ユリカと蓮太郎
少女は蓮池の傍にいた。月の大きな晩だった。月が池に映って、風が吹くたびに千々(ちぢ)と砕けてはまた寄り集まっていく。涼やかな風がいかにもつむじ風の輪郭を描いて少女の首元をさらった。
蓮は浄土の花だった。葉に乗った雫が丸く光をはじいている。あれが人の魂だろうか。あんな風に葉の上を滑らされ転がされ、葉の縁から零れ落ちた雫が池の中へ落ちて現世を生きるのかもしれない。
ひときわ涼しい風が吹いた。ころりと、まるで一つの小石のように雫が落ちた。あんな風にふるまっても、池の中に落ちれば形さえもなくなるというのに。けれどもこれが、人の生まれ落ちる瞬間なのだ。生はいつも揺らいだ中にある。
(――ああ、だから)
だから赤ん坊は揺り籠の中にいると安心して眠れるのかもしれない。揺らぎに生きる心地を見出して、自分の存在を心に刻む。そんなことが本当にあってもいい。いつも揺れ漂う中には、きっと辛いことも楽しいこともあるのだろう。ぐるぐると生を巡っていくのはどんな心地だろうか。彼女は揺り籠の中にいたことがない。生きる揺らぎを感じたことがなかった。彼女は揺り籠の中を想像してみようと思ったが、天井にぽっかり開いた空を眺めて一人に震える想像がついただけだった。あまりに縁遠かった。
「んー……」
首をひねって腕を組む。堂々巡りを始めた頭の中で蓮の花が咲いていた。
「あの、すみません」
声がしたのはその時だった。彼女は踵をついて振り返る。学生服姿の少年がいた。
「なに?」
「えっ、……あ」
少年は言い淀み、ぎこちなく帽子を取った。
「あの、おはようございます。遠野、蓮太郎と申します。あなたは?何か考え事ですか」
「――へ?」
彼女はきょとんと眼を丸くした。咄嗟のことに頭がついていかなかった。なぜ声をかけてきたのだろう。
「え、っと……ゆり、か……ご……?」
尻すぼみに言うと、蓮太郎と名乗った少年はじっと聞き入って、それから笑顔を浮かべた。
「ユリカさんですか?」
ユリカは瞬いてちょっと顎を引いた。
「あー……。うん、ユリカでいいや」
小さく笑うと、蓮太郎は人懐こい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。月光のもとに出てきた蓮太郎は、ユリカより少しばかり背が低かった。蓮太郎は蓮池の前まで出てきて落胆した息を吐いた。悄然と肩を落とす蓮太郎の後ろ姿に、ユリカは声をかける。
「どうしたの」
蓮太郎は手にした帽子をかぶり直して残念そうに振り向いた。
「蓮の花が開くところを見たかったんです、今日が最後の開花って聞いたから。でもちょっと遅かったみたいですね……」
「――……いや、別に遅くないと思うけど」
へ、と顔を上げた蓮太郎の前で蓮池の花が一斉に開きだす。蓮太郎は輝かせた目をユリカの方に向けた。
「すごい……綺麗ですね、ユリカさん」
ユリカはちょっと肩を竦めて蓮池を指した自分の手をそっと隠した。
「ユリカ『さん』ってやめない?変に敬語使うのも。なんか嬉しくない」
ちら、とユリカが蓮太郎を見ると、案の定蓮太郎は戸惑った様子でユリカを見た。
「え、でも……じゃあ、ユリ、カ?」
ぎこちなく口を動かす様子がいかにも慣れない風だった。ユリカはちょっと苦笑する。頷くと蓮太郎はぎくしゃくと口を動かした。
「年上相手に、なんとなく変だと……思う、よ」
「いいんだってば」
ユリカは笑いをこらえた。
「まあ、敬語だっていいんだけどさ」
どうせ次会ったら同じ会話繰り返すんだし、と蓮太郎の頭に伸ばしかけた手は、しかし避けられて両手で押さえられた。
「待って!」
蓮太郎の声にぎくりとユリカは肩に力を入れた。風が吹いて夜が明けようとしている。太陽は出ていなかったが、もうお互いの顔に影を見出せるほどの明るさがあった。
「待つも何も、私まだ戻らないけど」
表情を変えずにユリカが言うと、蓮太郎はぎゅっと口を結んだ。迷い迷い、蓮太郎は口を開いた。
「変なこと言うなって、笑わないでほしいんだけど」
前置きをしてから深く息をつく。セーラー服の袖口を握られたまま、ユリカは唇に力を入れていた。
「俺の記憶をすり替えないで。ユリカは幻が見せられるんだろう」
ユリカは唇の隙間から息を吸った。自然と体が後ろに傾ぎ、支えるように足が一歩下がる。
「変なこと言うね」
ユリカが言うと、蓮太郎はもう一度不安げに口を結んだ。朝日が昇ってくる。
「前に見たんだ。何度も見かけた。普通に話してると思ったら、頭を触られた途端みんな知らない人を見かけたみたいにユリカを見る。そういうことができるんだろう?さっきだって」
蓮太郎は片手でユリカの手首を握ったままもう片手で蓮池を指した。
「俺が見たがったから開花を見せてくれたんだ、違う?」
「違うよ、放して」
ユリカが早口に言うと蓮太郎はもう一度両手でユリカの両手を強く握った。反射的にユリカが逃げそうになるのを腕を引いて引き止める。
「放さない。無かったことにしたくないんだ。やっと話せたんだから」
ユリカは逃げようと腕を引きながら踵を突っ張った。ユリカは焦燥に駆られた。
「私と話したことのある人間がいたら、私はここにはいられない。ずっと年も取らない知人がいることになったら、私は普通の人にまぎれていられない。放して」
「嫌だ」
蓮太郎が叫ぶ。
「あんな寂しそうな顔するくせに、全部忘れさせるなんておかしいよ!」
ぴた、とユリカの動きが止まった。その隙に蓮太郎が思い切り腕を引く。ユリカは地面に思い切り膝を打ち、蓮太郎は踵を滑らせて尻餅をつく。
「うわ、久しぶりに転んだ」
無感動な声を上げるユリカの顔には特に表情はなかった。蓮太郎は腰をさすり、そうして堪え切れずに笑い出した。ユリカが怪訝な顔をすると、蓮太郎は腹を抱えて、笑いすぎて浮かんだ涙を指先で拭った。
「ごめん、なんか急に阿呆くさくなっちゃって」
「本当だよ。力任せに引っ張ったりして」
ユリカが失笑する。その顔を見て、蓮太郎はちょっと笑いを引っ込めた。
「本当に、なかったことにする?俺はそういう友人がいたっていいと思う。一人くらい例外がいたらダメ?」
ユリカは真顔に戻ってじっと蓮太郎の眼差しを眺める。それからふいと顔を背けた。
「しょうがないな」
蓮太郎はぱあっと顔を輝かせる。
「本当?」
ユリカは血の滲んだ膝を払って息を吐いた。
「あんなにぐいぐい引っ張られるのはもうごめんだしね」
言って深く息をつくと、蓮太郎はホッとした顔で笑った。
蓮の花が咲いている。千々に砕ける水面に丸く葉が浮かんでいて、その上に一粒の雫が震えている。今は朝日に丸く光をはじいていた。