ユリカと錯覚
オレはさ、とイツキの声を風がさらっていく。ジャージの襟がイツキの頬を叩く。イツキの声は平坦だった。同時にひどく感情的だった。それでいて、どの感情も浮かんでは来なかった。炭のような声の濃淡が言葉を彩る。
「消えたくない」
はっきりした声だった。ユリカは隣でスカーフをつまむ。
「だよね、普通」
イツキはこちらをちらりとも見なかった。抑えたような声にも聞こえた。
「なかったことになりたくない」
うん、とユリカは頷く。それはユリカにも分かる感覚だった。
「でも、いいよ」
「何が」
「消えても」
「何で」
応答はともに短く早かった。イツキは街を眺めている。給水塔で隣に座るイツキの姿は見慣れていた。
「一人になりたくなくて、姉ちゃんはオレを視るようになった」
うん、とユリカの相槌はくぐもっている。
「だからオレは姉ちゃんを一人にしたくなかった。だってそのために生まれたみたいなもんだし」
ふうん、とユリカは首を傾ける。
「佐俊が変なこと言ってたね」
うん。頷く。
「あれ、本当だって姉ちゃん気付いてるでしょ」
どうかな。
「蓮太郎っていうんだね、姉ちゃんが待ってたのって」
そう。うん。そうだよ。名前だけは思い出した。
「佐俊が来たから、もうオレはいちゃいけないよね」
そうなのかな。
「だって身代わりだし。本物があるなら、オレは消えないと」
今更だけど、消えるって何だろう。
「姉ちゃんが自分にかけた魔法、もう解けてるんだよ。気づかないの」
自分にかけた魔法。
「それなのに、オレが何か分からないの」
イツキが、弟分の身代わりが何か。
「錯覚、幻、幻影。呼び名はいろいろあるけど、姉ちゃんの創造物。空想でもいいかな」
空想。
「存在なんかしてないんだ。姉ちゃんと違って、記憶が消えたらそれっきり。はじめから無かったことになってそれっきり」
それは、嫌だろうな。
「嫌だよ。姉ちゃんから生まれたんだ。姉ちゃんが嫌ならオレも嫌だよ」
そう。
「給水塔は、蓮太郎が絶対に来ないところだよ。高所恐怖症に加えて、蓮太郎は給水塔の方までは見に来ない。だからよく昇ったでしょ。蓮太郎から隠れたいときに」
そうだったかもしれない。
「さっきも言ったけど、魔法が解けてる。オレは姉ちゃんが残したいと思うから消えたくないし、今も消えてない」
うん。
「佐俊に会いに行こうよ。そうしたら、全部思い出せる」
だけど、それは。
「オレは、姉ちゃんより先に気付いたよ」
何を。
「ずっと前に姉ちゃんが聞いた質問の答え」
何だっけ。
「忘れちゃったならいい。オレも真似してみようかな」
だから、何を。
「オレのこと、忘れてもいいよ」
え、なにそれ。
にこ、と笑った目元がユリカの目と合う。今まで見たことのない顔だった。イツキの寂しい顔を、初めて見た。
『あんな寂しそうな顔するくせに、全部忘れさせるなんておかしいよ!』
声が聞こえた気がした。顔はいまだに思い出せない。ユリカは瞬く。自分もあんな顔をしたことがあったのだろうか。あんな顔を他人に見せたことがあったのだろうか。




