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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
異国
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王子

 馬那王子の屋敷は、衆南という大国の王子に相応しい豪奢なものだった。もちろん玄安の後宮とは比較にならないが、共藍の琉の屋敷は足元にも及ばない。

「衆南に滞在している間は、ここを自邸と思って好きに使ってくれて構わない」

「ところで、王子は何故我々に良くしてくださるのでしょうか」

 馬那王子は琉たちを客としてもてなした。衆南の王子の客ともなれば、この国で不自由することはない。琉たちには大きな益があるが、それに見合うだけのものを馬那王子に返せるとは思えない。

「私が弦の皇子だからでしょうか。しかし私は弦の朝廷に追われる身。共藍へ戻ったとしても馬那王子にこの恩を返せるかはわかりません」

 琉の言葉に、馬那王子は快活な笑い声を上げる。

「私が貴方を厚遇するのは見返りを期待してのことではない。いや、この厚遇こそが過去の貴方の働きに対する見返りと考えてもらえれば良い」

 困惑の感情が琉を支配する。馬那王子とはこの衆南に来て初めて対面したのである。玄安にいたときも共藍にいたときも、衆南の王室とは交流はない。見返りとして厚遇を受けるような心当たりは全くない。

 その琉の表情に、馬那王子はまた笑い声を上げた。

「共藍公は私のことを余り知らぬかもしれないが、私は貴方のことを良く知っているのだ」

「私が堰相国を討ったから、ということでしょうか」

 琉に思い当たることはそれくらいしかなかった。弦と衆南とは関係が深い。弦を混乱に陥れた堰無夷の存在が衆南へも何かしらの悪影響を与えていたのだろうか。

「堰氏の存在は衆南にとっても困ったものだったが、しかし彼を除けば弦の混乱が直ちに治まるとは限らぬ。恩を感じるとすれば、彼を除いた者ではなく次に朝廷内で実権を掌握し混乱を治めた者に対しての方が大きいだろう。それが誰になるかは未だ分からぬがな」

 そう語る馬那王子の顔に、琉は僅かな期待の色を見た気がした。

「私が貴方に恩を感じているのは、もっと直接的な利益によってだ。つまり、共藍との交易路を再整備したこと。交易路の再整備で衆南が受ける恩恵も小さくないのだ」

 交易は交易相手がいて初めて成り立つ。衆南と共藍を結ぶ交易路の往来が活発になったことで共藍が得た利益は大きい。それは即ち、同じだけ衆南が得たものも大きいのである。

「交易路を再生させた人物が誰であるかは以前より調べさせて知っていた。こうして対面できて嬉しく思う」

 琉は自分と自分を支持する共藍の民のために力を尽くしたに過ぎない。しかしそれが遠く衆南の王子にまで影響を与えたことに、この世の不思議を感じていた。

「長旅で疲れているだろう。この衆南でゆっくりしていくといい」

「いえ、先ほども申し上げましたが私は罪を犯して逃亡している身。折角のご好意ですが、兄上へ弁明の機会を得るため、一刻も早く共藍へ戻らねばなりません」

 元々旅支度が済めば明日にでも衆南を出発するつもりだったのだ。

 しかしそのことは馬那王子も承知の上であった。

「すぐに共藍へ戻っても、弦帝へ弁明する機会はしばらくはないだろう。急ぐ必要はない」

「どういうことですか」

「弦帝は今、弦の西域を侵す戎駱賊(じゅうらくぞく)を征伐するため、親征軍を率いて出征中なのだ」

 戎駱賊は北西の砂漠地帯を中心に活動する蛮族である。弦と大陸西方諸国とを結ぶ交易路にしばしば出没し、砂漠を進む商隊を襲っていた。

 弦の朝廷を支配していた堰無夷の死で朝廷内の覇権争いが活発になった頃合を見計らい、侵攻してきたのである。

「相国が亡くなり朝廷内が不安定なこの時期に、玄安を離れたというのですか!」

 驚きの声を上げたのは衛舜。しかし皇帝煌丞の性格良く知る琉にとっては不思議なことではなかった。

「兄上は自尊心の塊のような人間です。自身の庭である弦国内に蛮族が入ってきたことに激怒したのでしょう」

 馬那王子もその意見に首肯する。

「朝廷内の騒動については全てを御史大夫の袁永建に一任し、素早く兵を発し西へ向かったということだ」

 事実上、朝廷内の覇権争いは袁氏の勝利となった。皇帝煌丞にしてみれば、皇帝の座にいる限り自身より上位の存在はいない。朝廷の実質的な支配者が自身に縁のある堰氏であろうと、堰氏に対抗する袁氏であろうと構わないのだろう。

「弦帝が凱旋するまでは、弁明の機会は得られぬだろう。それに袁氏が朝廷の支配権を掌握したのであれば、対抗していた堰氏を討った貴方を殊更に追い詰めることはないはずだ。そんなことよりも国内の混乱を治めることに注力するのではないかな。それでもあまり長居はできないだろうが、数日程度ならば構わないだろう。そうするといい」

 やや強引な馬那王子の物言い。しかし不思議と不快さはない。

――不思議な魅力を持つ王子だな。

 その魅力に押されるように、琉たち一行は数日滞在することとなった。


 馬那王子の情報収集能力は非凡なものがあった。

 弦からやってきた琉たちですら知らなかった戎駱賊の侵攻や弦皇帝の親征のことまで把握してた。琉たちが通って来た業湊経由の交易路よりも短い共藍経由の交易路を通って来たのであろうが、それでも恐るべき情報の速さである。

 しかし非凡なのは速さだけではない。

「桟河族も共藍に身を寄せていると聞いている。孟琅琅は息災か」

 馬那王子の口から飛び出た予想外の名に、琉たちは驚きを隠せなかった。

「桟河族を、琅琅をご存知なのですか」

「ああ。共藍公も知っているだろうが、桟河族は元々は衆南の勢力圏下にいた一族だからな。辺境の少数民族でありながら、桟河の戦士といえば衆南全土にその名を轟かせる猛者の集まりと言われていた。その中で若くして最強の称号を背負っていた孟琅琅は、衆南の武人ならば誰もが知っている名だ」

 桟河族の存在を知っていることは不思議ではないが、彼らが琉の下にいることまで把握していることは、馬那王子の情報収集の細やかさの証明と言える。

「桟河族には非常に助けられております。特に琅琅は他には替え難い存在です」

「ああ、孟琅琅は稀代の武才の持ち主と聞いている。あのようなことがなければ、私の臣にとも思っていたのだがな……」

 惜しむように馬那王子が口にした”あのようなこと”とは、桟河の一族が故郷を追われた戦のことである。

「あれは私の異母弟である武麻(ぶま)王子が仕掛けたことなのだ。武麻は自身こそが次期王に相応しいと天下に示すため、精強と名高い桟河の戦士を攻めたのだ」

 武麻王子は「衆南王家を蔑ろにした不敬の罪」を大義名分に桟河を攻めたが、それも武麻王子が桟河族に無理難題を押し付け、それを桟河が断っただけのことであるという。

「武麻の王位に対する執着心は凄まじいものがある。しかし第一王子である私が揺るがぬほどの力を持っていれば、武麻もあのような愚かなことはしなかっただろう」

 衆南の王位は、破壊の女神バーディに力を示すことで地上の支配を認められた、と建国神話に謳われている。武麻王子は、精強な桟河族の戦士を下すことでその”力”が自らにあることを示そうとしたのだ。

 バーディは穢れに満ちた存在を破壊によって浄化し、彼女の姉妹神である創造の女神カーティが再創造を行うための素とする。カーティとバーディは衆南の地でも特に信仰の篤い神であり、衆南の現地で呼ばれる国名が二神の名を併せたものであることからもそれが窺える。

 馬那王子はお世辞にも武に関する才に恵まれているとは言えない。剣を取っても兵を指揮しても、武麻王子の方が優れていることは馬那王子自身を含め万民が認めるところであり、武麻王子は破壊の女神バーディに愛されていると言われている。

 しかし衆南の王位はそれだけで決まるわけではない。内政手腕は馬那王子の方が優れており、馬那王子の所領と武麻王子の所領の発展度合いは比較にならないほどだ。武麻王子と対比され、馬那王子は創造の女神カーティに愛されていると評されている。

「武麻はなんとかして武力衝突に持ち込みたいと考えているらしい。そのためには手段は選ばないだろうな。そうなると困ってしまうのだが、まあ何とかなるだろう」

 他人事のような明るさで笑う馬那王子。

 武に関する領域では異母弟に敵わないと認めている馬那王子だが、そのことに対する不安の色は見えなかった。

 琉にはその理由もよく理解できた。

――私も同じだ。

 琉は武に関しても政に関しても十人並みの水準を出ない。それでも戦でも共藍の統治でも成果を上げることができている。

 それは戒燕や衛舜などの優秀な臣下の存在なくしてはありえない。

――馬那王子にも信頼する優秀な臣下がいるのだろう。

 馬那王子から感じられる不思議な魅力が、その”優秀な臣下”の存在を物語っていた。


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