ユリカと友達
バン、と両手を机に突く。小さな掌と朝の喧騒に紛れてその音はさして響かなかった。机の主は驚いたふうもなく、どちらかというとたじろいだ様子でこちらを見上げた。その視線受けて、深晴はぐっと口を結んだ。
「あの」
震えて裏返りそうな声にも笑うことなく、坂崎さんはちょっと首を傾げるようにして言葉を待っている。それに勇気を得て深晴は口を開いた。
「あの、坂崎さん……今度、おうちに遊びに行ってもいい?」
考えていた口実や前置きをすべて飛ばしてしまった。緊張した声に、逆に坂崎さんの方が驚いたのも、当然と言えば当然だと思う。唐突な申し出になってしまった。沈黙の間、深晴は忘れ去ってしまった前置きを何とか思い出そうとしながらじっと坂崎さんの顔を見ていた。
「……いいけど」
長い沈黙のうちにそんな答えを聞いて、深晴は瞬いた。
「えっ、本当に?」
「断る理由も特にないし。まあなんで急にそんなこと言うのかなとは思ったけど」
平静に戻った顔でつらつらと続け、今度は坂崎さんが唐突に聞いた。
「今日の放課後、暇?」
深晴は慌てて記憶をたどる。
「う、うん。平気」
深晴がスカーフをいじりながら言うと、坂崎さんは綺麗な愛想笑いを見せた。
「じゃあ、うちにおいでよ。なんでうちに来たかったのかは帰ってから聞かせてもらうってことで」
にこりと笑んだところにチャイムが鳴る。図ったように担任が教室に入ってきて、深晴は慌てて自分の席に戻った。
放課後、深晴が真っ先に帰る支度を整えて坂崎さんの机に向かうと、坂崎さんはちょっと苦笑して深晴の顔を見返した。
「何でそんなに早いの。ちょっと待って、今終わらせるから」
手早く荷物をまとめ始める。深晴は慌てて遮った。
「いいって、急がなくて。それくらい普通に待つよ」
手を振った深晴を軽く笑ってから、坂崎さんの手元がマイペースになった。
「――……あれ、篠原さんと坂崎さんって接点あったんだ」
後ろから声をかけられて、深晴は振り返る。
「遠野」
坂崎さんが声を上げる。遠野くんだった。坂崎さんを驚いたように見ている。頭がいいのは噂で知っていたが、まだ話したことがなかった。深晴は男子が少し苦手だった。嫌悪や恐怖があるわけではないのだが、近寄りがたいものがあって話すときはいつも緊張してしまう。瞬きした深晴の目にも、遠慮がちな顔にちょっとした好奇心が見え隠れしているのが見えた。不愉快な好奇心ではなかった。それで深晴はちょっと安堵しつつ笑いかける。
「うん、おうちが近くで……今日はお母さんにこっそり差し入れ持っていくようにって頼まれたの」
言ってからはっと口を押さえて坂崎さんの方を振り返る。坂崎さんは手を止めて瞬いているだけで何も言わなかった。深晴は急に慌てて言い直した。
「違うよ!おうちが近いから、仲良くなってみたかったの。あと、弟くんがうちの弟と同じ学年で、えっと、それから」
慌てて言葉を探す深晴の身振りを、坂崎さんは笑いながら筆箱で遮った。
「分かったって。差し入れくれるなら、こんな回りくどいことしなくたっていいのに」
坂崎さんが笑いながらその筆箱を鞄に突っ込む。深晴はホッとしつつマフラーを顎まで上げた。
「お母さんがそうしてって言うんだよ。私が行くと遠慮して受け取ってもらえなそうだからーって」
母を真似ると、坂崎さんはちょっと瞬いた。
「あれ……篠原、深晴さん、って言ったっけ」
遠野くんがまた首を傾げるのが見えた。深晴が頷くと、坂崎さんがちょっと笑った。
「ああ、篠原さんか。――今の、ちょっと似てた」
初めて親しみがこもったその声に、深晴は嬉しくなって坂崎さんに飛びついた。
「お母さんの言ってた通りだった!」
「ちょ、っと」
狼狽える坂崎さんをよそに深晴は続ける。
「ずっとね、ユリカちゃんは変わってるかもしれないけどいい子だよ、って言ってて、話してみたかったの。でも迷惑だったらいやだなぁって、機会もなくって……」
心底嬉しそうな笑顔だった。坂崎さんは戸惑ったように深晴を見下ろしたが、避けたり振り払ったりはしなかった。
「ね、ユリカちゃんって呼んでいい?」
いいけど、と坂崎さんが答える。遠野くんが口を挟んだ。
「元から仲良かったわけじゃないの?」
うん、と深晴の声は明るい。
「今日初めて話すの。これからユリカちゃんのおうちに行くことになってて」
「ねえ、それ俺も行っちゃダメ?」
勢い込んで言ってから、遠野くんは顔色を変えて片手で顔を覆った。
「ごめん、普通に考えてダメだった。女の子の家だし坂崎さんと初めて話すよね、ごめん。無神経なこと言っちゃった。忘れて」
早口に言い切る。ユリカちゃんは失笑した。
「相変わらず興味本位だけで動くよね、遠野は。いいよ、どうせ篠原さんも来るんだし来たら?」