孟祢祢
孟祢祢が生まれたのは、衆南国北部に位置する大河の上だった。
桟河族は水の民である。
大河に寄り添い、水上集落を形成しその上で生活してきた。
猛獣や敵対する民族などの多い地域で、桟河の集落の外へ行くには大河の神に認められた戦士の同伴が必要とされていた。
その戦士の中でも、祢祢の父はかつて最強の戦士の称号を掲げ、兄の琅琅は若くしてその父から最強の名を引き継いだ稀代の戦士である。
そんな二人は、自身も戦士である祢祢にとって最大の誇りであり自慢であり憧れだった。
――兄貴より強い人間など存在しない。
それは信仰にも似た感情となっていた。
最強の戦士となった琅琅が負ける瞬間を祢祢が初めて目の当たりにしたのは、桟河の集落が衆南国軍に襲撃されたときである。
きっかけは些細な諍いだった。
しかし衆南の王都にて王位継承争いをしているという王子が、精強と名高い桟河の戦士を相手に混乱を治めることで自身の力を誇示しようと介入してきた。それにより事が大きくなっていき、ついには桟河の一族の存亡を賭けた戦へと発展してしまったのだ。
琅琅と桟河の戦士たちが対峙したのは、味方の三倍の衆南の軍勢である。
それでも戦士たちは勇敢に戦った。
水上に慣れた桟河は水上戦を得意としており、衆南国軍は想定外の苦戦を強いられることとなった。
特に琅琅は最強の戦士の称号に恥じぬ活躍を見せた。
船から船へ飛び移り、多くの衆南兵を河へ突き落した。
衆南の将士の誰一人として、琅琅を打ち負かすことはできなかったのだ。
しかし個の力で勝てないと見た衆南軍の将は、琅琅の個の力を封じる策を打った。
琅琅の乗る船には近付かず、近付かせず、矢の雨を降らせて対抗した。
流石の最強の戦士といえど、その刀の届かない敵にはどうしようもない。
衆南国軍が琅琅に近付かずに締め上げる戦術を採ったことで、他の一族の者たちは北へ逃れることが出来たが、琅琅は全身に矢を浴び満身創痍の状態だった。
生きて囲いを突破しただけでも、琅琅の非凡さの証明と言える。
――誰も兄貴には勝てなかったのに!
ボロボロの兄を初めて目の当たりにした祢祢の心中には、自分勝手な都合で一族を争いに巻き込んだ衆南の王子と実際に兵を率いた衆南の将への呪詛が止め処もなく溢れてきていた。
北へ逃れた桟河族は弦国の共藍の近くまで到達した。
そこで故郷と同じく水上集落を形成し生活を再開させた。
それから数年後。
祢祢は再び最強と信じる兄の敗北を目の当たりにすることになる。
弦国へ来て数年間。
桟河族の戦士たちは狡賢い狐狸のような商人の李玉堂と郡丞の黄文嘉に脅され、河賊稼業を強いられていた。
弦から見えれば”国外から侵入してきた異民族”である桟河族は、それだけで排除される理由となりえた。
族長は衆南から逃れて傷付いた一族を護るために河賊の活動を受け入れたのだ。
そして数年後、共藍に新たな太守が現れた。
新太守である煌琉は、前任の太守と異なり李氏の賄賂を受けず、李氏や黄郡丞の思い通りにはならなかった。
しかし、桟河族は”何年も活動してきた河賊”であり、賄賂を受けぬような高潔な新太守はすぐに河賊討伐に動き出すだろうと思われた。
共藍兵が桟河の一族が隠れ住む巳水へやってくる、という報は黄郡丞からもたらされた。
河賊の拠点まではまだ見つかっていないらしいが、警戒を強めるために砦を築く、というのがその目的だという。
「だが、それはあくまで表向きの話で、実際は河賊が妨害に来ることを誘っているのだ」
黄郡丞はその軍議にも参加しており、作戦の内容も把握している。
「砦は二つ。下流の南江との合流地点近くに一つ。そして上流側にもう一つ」
「下流に砦が築かれると今後の活動はしにくくなるな」
族長の言葉に、黄郡丞は大きく首を振った。
「それこそが策なのだ」
共藍兵は河賊が下流側の砦はやっかいである、と考えるだろうと予測し、下流に多数の兵を割いて待ち構えているという。
必然、上流側の砦は寡兵となる。その寡兵を討つというのが黄郡丞の策であった。
「しかし、上流の寡兵を討っても、下流に砦が作られては同じことではないか」
「策を巡らす者は、それが外れたときは弱いものだ。おそらく予想外に上流側が襲われることにより、下流側の兵は慌てて巳水を遡上してくるだろう。それを返り討ちにするのだ」
「そう上手くいくだろうか」
「ふん。最悪、お前たちが遡上する下流の兵を返り討ちに出来ずとも、策を外させただけであの景家の若当主を引きずり下ろすには十分よ」
景家の若当主、とは新太守の参謀役の男であるらしい。黄郡丞はこの男を異様に警戒し、敵視していた。
桟河族の戦士たちは黄郡丞の言葉を信じ、上流の砦を攻めることにした。
黄郡丞自身は全く信用にならなかったが、ここで桟河の戦士たちが負けるのは黄郡丞にとっても不都合であるため、共藍兵の動きについて嘘を吐いていることはないだろう。
しかしその予想は外れた。
桟河の戦士たちが砦に近付くと、中から百や二百どころではない兵が溢れてきたのだ。その数は明らかに三百の桟河の戦士よりも多い。
「馬鹿な! 上流が寡兵ではなかったのか! 話が違うぞ!!」
思わず怒声を発する族長。
その族長の前に大男が立ちはだかった。
「我が名は郭戒燕! お前が賊の頭領だな。大人しく降伏せよ!」
「できるものなら力尽くでやってみろ!」
戒燕と族長の剣が激しくぶつかり火花を散らす。
族長は琅琅が最強の戦士の称号を受け継ぐまで、その最強の称号を背負っていた戦士である。
――親父が兄貴以外の男に負けるはずがない。
しかし祢祢のその想いとは裏腹に、祢祢の目に映ったのは敵将の剣をその身に受けて膝をつく族長の姿だった。
「親父!」
呆然とする祢祢の脇をすり抜け、琅琅が二人の間に割って入る。
「馬鹿野郎! 戦士の決闘に水を注すんじゃねえ」
「親父は戦士である以上に、一族の長だろうが。ここで死なせるわけには行かない」
琅琅の言葉に、祢祢も我に返った。
――そうだ。親父を、族長を死なせるわけにはいかない!
祢祢も退却しようとする二人を助けるため駆け出した。
「逃がさん!」
退きかける琅琅に向かって振り下ろされた戒燕の剣は、祢祢の刀によって止められた。
――重い!
右手で振り上げた柳葉刀の背を左手で支えて何とか止めはしたものの、そのあまりに重いその振り下ろしに祢祢の腕が痺れた。
祢祢も戦士である。
刃を合わせれば彼我の力量差はだいたい感じ取ることが出来る。
今目の前に立つ大男から感じる圧力は、最強と信じる兄と遜色のないものだった。
「逃げるヨ!」
さすがに女の祢祢に止められたことに驚いたのだろう。
その隙を突いて間合いを取り、そのまま退却することができた。
――あの大男、郭戒燕といったか……。
拠点へ引き上げる船の中で、祢祢は先ほどの大男のことが頭から離れなかった。
祢祢はこの世で最強の男は兄の琅琅であり、その次が父であると信じていた。
しかし、父はあの郭戒燕に敗れ、打ち合った刃から感じた圧力は兄のそれに劣らなかった。
――まさか、あの男は兄貴より……。
ふとよぎった想いを振り払うように頭を振る。
そんな妹の仕草が不安そうに見えたのか、琅琅が気遣って声をかける。
「祢祢、どうした」
「兄貴……。いや、なんでもない」
確かに祢祢は、これまで信じ続けてきた兄の”最強”を揺るがす男の出現に戸惑っていた。
しかしそれは不安なのだろうか。
――兄貴が負けるものか。
近く、琅琅と戒燕は再び対峙することになるだろう。
そのとき勝つのは琅琅だ、と祢祢は信じたかった。
次に琅琅と戒燕が対峙したのは船の上だった。
退却する桟河族を尾行していたらしく、河賊活動の拠点としていた洞窟を発見された。
もはや逃げ道はないと悟った桟河族は、水上戦で最後の抵抗を試みたのだ。
砦での戦闘の後に増援と合流したのか、彼我の戦力差は琅琅の個の力で覆せるものではなくなってしまっていた。
いつの間にか、桟河族に残されたのは族長が乗る最後の一艘だけとなっていた。
そこへついに共藍兵が乗り込んできた。
その中に戒燕の姿を認めた琅琅が前へ出た。
「俺の名は孟琅琅! 郭戒燕よ! 決着をつけよう!」
二人の強者が激突した。
祢祢は二人の対決を見ていることができなかった。
それがなぜなのかは祢祢自身にもわからなかったが、無意識のうちに最強と信じる兄の敗北を予測していたからかもしれない。
二人の対決から目を逸らした祢祢の視界に映ったのは、こちらへ近付いてくる男だった。
「貴方が河賊の頭領だな」
祢祢の傍に座る族長に話しかけたこの男が、共藍の新太守・煌琉その人であるらしい。
即ち敵軍の総大将である。
「俺らは桟河の一族で、俺はその族長だ」
族長は戒燕との戦いで負傷した身を鼓舞し、毅然と立ち上がって族長としての威厳を保っていた。
「では、桟河の族長よ。もはや大勢は決している。投降してはくれないか」
「それはまだできない相談だな。一族最強の戦士がまだ負けていない。戦士が戦っているうちはまだ負けを認めるわけにはいかない」
「では、その最強の戦士が敗れれば、抵抗することなく投降すると約束して欲しい」
その言葉に、族長は一瞬驚きの表情をすると、すぐに豪快な笑い声を発した。
「賊に対して”約束”とは面白い男だな」
そんな二人のやり取りに、祢祢は堪らず飛び出していた。
「兄貴は負けないから、そんな約束は無意味だヨ!」
「祢祢!」
「それよりも、アンタをここで倒せば、形勢は一気に逆転する!」
兄は負けない、と言いつつ、ここで大将を討とうとする祢祢。
それは、どこかで兄の勝利を信じ切れていない祢祢の葛藤の表れだった。
振り下ろした祢祢の刀を止めたのは、後ろに控えていた小柄な男だった。
――子供みたいに小さいのに強い。
その小男の剣に、激しく攻め続ける祢祢の刀は悉く捌かれた。
攻めあぐねた祢祢が一旦距離を取る。
「アンタ、小さいのになかなかやるネ」
言いながら、相手に悟られぬよう戦輪を取り出す。
「じゃあ、これは避けられるかナ」
戦輪を投げつつ、祢祢自身も踏み込んだ。
戦輪に驚いた隙を突く攻撃だったが、辛うじてかわされる。
「逃がすカ!」
祢祢が追撃の戦輪を投擲しようとしたとき、その足元が大きく揺れた。
巳水の急流に流された船が、岩に乗り上げ大きく傾いたのだ。
船上に慣れた祢祢は転倒こそ免れたものの、戦輪を投げようとしていた手元が狂うことは避けようがなかった。
そして意図せぬ方向へ飛んだ戦輪は、船の中央で対決する戦士たちの方へ向かっていった。
――しまった!
戦士の決闘に水を差してしまう。
焦る祢祢の目に映ったのは、その決闘の決着だった。
いち早く戦輪の存在に気付いたのは、琅琅の方だった。
身を捩り辛うじてかわすと、戦輪はそのまま対峙する戒燕の方へ向かっていく。
血飛沫が舞った。
戒燕は直前まで琅琅の身体が陰となり、向かってくる戦輪に気付けなかったのだろう。
しかし戒燕は左肩に食い込む戦輪など物ともせず、気合と共にその剣を横薙ぎに振り払う。
琅琅はなんとか柳葉刀で受けるが、戒燕の豪力を止めることは叶わず、その刃が琅琅の右腕に食い込んだ。
戦輪を避けるために身を捩った体勢で傾いた足場に踏み止まることはできなかった琅琅は、弾き飛ばされそのまま転がり落ちるように船外へ投げ出された。
勝敗は誰の目にも明らかだった。
戦輪は決闘の決着のきっかけにはなったものの、勝敗自体に影響を与えたわけではなかった。
――兄貴が、負けた。
祢祢の足が自然と動き出す。
それは船から落ちかけている兄の方向ではなく、自身の戦輪をその身に受けた敵将の元へ向かっていた。
「済まなイ。兄との決闘を邪魔してしまった」
「これを投げたのは貴女か。大した威力だ」
謝罪の言葉を口にする祢祢に、戒燕は自身の肩に食い込んだ戦輪を引き抜きながら笑った。
「なるほど、最強の戦士の妹か。強いわけだ」
戦いの後とは思えぬほど、爽やかな笑みだった。
「貴女のような強い女性には初めて出会った」
祢祢の胸にはかつて感じたことのない高鳴りが生まれていた。




