交戦
張屯長の首は「命令に背き、言い訳に田参軍の命であると騙ったため斬首した」といった旨の報告を添えて本陣へ送られた。
「田参軍の命である」と断定しなかったのは、追い詰めすぎるとあの小心者がどんな非常手段に出るかわからないからだ。小心の田参軍ならば、保身のため知らぬ存ぜぬを押し通すのが精いっぱいだろう。
――「知らぬ」と誤魔化し切れる程度でちょうどいい
ひとまず軍中の脅威は排除されたが、問題はまだ残っていた。
琉が率いる隊の半数を構成する屯を纏めていた屯長を斬首してしまったのだ。
代わりの者を立てる必要がある。
「我こそは、と思う者はいないか」
琉は各隊長格を呼び出し志願を求めた。
張屯長の部下であった百人隊長である閭長五名は目の前で上官を斬られたということもあってか、誰も名乗り出る者はいない。
もう一方の呉屯長配下の閭長たちに目を向けると、やはり逡巡の色が見えた。が、その中で一人だけ前へでる者がいた。
琉がその男を見た第一印象は「小さい」であった。
年齢は琉よりも一回りは上であろうが、体格だけをみればまるで冠礼前の少年のようだ。
大柄な戒燕と比べれば誰でも小さいが、平均的な身長の琉と比べても、頭一つ分は小さい。
「名はなんという」
「董志道」
琉の問いに短く静かに姓名のみを発声した。
体格から予想していたほど甲高い声ではなく、年相応の落ち着きを感じさせる声だった。
「では董閭長、お主は今から董屯長だ」
もちろん正式な任官ではなく、この戦だけの仮待遇だがな、と笑う琉。しかしこの戦で功績を挙げれば仮待遇ではなくなる可能性は大いにある。
その言葉を聞いた董閭長の顔に僅かな驚きの色が浮かんだ。
こんなにあっさり決めてしまって良いのか、と言いたげな顔である。
「この屯を任せるという好機に飛びつけない者は、私を軽んじているか、単に惰弱な性情をしているかのどちらかだ。前者であればこちらも重んじることはないし、後者ならば兵を任すことはできない」
と琉は説明したが、別の事情もある。
各隊長の能力・為人を詳しく知っているわけではなく、今はじっくり吟味する時間もない。
琉の求めに前に進み出る者に兵を任せる以外はないのだ。
「頼んだぞ、董屯長」
琉の言葉に深々と頭を下げる董屯長。
そういえばまだ名前以外に声を聞いていないな、と琉は思った。寡黙な性質の人間のようだ。
――口を開けば阿諛追従ばかりの田参軍のような者よりはずっといい
琉は何故かこの寡黙な小男を気に入り始めていた。
行軍が再開された。
新任した董屯長の隊を前に山道を急ぐ。
しかし琉の心には微かな引っかかりが残っていた。
――田参軍の妨害工作はこれで終わりなのか
おそらく軍中に張屯長のような密命を受けた者は、もう他にはいないだろう。
屯長に下した密命があの程度の工作であるならば、それより下位の者に直接的な妨害を命じても効果や成功率は低い。
もう一方の呉屯長を観察していても、後ろ暗い感情の色は見えなかった。
――そうなると、敵方に何か働きかけをしているのか。
琉は前を行く董屯長に「斥候を多く出し索敵を重視するように」と指示を出した。
敵方との繋がりがなかったとしても、例えば斥候をわざと捕らえさせ別動隊の存在を漏らすようにすればいい。
もし姜王が別動隊の対応に兵を割けば本隊同士の決戦で弦軍はより有利になる。これは明らかな利敵行為とは言えないだろう。
琉が率いる別動隊が敗れこの迂回路を逆用し後背に回られたとしても、その頃には本隊同士の戦は決着しているだろう。
全て煌丞にとって都合のいい策である。
――あの参軍が考えそうなことだ
出発前からの疑問の答えが見えてきた。
全行程の半ば過ぎたころ、董屯長から敵兵発見の報がもたらされた。琉の予想は当たっていたのだ。
「この先の狭隘な坂路の下、少し開けた広場に敵兵千余りが布陣しております」
董屯長からの伝令兵が地図を広げ説明をする。
「坂の下で布陣だと?」
通常、坂道での戦闘は上部に位置する方が有利である。矢の射程は長くなり、突撃の威力も増す。
それなのにわざわざ坂下に布陣するということは、明らかに罠であろう。
「伏兵がいるな」
「はい。坂の上数か所に併せて100余りの兵が伏せております」
伝令兵が地図上の数か所を指し示した。
「伏兵の場所までわかっているのか」
敵兵発見は予想していたものの、さすがにその報告に琉は驚きを隠せなかった。
「まさか、近付き過ぎてこちらの存在に気付かれてはいないか」
「その心配はないと思います。董屯長が潜んで敵を監視しているのはこの位置ですから」
と伝令兵が指し示したのは、敵が潜むという地点からかなりの距離があった。
確かにこの位置では敵に見つかる恐れは低いだろうが、こちらからも本当に見えているのか疑いたくなってしまう。
「敵兵は董屯長が見つけました。常人でもそこに敵兵がいると言われれば、目を凝らして見えないことはありません。私もこの目で確認しました」
伝令兵の顔に誇らしさと董屯長に対する尊敬の色が浮かんでいる。
草原で馬を駆って生きる姜涼族は、山中での伏兵に慣れていないということもあるのだろう。しかしそれでもこの距離で敵を発見できるのは驚嘆すべき異能である。琉とさほど変わらぬ若い伝令兵が心酔するのも不思議ではない。
兵法に「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」とある。敵味方の状況を正確に把握していれば、戦いを挑んで負けることはないということだ。
この報告が真実ならば、この戦闘は既に勝利したと言っても過言ではないだろう。
兵数だけで言えば姜涼兵がやや勝るが、伏兵さえ処理できれば敵の本体は不利な坂の下である。罠に嵌めたと思っている慢心とそれが看破されていると分かったときの動揺も大きいだろう。
「各隊長を集めろ。敵兵を一気に討ち破るぞ」
いよいよ、琉が初めて敵と刃を交える時が来た。
姜涼族の別動隊を率いる侑軒は、自分こそが父の姜王の後を継ぐに相応しい器である、と自負している。
一族の中でも「孟統と並ぶ武勇を誇る猛将」と尊敬を集めているが、侑軒の心中には「俺は孟統とは違う」という思いがあった。
――父は武勇だけでなく、知略にも優れる英傑なのだ。その子である自分が、蛮勇のみを誇る孟統と同列に扱われるなど不本意極まりない。
弦の斥候を捕らえ、別動隊の存在を知ったとき、すぐに迎撃の兵を出させてくれと姜王へ志願した。姜王の指示がなければまともな用兵ができぬ孟統と違い、自分は一人でも兵を率いて弦の皇子を捕らえてくる。
そう意気込んで山中に入ったのだ。
しかし、それは童子のような妄想であった。
坂の上に伏せさせた兵たちの悲鳴が聞こえている。
「馬鹿な! 伏兵が襲われているだと!?」
伏兵は隠れているから意味があるのだ。存在が知られている伏兵など、ただの寡兵に過ぎない。
「同胞を見捨てることはできない! 救援に向かうぞ!」
そう指示を出し騎馬の腹を蹴り坂を駆け上がる。しかし、それが侑軒の最大の失策であったことは、冷静さを欠いている彼には判断できなかった。
坂を駆け上がる姜涼兵に坂の上から弦兵の放つ矢の雨が降り注いだ。
浮足立つ姜涼兵。
そこへ弦兵の突撃が突き刺さる。
坂を駆け下りる勢いを乗せたその突撃は、止めようがなかった。
混乱する兵の中で、侑軒は最後の足掻きに出るしかなかった。
――ここで死ぬにせよ、このままでは冥府で父に合わす顔がない。せめて敵将である皇子を道連れにしなければ。
侑軒は槍を掲げ大音声で名乗りを上げた。
「我こそは姜王が第三王子、侑軒! 敵将、煌琉! せめてその首を持って冥府への土産とさせてもらう!」
陣の最奥で馬に騎乗しているのが煌琉に違いない。両者の軍は歩兵が中心である。馬に騎乗しているのは隊を率いる隊長かそれに準ずる地位の者であろう。
しかし駆けだそうとする侑軒の前に現れたのは、先ほどの突撃で先頭を走っていた大男であった。若いが黒馬を操るその姿は堂々としており、威風を感じられた。
この男も馬に騎乗しているということは、それなりの地位の者であろう。
「我が名は仮侯郭戒燕! 殿下の首は取らせはしない!」
名乗りを聞きなるほどと得心した。弦の軍制では、仮侯とは軍侯の副官の地位だったはずだ。つまり、この部隊を率いる皇子の側近か。
「お前などの相手をしている暇はない」
気合と共に繰り出した侑軒の槍は、しかし戒燕の槍に軽く受け止められてしまった。
一撃で突き落とすつもりの槍を受けられ、少なからず驚いた。
――この小僧、なかなかできる。が、盤将軍ほどではないだろう。
盤将軍以外の者には負けはしない。
そう敵の力量を見定めた侑軒だったが、この見立てもやはり甘いものであった。
次の瞬間、戒燕の繰り出す槍が侑軒の右肩に深々と突き刺さっていた。
あまりにも速い一撃だった。
咄嗟に肩に刺さった槍を掴む。
致命傷は何とか避けたものの、落馬せずに踏みとどまることはできなかった。
――この命と引き換えにできるのは、敵将の首どころかその副官の槍の一本に過ぎなかったのか。
大地に衝突し薄れゆく意識の中で、侑軒の心中は自分が井の中の蛙であったと忸怩たる思いに満ちていた。
琉は散り散りに逃げていく姜涼兵たちを坂の上から見ていた。
将が敗れた以上、兵たちはこれ以上戦闘を継続させることはできない。
戒燕ならば必ず勝てる、と疑っていなかったが、それでも敵将が落馬した瞬間は安堵の気持ちが強かった。
そして徐々に戦勝の喜びが湧き上がってきた。
敵将の侑軒は重傷を負いつつも、命に別状はないということだった。姜王の子と名乗っていた。生かして捕らえておけば利用価値もあるだろう。
「戒燕! 董屯長! よくやってくれた!」
功労者二人に、琉は褒詞を惜しまなかった。
この戦勝は二人の働きによるものだ。
琉はこのまま宴でも開いて二人を称賛したいくらいの気持ちだったが、そんな猶予はない。
この戦はあくまでも局地戦に過ぎないのだ。敗残の敵兵が本隊にこの敗戦を報告する前に山を抜けねばならない。掃討戦をやっている暇もなかった。
早々に決着がついたとはいえ予定外の戦闘が発生した。
元々余裕のない行程である。
到着が遅れ任務に失敗すれば、この局地戦の勝利などなんの意味も持たないだろう。
負傷者の手当てもそこそこに、行軍は再開された。