生きること
蓮池の傍に、誰かの後ろ姿を見つけた。ユリカは雑木林の影からその背中を見る。物音に気付いて、その人影が振り返った。佐俊だ。ちょっと瞬き、それから微笑んで手招きする。呼ばれるままに出ていくと、佐俊は地面にしゃがみ込んだ。隣を示されて、ユリカは躊躇いなく地面に腰を下ろす。細く砂埃が舞った。佐俊がちょっと苦笑して腰を下ろす。それからすぐそばにあるユリカの手首を持ち上げた。
「……なに?」
ユリカが聞くと、佐俊はミサンガに手をかけて結び目をほどいていく。
「もう取っても大丈夫だろ」
自由になった手首を握ってユリカは目を伏せる。黙ったままのユリカの横顔を見て、佐俊はちょっと息を吐いた。
「まだ輪の中には入れてない気がする?」
うん、と頷くと長い髪が揺れた。黒い、綺麗な髪だった。
「思うんだけど」
佐俊が言った。ほどいたミサンガを指で弄んでいる。
「新しい名前をもらうたびに記憶をなくして、何のために生きてるかも分からずに今の名前を生きる、って、輪の中の人の生き方だと思うんだ」
ユリカは傍らの佐俊を見た。佐俊は池に視線を注いでいて、反射した池の光が目に映りこんでいる。
「うん。それで?」
ユリカが聞くと佐俊は苦笑を漏らした。
「分からないから、知りたいと思う。知ったことをもとに成長できる。これも輪の中の生き方」
ユリカは戸惑って眉をひそめた。
「……そうだと思うけど」
言うと、佐俊の苦笑が深くなる。
「今のユリカの生き方を言ったつもりだったんだけど」
ユリカは顎を引いた。
「まさか」
「違うの?」
佐俊はユリカに目を向けた。
「じゃあ、どうしてユリカやってるの?」
ユリカは答えに困って口を噤む。ほら、と笑った佐俊の顔に、一瞬だけ蓮太郎の横顔が映った気がした。
死んでは忘れることを繰り返す人にとっては、思いを忘れることの方が辛いのかもしれない。それでも、命をまたいでまで抱えていてほしくなかった。ユリカにとっては永遠に思いを抱える方がずっと苦しい。蓮太郎にまでそんな思いをしてほしくなかった。いつかの夜明けに願った思いをふと思い出した。生きるというのは、前世で死んだときに忘れたことを思い出していく工程なのかもしれない。あの夜明けに暮れ落ちていった命は、忘れないことを願っていった。前世からの命を引き継いだ。池の蓮の葉から、水滴が一粒、転がり落ちた。
ユリカは首を振る。伏せた目が見開かれて、口が引き結ばれる。全部思い出してしまった。胸の奥から何かが溢れだしていくのが分かった。同時に、イツキがただの錯覚に還って行ったのも。ユリカは震えながら自分の膝を抱く。佐俊が口を開いた。
「記憶のないままユリカをやってた時から、もう輪の中に入りかけてたようなものだろ」
「でも、全部思い出したよ、今……」
ユリカが呟くと、佐俊がぱっとユリカを見る。口を開けてしばらく動かなかったが、やがて笑った。
「なら、やっと成長したってことじゃないか。……そっか。本当に」
ユリカは顔を上げて佐俊の顔をじっと見る。
「蓮太郎、私は生きてる?ずっとぞれが不安だった」
佐俊はにっと笑った。見慣れた顔だった。
「ずっと生きてた。輪の外でだって、生きてる」
ユリカは顔を背けた。喉元が震えている。佐俊は続けた。
「お前が輪の中にいることを生きるっていう意味だと思ってるなら、ついさっき生まれた」
佐俊は目を逸らす。池の光がまぶしかった。夜が明けている。太陽がまぶしい。ユリカは息を吸う。体が揺れているような気がした。水の中に揺すられているような。
「眩暈がする」
ユリカは小さく笑みを浮かべる。そっと立ち上がって空を眺めた。突き抜けるほど青い空の中に太陽が輝いていた。
暮れた後の空ばかり眺めてきた。月のない空ばかりを。廻っていく空に命を見た。輪の中の命は空とともにめぐっていく。揺すられ、惑って抜け出せないともがきながら回る。風が吹いてきてユリカは目の前の蓮池を眺めた。波に揺られて丸い葉が水滴をこぼしていく。浄土の花が咲く季節がやってくる。今度は幻でない、本当の開花を佐俊とともに見るつもりだった。真実を見るのは難しい。ユリカはもうきっと魔法は使えない。暮れゆく命になったユリカには使う必要もなかった。
蓮の花はまだ咲かない。千々に砕ける水面に丸く葉が浮かんでいて、その上に一粒の雫が震えている。朝日に丸く光をはじいていた。その光に、ユリカは空の明るさを見た。
ハス…花言葉:救ってください
綺麗なお話を書きたいです。
それからまともな長編小説も書けるようになりたいです。




