ユリカと変化
眼下は相変わらず眩しい。目を閉じると緑色の残像が瞼の下で銀河を描いた。目を開いて空を見上げる。寒風吹きすさぶ屋上はいつも通り青く、残像を見ていた目には空に星は映らなかった。喉を伸ばしたまま息を吐く。雨ざらしの給水塔は表面が風化しかけてざらついてくすんでいた。
「なんだかこのところ、変な感じだね」
イツキが呟いた。
「んー?そう?」
ユリカの声はどこにも引っかからずに夜の空気の中を流れていった。イツキがちょっと咳き込んだ。
「そう。何って分からないけど変な感じ」
ふうん、とユリカの声がこだまする。
「姉ちゃんの彼氏のせいだと思うんだけど」
イツキの声に、ユリカはお愛想のように笑って見せた。
「馬鹿だな、あれが恋愛対象なわけ」
言ってからふと首を戻して呟く。
「――あ、でも遠野のせいっていうのはあり得るかも」
え、とイツキが声を詰まらせる。ユリカは勢いをつけて給水塔の上に寝転びながら息を吐く。空だけを見ていても、星がちらちら見えるだけだった。空には月が浮かばない夜が続いている。月が出ていたとしても、ユリカはきっとそちらに目を向けはしないだろうが。
「遠野が馴れ馴れしいっていうのはあるんじゃない?」
イツキは呆れ顔で息を吐いた。
「知らないよ……」
ユリカは寝転んだまま両手を空に伸ばした。ミサンガが右手首に収まっている。ユリカはあの結び目のほどき方を知っている。普通の人には分からない結び方だった。赤く編まれたミサンガの端はすり切れて毛羽立っている。いつからここについているのだったか。
「輪の中にいる遠野が馴れ馴れしいって、どうなの」
ぼんやりと呼び捨てて、イツキは給水タンクに背を預ける。ユリカは曖昧に声を上げたばかりで答えない。答える必要もないし、そもそも答えがなかった。
「遠野とは少し距離置いたら。遠野と仲良くなるの、オレ的には嬉しくないんだけど」
「んー……なんで?まあ、あんたが言うならそうするけど」
息を吐いたが、一向にイツキの言葉を聞き入れたようには見えなかった。
「なんでって、オレに分かるわけないじゃん」
「あ、そっか」
言って起きあがる。頭を振って浮いた前髪を直し、風にまとわりつく髪の毛を首の後ろに振り払った。あぐらをかいた足首を両手で掴む。猫背になった背に、風は止んで髪の毛が戻ってきた。
「寒いね」
先に行ったのはイツキの方だった。意外そうに口をすぼめたのはほんの一瞬、すぐにユリカも答えた。
「うん、寒い」
答えるように冷たい風が屋上を吹き抜けた。身動きもせず、二人は風に吹かれた。手足を伸ばしてユリカが伸びをした。ついでに出た欠伸につられて、イツキも小さな欠伸を噛み殺す。
「言っておくけど、オレは姉ちゃんを一人にしておいていくのは嫌だから。分かった?」
「へーへー」
ユリカは肩を竦めた。珍しく口煩い弟分は、しかしそれだけ言うとまた興味を失ったようにマフラーに頬を埋めて息を吐いた。マフラーの隙間から白く靄が漂って、すぐに空気に溶けて消えていく。給水塔の影から月が覗いていたが、二人は背を向けたまま気付かなかった。