ユリカと蓮池
ユリカは蓮池の傍にいた。輪について思いあぐねたときはいつもここに来る。もとは寺の一角だったその池の眺めがユリカは好きだった。今は花など付けていない。切れ込みの入った丸い葉が水の玉を乗せて水面にいくつも浮いている。月が水面に映っていた。さざ波に千々と砕けてはしわが寄るように形を成す。
「あの、すみません」
声がしたのはその時だった。ユリカは踵をついて振り返る。後ろの雑木林に学ラン姿の少年がいた。
「なに?」
少年の目が見開かれる。風が吹いて木が揺れ、少年の眼差しが光った。
「……ユリカ」
少年はぽっかりと空いた口からごく小さな声を漏らした。ユリカの肩がピクリと揺れる。
「あの、おはようございます。俺は遠野佐俊です」
ユリカは半歩踵を引いて佐俊を見た。咄嗟のことに頭がついていかなかった。なぜ声をかけてきたのか。たしか佐俊というのは遠野と深晴の子供だったはずだ。そんなことよりなぜユリカの名を知っているのか。記憶はすり替えたはずだった。どこかで手ぬかった覚えはなかった。じっと首を傾げながら続きを待っていると、佐俊は人懐こい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。月光のもとに出てきた佐俊は、ユリカより少しばかり背が高かった。
「ユリカだろ?」
ユリカは瞬いてちょっと顎を引いた。その袖を佐俊が握る。
「……そう、だけど。どちら様?」
佐俊は束の間瞬き、落胆した息を吐いた。悄然と肩を落とす佐俊の後ろ頭に、ユリカは問う。
「……なに」
いや、と力なく笑った佐俊のつむじが白かった。表情を変えずにユリカが顔を覗き込むと、佐俊はぎゅっと口を結んだ。顔を上げ、迷い迷い佐俊は口を開いた。
「変なこと言うなって、笑わないでほしいんだけど」
前置きをしてから深く息をつく。セーラー服の袖口を握られたまま、ユリカは唇に力を入れていた。
「ずっと、夢を見るんだ。ユリカと、多分……俺の夢。夢の中では佐俊って名前じゃないんだけど」
ユリカはひっそりと眉をひそめる。
「変なこと言うね」
ユリカが言うと、佐俊はもう一度不安げに口を結んだ。どんな夢、とユリカは聞かなかった。なぜだか一人でいる時に意識したことのなかったイツキの顔が浮かんだ。佐俊は目を逸らし、もう一度唇の隙間から息を吸う。
「毎日似たような夢しか見ない。何度も見る夢もある。他の人が夢を見る日があったり見ない日があったり、脈絡のない夢を見るって知って驚いたくらい」
それから袖を掴む手に力を入れてユリカを見つめた。強い思いのこもった目だった。切望とか、希求とか、哀願とか、そういう類の目。ユリカはこういう目に見られたことがないはずだ。こういう目を向けられる相手はいなかった。言葉を交わして思いを交わした相手に対する目なのだ。友達とか、知り合いとか、仇敵とか、そんな肩書を持つ人への。すべてなかったことにしてきたはずだった。ユリカの足が一歩下がる。
「約束をしたんだ。生まれ変わったってユリカのことを覚えてるって。何度も何度も繰り返し夢に出てきたから覚えてる」
ユリカがじっと佐俊を見る。覚えがない。記憶にない。そんな約束は知らない。口には出さずに唱えていると、その目にはじめて笑顔が浮かんだ。
「それとも、忘れていいなんて言ったからもう忘れちゃったか?」
にっと、苦笑に近い笑顔が優しかった。ユリカは戸惑って腕を引こうとする。その腕を佐俊は放さなかった。
「放して」
「放さない。夢の中だけの話じゃないんだ、きっと。そんな気がする。だから無かったことにしたくないんだ。やっと」
佐俊は今にも泣きそうに崩れた笑顔を浮かべた。
「やっと、会えたんだから」
ユリカは逃げようと腕を引きながら踵を突っ張った。佐俊が慌てて手首をつかみ直す。ユリカは焦燥に駆られた。
「私と話したことのある人間がいたら、私はここにはいないはずだよ。放して」
「嫌だ」
佐俊は歯を食いしばった。ぎり、と歯ぎしりの音がユリカの鼓動を打つ。
「あんなしょげた顔してたくせに!」
ぴた、とユリカの動きが止まった。動揺と混乱がないまぜになって背中を叩かれたほどの鼓動が鳴っている。その隙に佐俊が思い切り腕を引く。ユリカは地面に思い切り膝を打ち、佐俊は踵を滑らせて尻餅をつく。
「うわ、久しぶりに転んだ」
無感動な声を上げるユリカの顔には特に表情はなかった。ただ瞳の揺れだけが月の光に照らされている。佐俊は腰をさすり、そうして堪え切れずに笑い出した。ユリカが怪訝な顔をすると、佐俊は腹を抱えて、笑いすぎて浮かんだ涙を指先で拭った。
「あー、懐かしい。一番初めに見た夢と同じだ。阿呆くさ」
「本当だよ。力任せに引っ張ったりして」
ユリカが失笑する。その顔を見て、佐俊はちょっと笑いを引っ込めた。
「本当に、全部忘れちゃった?俺は覚えてる。ちょっとでも、何かない?違和感とか」
ユリカは真顔に戻ってじっと蓮太郎の眼差しを眺める。
「別に。でも、そうだな……確かに変な気分はする。あんたと話すのは本当にこれが初めてだけど、なんとなく話したことがある気がする」
ユリカが低く言うと、佐俊はちょっと肩を竦めて笑う。
「ユリカが初めてって言うなら、本当に初めてなんだな」
「どういう」
言いかけたユリカを制す。
「俺相手にとぼけなくていい。俺にはまだ記憶をすり替える術みたいなのを使ってないんだなって話だよ」
ユリカは言葉に詰まり、それからふいと横を向く。佐俊はユリカの顔を覗き込んだ。
「ひねくれてるところは相変わらずか?」
にっと悪戯めいた笑みに、ユリカは表情を変えずに佐俊の顔を押しのけた。
「遠野と似たような顔で腹立つこと言わないでほしいんだけど」
「は?俺?」
「友達」
たじろぐ佐俊を置いて立ち上がる。砂を払って蓮池を振り返った。そっと視線を上げると月が輝いている。
「月なんて、久しぶりに見た」
呟いた声が蓮池の波紋に吸い取られて消えていく。風に揺れて手首をこするミサンガを、初めて鬱陶しいと思った。記憶の隅にユリカの名を呼ぶ誰かの声が響いている。喉元がこくりと上下した。




