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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
群像
17/62

杜涼香

 杜涼香(とりょうか)は、病弱な娘だった。

 器量の佳い娘である。

 界隈で評判となっていてもおかしくはない器量の持ち主でありながら実際にそうはならなかったのは、病弱であるが故に部屋に籠り切りで外へ出ることが少なく、人目に触れる機会が少なかったからである。

 涼香の世界は、病床の室内がその大部分を占めていた。

 そしてその狭い世界の絶対者は、父である杜伯良(はくりょう)だった。


 杜涼香は啓州の田舎貴族の家に生まれた。

 啓州杜家は形式上は貴族だが、同姓である弦国丞相の杜伸季とは比べものにならぬ弱小貴族である。

 当主である杜伯良はそんな弱小貴族の立場を嫌い、どのような手を使っても富貴を手にするという野望に支配されていた。

 そのためには玄州杜家すなわち丞相である杜伸季に近付くことが最も近道と考えた杜伯良は、あらゆる手を使って丞相への接近を試みた。

 玄州杜家と啓州杜家は、系譜上の繋がりはない。繋がりがあったとしても、少なくとも記録で辿れぬほどの遠縁である。

 それでも同姓である以上、同族と見做されるのが常である。杜伯良が丞相に近付こうとしたのは自然な発想と言える。

 しかし丞相にとってみれば、自身に近付こうとする有象無象には枚挙にいとまがない。それが同姓、同族であったとしても、それだけの理由で便宜を図ることはできない。

 そこで杜伯良は自分の娘を使った。

 杜伯良には三人の娘がいた。

 貴族の家に生まれた娘は政略結婚の道具にされるのが常であるが、弦国においては同姓同士の婚姻はご法度であるため、杜氏やその子弟に娶わせることはできない。

 杜伯良は自分の娘を”杜氏の娘”という丞相の勢力を増すための道具として、丞相へ献上したのだ。

 丞相は、広く浅い勢力を構築する戦略によって丞相の地位にまで昇り詰めた。勢力を拡げるための道具は、どれだけあっても多すぎることはない。

 丞相にとってみれば、自身の娘でないために近付きすぎないという点で都合がよかった。いざとなれば啓州杜家ごと切り離せるという利点もある。

 杜伯良はそれらも承知の上で、富貴の道へ続く可能性のある方を選んだのだ。

 涼香の二人の妹はすぐに婚姻が決まった。

 それぞれ相手は弦国有数の勢力を誇る一族、堰氏と袁氏の子弟である。

 両氏との縁戚関係を得たことを喜んだ丞相は、すぐに杜伯良に啓州は啓夏郡小仰(しょうぎょう)の県長の座を与えた。

 県長は文字通り県の長の地位であるが、同じく県を治める地位である県令との違いは、その県の規模である。

 郡都やそれに近しい大規模な県の場合は県令、小規模な県の場合は県長と区別される。同じ県を治める地位であっても、県令は県長よりも高位の地位となるのだ。

 それが杜伯良には不満だった。

 あわよくば郡を治める太守の地位に、とまで期待していた。

 富貴という野望に支配された杜伯良が、県長で満足できるはずもない。


 啓州杜家に残っている”道具”は、長女の涼香のみとなった。

 しかし非情な父は、涼香は政略結婚の道具としては”欠陥品”である、と考えていた。

 病弱、それが父の考える涼香の”欠陥”だった。

 政略結婚は、婚儀を済ませればそれで終わり、というわけではない。

 嫁いだ娘が子を、特に男児を産むことで、その子が(かすがい)となり両家の結びつきを強くするのだ。

 そのためには、若く健康な娘の方が都合が良い。

 病弱な涼香に、子を産むことが叶うかどうか。仮に産まれたとしても、その子も病弱であっては、鎹の効力は弱まってしまう。

「この役立たずが」

 非情な父はことあるごとに涼香を責めた。

 屋敷の外へ出る機会も少なく、狭い世界に閉じ込められていた涼香にとって、父の言葉は絶対である。

――その父が言うのだから、自分は欠陥であるに違いない。

 涼香がそう信じ込んでしまったのも無理からぬことである。


 そんな涼香にもついに婚姻の相手が決まった。

 煌琉、それが相手の名だった。

 弦国の第三皇子である。

――自分が皇族に嫁する……

 ”欠陥品”であるはずの自分が皇族と言う至上の家柄に嫁ぐなど、狭い世界しか知らぬ涼香にとっては考えられないことだった。

 その疑問は父の一言が取り払った。

「あの皇子も”欠陥品”だからな」

 平民出身の母を持ち、玄安の貴族の誰からも見向きもされなかった不遇の皇子。

 それが煌琉という人であるらしい。

 それを聞いた涼香に二つの感情が生まれた。

 一つは、皇子も”欠陥品”だから、自分のような”欠陥品”の娘をもらうのか、という納得の気持ち。

 そしてもう一つは、同じ”欠陥品”同士という親近感である。

 啓州杜家は涼香にとって居心地のいい場所ではありえなかった。

 ”欠陥品”と蔑む父。その父に言いなりの母。父と同じく涼香を馬鹿にする妹たち。

 間もなく涼香は、啓州を出てその”欠陥品”であるらしい皇子のいる共州へ行く。

 そこは涼香にとっての安息の地となるのだろうか。


 婚姻に係る諸々の儀式は恙無く終了した。

 涼香が夫となる琉を初めて見たのは、婚姻の儀式の際であった。

 美貌である、という話は漏れ聞いていたが、涼香にはよくわからなかった。

 狭い世界で生きてきた涼香には、美醜の判断が付かなくとも仕方がないことだろう。

 それでも、涼香は徐々に琉に惹かれていった。

 琉は常に優しかった。

 父のように涼香を罵倒することはない。

 母のように無関心でもない。

 琉の周囲にいる人物も、妹たちのように涼香を馬鹿にする者はいない。

――この人が欠陥であるはずがない。

 そういう想いが涼香の中に芽生え始めていた。

 そして、それは父の言葉の否定を意味することでもあった。

 絶対であるはずの父の言葉に疑義が生じた。

 そのことにより、涼香が”欠陥品”である、ということの絶対性も揺らいでいた。

――”欠陥”とはどういうことだろうか。

 涼香は父に言われ鵜呑みにしてきた言葉を、自分で考えるようになっていた。


 涼香が共藍へ来て、その内面に変化が起こり始めていたが、変わったのは内面だけではない。

 これ以上ないというほどの劇的な変化が起きた。

 琉の子を懐妊したのである。

 病弱な涼香の身体が不安視されたが、そんな心配を余所にお腹の子は大きくなり、無事に元気な女の子が産まれた。

 鈴、と名付けられたその子は、男児でないことが惜しまれはしたものの、それでも琉の初子である。多くの人にその誕生を祝福された。

 琉や臣下だけではない。

 共藍の民にまで祝賀の空気が満ちていた。

 祝賀の空気に慣れぬ涼香は戸惑いつつも、その胸中には喜びの花が開いていた。

 その花は、我が子に出会えた、という母としてのものだけではない。

――私はやはり”欠陥品”ではなかった!

 子を成したことで、これまで”欠陥品”と言い情を傾けなかった父が認めてくれる、という娘としての期待があったのだ。

 しかし、その期待は裏切られた。

 杜伯良は祝賀の書面を送ったきりで、孫の顔を見るために共藍へ来ることはなかった。

 いや、祝賀の書面と言ってもそれは形式上に過ぎず、その文面は言外に男児でなかったことを責めているようにも見えた。

 落涙する涼香の姿を見た琉は激怒した。

「孫の誕生を喜ばぬは、人の(さが)ではない! 丞相に取り入り自身が栄達することにしか興味のない人非人め!」

 それは、普段涼香に接する様子からは想像できぬ姿だった。

 自身の父を罵倒する夫を見た妻の中で、何かが壊れた。

――父は絶対ではなかった。

 それは、涼香の中に存在し続けていた父という呪縛。

 ”欠陥品”である、という呪いが、琉の発した怒気によって打ち砕かれたのだ。

「怒りを知らぬ私の変わりに、怒りを発してくださりありがとうございます」

 怒り。

 それは涼香にとって初めての感情だった。

 涼香の中にあった父から受けた哀しみは、呪縛が解かれたことにより怒りへと変わった。

「啓州にいたころ、私の世界の全ては父でした」

 それが婚姻に伴いこの共州へ来たことによって、世界が大きく広がった。

 自分を罵倒することのない琉。

 余所から突然やってきた自分を優しく受け入れてくれた臣下たち。

 そして、婚姻を、懐妊・出産を大いに喜んでくれた共藍の民たち。

 父に”欠陥品”と呼ばれ生きてきた涼香は、共藍へ来たことでそうではないと知ることができた。

「私はもう父のために生きるつもりはありません。これからは自分と、貴方と、生まれてきた娘のために生きます」

 誇らしげに宣言する涼香の目には涙が浮かんでいた。

 しかし、その表情はこれまでにないほど明るい笑顔だった。


 父の呪縛から解き放たれた涼香は、以前とは打って変わって活発に、活動的になった。

 鈴の成長に伴い外へ出る機会が増え、鈴が歩けるようになると二人で中庭を散歩する姿がよく見られた。

 しかし元々の病弱だった体質が改善されたわけではない。

 むしろ日に日に悪化していったと言って良い。

 鈴と共に外へ出た翌日は、一日寝込むということも珍しくは無かった。

 そしてついに、限界が訪れた。


 琉は涼香が納められた柩を前に、大声を上げて()いていた。

 葬儀の場において、声を上げて哭くことが礼とされている。

 この哭礼は時として演技で行われることもあるが、琉のそれは演技ではなかった。

 元々は政略によって結ばれた縁である。

 杜丞相の使者がこの話を持ってきたのは、丞相の”万が一”を全て拾う戦略に寄るものだろうということは明らかだった。

 ”万が一”琉が帝位に就いたとき、引き続き丞相の席を保ち続けるための布石であろう。

 しかしそれは琉が帝位に就いた後の話に過ぎず、丞相が琉の味方になるという意味ではない。都合が悪くなれば容赦なく切り捨てるだろう。

 琉はそれを承知でこの縁談を受け入れた。

 それは少なくとも啓州杜家は琉の味方になるだろうと思ってのことだ。

 丞相が琉を切り捨てる場合、啓州杜家も共に切り捨てるであろう。ならば啓州杜家は琉の味方とならざるを得ない。

 それは大きな読み違いだった。

 啓州杜家の当主、杜伯良の目は西の共藍には向いていなかった。常に北の玄安を見ていたのだ。

 結果として、この婚姻による政略上の益はなかったと言って良いだろう。

 それでも、琉はこの婚姻を後悔はしていない。

 この婚姻により涼香が救われたことは間違いないのだ。

 視線を巡らすと、志姫に抱かれて眠ってしまっている鈴が見えた。

 まだ母の死が理解できていないのだろう。

――鈴には自由に生きて欲しい。

 自然とそういう想いが湧いてきた。

 涼香のように政略結婚の道具としての重責を負わせたくはない。

 生き方を限定させたくはない。

――そのためには、私自身が強くならなければ。

 姻戚の力に頼らずとも、琉自身が強くなればいいのだ。

 婚姻による縁に頼らずとも、信頼できる人物を見つければいいのだ。


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