彼女の名前は
ノートの書き写しが終わった頃には、すっかり夕暮れだった。
思ったより時間がかかったと空藍は生徒会室を出る。
職員室に鍵を返した空藍は、そのまま担任の教師と雑談を交わし、流れるように雑用を押し付けられた。
「病み上がりですよ」と言ってみたが「でも元気だろ」と言われれば返す言葉はない。
事実、不思議と体の調子は昏睡する前よりもすこぶる良かった。
ポスターの貼り換えといった簡単な雑事を終わらせ、今度こそ帰ろうと廊下を歩く。
その道の途中で、自殺者の出たクラスの前まで通りかかった。
部活動で残っている生徒はいても、そうでない生徒はとっくに帰宅しているであろう時間帯。誰もいないと思っていた教室に、一人の生徒の影があった。
花瓶の置かれた机の前に立つ、女子生徒。
茶髪と金髪の間。やや茶色よりの派手で目立つダークブロンドの髪色をした女子生徒が、俯いてままの姿でいる。
昼時に見た時も何も変わっていないその光景に、空藍は思わず足を止めた。
俯き、垂れる前髪のせいで表情は分からないが、血の気が薄くただ事でないのは見て分かった。
自殺した少女の親友で、その死を深く悼んでいるのか。部外者である空藍にその理由は分からないが、この光景を見て無視することは出来なかった。このまま放っておけば、彼女は動かずジッと立ち続けるであろう姿が容易に想像することが出来たからだ。
彼女のクラスメイト達はこれを見て何も思わなかったのかと、そんな憤りを感じながら空藍は開かれていた扉を軽く叩き音を出す。
ただ、この程度のことで彼女は反応を示すことはない。
「君、大丈夫?」
教室に入りながら声をかけるも、女子生徒は微動だにしない。
もしかして寝てるのかと、そう思えてしまうほど無反応だ。
仕方なしに体に触れようと近付く空藍だったが、あることに気付き、その直前で足を止めてしまった。
「…………えぇ?」
少女は制服を着ている。
学校の、教室の中にいるのだ。それは当たり前の恰好であり疑問を挟む余地がない。ずっと俯いていて不気味なほどに動かないが、それ以外は『普通』の少女だと思っていた。
その足が地面に着いておらず、僅かに浮いていることに気付きさえしなければ。
(そりゃあ顔は青白いし生気がないとは思っていたけどさ!)
あくまでそれは親友を亡くしたショック故なのかと勝手に解釈していたが、残念ながら大きな誤りだったかもしれない。
予想外の角度から飛んで来た可能性に、空藍は思わず動揺し言葉を零した。
「幽霊……?」
「――――えっ?」
何の反応もしなかった少女が、ゆっくりと顔を上げた。
二人の視線がハッキリと交わる。
虚ろだった瞳に光が宿り、呆けたような顔で空藍を見つめる少女。
空藍もまた、似たような顔で少女を見つめ返す。
「もし、かして……、あたしが見えてる、の……?」
「っ」
ばっちりと目が合った。それでも空藍は、咄嗟に顔を隠し下を向く。
これまでの人生で幽霊など見たことはない。なので当然、幽霊と遭遇した際の対処法を知らない。
分からない。このまま幽霊と思われる女子生徒に返答するべきかを。仮に言葉を返したとして、それからどうなるのか予想がつかない。今の空藍ではいくら考えても正解を導けない。
だが間違いなく、自分にとっての平穏が崩れるのだという確信があった。
「……さてと、帰るか」
だから最初から何も見なかったことにして、この場を乗り切ろうと決めた。
「ま、待って! 待って!!」
空藍が背を向けたのを見て、少女は慌てて声を上げる。
今度は空藍の方が無視を決め込み、反応を示さない。
「お願い、待って!!」
空藍を止めようとして伸ばされた手が、空藍の体を通り抜ける。
物理的な接触が全く起こらなかったその光景に顔を引き攣らせながらも、足を止めず扉の前まで辿り着く。このまま、もしかしたらどこまでもついて来るんじゃないかと、内心で焦りを強くする。
「お願い、助けて……!」
「……」
嗚咽交じりの声だった。
少女の瞳から涙が零れ落ちるのを見た。
こちらを止めようとする悲痛な声でもギリギリだったが、これ以上は空藍が耐え切れなかった。
「いや、これは誰だって無理でしょ……」と小さな声で自己弁護を漏らす。
「…………」
足を止め、空藍は幽霊少女と改めて向かい合う。
緊張した面影の少女に、空藍は不格好だが笑みを浮かべて見せた。
「僕の名前は望月空藍。君の名前は?」
「泉朔乃……」
彼女の名は、先週自殺した女子生徒と同じ名前だった。