堰氏の改革
新章の開始です。
琉は北東の方角を見つめて物思いに耽っていた。
視線の先には共藍盆地を囲む山々が広がっているが、その向こうの遥か彼方に弦国の帝都・玄安がある。
いつか必ず戻ると誓った地である。
亡き母の遺言に従い、皇帝の位を望むために。
玄安へ戻るためには、まずこの共藍で力をつけなければならない。
初めて衛舜と出会い、そう語ったあの日。
琉の力となる共藍の発展について、衛舜は「五年で成果が出始めれば良い方」と語った。
あれから五年の時が経った。
ようやく成果が目に見える形で出始めていた。
大規模な治水工事を行い激しい南江の流れを治め、未だ治水は完成ではないにせよ徐々に農地として活用できる土地が増えてきている。
また港ができたことで水運の便も向上したことも共藍の発展に大きく寄与している。
安全に南江を渡河できるようになったことで、衆南国との交易も徐々に活発になりつつある。
また、南江の下流に位置する業湊や啓夏など主要都市との交通の便も向上し、これからますます発展していくだろう。
人口が増え物資の往来が盛んになり、経済が活発に動き始めている。
治水において、桟河族の果たした功績は大きい。
衆南国から流浪の末にこの地へたどり着いた桟河族は、当初は河賊として琉らの活動を妨害していた。
しかし琉に敗れたことを切っ掛けに正式に共藍の民として認められると、その能力を大いに発揮した。
桟河族は元々衆南の大河に寄り添い水上集落を築いて生活をしていた少数民族である。水辺での作業はお手の物だった。
また人口が増えたことにより、鉱山における労働者も増えている。それによる鉄の産出量の増加は、琉にとっては大きな意味を持つことになるだろう。
共藍の良質な鉄は農具の性能を上げて生産性を向上させるだけでなく、武器の威力も増大する。結果、同じ兵数でも大きな戦力を持つことができる。
その影響力は無視できないものになるだろう。
全てが順調に進んでいた。
たった五年でこれほど順調に共藍の発展が成せるとは、琉自身も考えていなかった。
それだけに琉の心に空いた穴も大きかった。
――なぜもう少し待ってくださらなかったのですか。父上……。
琉の父である皇帝が崩御したとの報せが入ったのは数日前。
共藍で治水の効果が出始めているとはいえ、まだまだ玄安への影響力は不十分であり、味方となる貴族もいない。
当然、皇太子である煌丞が次期皇帝へいうことに対して、意見を言うことすらできないだろう。
皇太子煌丞との帝位争いは、争いにすらならずに決着することになる。
琉の父である皇帝は、平帝と諡された。
そして新たな皇帝の座には、予定通り皇太子である煌丞が即位することになった。
皇太子時代から三公の一つである太尉の座に就き、主に軍事面において大きな存在感を放っていた新帝である。
国内からは大きな期待が、国外の弦に服従しない蛮族たちからは脅威の念を向けられた。
しかし、その期待と脅威の念は良くも悪くも裏切られることになる。
権勢欲の強い新帝だったが、それは強すぎる自尊心に由来し”誰からも指図をされない立場”を求めるからであり、それによって得た権力を振るうことには興味を示さなかった。
政治に関することは新たに丞相となった堰無夷に全てを委任し、新帝は後宮の奥で酒と女に溺れる生活をしていた。
堰無夷は新帝の生母である堰皇太后の甥、即ち新帝の従兄に当たる人物である。
平帝の時代から外戚という縁故により、三公の一つである御史大夫という高位に就いていたが、従弟が帝位に就くと同時に長らく丞相の地位にあった杜伸季に替わりその座に就いた。
杜伸季は新帝に皇太子時代から嫌われていたため、排斥される前に自らその地位を辞し所領へ帰った。
杜伸季のこの危機察知能力は流石に非凡と言うべきだが、これにより玄安は完全に堰氏の支配するところとなったのである。
丞相の座に就いた堰無夷が最初に行ったことは、自身が手に入れた丞相という位の改称であった。
新帝の名が”丞”であるため、その字を避けて”相国”と改めたのだ。
これ自体は避諱と呼ばれる大陸東部諸国で広く行われている習慣である。
しかし、堰無夷には別の思惑があった。
堰無夷は幼少期から歴史を善く学び、後世の歴史書に載ることを夢想していた。
新たに創始した地位であれば、後世の歴史書には”史上初の相国”として記載されるはずである。
そして丞相(相国)の位を得た堰無夷は、御史大夫の座を手放すこともしなかった。
翌年には残る三公の一つである太尉の座も手に入れ”史上初の三公独占”を果たすことになるのである。
これほどの偉業ならば、後世の歴史書に記載がないはずがない。
しかし堰無夷の欲望はまだまだ満足することはなかった。
その後行われた”堰氏の改革”と呼ばれる数多の変革を行った。
それが多くの弦国民を苦しめることになるのだった。
「また新たな改革の布告が出たか」
琉は衛業からの報告を聞き、大きなため息を吐く。
新帝が践祚し、堰無夷が相国の座に就いて二年が経っていた。
その間、”堰氏の改革”と呼ばれる数多の政策が実施され、官民全ての弦国民の生活に影響を及ぼしていた。
その内容は多岐に渡る。
宮廷内の儀礼儀式の細かな作法といった民に影響のないものから、度量衡といった経済活動そのものへ大きな影響を与えるものもあった。
「今回は地名の変更で、その対象に共州の地域は含まれないため、共藍の民にはほとんど影響はありません」
衛業の報告に、僅かに安堵する琉。
「しかし多いな。最近は特に多くなっている気がする」
堰氏の改革の問題は内容もさることながら、その多すぎる頻度と即日発効という異常な運用方法にあった。
昨日まで善しとされたことが明日には罪となるような状況が相次ぎ、善良な民が数多く罪人とされ処罰されていた。
弦国は混乱の時代を迎えていた。
当然ながら、共藍でもこの”改革”は有効であるが、琉は衛舜、衛業らと協議しつつ、発効時期を遅らせる、新法に抵触した場合は口頭注意で済ませ処罰しない、などの措置を講じ、その影響を最小限に留めていた。
他の地域であれば、相国の息のかかった州牧が目を光らせていて、太守が独断でそのようなことをすればただでは済まないが、共州においては事情が異なる。
琉は共藍太守でありながら、共州の州牧を兼任しているのだ。
州牧の地位は、琉の父である平帝が生前、最期に琉へ遺してくれたものでもある。
とはいえ弦国全体の混乱による影響は共藍にもあった。
罪を逃れるため、あるいは家の働き手が罪人とされたことによる貧困から逃れるため、故郷を離れた流民が「共藍へ行けば平穏に暮らせる」という噂を聞きつけて集まってきているのだ。
「また流民の集団がやってきたようです」
衛業は淡々と報告を上げるが、それを受ける琉の心境は穏やかではない。
共藍はいまや弦国内でも発展著しい地域の一つであり、人口の増加は歓迎することではあるが、一度に流民が集まりすぎると流石に負担は大きい。
「仕方あるまい。受け入れの準備を頼む」
それでも見放すことはできない。
「共藍の城壁外に設けた流民街も既に溢れそうな状況です」
「現在、南江の対岸に新たな集落を作り、そこに人を移すという計画を検討しております」
衛業の報告に、衛舜が対策を挙げる。
「わかった。必要ならば琅琅を通じて桟河族の助力ももらえるように話しておこう」
衛舜の手腕と桟河族の協力により、なんとか流民たちを受け入れることはできているが、いずれ限界が来てしまうだろう。
”改革”の見直しについて、琉は皇帝の弟の立場として何度か奏上しているが、それらは悉く黙殺された。
もとより仲の良い兄弟ではない。
皇帝が琉の訴えを素直に聞き入れるとは琉も思っていなかったが、民たちから訴えられる窮状をそのままにはしておけなかったのだ。
――やはり兄上か堰相国へ直接訴える必要があるな。
皇帝に対する上奏は、当然相国も目を通しているだろう。
それでも何も変化がない以上、直接対面して訴える他に方法はない。
そう決意する琉の背を天が押すかのように、好機が訪れた。
「立太子の礼、か」
玄安からの報せの内容を、琉は無感情に繰り返した。
皇帝煌丞には一人の皇子がいる。
煌荘。
それが皇子の名である。
煌荘はまだ若く、冠礼もまだ迎えていない。
皇太子に立てられる年齢は特に決まりはないが、皇帝の健康に問題があるなど早期に皇太子を立てる必要に迫られない限りにおいては、少なくとも冠礼を待って行われるのがここ数代の慣例となっていた。
それを曲げて冠礼前に立太子の礼を行うということに、琉は「次もお前の番ではないぞ」と言われたような気がしていた。
何にせよ、琉も皇族の一人としてその儀式には参列することになる。
儀式参列のために上京した際に、皇帝や堰相国へ直接民の窮状を訴える良い機会である。
琉の訴えを受け入れさせるのは、非常に困難だろう。
共藍へ来た当初と比べれば、琉は共藍の発展という明確な功績を背負っており僅かながらでも影響力を有している。
現時点で明確に味方となる貴族がいるわけではない。
それでも、ここで皇帝や堰相国へ改革の見直しを受け入れさせることができれば、その流れは変わるかもしれない。
現在の弦国の混乱も、見方を変えれば好機とも捉えることができた。
数年前、絶望に落ちそうな心持ちで共藍へ来た琉は、決意と希望を持って玄安へ上ろうとしていた。




