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里咲家の日常

「すごいな」

 十一月初旬、冷たい秋風が少し立て付けの悪い窓をガタピシと打ち鳴らし、そろそろ鍋が恋しくなる、そんな季節。目の前に並ぶ五枚の答案用紙を見て、俺、菅原勉は関心の声を漏らした。英語、九十三。数学、七十六。国語、九十。理科、八十一。社会、八十五。中学一年二学期の中間考査、主要五科目平均八十五点。


「えへへ」

 その言葉に照れ笑いを浮かべながら梅乃ちゃんはもぞもぞと膝の上で組んだ両手を恥ずかしそうに動かす。この成績は優秀な生徒の多い彼女の通う満ヶ谷学園(みつがやがくえん)中等部の中でも上位二割以内に食い込んでいるはずだ。しかし、家庭教師というのは生徒が良い点数をとれば、そこからさらに欲が出るもので。


「ちょっと、数学と理科がもの足りないけど……」


「むぅ……」


「あ、英語もこのケアレスミスがなければ九十五点かぁ……」


「むむむ……」

 褒めるのもそこそこにテスト結果の分析に移ってしまう。俺の態度に梅乃ちゃんは明らかに不満そうに頬を膨らませていたが、甘やかすわけにはいかない。だって、一回甘やかしたら歯止めが利かなくなりそうだし。


「あ、あの、せんせい?」

 そんな俺の心情を他所に、梅乃ちゃんは甘ったるい声を出した。どうやら、褒めてほしい彼女は攻め方を変えたらしい。


「ん~ どうした?」

 意識的に極めてそっけなく返す。


「そういえば、この間、今度のテストで平均点八十五点以上だったら、なんでもひとつご褒美くれるって……」

 ぶっ、と口に含んでいたコーヒーを危うく吹き出しそうになる。しかし、先生という立場上、彼女に動揺した様子は見せたくない。慌てて唇を固く結んだ。こんな点数取れるはずないと思っていた。数週前の自分を叱責しなければ。


「そ、そんなこと言ったっけかな?」

 俺は適当な言い訳を考える。目が泳いでいるかも。そしてやはり、梅乃ちゃんは俺のその様子を見逃さない。


「言いましたよう」


「全科目八十五点以上じゃなかったけ?」


「むぅ、平均点って言いました」


「八十五点以上って八十五点は含むんだっけ?」


「そんな数学の問題っぽく尋ねてもだめです。先生が教えてくれたんですよ、以上以下という言葉は、その数字も含むって」


「お、よく覚えてたな~。すごいすごい」


「えへへ……。ってそうじゃなくて」

 俺は梅乃ちゃんをあしらいながら、考えていた。最近適当に誤魔化せなくなってきたなぁ。などということではなく、彼女の成績の伸び具合について。

俺が初めて梅乃ちゃんの勉強を見たとき、彼女はお世辞にも成績優秀とは言えなかった。なんでも中学に入学したばかりの中間テストで、主要五科目の平均点がクラス平均を三点ほど下回っていたらしい。小学校までは常に中の上くらいの成績をキープしていた娘のそのテスト結果に驚いた母親が、慌てて家庭教師を探し始めた結果、大学の学生課掲示板で依頼を目に止めた俺が来たというわけだ。


 俺は俺で、初めての家庭教師の仕事に緊張していた。しかし彼女の勉強の様子を少し見ただけで、梅乃ちゃんが実はほとんど教科書の内容を理解していることに気付いた。そして、俺がしたことと言えば、少しだけ、テスト前の勉強法を変えさせ、点を取るコツを教えてあげただけ。当然当人の努力によるところが大きいのだが、期末テストからは概ねの教科で平均を十点以上、上回るようになった。


 それに彼女の変化はもうひとつ。


 母に望んでもいない家庭教師をつけられた彼女のささやかな反抗。後から聞くと、俺と梅乃ちゃんが上手くいっていない様子を母に見せたかったらしい。あの時の様子はもはやなつかしい。


*****


「んじゃあ、今教えたとおりに式変形してみて」

 俺の言葉を合図に、ペンを拾ってノートに向き合うも、たった三秒でその手が止まる。そしてさらに、三秒考えて、梅乃ちゃんは俺の顔をのぞきこんだ。


「…………」


「分からないの?」

 こくり。梅乃ちゃんが頷く。仕方なく変形後の式を虫食い状態にして書き上げた。


「ここに入るの、何か分かる?」


「…………」


「分からない?」


「…………」

 いや、分かるか分からないかはわかるでしょ……。


「じゃあ、①プラス。②マイナス。③かける。④わる。どれだと思う?」


「…………」

 あれ、これ俺が悪いのかな? 何か高圧的な態度とったかな? 確かに黙秘権は守られるべき一つの権利ではあるけれど。


「①?」

ふるふる。


「②?」

ふるふる。


「③?」

こくん。


「④?」

ふるふる。


「…………」

 全てを聞き終わった後、不安な表情でまた俺の顔を梅乃ちゃんがのぞき込んでくる。


「正解」

 そして、ぐっっと、小さく拳を握る梅乃ちゃん。


「いや、分かってんじゃん!」

 その言葉に俺はとうとう心のツッコミを吐き出してしまった。こんなことをしていては一問解くのに何分かかるか分からない。


「あう、あう。ごめんなさい」

 しかしその大声に、瞳を潤ませてあたふたされては、語気を和らげるしかなくなる。


「あ、いや、その。ちゃんとできてるんだから、もっと自信持って」

 こくり。また梅乃ちゃんが小さく頷く。その様子がまるで頭を差し出しているかのようで、俺はとても小さなそれを思わずぽんぽんと軽く撫でていた。上手くできているかどうかも分からない笑顔も顔に張り付けた。それ以降、妙に彼女は素直になってくれた気がする。


*****


「頭なでなでとかがいいんじゃないかなぁと、思ったり、思わなかったり」

 今ではこの有様だ。


「何が?」


「だ~か~ら~、ご褒美ですよ」

 成績が上昇するにつれ、梅乃ちゃんは自信を身につけ、次第に難しい問題にも自らチャレンジするようになった。数学って思っていたより楽しいです。専ら文系が得意な彼女からその言葉を聞いたとき、俺は確かに、家庭教師という仕事のやりがいを感じた。


 甘えてきてくれるのは素直にうれしい。しかし自分にとって初めての生徒であるというということで甘やかしすぎたかと、今は少し厳しめの態度を意識している。


「だめ。やっぱり数学と理科がもの足りない」

 俺の言葉に梅乃ちゃんはさらに不機嫌になった。


「……少しくらいいいじゃないですか」


「何か言った?」


「い、いえ。なんでも」

 ちらと時計を見ると、長針が六十度ほど移動している。


「あ、ほら、そろそろ十分休憩終わり。次、英語だから。教科書とノート開いて」


「……はい」

 機嫌は損ねてしまっても、授業中は素直に言うことを聞いてくれる。とてもいい子。こくりと頷いて、梅乃ちゃんが取り出したノートは、四本線で一段になっている入学したての中学生が使うものではなく、普通の大学ノートだった。


「あれ、前までの青いノートは?」


「あ、あれは先生に言われたとおり、教科書の文を何回か書いてたらなくなっちゃったので……新しいのを」


「そっか」

 以前のノートは確かまだかなり余っていたはずだ。それが短期間でなくなるということはつまり、そういうことなのだろう。


「梅乃ちゃんは、ほんとに頑張り屋さんだね」

 俺はけなげに言いつけを守る姿に心を打たれ、思わずポンポンとその頭を撫でた。


「あ、あう」

 この撫で心地、なんか落ち着くんだよなぁ。妹がいたらこんな感じ? 撫で心地というのがあるのなら、撫でられ心地ってのもあるのかなぁ……。ぼうっとしながらスリスリしていると弱弱しい梅乃ちゃんの声が俺の耳に届く。


「あ、あの、先生。授業……は?」


「ん~…………はっ」

 いけないいけない。すっかり彼女の愛玩動物的魅力に夢中になっていた。


「ごめんごめん」

 俺はそっと手を離すと。


「あ…………」

 かすかに漏れる梅乃ちゃんの声。そして、仕切り直し、と俺ははきはき告げた。


「じゃあ英語始めようか」

 

しかし。――――がちゃり、と。


「おっじゃましまーす!」

 俺がせっかく気を取り直したところで、今度は勢いよく扉が開く。と同時にびっくりするほどのハイトーンボイスが室内に響いた。


「お、お母さん!?」


「入るときはノックをお願いします。心臓に悪いので」

 いつも通りの登場にやれやれと俺は頭を掻く。


「いいじゃないですかいいじゃないですか。それよりお茶のおかわりおまちどー!」


「そういうのは休憩中にって言ったよね?」

 今度は梅乃ちゃんが事前に設置していたルールを確認する。


「あっれれ~、いいのかなぁ。そんなこと言っちゃって~」

 それに対して梅乃ちゃんの母、翠さんは某推理漫画の身体は子供、頭脳は大人な主人公並みのおとぼけボイスで反撃した。


「べんきょーしてるようには見えなかったなぁ~。ママは見てたぞ~。先生にいい子いいこされてにやにやしてる梅乃ちゃんを」


「なっ」


「ぶふっ……ゲホゴホ……」

 今度こそ口に含んでいたコーヒーを吹き出しかける。慌てて口をふさいだせいで、見事にそれは気管に逆流し俺は激しく咳込んだ。


「いつから見てらしたんですか……」


「むふふ、いつからでしょ~」


「はぁ……」


「梅乃ちゃん良かったねぇ。だいす……」


「ああぁぁっ!」

 何かを口走ろうとした翠さんの口を梅乃ちゃんが抑え込み、慌てて部屋の外まで押し出した。


「ダイス?」


「あっははは。ダイスダイス~さいころコロコロ大好きよ~♪」


「へ? なにその歌?」


「いっ、いえ、今家で流行ってる歌なんですよ~」

 梅乃ちゃんは、ぶんぶん両手を体の前で振りながら何やら必死になっている。


「ふうん、でもあんまりセンスよくないから、外で歌わない方がいいよ」


「うぅ…………」

 少し厳しめの言葉で返すと、梅乃ちゃんはすぐに話題を別方向へ持っていった。


「わっ、そういえば私、英語で分からないところあるんでした。先生、早く授業を始めましょう」


「え、ああ。うん」

 俺の方へ向き直る梅乃ちゃん。その笑顔に張り付いた謎の威圧感に恐怖を覚え、俺は慌てて授業の準備を整えるのだった。


「ほら、お母さん。もう授業始めるんだって」


「はいはい、じゃあ、ごゆっくり~」


 ――――ぱたん。


 ようやく扉が閉じられると、驚くほど室内は静かになる。一息ついて殊勝に梅乃ちゃんは頭を下げた。

「ごめんなさい。お母さんいつも騒がしくて。なんだか若い男の人が家にいるのがテンション上がるみたいで」


「あっ……ははは」

 娘相手にそんなこと言っちゃっていいんですかね翠さんは。単身赴任中のお父さんほんっとかわいそう。


「まあ、それはそうと、分からないところがあるんだって?」


「あ、そうでした」

 机に腰を落ち着けて、彼女はきびきびノートを開く。俺は普段とは違い、立ち上がっていたせいで、彼女の斜め後ろから、覆いかぶさるようにしてその手元をのぞき込んだ。


「ここなんですけど」

 ふいと、首をこちらに向けた梅乃ちゃんはそこでようやく俺が真後ろにいることに気付いたらしく。びくリと肩を震わせる。


「あ……」

 鼻先が触れ合いそうな距離に、俺の心臓もどきりと跳ねる。やっぱり彼女の瞳は大きくて、まつ毛ははっとするほど長く、幼さを残した丸い輪郭が驚くほどにかわいらしい。ともすればこのまま吸い込まれてしまいそうに……。


しかし、再び。――――がちゃり、と。


 扉の開閉音がして。俺と梅乃ちゃんは一斉にそちらを注視する。

「あっ、ごめんね~。飲み物ここに置いとくね~」

 するとそこには、二人に向けて、いそいそ手刀を切る翠さん。


「~~~っ」


「失礼しました~」

 ――――ぱたん。


「もうっ! おっかあさぁぁぁああん!」


 そして家中にこだまする梅乃ちゃんの叫び声。続いてどたどたと走り回る二人分の騒がしい足音。ああ、まだ会ったこともない里咲家のお父様。今日もあなたを差し置いて、奥さんと娘さんは元気いっぱい、にぎやか母娘ですよ。俺はこっそり心の中で、会ったことすらない里咲家の大黒柱に思いを馳せた。


さて、いよいよ本格的に二作品目にとりかかっております。前作の反動で、それはもう地の文はめちゃくちゃに仕上げたつもりです。読み辛いかもしれませんがその辺りはご容赦ください。次話水曜日更新予定です。


また、少しテイストは異なりますが、もう一本の拙作もどうぞ御贔屓に。

https://ncode.syosetu.com/n6530gt/

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