~夏のしらべ~1
一章
一
「ひやっこーい、ひゃっこいー」
遠くで水売りの声が聞こえる。
店の並ぶ大通りを流しているのだろう。
すこん、と抜けた夏の青空。冷たくて甘い水や白玉をつるりと喉の奥に流し込みたい。
そうは思いながらも、佐々木研之介は畳の上に寝転がったまま動かなかった。
読んでいる艶本の見開きにぽたりと汗が落ちる。今、悪漢が罠とも知らずに美女の寝室に忍び込んだところだ。
六畳一間の長屋の部屋だが、小さな坪庭がついていて、慰め程度の風が入る。
その坪庭に向けて開け放した窓から、ぶうんと蜂が入ってきた。
ぶらぶら動いている研之介の足の間を通り、やはり開け放たれている入り口から出てゆく。
「研さん、いますかい―――おっと」
その蜂と正面衝突しそうになった男が、ひょいとのけぞって避けた。
「なんだよ、この家は蜂が人を出迎えんのかい」
ガラガラ声で来易く声をかけて入ってきたのは、大家の長吉だ。五〇歳になったばかりだが、いまだに近所のガキどもが悪さをすると走って追いかける元気者だ。
「なんのようだ、店賃はこないだ払っておるだろう」
研之介は顔も向けずに寝転がったまま戸口に返事をする。
「あたしが店賃の催促にだけくると思わないでくださいよ。今日は研さんに言伝を持ってきたんですから」
大家は大きな鼻を手で擦り上げて、そのまま上がりかまちに腰をおろした。がたいのいい男なので、かまちがぎいっと悲鳴を上げる。
「ことづてだと?」
研之介はようやく体を起こした。
「本家からなら、いらないぞ?」
佐々木研之介は二二歳。月代をきれいにそりあげ、無精ひげもないつるりとした顔は、年齢より若く見え、年増に好まれそうな愛嬌がある。
しかし、ひと月も着っぱなしのへろへろした単衣から除く胸板は、鍛えられて張りがあった。
「お屋敷からじゃありませんよ。色っぽい話でさぁ。研さん、あんた、琴菊って女、知ってますかい?」
「ことぎく?」
研之介は記憶をさぐった。名前に覚えはある。口に出すと顔より先に彼女の使っていた香りがよみがえった。
「ああ、琴菊かぁ……」
甘酸っぱい思いが胸に満ちる。
琴菊は研之介の初めての女。初恋の相手だ。
「懐かしい名前だな」
「その懐かしのお人からの文ですよ」
「琴菊からの?」
「そうですよ、ほれ」
大家は懐からきちんと折りたたまれた文を差し出した。
「どうも最初はお屋敷に届いたらしいんですけど、研さんは二年前からこの長屋暮らしでござんしょう? 門番の与平さんがこっちの場所を教えたらしいんですよ」
「与平には苦労をかけるな」
研之介は年老いた門番の顔を思い浮かべた。
「与平さんはあたしの親せきですからね。あたしと同じで人の世話をやくのが好きなんですよ。この長屋にあんたさんを紹介したのも与平じいさんですからね」
「そうだったな」
研之介は大家に手を差し出した。
「で、その文というのをもらおうか」
「へっへっへぇ」
大家の長吉は妙な笑い方をした。
「名前からして素人女じゃないでしょう? 研さん、どこで知り合ったんですか?」
「吉原さ」
「へえ、遊女ですかい?」
「確か三年前に身請けされたはずだ。俺はその最後の時期の客だったんだ」
「ほう、深いなじみで?」
「いや、」
研之介は首を振った。
「三回ほど会っただけだ。俺は兄に連れられて初めて吉原に行って、そのときに相手をしてくれたのが琴菊だった。兄は太夫とでも会ってたんだろうがな」
「研さんの兄上さまはお殿様ですからな」
研之介は差し出したままの腕の先で、指を動かした。
「早く、よこせよ」
「あとでその人のことを聞かせておくんなさいよ」
長吉は大きな鼻の下を伸ばしてにやにやした。ようやく文が手の中に落ちる。
研之介は文を開こうとしたが、長吉がまだかまちに座っているのを見て、背を向けた。
「そんじゃあ、失礼しますよ」
長吉は戸を開けたまま部屋を出ていった。研之介は長吉の下駄の音が聞こえなくなってから、ようやく文を開いた。
それには達筆とは言えない手で季節の挨拶から始まり、消息を尋ねる文が続き、会ってご相談申し上げたいことがある、と書かれていた。
場所と日付が書かれている。
「七月十八日 午後五時、上野不忍の池、菖蒲屋―――って、おい、今日じゃないか!」
研之介は顔を上げ、部屋の中を見回した。見回したところで夏の単衣は今着ているこの汗じみた一枚しかない。
「三年ぶりに昔の女に会うっていうのにこれじゃあなあ」
しかも、三年前の方が上等な着物を着ていたはずだ。
「まあしかし、」
昔の女がご相談といえば、たぶん金に関することだろう。研之介も三年前の初心な若者とは違う。初恋の女のためとは言ってもない袖は振れない。
だとしたら、今の身なりのまま行った方が、面倒はないかもしれない。
「いっそ、行かない、という手も」
研之介はもう一度文を見た。
うまい字ではない。かすれたり、とまどったり、よろけたりしている。
だが、その下手さが女の必死な心情を表しているようにも思えた。
三年前に琴菊に初めて会ったとき、世の中にこんなに美しい女がいるのかと驚いた。そして確かに夢中になった。
三度会って、四度目に行ったとき、琴菊は身請【ひか】れたあとだった。
それが遊女の手だったとしても、自分だけの女ではなかったことを思い知らされ、ひどく傷ついた。それっきり吉原へは行かなかったのだが。
研之介は文机へ向かい、その上に載っている手文庫を開けた。
紙やすずりの下に、手ぬぐいにくるんだ金がある。開いてみると二両と一分金、二分銀が数枚。
指が小判の上で迷ったが、結局それを二枚ともつまんだ。
うん、俺はばかだよな。
自分で自分に笑ってみる。
夏の単衣を一枚しか持っていなくても、裏切られた思いは残っていたとしても、惚れた女にいいかっこしたいのだ。
「よし、」
研之介は立ち上がり、やはりぺらぺらのしわだらけの袴を身に着けると、腰に刀を落とした。
「今から出れば十分だな」