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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
異国
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異国

 琉を乗せた船が南江を渡る。

 その南岸に着けば、そこはもう弦国の外。

 弦国を離れるに当たり、最も不安な面は言葉の違いである。

 これが弧ならば弦とは歴史的に根を同じくする国であるため、言葉に大きな違いはなく多少の発音の違いはあれど通常の会話をすることに不自由はない。その言葉は、かつて存在した王朝の名から円語と呼ばれている。

 しかし衆南は完全な異国であり、当然ながら言葉も全く異なる。

 そのため景文遼は通訳として一人の男を琉たちに紹介した。

 その男、方伯瑜(ほうはくゆ)は業湊と衆南とを行き来する行商人である。

 単に業湊・衆南間を行き来するだけでなく、その中間の小国を巡って商いを行っている方伯瑜は、南方諸国の情勢などにも詳しい。

「我々は南方諸国に不慣れなため、どうかよろしくお願いします」

 衛舜が商人一行の主として挨拶する。

 方伯瑜に、この一行の正体は明かしていない。

 方伯瑜は元々景文遼と直接交流のあった人物ではなく、あくまでも道案内として金で雇った男である。景文遼は対弧の交易を行う商人であり、衆南方面に詳しい知り合いは多くないのだ。

 景文遼のことであるから信頼の出来る筋からの紹介と思われるが、軽々に正体を明かすことは無用な危険を招くこともある。


 南江を渡ると、一行は真っ直ぐ西へ伸びる街道を進んだ。

 業湊から衆南へ至る経路はいくつかあるが、北の山脈沿いに進む内陸の経路が最短経路となる。

「南へ進み海岸沿いの道を行くか、さらに南の海へ出て船を使った方が、途中に商いの機会は多いのですが……」

 方伯瑜が残念そうに呟く。

 内陸に比べ、海岸沿いの方が大きな街が多い。方伯瑜のような行商人とすれば、海に近い方が都合が良いことが多いのだ。

「今回は急ぎの用があるため、一刻も早く衆南へ向かう必要があるのです。行商はまたの機会に致しましょう」

「沿岸の経路で行商を行う際は、またお声掛け頂ければ存分にご案内致しますよ。何しろ私の主戦場は沿岸の経路ですからね」

「ええ、その際はまた頼らせて頂きます」

 衛舜が愛想良く答える。

「南方は良い所ですよ。晴れれば火傷をするほどに日差しは強く、雨が降ればすぐに新たな川ができるほどに激しい。そして密林に入れば猛獣も多いです」

 良い所、と言いながら短所ばかりを挙げ、自分で笑っている。

 沈黙が耐えられない性質の男なのだろうか。

 方伯瑜は休みなく喋り続けている。

 多言を嫌う志道などは全く肌が合わないらしく、率先して馬車の御者を買って出ていたが、琉は久しぶりの賑やかな雰囲気を楽しんでいた。


 旅は何事もなく順調に進んでいたが、その日辿り着いた街はそれまでと雰囲気を異にしていた。

「この街は弦の属国の中でも最西端の国である燭宜(しょくぎ)に属する街です。それ故に、弦の混乱の影響を最も受けている国の一つと言ってもいいでしょう」

 方伯瑜の説明に、琉が首を捻る。

「離れているのに影響があるのですか」

「離れているからこそですよ、(りゅう)殿」

 柳、とは琉のことである。

 方伯瑜に正体を明かせない琉は、柳玄威(げんい)という偽名を使っていた。柳は亡き母の姓でもある。

「南方諸国の多くは、弦か衆南かのいずれかの属国となってその立場を保っているのです。しかし昨今の弦の混乱によりその威光が薄れると、他国からの侵攻を抑えることができなくなってしまうのです」

 燭宜は弦の威光が薄れたために他国の侵攻に遭い、疲弊しているという。

 街に入った琉はその言葉が事実であることを知った。

 商人の多く通る街道沿いの街であるため形だけは市場が開かれている。しかしそこにはこれまでの街にあったような活気は感じられなかった。

「このような街はさっさと通過してしまうに限ります。必要な物を揃えたら先へ進みましょう」

 そう言いながらどんどんを市場を進んでいく方伯瑜。

 慌てて後を追う琉に小さな影がぶつかった。

「すまない」

 咄嗟に謝る琉の目に映ったのは、小さな少年だった。

 ぼろぼろの服とも言えないような布を纏った少年には、貧しい生活を強いられていることを容易に想像させられる。

――この街にはこのような子供が多いのだろうか。

 通りから見える路地には、似たような格好の子供が顔を覗かせていた。

 少年は振り返りもせず立ち去ろうとするが、その前を清隆が遮った。

「おいたは良くないな、少年」

 清隆の華やかな笑みを向けられた少年の顔に一瞬焦り色が浮かぶ。

 一瞬の後、少年は弾かれたように走り出した。

 しかし清隆からは逃れられない。

 鞘のままの刀を器用に少年の服に引っ掛け、少年を宙吊りにする。

「は、はなせ!」

「まずは君がその懐の物から手を離すのが先だろう」

 そう言って懐に突っ込まれたままの少年の手を引き出すと、そこに握られていた物は紐で括られた銭の束だった。

「それは……、私の!」

 琉が慌てて自身の懐を探ると、銭が無くなっていた。

 先ほど少年とぶつかった際に抜き取られていたのか。

「返してもらおうか」

「や、やめろ!」

 清隆が取り上げようとするが、少年は暴れて抵抗する。

 その衝撃に、少年の服が破れた。

 その軽い体重を支えていた刀との繋がりがなくなり、地面へ落下する。

 痛みに呻きながらも這うように逃げ出そうとする少年を、清隆がすぐに押さえつけた。

「何故このようなことをしているのだ」

 清隆に組み敷かれた少年に、穏やかに問いかける琉。

「こんなことでもしないと生きていけないんだ。おやじは戦で死んだ。かあちゃんは病気で寝ている」

 満面に威嚇の色を表した少年。

 琉の心中は同情で埋め尽くされた。

 その気配に場の空気が僅かに弛緩する。

 その瞬間。

 少年が精一杯に身を捩り、握っていた銭を投げた。

 銭が放られた先。

 そこにはさらに小さな少年がいた。

「兄ちゃん!」

「それ持って早く逃げろ!」

 鋭く叫ぶ兄の声に、銭を受け取った弟は一瞬の逡巡を見せながらもすぐに走り出し路地へ消えて行った。

 すぐに追いかけようとする志道を琉が制す。

「追わなくて良い。大した金額ではない」

 一行の旅の資金を管理しているのは衛舜である。

 琉が持っていたのは咄嗟のときに使うための僅かな金額だけだった。

「その少年も解放してやってくれ」

 琉の言葉に清隆が力を緩めると、少年はすぐに起き上がり駆け出して行った。


 宿に落ち着いた琉が思い出すのは、昼間の少年のことばかりだった。

――弦が混乱して苦しむのは、弦の民だけではない。

 そのようなことがあると、琉は想像もしていなかった。

 弦は弧と並ぶ大陸東方の二大強国と呼ばれている。

 それはただ強い力を持つから、というわけではないことを琉は初めて知った。

 弦という強国の威光。

 その傘下に入ることにより、多くの小国が安寧を享受してしたのだ。

――安定の維持。それが強国に課せられた責務なのか。

 それを想うと、琉の父・平帝の治世がどれほど素晴らしかったか。

 これまで、琉は平帝の治世を”平凡”だと思っていた。

 版図を広げたわけでもない。

 後世に残る大きな事業を行ったわけでもない。

 先代の皇帝から引き継いだ弦という国を、可もなく不可もなく維持し、次代の煌丞へ伝えた。

 ただそれだけだと思っていた。

 しかし、その”ただそれだけ”がどれほど偉大で、重要なことであったか。

 それは”平”という諡号にも現れている。

 諡号とは生前の治世の内容によって奉られる名である。良い治世を行った皇帝には美諡が、そうでない皇帝には悪諡が、中間の皇帝には平諡が奉られる。

 ”平”という諡号は美諡に当たる。

 平らかな治世。即ち国内が安定し民が苦しむことがなかった、ということである。

 平帝は間違いなく”立派な皇帝”だったと言えよう。

――私が目指す”立派な皇帝”とは、どのようなものなのだろうか。

 母の遺言に従い琉が漠然と目指してきた”立派な皇帝”。

 異国の小さな少年との出会いが、それを見直すきっかけとなった。


第五章開幕です。

琉たちは弦を離れ南方諸国へ。

引き続きお付き合いください。

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