エピソード1-2 『勇者』の誕生
「……ねぇ、アスティア! お願いだから、返事をしてよ! こんなにも惨めな運命の私を置き去りにして、あなたは主人であるこの私を捨てて、どこかに逃げ去ってしまったというの? そんなの……あまりにも酷すぎるわ!」
「違います、クレア様! 僕はクレア様のすぐお側にずっといます! この僕がお大切なクレア様を捨てて、どこかに一人で行く事なんて事は絶対にあり得ません!」
僕がどんなにクレア様の耳元で大声を出して、直接呼びかけたとしても。
そしてどんなに執拗に、お嬢様の目の前で大きな身振り手振りを繰り返してみせたとしても。
謎の『黒子』となった僕の存在は、クレア様に気付いて貰える事はなかった。
それどころか、これだけ大きな声で叫んでいるんだ。
この厳かな雰囲気に包まれた大聖堂の中で、繰り返し大声を叫び。女神像の近くで不思議な動作を取っている僕の存在に、誰か一人くらいは気付いてもおかしくはないはずなのに……。
ここにいる誰もが、僕という存在には全く気付かず。誰一人として、こちらに振り向く様子さえ見せなかった。
つまりこれは、『黒子』となった僕の存在が知覚出来ないのは……目の前にいる、クレア様だけではないという事になる。
今の僕の姿は、誰からも見る事は出来ない。そして声さえも届かない。完全に『空気』のような存在になり果ててしまったに違いない。
クレア様の体に触れようと、両手を伸ばしても。
まるで幽霊のように、僕の伸ばした手は虚しくお嬢様の体をすり抜けてしまうだけだった。
「これは……本当に、どういう事なんだ?」
もしかして僕は、いつの間にかにここで死亡していて。幽霊のような霊体へと変化してしまったのか?
……いや、それなら僕の死体は一体どこにあるんだ? 誰かに殺されたような感覚なんてまるで無かった。
そうなると、考えられる可能性は一つしかない。
僕に与えられたスキル、『伝説の黒子』が何かしらの影響を僕の体に及ぼしているんだ。それ以外にこの異常な状況の説明はつけられない。
僕は急いで、自分の身に与えられた『伝説の黒子』というスキルについてを確認してみる事にした。
スキルの名が刻まれた、青い能力石を何度も見つめても。説明のようなものは一切書かれていなかった。
勇者や暗黒騎士といった、レアスキルの事も。事前に街の図書館の書物で読んで学習していたこの僕でさえ……。『伝説の黒子』などという、全く聞いた事も無い、得体の知れないスキルについては、何一つ知識が無かった。
「……クソッ! せめて何か手掛かりはないのか? この謎のスキルの事が分かる、ヒントのようなものでもあれば……」
――その時。
自分の青い能力石を、何度も指先でさすっていた僕の視界の先に。
いつの間にかに、謎の光を放つ『青い文字』が目の前の空間に浮かび上がって見えている事に気付いた。
「……えっ、この文字は一体?」
さっきまで、そんな文字は存在しなかった。
きっと僕が青い能力石を何度もさすっている時に、突然この文字は目の前の空間に浮かび上がってきたのだろう。
つまりこの文字は『伝説の黒子』というスキルに関連する、何かしらのヒントである可能性が高い。
僕は目を凝らして、目の前の空間に浮かび上がっている青い文字を慎重に読み進めてみた。
そこには、小さな文字でこう書かれている。
『――エピソード1 〜選ばれし勇者の旅立ち〜
女神によって選ばれし伝説の勇者は、勇者を殺害する為に襲来した巨大なレッドドラゴンを、始まりの街にて単独で打ち倒す。
それは選ばれし勇者が紡ぎ出す、未来永劫に語り継がれる伝説の、最初の一歩となるのであった――』
「………えっ? はっ?」
いや、何なんだよ。このあまりにも謎過ぎる、意味不明な文章はさ……?
いやいや、まるで意味が分からないぞ! 勇者が巨大なレッドドラゴンを倒すって……僕のスキルは『黒子』なんだろう?
そんな未来の勇者の輝かしい功績の物語を、今ここで唐突に語られても。――『だから、何?』としか、僕には言えないじゃないか!
どうしたら僕の存在がクレア様に気付いて貰えるのか、そのヒントにさえ、この文章はなっていない。
……正直、全く意味不明過ぎる。無価値で独りよがりな三流のポエムのような文章だった。
「クソ……! これじゃあ、本当に何をすれば良いのか全く分からない! クレア様……どうか、心を落ち着けて下さい。僕はお嬢様の側に常に居ますから!」
クレア様は相変わらずその場で、大粒の涙の流しなが ら。たった一人で途方に暮れているようだった。
期待していた『勇者』スキルを与えられるどころか。
邪悪な心を持つ者の証明として世間からは噂される、呪われた『暗黒騎士』のスキルを与えられてしまった可哀想なクレア様。
そんな事実を、レイモンド家で吉報を待ち詫びている、お母様のクラリス様に報告なんて出来るはずもない。
そして……クレア様にとって、そんな八方塞がりの悲惨な状況下において。
最も信頼が出来る、幼い時からずっとお側で仕えてきた第一の従者であるはずのこの僕が、突然……目の前から失踪してしまったんだ。
どうすれば良いのか、一人で途方に暮れているクレア様はガクガクと全身を震わせて。怯える子猫のように、この場から一歩も動けずにいる。
プライドの高いクレア様にとって。今回の結果は、その高潔な精神をまさにボロ雑巾のように、ズタズタに引き裂かれてしまったに違いない。
とにかく今は……何としても、クレア様に僕の存在を気付いて貰うんだ。
決して僕はクレア様を見捨てて、どこかに去っていったりなんかしていない事を知って頂かないと!
でも、それにはどうすればいい?
誰にも触れられない空気のような存在となった僕は、一体何をすれば、お嬢様に『僕はここにいます』というメッセージを伝えられるのだろう?
今の僕の姿はクレア様の視界には入らない。話しかけても、その声は耳には届かない。
それでも、とにかく何か行動をしないと!
僕はまず、近くの机の上に置いてあった黒いペンを手に取ってみた。黒いペンは僕の指先に掴まれて、そのまま空中にフワッと浮かび上がったように見える。
「……えっ? ペンを手に持つ事は出来るのか? 人間の体と違って、物体はすり抜けないで黒子の僕にも触れる事が出来る仕組みなのか?」
……よし! それなら、話は早いぞ。
例え僕の姿がクレア様の視界に入らなくても。そして、声が届かなくても。他にも僕の存在を気付いてもらう手段は幾らでもあるじゃないか。
僕はまず右手に持っている黒いペンを、クレア様の顔前で何度もくるくると回してみせた。
クレア様にとって、僕の存在が透明な状態になっているのだとしても。僕が手に握るペンが見えているのなら、きっとクレア様には何も無い空中にペンが勝手に浮かんで、くるくると回転しているように見えるはずだ。
でも……クレア様は、僕が指先で回すペンの動きに全く気付く気配が無かった。
今度はその場で、大きく円を描くように黒いペンを振り。縦横無尽に振り回してみせても、やはりダメだった。
クレア様だけじゃない。その周囲にいる人達も、これだけ大きく僕がペンを振り回して、動かしているというのに……。
ペンの不思議な動きに目を奪われるような人物は、誰一人として現れなかった。
「クッ、これもダメなのか……! どうやら、ボクが直接ペンを手で持ってしまうと。黒子のボクが『触れている』ペンも、みんなの視界からは見えなくなってしまうという事なのか」
そうだ! ならこの黒いペンで、紙に文字を書いてクレア様に見せればいい。
急いで今度は、近くの机の上に置かれていた適当な書物を手に取り。分厚い本の見開きページの中に、『クレアお嬢様、僕はすぐ側にいます!』という文字をペンで書きこんでみた。
そしてその本を、直接手には持たずに。お嬢様の目の前の床にメッセージを書き込んだページを表にして、そっと置いてみる。
ずっと嗚咽を漏らすように、その場で泣いていたクレア様が……いつの間にかに、自分の目の前に置かれていた分厚い本の存在に気付いた。
そして、一瞬だけ泣くのをやめて。クレア様は不思議そうに、その本を手に取る。
「――よし、いいぞ! これでクレア様に僕がすぐ側にいる事を気付いて貰えるはずだ」
濡れた瞼を指先で拭いながら、クレアお嬢様は僕がペンで文字が書いたページをまじまじと見つめ始めた。
そして、何度か瞬きをした後――。
すぐに興味を失ったように、手に取った分厚い本ををそのまま、元の床の上へと戻す。
「えっ……? なんで読んで貰えないんだ? まさか僕の書いた文字は、見えない仕様になっているのか?」
クソッ、またしても失敗か!
姿や声だけじゃなく。僕が書いた文字も、他人には見えない仕組みにされているなんて……!
このままじゃ、本当にどうしようもないぞ。
何か少しでもいい。謎に満ちた黒子のスキルの能力を解明する為のヒントを探し出さないと。
僕はいったん、クレアお嬢様の側から離れる事にした。
「クレア様、本当に申し訳ございません……! 必ずお側に戻りますから!」
こうなったらクレア様でなくても誰でもいい。
他の誰かに、ボクの事を気付いてれそうな人を探し出してこの状況から助けて貰うしかない。
この中で、一番可能性がありそうなのは……聖堂にいる大神官様だろうか?
大聖堂の中心部。巨大な女神像の前でずっと祈りを捧げ続けている若い女性。
美しい金色の髪を後頭部に束ねた、若い大神官の肩に、僕はそっと手を掛けてみる。
スウゥ……。
――ダメだ! やはり大神官様であっても、触れる事が出来ない。黒子である僕の存在に、気付いて貰えない。
半ば絶望的な面持ちで、今後一体どうすれば良いのかを、真剣に思い悩んでいた僕の耳に。
急にザワザワと、先程までは無かった聖堂に集まる人々の驚きの声が聞こえてきた。
周囲の様子を見回してみると。大聖堂に集まる人々が一斉に、一点の方向を見上げて凝視していた。
「何だ……? みんな一体何を見上げているんだ?」
僕も、人々の視線に釣られるようにして。
大聖堂に集まる全ての人々が見つめる、その視線の先にあるものを一緒に見上げてみた。
見上げた視線の先には――先程までの聖堂には無かった、明らかな『異変』が起きていた。
巨大な女神像の頭上から、黄金色に輝く『光の線』が空に向けて高く伸びていた。
その光景を見た教会の関係者達が、口々に驚愕と歓喜に満ちた叫び声を上げる。
「おおおっ!? 女神像が空に向けて『黄金の光』を放ち始めたぞ! とうとう、伝説の『勇者』スキルを持つ者が選ばれたのだ! 今日ここに集まった若者達の中に、勇者スキルを持つ者が出現したに違いない。これでやっと魔王と戦う、選ばれし勇者が選定されたのだ!」