ。今年のクリスマスデートは予定通りにできるのだろうか。淡い光から目を伏せながらそう思う。


 去年のクリスマスは楽しかった。少し奮発して普段は行かないようなレストランに行って、その後は駅前のクリスマスイベントの会場でホットワインを飲んだ。レストランで出されたビーフシチューのパイも、シナモンの香りが効いたホットワインも彼女の口に合ったようで大成功と言えた。


 今年はどうだろうか。そのときに彼女は隣にいてくれるだろうか。


 だめだ。よくないことを考えるな。クリスマスまでに仲直りができるよう頑張ればいいだろう。俺は伏せていた目を進行方向に向けて再び歩き始めた。


 住んでいるアパートから歩いて十五分。


 目的の店の前には子供の背丈ほどのクリスマスツリーが飾られている。電飾以外の飾りは無いシンプルなクリスマスツリーだ。風で飾りが吹き飛ばされる可能性を考えると他の飾りは付けない方がいいのだろう。彼女ならもっとかわいく飾ればいいのにと言いそうだけど。


 クリスマスツリーの横にある店のドアを開ける。その瞬間にふわりと香るコーヒーの匂い。コーヒー好きな彼女は当然だが、俺もこの苦い香りは好きだ。


 コーヒーの香りに包まれながら目的のお菓子を探す。商品の大半がクリスマス用のパッケージに変わっていた。これは目的のお菓子のパッケージも変わっている可能性がある。注意して探さなければ。


 店に入ってから数分。探すことに手間取ったけれど、彼女の好きなチョコレートとキャラメルナッツを見つけた。どちらも彼女が頑張った自分へのご褒美として買うことが多いものだ。


 レジに移動し、チョコレートとキャラメルナッツを台の上に置く。そして店員に二百グラムのグアテマラのコーヒー豆を頼んだ。


 ここはそれなりのお値段がする店だが、その分この店のものは美味しい。コーヒーの味が苦手な俺でもこの店で売られているグアテマラのコーヒーなら飲むことができる。


 会計を済ませた俺は、お菓子とコーヒー豆が入った紙袋を持って店を出た。


 扉を閉めると聞こえていたクラシック音楽の音が一気に小さくなる。代わりに車が通る音がよく聞こえる。

 少し強い風が吹く。その冷たさに店の外が寒かったことを思い出した。


 俺は体を温めるように少し早足気味に夜道を歩く。


 朗らかに笑うサンタとトナカイが飾られた家を通り過ぎる。そこから一分も経たずにアパートの前に到着した。


 アパートの階段を上り、俺たちの部屋の前で立ち止まる。

 まずは深呼吸をして気持ちを落ち着かせようと息を吸った。冷たい空気が三回喉を通り、肺に届く。肺を満たす冷たい空気に清々しさを感じ、少し肩の力が抜けた。


 覚悟を決めてポケットに入れていた鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

 ガチャリと音をたてながらドアを開けると、早足で彼女がこちらに向かってくる音が聞こえる。


 玄関まで来た彼女の表情は今にも泣きそうで、赤かった顔は少し白くなっていた。


「帰ってこないかとおもった」


 どうやら彼女になにも言わずに買い物に行ったせいで彼女を不安にさせてしまったようだ。俺が怒って出ていったと思ったのだろう。


「ごめん。えっと、君の好きなお菓子とコーヒー豆を買いに行ってただけで……」


 お菓子とコーヒー豆が入った紙袋を見せると、彼女は力が入っていた顔を緩め、その拍子に一筋の涙が流れた。


「だから、私は怒ってるわけじゃないって言ったじゃん」

「うん、ごめんね」


 謝った俺に彼女は一拍無言になった。

 そして今度は少し呆れたような顔を見せた。


「もう、分かってないでしょ」


 そういった彼女の呆れたような表情はまた変化する。

 少し俯き、目を反らしながら、えっと、その、と言い淀む。そしてほんの少し無言になって、反らしていた目をこちらに向けた。


「私、本当に怒ってたわけじゃないんだよ? あの時は、照れてたんだよ」

「照れてた?」


 どういうことだろうかと疑問に思う。あの時の俺は彼女が怒っても仕方がないことは言ってしまったが、彼女が照れるようなことは言ったつもりがない。


 よく理解できていない俺に、彼女はなぜあの時俺に怒鳴ったかを説明し始めた。


「私が昔の話をしようとしてさ、これは私が一番可愛かった頃の話なんだけどって前置きしたじゃない?」

「うん、そうだね」

「そしたらあなた、じゃあ最近の話? なんて聞いてきたでしょ?」

「うん、ごめん」

「だから怒ってないってば! ええと、それでね、あなたが今の私が一番可愛いって思ってくれてるのを知って、照れちゃって、それを隠すために怒鳴っちゃったんだよ」


 俺は驚いた。彼女は本当に怒っていたわけではなかったらしい。


「話したかったのは私がもっと小さかったときのことだって言ったらあなた、自分が私に酷いことを言ってしまったなんて勘違いして、昔の君を否定したつもりはなかっただとか、アルバムに写ってた昔の君も確かに可愛かっただとか、君が年々きれいになっていくものだからついあんなことを言ってしまっただとか、そんなこと言われたら余計に照れるよ……」


 そう言われて、俺はやっと彼女があそこまで顔を真っ赤にしていた理由も、そういうことじゃないと言っていた理由も分かった。


 肩の筋肉が緩むのを感じる。深呼吸の後に大分緊張は解れたと思っていたが、まだ力が入っていたらしい。彼女を傷つけたわけではなかったことに安堵した。


「私、あのままあなたと一緒にいると心臓が止まっちゃうんじゃないかって思って、部屋に引きこもっちゃって、そしたらあなたは外に出て行って、怒らせちゃったかと思った」


 彼女の方へ腕を伸ばす。そして自分より小さな体を腕の中に収めた。俺が帰ってくるまで不安を抱えていた彼女に、俺がどれだけ彼女を大切に思っているのかを証明したい気持ちだった。


「ちゃんとどこに行くか言っておけばよかったね。ごめんね」

「ううん、いいの。私も言葉が足りなかったせいであなたを不安にさせちゃってごめんなさい」


 彼女が俺の背中に腕を回す。俺は自分の思いが彼女に伝わったような感覚に嬉しくなって、抱き締める力を少し強める。


 その後のほんの数秒は言葉がなかった。余韻のようなその数秒は、とても穏やかなものだった。そんな静穏な時は彼女の優しい声でそっと消える。


「私の好きなもの、買ってきてくれてありがとう。寒かったよね。コーヒー入れるから、一緒に飲も?」

「……うん、飲む」


 俺はもう少しこうしていたいなと思いながらも、彼女を抱きしめていた腕を解いた。そして履いたままだった靴を脱ぎ、彼女と一緒にダイニングへ向かう。


 どこか温かく感じるのは暖房だけのせいではないだろう。仲直りと言っていいのかはよく分からないけれど、お互いに誤解が解けて良かったと思う。


 もうすぐクリスマスだし、プロポーズの計画を立てよう。日本人にとってのクリスマスは恋人たちの記念日と言ってもいい。プロポーズにはうってつけだ。


 そう思いながら、俺は彼女の後ろ姿を見ていた。

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