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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
長途
25/62

逃亡

 皇帝・煌丞が堰相国の訃報に接したとき、悲哀の感情は湧かなかった。

 ただただ怒りがあるのみだった。

 煌丞は皇帝の長子、皇后の子として生を受けた。

 生まれながらに次期皇帝が約束されていたと言って良い。その周囲には次期皇帝に気に入られようと媚び諂う大人たちが群がった。

 煌丞にとって、その大人たちは全て自分が自由にしていい道具でしかなかく、それは従兄である堰無夷も同じだった。

 しかし部下としての情はなくとも、所有物に対する執着は強い。

――俺の所有物を害したのだ。ただでは済まさぬ。

 すぐに追っ手を出すよう指示を出した。

「あの下賤の血を引く義弟の首を必ず俺の前に持って来い」

 下賤の血、とはもちろん琉の母のことである。

 幼少期から平民出身の琉の母を蔑視し、虐げるような扱いをしてきた煌丞である。

――共藍などに飛ばさずに、この玄安で殺しておけばよかったのだ。

 琉が初陣で戦功を挙げ、凱旋してきた後のことである。

 当時、皇太子だった煌丞は杜丞相と謀り共藍という辺境に追いやった。目障りな義弟を目の前から排除するためだ。

 辺境に追いやるだけで味方のいない琉はもはや何もできないだろうと思っていた。

 しかし琉はその辺境を大いに発展させ、今や無視できぬ存在感を発揮するようになってしまった。

――忌々しい。

 琉を「連れて来い」ではなく、「首を持って来い」と言った煌丞に、もう生きた琉と顔を合わせるつもりはなかった。


 堰家の屋敷を出た琉たちは、そのまま玄安を脱出した。

 質素な屋敷は衛兵の数も多くはなかったらしい。

 火事の対処に追われ、逃げ行く琉たちに気付く者は少なかった。

 琉たちが玄安を出るまでに、混乱が屋敷外へ広がった様子も見受けられなかった。

「大変なことをした」

 玄安の都を出てしばらくして、琉が重い口を開いた。

 堰相国の屋敷へは”改革”の見直しを求めて嘆願するだけのつもりであり、暗殺など露ほどにも考えていなかったのだ。

「私の中の鬼を抑えることができなかった」

 怒りという名を持つ鬼は琉の冷静さを失わせ、鬼の気が手に持った剣に宿り堰相国の生命を奪った。

「しかし、そもそも衛兵を動かし殿下を害そうとしたのは、堰相国の方ではありませんか。我々はそれを返り討ちにしたに過ぎません」

「しかし、それを陛下がお認めになるとは思えませんな」

 戒燕が慰めるが、衛舜は冷静に状況の分析をする。

 堰相国の名は今や悪名と言って良いほどに、民に嫌われている。しかしその堰氏を相国に任じた皇帝にとっては、この暗殺は見過ごせない事態だ。謁見の際に発した怒りがその証明である。

 煌丞の為人を鑑みても、追っ手に捕らわれたら弁明の余地なく首を刎ねられると思っていいだろう。

「経緯はどうあれ、私の軽率な行動が臣下であるお主らを危険な目に遭わせていることに違いはない。済まない」

 自身の非を認め、臣下に対してであろうともあっさり頭を下げることができるのが琉の美徳である。

 そこに惚れ込み臣下として忠誠を誓う彼らが琉を責めることはなかった。

「私が相国を説得し、翻意を促さねばいけませんでした」

 同席していた衛舜が反省の弁を述べる。

 実際には衛舜が口を開いたところで、堰相国の癇癪が炸裂したため衛舜は黙らざるをえなかった。

「そもそも乾殿がついていながら、なぜ殿下が直接剣を振るわねばならなかったのだ」

 戒燕が話題の矛先を清隆に向ける。

「乾殿がしっかり殿下をお護りしていれば、殿下が自ら剣を振るわねばならぬこともなかっただろう」

「無手で数人の衛兵を黙らせる必要がありましたので、武を修めぬ老人は無視しただけのこと。殿下の技量ならば、得物があればあの程度の老人など脅威ではありません」

 清隆はその見立てがあったからこそ、衛兵から奪った剣を琉に渡し衛兵の制圧を優先させたのだ。あの場での琉の身の安全だけを考えれば、その見立ては間違っていなかった。

「そもそも刀が手元にあれば殿下より先に私があの醜い老人を斬っていましたよ」

 さらりと言い放つ清隆。

「あの老人も”妄想”という醜い鬼に支配されていたのです。殺されて文句の言えるような人物ではありません」

 清隆は琉に忠誠を誓ってはいるものの、元々弦の民ではなく今も官職に就いていない。そんな清隆にとっては、堰相国は敬う対象ですらない。

「ともあれ、まずは共藍へ戻らねばなりません。共藍へ戻れば弁明の機会を作ることもできるでしょう」

 衛舜の言葉通り、すぐに追っ手が出されたらしい。

 琉たちの乗る馬車を追うように、土煙が遠くに見えた。

 いち早く土煙に気付いた志道は、それが騎兵だと即断した。騎兵であれば、琉たちの乗る馬車よりも速度が出る。追いつかれるのは時間の問題だろう。

「馬車を捨てましょう」

 衛舜は馬車を捨て山道に入ることを進言した。仮に街道を外れたとしても、馬車の轍が残っては振り切ることは難しい。

 琉もすぐにその進言を容れた。

「この娘はどうしますか」

 清隆が指したのは、堰家の屋敷で玲寧と呼ばれていた少女であった。屋敷を離れる際、恐怖の余りだろうか琉の着物を掴んで離さなかったため、そのままここまで連れて来てしまった。

 馬車が走り始めると降ろす間もなかった。

「馬車はこのまましばらく走らせます。追っ手に保護されれば玄安へ戻れるでしょう」

 馬車は御者がいなくともしばらくは走り続ける。追っ手にどこで馬車を捨てたか悟らせないために、無人のまま走らせるつもりだった。そこに少女が一人乗っていても問題はないだろう。

 すぐに馬車を止め、琉と臣下たちが降りた。

「一人で心細かろうが、しばらく我慢してくれ」

 琉が馬車に残る少女に声をかける。

 しかし、それまで黙ったまま微動だにしなかった玲寧が、突如動き出した。

 馬車を飛び降り琉に体当たりすると、腰に佩いた剣を奪った。

「な、何を……!」

「死ね!」

 そのまま琉に向かって剣を突き出した。

 しかしその剣はすぐに戒燕によって叩き落され、玲寧は地面に組み伏せられた。

「離せ!」

 暴れる玲寧だが、戒燕の豪力を振り解けるわけもない。

「戒燕殿。そんな少女に乱暴はいけない」

「相手が誰であろうと、殿下に危害を加えようとする者を見過ごすことはできない」

 少女を気遣う清隆だが、戒燕は受け入れなかった。

 奇しくも、その言葉は清隆が堰家の屋敷で堰相国へ放ったものと同じものだった。

「戒燕。剣を奪えば大丈夫だ。離してやれ」

 琉の言葉に、戒燕が力を緩める。

「いきなりどうしたと言うのです。殿下は屋敷で貴女を庇ってくださったお方なのですよ」

 衛舜の問いに、玲寧は琉を真っ直ぐ睨み付けたまま答える。

「貴方は義父(ちちうえ)の仇」

 それは予想外の告白だった。

「私の名は堰玲寧。相国は私の義父よ」


 堰相国の子は二男一女の三人であり、すでに三人とも成人を済ませていたはずだ。

 唯一の娘は、既にどこかの貴族へ嫁しているはずであり、このような少女がいるとは聞いたことがない。

「私の本当の両親が私が幼い頃に死んだらしいわ。義父上はそんな私を引き取って養女にしたのよ」

 その言葉で琉も思い出した。

 堰相国の”改革”の中に「貴族は位に応じて孤児を養子に取ること」を法として定めたものがあった。”改革”により国内が混乱し盗賊や内乱も少なくない状況で、増え続けていた孤児に憂慮した堰相国の思い付きだったのだろう。

 琉もその気持ちはわからなくもなかったが、その実態は理想とはかけ離れていた。

 養子を取ることを強制された貴族の多くは、その養子を奴隷のように扱った。満足に食事を与えられず粗末な小屋に押し込められる、という程度なら良い方で、貴族の実子に虐められそのまま殺される例も少なくなかった。

 しかしその”改革”を発案した堰相国は、本来の趣旨の通りに養育をしていたのだろう。それは玲寧が琉に向ける敵意の篭った眼差しで明らかだった。

「貴方は義父上の仇。私がこの手で殺してやる」

「お主はその義父に鞭で打たれそうになり、最後には剣まで抜いていたのだぞ」

 琉に庇わなければ、殺されていたとしてもおかしくはない状況だった。

 しかし、玲寧には関係のなかった。

「それは私が失敗をしたから。折檻を受けて当然のことよ」

 玲寧の顔には様々な感情の色が浮かんでいた。

 怒り。

 憎しみ。

 哀しみ。

 そして不安。

「義父上がいなくて、私はこれからどうやって生きていけばいいの」

 玲寧の目には涙が溢れていた。

 琉にはその感情に覚えがある。

――この娘の世界には、義父である堰相国しかいなかったのだろう。

 政略結婚により、琉の元へ来た杜涼香。

 涼香も共藍へ来るまでは、父親がその小さな世界の絶対者であった。その涼香は絶対者である父親の幻想を共藍にて打ち砕くことができ、その呪縛から解放された。

 しかしこの少女にそれができるだろうか。

 むしろその絶対者が死者となったことで、その絶対性が強まってしまったということも考えられる。そうなれば尋常な手段でその呪縛を解くことは難しいだろう。

「私はまだやるべきことがある。ここにいる臣下たちの期待にも応えねばならない」

 琉は玲寧の怨念の篭った視線を真っ直ぐ受け止め、語りかける。

「だから、今ここでお主に仇を取らせてやることはできない。だが、私がお主の義父を殺めたという事実に変わりはない。その事実から逃げもしない」

 そう言いながら、琉は短剣を取り出し、玲寧の手に握らせた。

「仇を取りたいのならば、いつでもその短剣で私の命を狙うがいい」

 そして琉は玲寧に背を向け歩き出した。

「付いて来るなら来い。我々も危ない旅になるから、自分の身は自分で護れ」

 琉の目的は、玲寧に生きるための”目標”を与えることだった。

 琉自身、幼少期にその狭い世界の絶対者とも言える母を亡くしている。

 その琉を救ったのは、母の遺言である「立派な皇帝になりなさい」という”目標”だったのだ。

「必ず、貴方を殺してみせるわ」

 玲寧の目には、強い生命の光が宿っていた。


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