天命
玄安に戻った琉を迎えたのは、民の盛大な歓声だった。
琉が凱旋軍を率いて玄安の城門を通過したのは二度目である。前回は初陣において姜涼族を破ったとき。今回の歓声はそのとき以上のものであった。
前回、この歓声を聞いた琉は、その声が自身を帝位に押し上げる声だと感じた。
しかし今回は違う。
――この声が帝位に押し上げるのは、私ではない。
琉は歓声の中に万歳を唱える声を聞いた。万歳は一万年を意味する言葉であり、皇帝の寿命を示す言葉でもある。皇帝の長寿を願い、長き泰平の世が続くことを祈る想いが込められている。
本来ならば皇帝でなければ万歳を受けることは叶わない。そして現在その座は空位である。民から湧き上がった万歳の声は、新たな皇帝が立ち、今度こそ弦の国と民を混乱の中から救い出して欲しいという祈りの声である。
その”新帝”の候補は琉と煌崔の二人であるが、琉は煌崔が新帝となるべきだと考えていた。
――登の過ちを繰り返してはいけない。
煌登は先帝が崩御したときの帝位継承順は第四位に過ぎなかった。余程のことがなければ帝位に就ける順位ではない。その”余程のこと”を現実のものとするため煌登と袁永建は、第一位の皇太子煌荘を殺害し、その罪を第二位の煌崔に着せ、第三位の琉が国外にいるうちに帝位を僭称した。
順を枉げ、逆を行ったのである。
――今、兄上を押し退けて私が帝位に就くということは、登の過ちを繰り返すことになる。
兄を押し退け、弟が帝位に就く。それこそが順を枉げ、逆を行うことに他ならない。
その想いが琉を縛っていた。
その兄、煌崔は凱旋軍が進む大路の先にある宮殿にいるはずである。
長い玄安の大路をゆっくりとすすむ凱旋軍。しかしその時間は琉にはあっという間に感じられた。
大路の先にある宮殿の門前に、琉たちを出迎える者が並んでいる。
「兄上!?」
その中に煌崔の姿を認めた琉は、慌てて馬から飛び降りた。
煌崔は膝を突いて頭を下げていたのである。
「兄上?! いったい何を……?」
「皇帝となられる御方に頭を下げて、何の不自然がありましょうか」
駆け寄る琉に煌崔は頭を上げずに答えた。
煌崔が発した言葉の意味を琉はすぐに理解することができなかった。
「何を仰るのです。皇帝となられるのは兄上ではありませんか」
すぐに煌崔を助け起こそうとする琉。しかし煌崔はそれを制した。
「皇帝となるのは私ではありません。此度の戦でも袁氏を打ち倒したのは私ではなく貴方です。ここで私が帝位に就けば、私は自身を救い出した弟の功を横取りしたと後世の笑い者となってしまいます」
「そんなことはありません。兄上の名があったからこそ、反袁氏の軍勢はここまで集まったのです。この戦勝の功績は全て兄上のものです」
「反袁氏の軍勢が集まったのは共藍公の徳によってです。仮に私を慕って集まったのだとしたら、私のいる長清に兵が集結するはずではありませんか」
しかし実際に長清に馳せ参じたのはそれほど多くはない。
「長清のすぐ近くの諸侯の中には、長清を素通りして共藍公のいる黄央へ向かった者すらいました」
「それは多くが集まる方へ向かうのが安全だと考えたからでしょう」
琉の予想は概ね正しい。しかし”多くが集まる方”が兄である煌崔ではなく、琉であることの事実は何を意味するか。それは火を見るより明らかである。
「なにより、長幼の序を覆すことはできません。それを無理に覆そうとして弦を混乱に陥れた登の例があったばかりではありませんか」
「それは天下万民が認めなかった場合です。万民が認めているのならば、混乱など起きようがありません」
煌崔はそう言って笑うと、立ち上がり門前に集まった民に向かって呼びかけた。
「この私、長清公煌崔は、ここにいる共藍公を次代の皇帝にと考えている! 不服のある者は声を上げてその意思を示せ!」
水を打ったような静けさが空間を支配した。
「では、賛同する者は共に万歳を唱えよ!」
煌崔の声に従い、大音声の万歳の唱和が天空を揺らす。
城門からここまでの道中にも聞いた万歳の声は、確かに琉に向けられていたものだったのだ。
「この場にいる誰もが。いえ、弦にいる全ての者が、貴方が帝位に昇ることを望んでいるのです」
呆気に取られる琉に向かって、煌崔は再び膝を突いて頭を下げた。
「全ての弦国民を代表してお願い申し上げます。空位となった帝位にお就きになり、我ら弦の民をお救いください」
見事な礼容を示す煌崔。
先ほどまでの万歳の大声は掻き消え、琉の返答を聞き逃すまいと再び静寂の支配が訪れる。辺りを見回すと凱旋軍に加わっていた将士も、宮殿から出迎えに出ていた百官も、全ての者が煌崔と同じように琉に向かって膝を突き頭を下げている。
「琉よ」
煌崔が琉にだけ聞こえるような小さな声で語りかける。それは最後に兄として弟に語りかける言葉であった。
「帝位に就くには天命が必要だ。天命とは天から与えられる使命だ。しかし声を持たぬ天は様々な形でそれを表す。先ほどの万歳の唱和がそれだ。この意志に反すると言うことは、天に背くということだ。天命の下らぬ者が望んでも帝位を掴むことができないのと同様、天命の下った者が帝位を拒絶することもできないのだ。天命を受け入れろ」
最後の説得の弁を語り終えると、煌崔は沈黙して琉の返事を待った。
そのとき、琉はこれまで嗅いだことのないような芳香を感じた。
その香りの元を求めて視界を巡らすが、その正体は知れない。
視線を巡らした先で、東の空にうっすらと月が昇り始めているのが見えた。
――あの時も月を見たな。
琉が思い出すのは、初陣としてこの玄安を出発したときに見た月であった。
あのときの出陣が、琉が帝位に向けて前進を始めた第一歩だった。
――あの時見たのは、上弦の月だった。
それは望月へと向かっていく若い月。
今、琉の目に映るのは、成熟した望月。
――月が、天が、時は満ちたと告げているのか。
煌崔の言う通り、天の声には逆らえない。
琉の心は定まった。
玄安に衆南からの使者が到着した。
それは新たな衆南王が即位したことを告げる使者だった。その”新たな衆南王”とは、もちろん馬那王子のことである。
「おお、ついにか」
南方を旅していたときのことが昨日のことのように思い出される。琉が衆南を訪れたのはもう何年も前のことになるにも関わらず、である。
琉が弦の帝位に就いてから二年の時が経っていた。
「衛舜、すぐに祝賀の使者を送る手配を頼む」
琉個人の心情としては直接衆南へ出向いて祝いたいところではあるが、それは到底叶うものではない。
堰氏の改革、袁氏の専横。立て続けに起こった弦国内の混乱による傷は、ようやく癒え始めたといった状況である。まだまだ完全には程遠い。一度荒れた畑はすぐに元通りにはならないのだ。
皇帝である琉が弦を離れるわけにはいかない。
西の国境付近では、戎駱族が再び活発に活動を始めているという情報もある。紅麦は琉が帝位に就いて以降、目立った動きは見せていないが、弦に対等な扱いをされて喜ぶだけでは済むとは考え難い。その紅麦の裏にいるはずの弧の思惑も無視はできない。
問題は山積している。
しかし、琉に不安はなかった。
――私には信頼できる臣下がいる。
戒燕は大将軍として弦国軍をまとめている。盤将軍を破り受け継いだ”弦国最強の武人”の称号は、揺らぐことはない。
衛舜は皇帝の秘書官である尚書令として、琉の近くで支えてくれている。
志道も、志姫も、琅琅も、祢祢も、子昂も、伯舟も、それぞれに役目を担い、琉と弦の国を支えてくれている。
そして何より、琉の精神的支柱となっている人物がすぐ近くにいる。
後宮に戻った琉は、夜空を見上げ一人静かに物思いに耽っていた。
「陛下」
琉を呼ぶ声に振り返る。
「玲寧」
「そのような薄着でおられますとお身体に障りますよ」
そう言いながら、玲寧は手に持っていた上衣を琉の肩に羽織らせる。
「ありがとう。月を見ていたのだ」
琉の言葉に、玲寧も夜空を見上げる。
夜の闇に浮かぶ望月が二人を照らしていた。
「月を見て、何を考えていたの」
玲寧の口調が琉が帝位に昇る以前のように戻っている。二人きりのときはいつもそうだった。
「母上のことを想っていた。私は母上の遺言を果たせているのだろうか、と。私は”立派な皇帝”であるのだろうか、と」
呆れたような溜息を吐く玲寧。
「”立派な皇帝”ねぇ」
「小心者と笑うか」
「そうね」
玲寧は躊躇いなく同意した。
「今、弦の民でそう思わない民がどれだけいるかしら」
琉が誰よりも弦の民を想い、力を尽くしていることは、弦の民ならば誰もが知っている。
しかしそれで慢心するような琉ではない。だからこそ、多くの臣下が琉のために同じく力を尽くしているのである。
「安心しなさい。貴方が道を踏み外したときは、私がこの短剣で貴方を刺してあげるから。それが私がこの後宮に入った理由ですもの」
振り向くと、玲寧の手にはかつて琉が手渡した短剣が握られていた。
後宮においては、本来ならば誰であろうとも寸鉄も帯びることは許されない。しかし琉は玲寧に対してだけは特別にそれを認めていた。
それを見た琉は穏やかに微笑む。
「そのようなことになったら、祥が悲しむな」
玲寧が産んだ子、煌祥のことである。いずれ次代の弦を背負うことになる存在である。
琉が刺されて悲しむのは祥だけではない。
戒燕、衛舜などの臣下たち。
弦国の民。
玲寧自身もきっと悲しむだろう。
――そのようなことは、させない。
改めてその決意を深める琉。
夜の闇に浮かぶ望月を見上げ、心の中で母に語りかける。
私は皇帝として弦の民のために力を尽くしております。
母上の言っていた”立派な皇帝”と言える存在になれているかはわかりません。
それでも天上の母上に恥じぬ皇帝でいるつもりです。
どうか、これからも私を見守っていてください。
望月の煌きが、その声に応えてくれた気がした。




