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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
群像
15/62

景衛業

 景衛業の幼少期の記憶は、どこまでも広がる水面の風景がその大半を占めていた。

 偽海である。

 大陸東部の二大強国である弦国と弧国とを分かつように横たわるこの広大な湖の畔、南江が注ぐ付近の港湾都市である業湊で衛業は生まれ育った。

 祖父の景衛遼(えいりょう)は偽海を渡って弦弧両国を行き来する貿易商であり、一代で巨万の富を築き上げた大商人であったが、事業の大部分を衛業の父、衛秀(えいしゅう)へ譲り現在では共州の田舎で隠居生活をしている。

 故郷の風景と言っても、業湊の街から見える偽海は衛業にとって良い印象を伴うものではなかった。

 衛業が防波堤の上に座り偽海を見ていたのは、船旅に出ている父の帰りを待っているときだった。

 偽海は衛業から父を遠ざけるものだった。

 そして父を奪っていったものでもある。


 その日は快晴に恵まれた日だった。

 いつものように防波堤に登り偽海を眺めながら父の帰りを待っている衛業の耳に、その名を呼ぶ声が聞こえた。

「衛業!」

 振り返ると慌てた様子で堤を登ってくる男が見えた。

 衛舜の従弟であり仕事仲間である景文遼(ぶんりょう)だった。

「叔父上」

「衛業! 落ち着いて聞いてくれ」

 堤を登りきり、衛業の元へ辿り着いた文遼は、乱れた息を整えつつ言葉を選んでいるようだった。

 幼い衛業もただならぬ気配を察し、背筋を伸ばす。

「お主の父の乗った船が嵐に遭い、沈んだ」

――嵐?

 思わず空を見上げた衛業の目に映ったのは、雲一つない抜けるような青空だった。

 ここ数日は一滴の雨も降らぬ晴天続きである。

 しかし業湊では晴天続きでも、広大な偽海の全てが同じということはない。

 対岸の弧国側では南東からやってきた強大な嵐により、多くの船が難破・沈没していたのだ。

 幼い衛業にはそのことがすぐには理解できなかった。


 やがて詳細な情報も入ってきた。

 衛秀の乗った船は岸からさほど遠くない位置で難破したため、乗組員が全滅することは避けられたが、生存者の中に衛秀の名はない。

 生き残った乗組員によって僅かな遺品が衛業の元へ届けられたが、それによって衛業の心に空いた穴が塞がることはなかった。

 衛業は再び堤に登り帰らぬ父を待ち偽海を眺める毎日に戻っていた。

「お主が衛業か」

 いつの間に堤を登ってきたのか、一人の少年が傍らに立っていた。

 どことなく父に似ている気がした。

「私は景衛舜という。お主の従兄に当たる」

 文遼は船の沈没によって発生した損害の対応に追われ、幼い衛業に構っている余裕はなかった。衛業の母も既に病で亡くなっている。

 そこで宗家である共州の景家へ連絡していたのだ。

 衛舜と共に家に帰った衛業を迎えたのは、柔和な雰囲気を纏う老人だった。

「おお、衛業か。大きくなったな」

 祖父の衛遼だった。

 乳児の頃に一度抱いてもらったことがあるらしいが、当然覚えているはずもない。

「文遼の奴はこんな幼子を置いて何をしているのか」

 憤慨するような言を吐く衛遼だったが、その声に怒りの感情は感じられなかった。

 元々は商人であった衛遼にも、今が大変な時だということは理解できているのだろう。

 だからこそ、共州と言う遠方から大急ぎでやってきたのだ。


 その夜、仕事を落ち着かせてきた文遼が加わり、今後のことについての話し合いが持たれ、衛業は共州景家へ引き取られることが決まった。

 衛秀が行っていた事業はそのまま文遼へ引き継がれた。

 共州景家へ着いた衛業が見たのは、木簡竹簡の書物の山であった。

「これを紙の書物へ書き写すのが、我々の日常となる」

 衛業も幼いながら、ある程度の文字の読み書きは学んでいる。

 しかし目の前の書物の山はただ事ではなかった。

「これを、全てですか」

 大きな倉が二つ満載に積まれた書物の山である。

「ははは、そう構えることはない。半ば義父上(ちちうえ)の趣味のようなもので、いつまでに終わらせなければならぬという期限もない。敢えて言えば死ぬまでかな」

 爽やかに笑う衛舜が言った義父とは、祖父の衛遼のことであるらしい。

「実の父は病で早世してしまったのだ」

 その声や表情に暗さはない。

――この人は自分と同じ辛さを乗り越えたのか

 いや、病での逝去であるならば、その最期を目の当たりにしているのだろう。

 見えないところで突如死んだと聞かされ未だに実感を得られないでいる衛業とは、辛さの重みは違うだろう。

「衛業が構わないならば、私のことも義兄(あに)と呼んでくれ」

 父を失った衛業は、新たに義父と義兄を得た。


 それからの衛業は、毎日衛舜と共に書物の転写に明け暮れた。

 元々は衛遼が始めたことであるが、既に老齢となり長時間机に向かうことが難しくなっているため、衛舜が引き継いでいたのだという。

 衛業は義父義兄を得たといっても、実父を失った辛さが消え去るわけではない。むしろ時が経つにつれ徐々に実感が強まってきている。

 作業に没頭することで、それを忘れようとしていた。

 しばらく作業を進めていると、衛業はあることに気が付いた。

「義兄上はあまり進んでおりませんね」

 衛業が二冊分の転写を終えても、衛舜はまだ一冊目の半ば程度しか終わっていない。

 数行書き進めると、既に書き写した前の(ページ)を再び開く、あるいは別の書物を取り出して読み耽る。そしてしばらくするとまた数行書き進め、別の書物に手を伸ばす、といったことを繰り返していた。

「そういう衛業は随分速いな」

 衛業の声に、読んでいた書物から目を上げはしたが、その手はまだ開いたままの書物を持っていた。

「義兄上のように作業中に別の書物へ手を伸ばすようなことはしておりませんので」

「作業? ははは、そうか衛業はこれを作業と捉えていたか」

 笑いながら書物を閉じる。

「ただ書き写すだけでは内容は理解できず、それでは面白くもないだろう。先日も言ったが期限のあることではない。せっかくだから内容を理解したいとは思わないか」

 衛舜は転写する書物の内容に疑問が湧くと、関連する他の書を引いて調べていたのだと言う。

「まあ関係無い部分まで読み耽ってしまうこともしばしばだがな」

 そう言って手に持っていた書物を書棚に戻し、転写していた机に戻った。”関係無い部分まで読み耽って”いたのだろう。

「そうは言っても、内容は難しすぎて理解することは叶いません。最低限の学問を修める必要があるのではないでしょうか」

「書を理解するのに学問が必要か、なるほど確かにそうかもしれないな」

「義兄上はどこで学問を修めたのですか。師はどなたでしょうか」

「師はおらぬ。義父上も基本的な文字の読み書きの他は何も教えてくださらなかったからな。強いて言えばここに山積みにされた書物たちだ」

 予想だにしない義兄の言葉に、衛業は目を丸くする。

「最初の一冊は時間がかかったがな」

 衛舜は笑いながら机に向かい直し、筆を取った。

――義父上には神が憑いている。

 衛業にはそうとしか考えられなかった。

「義兄上は学問を修めて何がしたいのでしょうか」

 衛業がふっと湧いた疑問を投げかけてみる。

「学問か。私は学問を修めているつもりはない。学問というのは識者によって体系立てられた知識などのことであって、ただ書物を読めば修めたと言えるものではない」

 学問には師が必要になるが、衛舜には師はいない。つまり学問を修めたとは言えないのだ。

「私は学問を志してこの書物を読んでいるわけではない。ただ興味の赴くまま読んでいるに過ぎない」

 衛舜は純粋な知識欲を楽しんでいるようだった。


 衛業が共州景家へ引き取られて数年後。

 祖父であり義父ともなった衛遼が亡くなった。

 家督は若い衛舜が継ぎ景家当主となったが、その生活はそれ以前となんら変わらなかった。

 相変わらず書物と向き合い続ける毎日。

 その生活に変化が生じたのはさらに数年後、ある来客を迎えてからのことだった。

「早朝にお邪魔致して申し訳ありません。私は共藍太守の煌琉と申します」

 名乗った立場にそぐわぬ丁寧な物言いのその声は、書物の蔵に籠っていた義兄・衛舜を広い世界へ誘うものであった。


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