今日も妻は夫に惚れ薬を盛る
私たちの関係を言い表すならば、掛け違えた釦、ぐちゃぐちゃになったネックレス、絡まった糸。どれだろう、そのどれでものようであってどれでもないとアレクシアは感じる。
何を間違ってしまったのか。しかしどれが間違いだったかも、間違っていたのかすらもわからない。窓辺に物憂げな表情で座る私はさながら深窓の貴婦人か、とアレクシアはため息を吐いた。
アレクシア・オリヴィエ、その名になったのはつい最近でアレクシアはオリヴィエ伯爵家に嫁入りした。実家は貧乏だが歴史だけはある──過去の栄光に縋っているだけどもいう、子爵家。そこに蒸気機関の台頭で莫大な富を築いた新興貴族のオリヴィエ家は歴史という名の箔を欲しがった。長いだけの歴史の中で築いた人脈も欲していたのだろう。
家財道具を売り払って幼い弟妹たちを食い繋がせていた子爵家にとって莫大な結納金を持ってきたオリヴィエ家当主、フレデリク・オリヴィエは救世主に見えたことだろう。事業に失敗した父は娘を売り払ってでも事業を立て直したかった。
政略結婚というやつである。金が絡みまくった結婚は家には確かに幸せを運んだかも知れないがアレクシアに幸せを運んではこなかった。否、幸せになれる権利を自ら手放してしまったというべきか。
もしかしたら愛は芽生えずとも、相手を尊敬し尊重し合う関係に発展できたかも知れない。事業に関してはフレデリクはかなりの実力者だったし、愛人をつくるだとかアレクシアを邪険に扱うだとかそんなことをしなかった。しかし今の状況だと愛人を作られても文句を言えない状況だ。
アレクシアは初夜の時に、夫フレデリクを拒絶してしまった。怖かったのだ。閨の指導は教師から受けていたとはいえ、実際に目の前にやってくると怖くて仕方がなかった。
フレデリクはアレクシアの意思を尊重してくれ、無理矢理事に及ぶことはなかった。しかし、その日から寝室にフレデリクが訪ねてくることはなく、仕事に打ち込んでいるようだ。
「完全に嫌われてしまった…」
アレクシアはまたため息を吐いた。私だって誰かに愛されてみたい、破綻した夫婦関係を取り戻したい。それが今のアレクシアの願いだった。その相手が金持ちで顔も整っているフレデリクなのだからそれを拒絶するなんて一体何人の乙女に刺されなくてはならないだろうか。
その時、扉が叩かれてメイドが顔を覗かせた。
「奥様、魔女と名乗る怪しげな行商人が来ております。追い返しましょうか?」
閉塞的な屋敷の生活の中、アレクシアは外部から来る刺激に飢えていたのかも知れない。夫から渡された莫大な小遣いの範囲なら好きに買い物していいと言われていたが、アレクシアはまだ手をつけていなかった。
必要なものは全部用意されていたし、何より貧乏生活が染み付いていたアレクシアにとって、物欲というものは消失してしまっていた。
しかしカタログを眺めるくらいの楽しみはまだ残っていた。外国から輸入された珍しい品々を眺めて気分転換するのもいいかも知れない。アレクシアは普段なら怪しげな、とメイドが形容するほどの人間を家にあげたりはしなかったが、今日は思考がずっと巡りすぎて疲れていたのかも知れない。
魔女というからには老婆を想像していたアレクシアだが、客間に商品の入った鞄とカタログを手にやってきたのは芋っぽい少女だった。ふさふさの榛色の髪は少し埃が絡まっている。
「古今東西、珍品名品、なんでも扱います。魔女です、奥様」
そう言ってアレクシアの手にカタログを押し付けてくる。真っ黒なローブはいかにも魔女らしいが、子供が仮装しているようにしか見えない。
騙されたのだろうか、とカタログを捲れば扱っている商品は意外とまともだった。
「奥様は新婚だと噂でお聞きしました! どうです、このマンネリ防止のフリフリスケスケランジェリーなどいかがでしょう」
魔女がカタログの中で指さしたのは確かに可愛らしいランジェリーだった。しかしあまりにもレースの占める割合が大きく何も着ていないのと同じではないだろうか。
「ええと、これはちょっと…」
今のアレクシアには見せる相手がいない。本来ならば夫のフレデリクだろうが、彼とは現在までただの同居人でしかない。その時、アレクシアの目に映ったのは「恋の秘薬♡」と書かれた小瓶だった。
「これは?」
それを指さすと、魔女は「さすが奥様、お目が高い!」と手を打ち鳴らした。
「これは恋のおまじない! 惚れ薬です。一滴で効果抜群、あなたのことがだーいすきになっちゃうやつです」
私だって愛されてみたい、アレクシアの中に眠っていたささやかとも言える小さな願いがいきなり主張し始めた。これを使えばフレデリクは自分を好きになってくれるかも知れない。破綻した夫婦関係はあるべき姿に戻るかも知れない。そんな期待が胸中に渦巻いていた。
「これは効果の期間はどのくらいに…?」
「奥様、興味がおありですか。一滴できっかり一時間! 無味無臭なのでご安心!」
アレクシアは悩みに悩んだ。薬で人を意のままに動かそうなどやはり非道だろうか。フレデリクの意思を完全に無視している。自分の願いのためだけに、薬を盛るなんて…そんなこと。
「最初に目が合った人を好きになります。まぁ、ちょっとした催眠術みたいなものですから体質によりますけど」
魔女が甘く囁く。アレクシアの願いは肥大化して行く。せっかく結婚したのだから、フレデリクから愛されてみたい。それが一時の夢でもいいから。
「……買います」
「お買い上げありがとうございます!」
薬の値段はそこそこ高かったが、今のアレクシアならば払える金額だった。魔女は札束を受け取るとほくほくと笑顔になって帰っていった。
アレクシアに残ったのは香水瓶のような可愛らしい小瓶に入った惚れ薬。魔女が帰った後からやはり騙されていたんじゃないかと不安が襲ってきた。
これが毒だったらどうしよう、と不安になったアレクシアは屋敷の家畜小屋にいる、なぜか屋敷に来てから嫌われ続けている鶏に一滴だけ飲ませてみることにした。鶏はアレクシアを見るとなぜか怒ったように鳴き出しては嘴で突くのだ。
鶏は一滴飲んだ後、酩酊したかのようにふらふらとアレクシアを追いかけ回して、求愛のダンスをしてきたのだが一時間すればアレクシアに興味を失ったように元通りになった。
「こ…これは本物だわ」
鶏も死ななかったし毒ではないだろう。さっそく、アレクシアはフレデリクの食事に薬を混ぜてみることにした。オリヴィエ家にはルールが存在した。それは、夕食は必ず家族揃って食べること。それ以外はフレデリクが忙しくて共に食事ができないのだ。
子供もいないので、フレデリクとアレクシアの二人きりの食事だ。混ぜるなら夕食しかない。アレクシアは厨房に向かって夕食の確認をすると言い、フレデリクのスープに薬を混ぜることに成功した。
成功した──はずなのだが。フレデリクがスープを優雅に口に運んだのを確認して目を合わせたはずだった。
「どうしたんだい?」
フレデリクは微笑むだけだった。これではいつものフレデリクと変わらない。彼はいつも形だけの妻を労り、微笑みかけてくれる。
「…ああ、えっと…お仕事は忙しいのかしらと思って」
なんとか見つめていた言い訳を搾り出す。
「新しい商会との取引があってね。寂しい思いをさせてごめんよ。屋敷では不自由してないか? お小遣いは足りてる? 自由に使ってくれて構わないからね」
「いいえ! お金は十分足りています。十分すぎるくらい」
今までアレクシアが持ったことないような大金がフレデリクから与えられている。惚れ薬を買ってしまったとはいえまだ余裕があるほどに。
惚れ薬は確実に混ぜたはずなのに、なぜ効かないのだろうか。鶏のときは一瞬で求愛のダンスを踊り始めて怖かったくらいなのに。量が足りなかった? 体質が合わなかった?とアレクシアの頭の中に疑問が浮かぶ。人間だと体に薬が回るのに時間がかかるのだろうか。
そう納得し、アレクシアは平静を装う。口に運んだスープは焦りからか味がしなかった。
******
「よう、フレデリク。元気そうだな。新婚なんだろ」
取引相手の商会の長、アランは挨拶も早々に目の前の革のソファへと座る。学生時代からの友人はいまや仕事相手だ。
「アラン、お前も変わりなさそうでよかったよ。結婚してからというもの、妻が可愛くて可愛くて仕方がなくてな。お前も結婚した方がいい。所帯を持て。いい暮らしだぞ」
「うわ、出た。結婚したら急に結婚勧めてくるやつ! いいよ俺はしばらく独身で。仕事も忙しいし、家庭と両立させるお前みたいな器用なことは出来そうにないよ。お前家族を流行病で全員亡くしてから塞ぎ込んでたもんな。よかったよ、嫁さん出来て」
そこで急にフレデリクは黙り込む。「なんだよ、急に黙って」とアランは尋ねた。
「いや…仕事と家庭を両立しているかと言われれば妻には我慢を強いているような気がしてな…」
「なんだよ、嫁さんと仲良かったんじゃなかったのかよ」
久々の再会に、仕事の話もそっちのけで二人は話し込んだ。
「最近、妻が食事に薬を盛り始めて…」
「何それ、お前毒殺でもされるの? 相当恨まれてるじゃん」
まさか真面目な友人がそんな冗談を言うなんて、とアランは「何か心当たりあるわけ?」とげらげらと笑いながら尋ねる。フレデリクは地位も金も実力も手に入れた男だ。それなのに結婚するまでは浮ついた話もなく、いままで何人の女に刺されるか友人たちと賭けたりとしていた。
本当は寂しがり屋のくせに、また家族ができても失うんじゃないかと踏み出すのに時間がかかったのだ。今の妻は健康体でよく子供を産む家系であることが選んだ理由だそうだ。初めての顔合わせでも「私は健康だけが取り柄なんで…」と笑っていたところに惚れたと話していた。彼女ならば絶対に死なないという気がしたらしい。
「いや、妻に薬を売った行商人を調べさせたが媚薬の類いらしい。……これは妻に求められていると考えていいのだろうか」
アランは思わず呆れて吹き出した。
「いいのだろうか、っていいに決まってんだろ。お前、仕事ばかりで嫁さんに構ってなかったんだろ? 帰ったら『すまない、愛してる!』でも言って熱いキスでもすればいいじゃないか」
それなりに女の子と遊んでいるアランは、適当にそれらしいことを言ってみた。しかし、フレデリクの顔は明るくなるばかりか、暗くなっていく。
「実は…」
フレデリクは深刻そうに切り出した。その話を聞いて、フレデリクは吹き出すだけには止まらず、爆笑した。
「キスどころか、手すら繋いだことないのかよ。奥ゆかしいな! 一体いつの時代の恋愛の話をしているんだ? もう文通から始めろよ」
アランは冗談のつもりだったが、フレデリクは真面目に「そうか、文通か」と頷いてしまっている。恋人たちが愛を少しずつ積み上げるように、結婚から始まってしまった自分たちもそれをなぞろうと考えているようだ。
「妻には拒絶されてから、嫌われたと思っていた。でも惚れ薬を盛るくらいなのだから、まだ嫌われてはいなかったということだよな?」
フレデリクは微笑みながら言った。それをアランは砂糖を吐き出すような心地で見ていた。
「それで? お前は嫁さんが惚れ薬盛ってるのを飲んでるけど、最初から惚れてるせいで効いてないってことか?」
「いや、惚れ薬入りのスープはすり替えて妻の方に飲ませている」
「は?」
アランは思わず、間抜けだ声が出た。
「いや、は? なんで」
わけがわからないという顔をしたアランは、フレデリクを思考がわからない珍獣でも見るかのような瞳だった。
「わたしの気持ちに妻の気持ちはまだ追いついていないと思うんだ。そういう部分は足並み揃えた方がいいだろ? そうしないと転けちゃうじゃないか」
「何それ。俺はお前をこれだけ愛してるんだから、お前も同じだけ愛してくれってことか? 何だそれは。怖っ」
アランは服の下で鳥肌が立った気がした。
「愛の与える量が釣り合っていなければいずれ破綻するだろう? どちらかが重すぎる、軽すぎるじゃ駄目なんだ。だから妻の気持ちがわたしと同じくらいに成長するまで待ってる。薬はちょっとした促進剤みたいなものだ。ああいった類の薬は一を十に増長させる作用はあっても、全く何もないところから恋心を作り出すことは出来ないんだよ」
薬を盛るほどには愛情を持ってるはずだから、それが膨らむのを待ってるということだろう、とアランは無理矢理納得する。薬を盛る愛情って何だ? という疑問は封印した。それよりもアランはフレデリクが「同じだけの愛を返せタイプ」だったことに衝撃を受けていた。
「向こうから薬を盛ってきたんだ。こちらが盛り返しても構わないだろう? それに、待つのがあまり好きじゃないってことに気づいたんだ」
「お前ら、似たもの夫婦だよ」
アランは呆れたようにため息を吐いた。
******
後日、オリヴィエ家では夫婦間の文通が始まった。会えない時間を補うためのものらしい。アレクシアは急にこんなことが始まって、惚れ薬が効いているのかしら? と喜んだ。それでもまだ足りない。愛されたいという欲が日に日に膨らんでいる。
そして今日も妻は夫に惚れ薬を盛る。まさか逆に自分が惚れ薬を飲まされ、恋心を育てられているとは思いもしない。