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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
長途
24/62

心中の鬼

 堰相国の顔は怒りの色に染まっていた。

「この無礼者が! 一体誰に対して物を言っているのだ!」

 それはあまりに唐突な爆発であった。

 その爆発の原因は、衛舜に図星を突かれたからではなかった。

「お前の主は私ではなく、殿下であろう! 主が横にいながら、その主を差し置いて言を発するとは無礼ではないか!」

 琉も衛舜も何を言われているのか咄嗟に理解できなかったが、一瞬の後にすぐ思い至った。

 それは堰相国の”改革”によって創作された礼であった。

 琉の臣下である衛舜は琉への”助言”を行い、琉がそれを容れた場合は琉から堰相国へその内容を発言する、それが礼であるという”改革”が数ヶ月前に布告されていたのだ。

 それを聞いたほぼ全ての者が「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付して、それを実行する者はほとんどいなかった。

 記憶力に優れる衛舜ですらそれを忘却していたくらいである。

「堰相国、失礼を致しました。どうか怒りをお収めください」

 琉が取り成しに入り、堰相国も怒りを収めた。

 元々堰相国の”礼”は”主を差し置いて言を発する”ことが無礼であるとしている。つまり無礼の相手は主である琉なのだ。

 その琉がその”無礼”を咎めないならば、堰相国がこれ以上口を出すことではない。

「しかし、衛舜の言う通りです。今の堰相国の”改革”のやり方では、どんな従順な民であろうとも罪を避け続けることは非常に困難です」

「私は民のために”改革”を実行しているのだ。私の”改革”が弦の全土に隈なく浸透すれば、この国はまさに理想国家となるのだ。そのためには多少の混乱や犠牲は仕方のないことです」

 その”理想”とは誰にとっての理想だろうか。

 堰相国は、それが全ての民にとっての”理想”であると考えているが、それこそ妄想と言わざるを得ない。

「現にその”改革”によって民が苦しんでいるのです。堰相国の”改革”が始まって以降、どれほど罪人とされた民がいるか、ご存知ないはずがありません。民が苦しんでいて何が理想ですか」

 言い合ううちに両者とも熱が入っていき、ついに両者はお互い以外の者が見えなくなっていた。

「私は陛下からこの国の全てを委任された相国なのです。この弦という国は陛下の所有物である以上、全てを任された私の所有物でもあります」

 堰相国が発したその言葉は、踏み込んではいけない領域だった。

「国も民も誰の所有物でもない!」

 琉の怒号と共に、椅子が倒れる音が響く。

 琉は思わず椅子を蹴って立ち上がっていた。

「きゃあ!」

 その悲鳴は琉への給仕のために傍に控えていた少女のものだった。

 琉が蹴倒してしまった椅子に驚き、手に持っていた酒器を取り落としてしまった。

 宙を舞う酒器は咄嗟に伸ばした琉の手に収まり床への激突は免れたものの、中の酒が飛び出し琉の服を濡らしてしまう。

「も、申し訳ありません」

「いや、驚かせて済まない」

 少女の怯え様に、堰相国とのやり取りで沸騰しかけた琉の頭はやや冷静さを取り戻していた。

 震えながら平伏するその少女を気遣う琉。

 しかし少女は頭を上げずその震えも止まらない。

 よく見るとその平伏の姿勢も見慣れぬものであった。

「玲寧!」

 再び堰相国の怒号が飛ぶ。

「何だその礼は! お前は私を馬鹿にしているのか!」

 玲寧、というのがその少女の名前だろうか。

「その礼は主に対するものではないか! 客人である殿下にその礼を行うとは、私は主ではないと、そう言いたいのか」

――またか……。

 琉の心中に湧いた感情は、呆れであった。

 それはやはり数ヶ月前に”改革”によって堰相国が創作した礼があった。

 それは謝罪の際の平伏について、主人に対するものと客人に対するものとを区別するというものである。

 客人に対するものは古来の礼をそのまま行えばよく、もちろん主人に対する礼をそれと同じものを行ったところで、無礼だと怒る者はまずいなかった。

 やはり忘れられた”改革”である。

 しかし発祥であるこの堰家では日常的に行われていた。

 普段主人に対する礼ばかりを行っていたため、ついそれを客人である琉にも行ってしまったのだろう。

 今度は主人に対する無礼も含まれていることであり、琉が取り成したところで堰相国の怒りは収まらなかった。

「そこへ直れ! 玲寧!」

 堰相国が折檻のための鞭を構える。

 そして震えながら平伏する玲寧に向かって振り下ろされた。

「ぐっ!」

 鞭は咄嗟に庇った琉の背中を強かに打ち、琉の口から苦悶の声が漏れる。

 鞭と言っても、硬鞭と呼ばれるしなりのない木の棒である。それを力任せに振り下ろしたのだ。

 琉が受けたその痛みは、そのまま怒りへと変換された。

――このような少女へ躊躇いも無く鞭を振るうのか!

 堰相国は自身の”改革”により鞭打ちを含む肉刑を廃止していた。

 しかし、自邸の内では折檻に鞭を用いていたのだ。

「お退きください、殿下!」

「このような少女に、なんということを! 貴方には慈悲の心がないのか」

 玲寧を庇い続ける琉に、堰相国は再び鞭を振り上げた。

 しかしそれは清隆に止められ、振り下ろされることはなかった。

 清隆は鞭を奪い、そのままの勢いで堰相国を突き飛ばした。

 壁際までよろけた堰相国の怒りの矛先が、清隆へ向かう。

「き、貴様! 何をする! 私はこの国を運営する相国であるぞ!」

「私は殿下の護衛役でございます。相手が誰であろうと、殿下に危害を加えようとする者を見過ごすことはできません」

 平然と言ってのける清隆の顔には、静かな怒りの色が見えた。

「衛兵! この無礼者共を捕らえよ!」

 堰相国の声に応じ、奥の室から衛兵数名が雪崩れ込んでくる。

――やはり。

 奥の室に人の気配があることは、堂に入った直後に清隆が気付き注意を促してくれていた。

 その清隆は突然雪崩れ込んで来た者たちにも躊躇することなく、先頭の一人を当て身で昏倒させ剣を奪う。

「殿下、これを」

 清隆が奪った剣を琉へ渡す。

「流石に衛兵数人を刀なしで制圧するには多少の時間がかかります。その間はこれでご自身をお護りください」

 そう言う清隆の視線の先には、壁に飾られた数少ない装飾品である宝剣を抜く堰相国の姿があった。

 その目は冷静さを失い血走っていた。

「殿下、最後の忠告でございます。玲寧をこちらへお渡しください」

「乱暴をなさるおつもりならば、お渡しするわけにはいきません。まずは剣をお収めください」

「この家の者は全て私の所有物だ! 私がどのように扱おうとも、私の自由であろう!」

 発狂し、宝剣を振り上げる堰相国。

 しかし所詮はまともに剣を握ったこともない文官の剣。

 戦場に立つため幼少期より武芸を修めている琉ならば対処は容易である。

 あっという間に宝剣を叩き落し、堰相国を壁際へ追い込んだ。

「わ、私をどうしようと言うのだ」

「どうも致しません。手荒なことはしたくありません」

 そもそも先に手荒な手段に訴えてきたのは堰相国の方である。

 この混乱も成り行きによるものでしかない。

「ただ今後”改革”はなさらないとお約束ください。どうかこれ以上、民を苦しませないで頂きたい。お約束くださるのなら、これまでの非礼を詫びて共藍へ帰りましょう」

 琉の心からの嘆願だった。

「この家もこの国も同じこと。この国の主である陛下から全権委任された私は、この国の所有者も同じ。この国をどのように扱おうにも、私の自由だ」

 堰相国の目に、もはや正気の色は残っていなかった。


 琉はかねてより自身の心の底に棲む鬼の存在を感じていた。

 初めてその鬼が暴れだしたのは、初陣の軍中でのことである。

 幼少期は様々な制約に縛られ自由になれなかったその鬼は、琉が一隊を率いて裁量を揮えるようになったことで力を振るい始めた。

 その力が向けられたのは、琉を侮り軍法に反する行いをした屯長である。

 軍法に背く屯長の首を刎ねたことで、軍の統率を引き締める効果を得たが、実際には心の中に棲む鬼に任せて剣を振るったに過ぎなかった。

 その後、その鬼は僅かに顔を覗かせることは何度かあったが、その力を刃に乗せるまでに至ることはなかった。

 その鬼が堰相国によって再び暴走を開始した。

 怒りという名の鬼が。


 気が付いたとき、琉の目の前には血塗れの堰相国が倒れていた。

 その胸には、先ほどまで琉が握っていた剣が突き立てられている。

「殿下!」

 衛舜の声に我に帰る。

「衛舜……。私は……」

「お気を確かにお持ちください。すぐにここを離れます」

 そう言うと、扉の方へ駆け出す衛舜。

 堂内の衛兵は清隆によって全て制圧されている。

 衛舜が開け放った扉の外にも、戒燕によって同じような光景が作り出されていた。

「お急ぎください殿下! 火が回ります!」

 衛舜の言葉で初めて周囲が炎に囲まれかけていることに気が付いた。

 混乱の中で燭台が倒れ、火が回っていたようだ。

――早く逃げなければ。

 ようやく琉にも焦りの火がついたところで、座り込む少女の姿が目に映った。

 玲寧、と呼ばれていた少女である。

 玲寧の目は開いていたが焦点は合っていない様子で、呆然と虚空を見つめていた。

 堂内で起きた混乱に茫然自失といった状態なのだろう。

「立てるか? お主も逃げよ」

 そう言いながら玲寧を助け起こそうとする琉。

 しかし玲寧は呆然としたまま立ち上がらない。

 そして琉の着物の裾を掴んで離さなくなってしまった。

「殿下! 早く!」

 戒燕の声も聞こえる。

 慌てた琉は玲寧を抱え上げ、そのまま走り出した。


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