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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
群像
16/62

琉と衛業

 衛舜が弦国皇子の煌琉に付き従って行った一年後。

 冠礼を迎えた衛業も義兄を追い、琉に忠誠を誓って臣下となっていた。

 そのころ共藍では治水工事が軌道に乗り始め、工事従事希望者などが他の地方からも集まって来ていた。

 その事業の中心にいて琉を導いているのが衛舜である。

――いつか義兄上のように殿下をお助けできる存在になるのだ。

 衛業にとって、衛舜は自慢の義兄であり、目指すべき目標でもあった。

 しかし時が経つにつれ、その意気は自信と共に薄れていった。

 衛業の目に映る義兄の姿は、眩し過ぎたのだ。

――私では義兄上には追いつけない。

 衛業の心の奥底には、衛舜に対する劣等感が隠れていた。

 実父の死により引き取られた共州景家で行っていた書物の転写についても、衛舜に倣って内容の理解まで踏み込もうと試みていた。

 しかし衛業にできたのは内容の暗記までで、衛舜のように内容を理解するという次元には、ついに到達できなかった。

 衛業の中に隠れていた劣等感は、琉に仕えて己の力を存分に発揮する衛舜を見たことで、もはや目を背けることも敵わぬほどに強く大きくなっていた。


 琉は自身の執務室にて治水事業についての報告を聞きながら、しかしその報告を上げる衛業の表情が優れぬことを見逃さなかった。

「衛業、何か懸念があるのか」

 報告の内容は順調そのものであり、憂うことなど見当たらない。

「いえ、治水は順調に進んでおります」

 琉のその問いかけに、衛業は平静を装いつつも動揺の色を隠せてはいない。

 琉の臣下は若い者が多いが、その中でも衛業は最年少である。

 琉はこの若い臣下を特に気に掛けていた。

「治水に関わらぬ私的なことでも構わない。何か心配事があるのではないか」

 執務室には二人をおいて他には誰もいない。

 衛業はそれでも逡巡の色を見せていたが、やがて口を開いた。

「殿下は人のお心が見えているのでしょうか」

 それは琉に図星を突かれたということであろうか。

「私は幼少の頃から大人の顔色を窺って生活をしてきたからか、いつしか他人の感情の色が見えるようになったのだ。今の衛業には不安の色が見える」

 それを聞いた衛業の顔には驚きの色が浮かび、やがて納得の色に転じた。

「それが殿下の”武器”でございますね」

 衛業は目を伏せながら、心中の想いを吐き出し始める。

「殿下の臣下は優秀な人物ばかりです。皆様、何かしら誰にも負けぬような”武器”をお持ちです」

 一度開いた水門から止め処も無く水が流れ出すように、次々と言葉が溢れてきた。

「知識と知恵という武器を持つ義兄上。武勇無双の郭郡尉。斥候・諜報について異能を発揮する董都尉。孟軍侯は水軍。しかし、私には何もありません。義兄上の後を追ってひたすらに書に向かっても決して義兄上に追いつくことは敵わず、武を志したところで郭郡尉には到底及ばず、それどころか体躯に恵まれぬ董都尉にすら太刀打ちできません」

 志道は子供のような矮小な体躯でありながら、剣を持てば戒燕ほどではないにせよ、ある程度の武芸を修めている琉でさえ敵わない。元々文官として琉に仕えている衛業が志道に敵わなくとも当然のことである。

 しかしそれを口にしたところで、衛業の気は晴れないだろう。

 その後も衛業の劣等感の発露は続いたが、琉はただただ黙って聞いていた。

 今の衛業にはただ聞くということが必要なことであり、ある意味正しい対処ではあったが、琉はかける言葉も見つけられないでいたというのが実際のところだった。

 主君と呼ばれ、衛業の言ったような優秀な人物の上に立っているとはいえ、琉は冠礼を迎えて数年の若輩者なのである。

「所詮、私は義兄上の付属品でしかないのです。こんな私では殿下のお役に立てることなどありましょうか」

 ようやく衛業が我に返ると、その顔に恥じ入るような色が浮かんだ。そしてそのまま踵を返して退出してしまう。

 ついに琉は一言もかけてやることができなかった。


――殿下を失望させてしまった。

 いや、衛業も琉が臣下に悩みを打ち明けられただけで失望するような狭量の主君だとは思っていない。

 尊敬する義兄・衛舜が忠誠を捧げた相手であるし、その切っ掛けとなった瞬間を衛業も見ているのだ。

 しかし衛業は自身の不甲斐なさから「主君を失望させた」という気持ちを止められなかった。

 思わずその場から立ち去るという失礼な行動を取ってしまったことも、衛業の落ち込みに拍車をかけた。

 眠れぬ夜が明け翌日になっても、衛業の心は暗いままだった。

 暗い室内から窓の外へ眼を向けると、夏らしい晴天に浮かぶ大きな入道雲が見えた。

 広く明るい世界で大きくなっていく雲とそれを見る衛業の状況が、そのまま衛業の心境を象徴しているようで、ますます暗澹たる気分に落ちていく。

「衛業、ここにいたか」

 琉の声だった。

 昨日醜態を晒したばかりで気まずい想いもあったが、主君の呼びかけを無視するわけにはいかない。

「殿下……」

「少し付き合ってくれないか」

 振り向いた衛業の目に映ったのは、まさしく夏の空のようにカラリと笑う主君の姿だった。


 言われるがままに琉の後をついていく衛業。

 琉はそのまま城の外へ出て行こうとする。

「見回りですか」

 近頃琉は共藍の治安対策のために、自ら都下を見回ることが多くなっていた。

 大抵の荒くれ者は皇子であり太守である琉を見れば大人しくなるため、この見回りは大きな成果を上げていた。

 それでも皇子や太守といった権威を恐れぬ愚か者がいないわけではない。そういうときのために見回りにはできる限り戒燕が付き従った。

 しかしこの日は戒燕の姿は朝から見えなかった。

「戒燕にはちょっと用を頼んでいてな」

「では、孟軍侯や董都尉は……」

 戒燕が不在の際は、琅琅や志道が多かったが今日はその二人もいない。

「皆忙しいんだ。今日は二人だけだ。ここ最近は私を太守と知っても絡んでくるような恐れ知らずはだいぶ少なくなっている。騒ぎになれば巡回の兵もすぐに駆け付ける。戒燕たちがいなくても心配ないさ」

 カラリと笑う琉は、衛業の心配をよそにどんどん歩いて行ってしまった。

 護衛の兵を呼びに行く暇もない。

――いざとなれば、私が盾となってお守りするしかない。

 そう意気込んで琉の後を歩いていく衛業。

 琉に頼られている。役に立っている。

 そんな気がして、衛業の心に僅かながら明るさが戻ってきていた。


 多くの人で賑わう市場を抜け、木材や鉄を扱う職人たちの多い区域を通り、街外れまで。

 琉と衛業の二人は何事もなく見回りを続けていた。

「衛業、少し頼まれてくれないか」

 突然、琉はそう言うと人目につかない路地へ入っていった。

「どうかなさいましたか」

「これらを持って先に城へ戻っていてくれ」

 そう言って差し出したのは、腰に佩いていた剣や着ていた着物などだった。琉はどこに隠し持っていたのか、いつの間にか平民風の服装に着替え始めた。

 お忍びで一人でどこかへ行くというのだろうか。

「で……殿下!」

 渡された荷物を見て衛業は驚きの声を上げる。

「これは太守の印綬ではないですか!」

 印綬は国から授けられる官職の証明となるものである。印は印章、綬はそれを下げるための紐で、この組み合わせにより一目でその者の地位がわかるようになっている。

「ああ、紛失すると困るから気を付けてくれ。荷物は私の執務室に置いておいてくれれば良い」

「お待ちください、殿下! このような……」

「あ、そうだ」

 混乱し主君を止めようとする衛業の言葉を琉が遮る。

「このことは誰にも口外しないでくれ。その荷物の中身は誰にも悟られないように。戒燕や衛舜にもだ」

 どこか楽しそうに微笑む琉。

 まるでこれから悪戯でも始めようか、という顔をしている。

「じゃあ、頼んだぞ」

 そう言い残すと、そのまま通りへ出て往来に紛れて消えてしまった。


――大丈夫だろうか……。

 衛業はあまりのことに呆然としてしまっていたが、しばらくして大変ことに気が付いた。

 印綬という大切な物を預かったこともそうである。しかしそれ以上に、剣を預かっている。

 つまり琉を丸腰で一人にしてしまったのだ。

 先程まではある程度人通りのあるところを通ってきたし、人目があれば太守である琉に危害を加えようという不届き者もさほど多くはない、民に人気のある琉を助けようとする者も期待できたのだ。

 しかし今は丸腰で平民風の格好で一人で行ったしまった。

 どこへ行くのかはわからないが、先程までより安全ということは有り得ないだろう。

 しばしその場で考えを巡らせていた衛業だったが、やがて意を決したように歩き始めた。

――今ここで私が悩んでいても仕方がない。

 既に見失ってしまった琉を追いかけるより、自分は主命を全うするべきだ。衛業はそう考えたのだ。

 自分にできないことはすっぱり諦め、自分のできることだけに集中する。

 それは衛業の特性の一つであり、衛業自身もそれを自覚していた。はずだった。

――なぜ私は、義兄上たちと比較することに拘っていたのか。

 義兄に敵わなければ、衛業自身ができる範囲のことをすればいい。

 それを忘れていたのだ。

――義兄上の強すぎる光に、目が眩んでいたのか。

 琉に頼られたということが、衛業の暗さを払ってくれた。


 県城に戻った衛業に声をかける人物がいた。

「衛業、どこへ行っていたのだ」

 敬愛する義兄、衛舜だった。

「少し所用で出ておりました」

「そうか。ところで殿下を見なかったか」

 衛業が手の荷物を示したが衛舜はその中身までは詮索せず、琉の所在を訪ねた。何かの使いに出ていたと思ったのだろう。

「朝にお見掛けした限りで、今どこにおられるかは存じ上げません」

 出先で別れたと言うと細かに詮索されると考え、咄嗟に嘘を吐いた。

 実際には琉と二人でこの城を出たのだが、それは誰にも告げていない。

「ふむ。わかった。使いの最中に呼び止めて悪かったな」

 そのまま衛舜は立ち去って行った。

――義兄上に嘘を吐いてしまった。

 これまで尊敬する義兄に対し、偽り事を口にしたことなどなかった。

 しかし衛業の心にあったのは、罪悪感などではなかった。

 琉の言いつけを守った、という誇らしさだった。

 太守の執務室に入った衛業は、そのまま琉の戻りを待った。

 琉には「執務室に置いておいてくれれば良い」と言われたが、印綬を無人の室内に置いて去ることはできなかった。


 琉が自身の執務室へ戻ると、衛業が待っていた。

「やはり待っていたか」

「さすがに印綬を置いて出て行くことはできません」

 衛業がそう考え、待っているだろうことを琉はわかっていた。

――もう大丈夫そうだな。

 衛業の顔を見た琉は、衛業へかけようと用意していた言葉が不要になったと悟った。

 琉は”太守の印綬を預ける”という信頼を示し「衛業には信頼という武器がある」と励まそうと考えていた。

 しかし衛業の顔にもはや暗さはなかった。

「殿下、昨日は申し訳ありませんでした。私は義兄上や郭郡尉などの巨星ばかりを見ずに、私のできることに集中していきます」

 衛業の顔には、僅かだが自信の光が見えた。

――それが衛業の”武器”か。

「ああ、信頼しているぞ」


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