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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
決戦
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本陣

 共藍軍後方の本陣から遠く前線の戦況を見つめる衛舜の心中には、僅かな焦燥が湧いていた。

――決め手に欠ける……。

 黒竜軍を打ち砕いた共藍軍は、そのまま鶴の胴体に位置する袁氏軍本陣へ突撃を仕掛けた。

 盤呉丹の戦死、黒竜軍の敗走。

 この二つの事実が彼我の士気に与える影響によりそのまま全軍の決着にまで波及する。そう考えていた。

 しかし実際にはそう簡単にはいかなかった。敗走する黒竜軍の兵士を収容した袁氏本陣は黒竜軍の混乱までをも引き継ぐことはなく、どっしりとした布陣で共藍軍の突撃を受け止めた。

――袁氏の本陣は鋳山軍が主体であり弦人ではない兵も多かったため、盤将軍や黒竜軍の敗北の影響が少なかったのであろうか。あるいは、袁氏の本陣を指揮する袁永泉の将器が思いの外大きかったのか。

 袁永泉は鋳山国における最高位の将軍であるが、袁姓であるが故に衛舜は縁故による任命とばかり思っていた。実際に将としての才は平凡ではないのかもしれない。

 共藍軍と袁氏軍本陣の戦闘は、激戦ではあったがどちらも決め手に欠け、一進一退の攻防が続く膠着状態となっていた。

――このままでは鶴の翼で包囲されてしまう。

 左右に大きく展開した袁氏の鶴翼の陣は、徐々にその翼を閉じつつある。それに対応する煌崔の長清軍やその他の諸侯軍も奮戦はしているものの、このままの状態が続けば兵数に勝る袁氏軍に押し切られてしまうだろう。

 その時、傍らで同じく前線を見つめていた琉が口を開いた。

「衛舜、この場はお主に任せる」

「殿下はどうなさるのです」

「私は前線へ向かう」

 決め手に欠けるのであれば、その決め手を創り出せば良い。そのために琉が下した決断は、兵の士気を高揚させるため自らが前線に出ることだった。

「危険です」

「私の身は清隆が護ってくれる。心配はいらない。それに仮に私が討たれたとしても、兄上がおられる」

 琉はそう言うが、やはり琉が戦死してしまえばその影響は大きい。それ以上に衛舜は、琉の臣下として、弦国の未来を憂う民として、琉が危険な前線へ向かうようなことはさせたくはない。

 心情では引き止めたいが、しかし同時に全軍を指揮する総大将の参謀として今この戦況を動かす策を考えたときに、それが大きな効果を発揮するということも分かっている。

 結局、衛舜は琉が前線へ向かうことを止められなかった。

 前線へ向かう琉の背中を見つめながら、衛舜は無力感に包まれていた。衛舜は自身が琉に重用されていたのはその知識と知恵によるものだ、という自負があった。共藍における内政、玄安からの逃避行、出兵してからの作戦指揮、その他あらゆる分野・局面で琉の頭脳となって力を尽くしてきた。この戦いにおいても、全体の作戦には衛舜の意見が多く採用されている。

 しかし実際に戦が始まってしまえば、衛舜にできることは限られてくる。槍を持って戦場を駆けたところで、並の兵士にすら劣ることは明白なのである。

――私がもっと良い策を献じることができていれば。

 主君が自ら危険な前線へ向かうことを止めることもできない自分が歯痒かった。

 もちろん、事前の作戦や謀略の類でできることは限られる。奇策の類は条件がようやく効果を発揮するからこその奇策であり、実際の戦場でその条件が揃わなければ正攻法で押し進む以外に手段はない。そうなると、衛舜の知謀が活きる展開にはならない。

 仕方のないこととはわかっていても、衛舜は自分の意識が無力感の沼に沈んでいくことを止められなかった。

 その沼から衛舜の意識を引き戻したのは、衛業の声だった。

「義兄上! 左軍の戦況が思わしくありません」

 左軍は祢祢が指揮している部隊である。

 衛舜は少し前に伝令の兵から同じ報告を受けていたことを思い出した。本来ならばすぐに援軍を送るべきところだが、無力感に苛まれるあまりその指示を出していなかったのだ。

「す、すぐに援軍を……」

「いえ、中軍から徐将軍が支援に向かったので、左軍はじきに持ち直すでしょう」

 さすがは機を見るに敏な徐仲偉。危機に対しても敏感である。

「すまん」

 思わず謝罪の言葉がこぼれる。

「戦が始まる前であれば私の力が及ぶ範囲は広いが、いざ戦が始まってしまえば私は役立たずだな」

 思わず、弱音が口を突いて出てくる。

 そんな衛舜に向かって衛業が発したのは、叱責の声であった。

「義兄上! 殿下が前線へ上られた以上、この本陣を動かすのは義兄上のお役目でしょう。殿下は義兄上を信頼したからこそ、この場をお任せになり前線へ向かわれたのです。義兄上は殿下のご期待を裏切るおつもりですか」

 衛業が衛舜に対してこれほど激しい語気をぶつけたことはなかった。

「私は共藍の景家へ引き取られてから、ずっと義兄上の背中を追い続けてきました」

 衛舜もそれを自覚し、それに恥じぬよう振舞ってきた。しかしあるときから、衛舜は背中に受ける衛業の視線の熱量が薄くなっていると感じていた。

「しかし私はいつしか義兄上の影に縛られ、そこから抜け出せなくなってしまっていました。そんな私を救ってくれたのは殿下です。殿下は私を義兄上とは比較をせず、私だけを見て信頼を寄せてくださいました。それで私は気付いたのです。私にも私にしかできないことがあるはずだと。だから私にできることをやろうと」

 衛舜の目の前にいるのは、自身を敬愛する可愛らしい義弟などではない。景衛業という立派な一人の男だった。

「義兄上が殿下の信頼に応えられないというのであれば、私がそのお役目を引き受けましょう」

 衛業の顔は、今の自分ならばその役目もこなせるはずだという自信に満ちていた。

――衛業は大きくなったな。

 自分はどうか。衛舜は自問する。

「馬鹿を言うな。殿下に頂いた信頼をおいそれとお前に譲ってやるものか」

 弟が敬愛するに足る大きな存在で在り続ける。それが兄というものだ。それが衛舜の答えだった。

「徐将軍が左軍の支援に向かったということは、中軍がやや手薄になっているはずだ。衛業はすぐに本陣の一部を割き、中軍の後押しへ向かってくれ」

「承知しました」

 衛舜は、衛業の敬愛を受けるに足る自信を取り戻していた。


 煌登は飾りだけの総大将であったが、戦況の報告は逐一届いている。

「共王が前線へ出てきただと……」

「共藍兵の士気高揚が目的と思われます。そしてそれは一定以上の効果を上げております」

 煌登にはまるで理解できないことだった。総大将が危険な前線へ出る、ということも、それによって兵士の士気が上がるということも。

 皇族として生まれた以上、自分は人を使う側の人間であり危険な前線に立つのは自分の役目ではない。それが煌登の”常識”だった。今回の戦においても、当初は戦場に立つことすら考えていなかった。玄安の安全な城の中で、将士が勝利を持ち帰ってくるのをただ待つだけだと。

 大将である袁永建の強い要望と、それに同調した袁永泉によって引きずり出されただけなのである。

 それでも兵数で勝っているという一点のみで「この戦は勝つ」と信じきっていた煌登は、恐れもなく馬車に乗っていた。

 しかし琉が前線に出てきたことで共藍軍の士気は上がり、前線が少しずつ押し込まれているという。

「お、おい、前線に近付き過ぎではないか。矢が届きそうではないか。少し離れよ」

 御者にそう命ずる煌登。

 しかし煌登の乗る馬車が前線に近付いたのではなく、前線が煌登の馬車の地点まで近付いてきているのだ。ここで煌登が馬車を後退させれば、全軍の後退、引いては敗戦にまで繋がりかねない。近くに侍る袁永建はそのこと察していたため、御者が馬車を動かそうとすることを許さなかった。

「永泉がすぐに戦況を立て直す。この場で待っていろ」

 事前の軍議において、煌登はこの伯父が戦場に出ることなく玄安の宮殿に留まるよう働きかけを行ったが、反乱軍を打ち砕く戦功を袁永泉に独り占めさせないとした袁永建は自身が戦場に立つことを譲らなかった。そればかりでなく、いざと言うときのためであろうか煌登の傍を離れることもなかった。

「前線が近く感じるが、まだ矢が届くような距離ではない。心配するな」

 袁永建の言う通り、共藍兵が放った矢が煌登の乗る馬車の方向へ放たれることはあるが、その矢は馬車の遥か手前で失速しまるで届く様子もなかった。

 しかしそれでも身の内をじわじわと焦がす恐怖の炎を消すには至らない。

「あれは……」

 煌登の目に留まったのは、戦場を駆ける大男だった。掲げる幟は盤将軍を一騎打ちにて下したという郭戒燕のもの。

「こ、こっちを見てはおらぬか」

 周囲の兵を蹴散らしながら駆け回っていた戒燕が馬の足を止め、確かにこちらを見ている。

「陛下の幟を見つけたのでしょう。しかしこの距離です。いかに郭将軍とはいえ、どうすることもできません」

 馬車の御者はそう言うが、視線の先の戒燕は弓を構えているように見えた。

 嫌な予感が煌登の背を駆け上がり、悪寒に身を震わせた瞬間。

 戒燕の矢が放たれた。

 強弓に弾かれたその矢は大きな放物線を描き、空を翔る。

「ひっ……!」

 恐怖に身を引きつらせる煌登の視界が赤に染まる。

 戒燕の矢は見事に煌登の馬車にまで届き、御者を射抜いていた。

 糸が切れた人形のように動かなくなった御者の身体。

 その光景が、自分は今戦場にいるという事実を突きつけてくる。

 煌登は恐慌に陥った。

――一刻も早くこの場を離れなければ……!

 その衝動だけが煌登を動かしていた。

 煌登は御者の死体を馬車から蹴落とし、自ら手綱を握る。

 そして瞬く間に馬首を巡らし駆け出していた。

「待て、登! 逃げるな! 待たぬか!」

 袁永建の制止の声など、まるで届いていなかった。


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