軍議
「立派な皇帝になりなさい」
それが母の最期の言葉だった。
煌琉は兵馬の進む先に目を向けながら、その言葉を思い出していた。
弦国の帝都玄安を出発した遠征軍は、黄葉に染まる山の裾に沿って北へ進んでいく。
この戦が母の遺言を果たす第一歩になるのだ。
初めての戦である。恐怖がないと言えば嘘になる。しかしそれ以上に皇帝という目標に向かって前進できることへの喜びと、そして何よりも焦りの感情が大きかった。
「頼りにしているぞ、戒燕」
琉は振り返り、大柄の青年に声をかける。
名を呼ばれた郭戒燕は、頼もしげな笑みを浮かべ頷いた。
戒燕は琉の数少ない味方である。
もとは琉の乳母をしていた女性の息子であり、琉と歳が近いことから幼少期から共に過ごしてきた。
琉は母に似た美貌であったが体格には恵まれず、武芸を修めても人並み以上の実力は得られなかった。それに対し戒燕は体格に恵まれ、槍を持てば並の大人では太刀打ちできないまでに成長した。
――戒燕は私に足りないものを補ってくれる
そういう琉の想いは、戒燕も共通していた。
「二人で力を合わせれば、きっと大望は果たせます」
頼もしい声に勇気が湧いてくる。
陽が傾いてきた。東の空に目を向けると、うっすらと弦月が昇り始めているのが見えた。
――上弦の月だな。これから望月へと向かっていく若い月だ。
あの月が満ちていくように、自分も大きくなっていかなければならない。
琉は決意を新たに手綱を握りなおした。
煌は弦国の皇帝の姓である。その煌姓を持つ琉は現皇帝の第三皇子であるため、帝位に就くという願いはまるで夢物語というわけではない。が、その実現のためには大きな障害があった。
一つは二人の異母兄の存在である。特に長兄である煌丞は既に正式な後継者である太子に立てられている。一度立てられた太子を廃するというのは、並大抵のことでは成しえない。
二つ目は後ろ盾の存在である。二人の異母兄の生母は皇帝の正妻に当たる堰皇后であり、その実家である堰氏も古来より弦に仕える名門であり、皇后を輩出し外戚となったことで絶大な影響力を有していた。それに対し琉の母は低位の妾であり、平民の出身でその実家には何の力もない。
そんな見込みのない皇子に味方する貴族は皆無だった。
後ろ盾がない以上、琉自身が力をつけるより他はない。その一番の近道は、戦で大功を挙げることである、と琉は考えていた。
弦の遠征軍が遼倉砦に入った。
この砦が遠征軍の拠点となる。
程なく砦の一室に諸将が招集された。近く本格的な戦闘が開始されるため、その作戦会議が開かれるという。
琉が部屋に入ると、首座に座る総大将の煌丞はその顔に不快気な色を浮かべ、窓の外へ視線を向けた。視界に入れるのも気に食わないらしい。この異母兄は琉と琉を産んだ平民の母を「弦皇室の高貴な血を卑しい血で穢した」と蔑んでいるのだ。
「三宮殿下のお席はあちらでございます」
煌丞の幕僚である田参軍が琉に声をかけ、下座を指し示した。言葉遣いこそは丁寧だが琉を侮る色がありありと見て取れる。
「三宮」とは琉のことである。弦では親しい仲や家族、あるいは主君が臣下を呼ぶ場合を除き、名を呼ぶのは失礼に当たるとされ、皇子の場合は生まれた順にその居処である宮殿を指し一宮、二宮、三宮と呼ばれる。琉は第三皇子であるため、三宮というわけだ。この呼び方は通常は幼少期のもので冠礼を迎え官職に就いた皇子はその官職で呼ばれることになる。
琉もこの遠征で兵を率いるに当たり「軍侯」を拝命しており、通常であれば「煌軍侯」などと呼ばれることになる。「三宮殿下」という呼び方は、幼少期から知っている人物が親しみを込めて呼んでいるか、あるいは子供扱いして馬鹿にしているかのどちらかだ。当然、田参軍は後者である。
琉は軽んじられることには慣れている。席次についても下座であるのは仕方がない。皇子とはいえ、武官としての階級はこの場に呼ばれた者の中では最下位なのだ。
とはいえ、苛立つ気持ちは止められない。
――今に見ていろ。
琉は苛立ちを面に出さぬよう平静を装い着座した。
「皇子が冠礼を迎えたら初陣を経験すべし」という弦皇室の伝統により得られた好機である。騒動を起こせば部隊から外される恐れもある。
ここで功績を挙げられなければ、軍の要職にいる煌丞に毛嫌いされている自分は、二度と戦功を挙げる機会を与えられないかもしれない。
軽んじられることに慣れている琉は、平静を装うことにも慣れていた。
諸将が集まると、田参軍が敵味方両軍の状況の説明から始めた。
今回の出兵は弦の北の国境を侵している姜涼族を征伐するためのものだ。
大陸東部の二大強国と呼ばれる弦だが、その威光をも恐れぬ蛮族が辺境を侵すことは珍しくなかった。現在侵攻して来ている姜涼族もその一つである。
姜涼族は北方の平原を支配する騎馬遊牧民族で、その騎兵の精強さは有名である。最近族長が交代し、新族長は姜王を自称していることもあり、この侵攻は新たな王の力を示すことが目的の一つであろう。
大陸最強と名高い弦軍の騎兵を破ることで姜涼兵の騎馬部隊が大陸一であることが証明される。
「主戦場はこの草原となるでしょう」
卓の中央に広げられた地図を示しながら説明を続ける。
主戦場となると予想される周辺の地形図である。地図の中央には草原が広がっている。騎兵を得意とする両者である。この草原で本格的な戦闘となるのは間違いないだろう。
「姜涼族の数はおよそ五千。そのうち騎兵は約二千程度と思われます。対して、我が弦軍の兵力はおよそ一万。騎兵が二千です」
総兵数で言えば弦軍は敵の倍にもなるが、騎兵の数は拮抗している。騎兵隊の衝突で敗れれば、総兵数の差がひっくり返ることはありえないことではない。
「先陣は盤将軍。騎兵千を率いて敵の騎兵隊を打ち砕いて頂きたい」
武人の誉れである先陣には、盤将軍が指名された。盤将軍は長きにわたり弦軍を支えてきた歴戦の猛将である。若い頃より弦国最強と名高い武人で、最近では髪に白いものが混じり始めたもののいまだ衰えを見せず、大刀の一振りで敵兵十人が一度に倒れると言われている。
盤将軍に先陣を譲ることに、居並ぶ諸将に異論はなかった。
その後も次々に諸将の名前が呼ばれ、それぞれの作戦指示が伝えられていったが、琉の名前は一向に呼ばれなかった。
「作戦は以上になります。何か質問はありますかな」
「田参軍。私の名が呼ばれておりません」
琉は内心苛立つ気持ちを面に出さぬよう、静かに発言した。慌てたり怒ったりすると相手の思う壺だ。
「おお、これは失礼致しました、三宮殿下。ええと、たしか……」
「琉よ、お前は別動隊として敵の後方へ回ってもらう」
わざとらしく慌てた風を装う田参軍を大将である煌丞が制した。
「別動隊、ですか……」
「詳しいことは参軍に聞け。軍議はこれで解散だ」
煌丞は言うだけ言ってさっさと退室してしまった。琉のためにこれ以上時間を使いたくはないということか。
総大将に解散を宣言され、諸将もそれぞれ退室していった。
初投稿の処女作です。
蛟竜は竜の成長過程とされる伝説上の生物。
未熟な蛟竜(煌竜)が竜(皇帝)を目指す物語です。
世界観は古代中国をモチーフにしておりますが、特定の時代をイメージしているわけではありません。
官職名などは「名前を借りているだけ」という程度でご覧ください。