ユリカとイツキ
風が吹いていた。給水塔には二人の人影があった。ユリカはやはり白い横顔で街を眺めている。眼下は眩しくなりつつあった。錆びた鉄パイプに足を絡めて、ユリカは閉じた目から軽くため息を吐いた。空気は固さを和らげているらしい。日ごとに重たいコートのボタンを留めずに歩く人が増えているのを確認していた。
「そろそろ春かな」
ユリカが言うと、イツキは頷く。イツキの横顔にも色彩の強い影が差していた。
「まだ、寒いねぇ」
ユリカが言うと、イツキは膝を抱えた。
「うん、寒い」
沈黙が降りる。ユリカは給水塔から飛び降りた。屋上の縁まで行って手すりから身を乗り出す。腹に手すりを食い込ませて、ユリカは全身を脱力させた。髪が真上に持ち上がり、景色が反転する。手すりの格子と足首の隙間からイツキが見えた。呆れた顔でユリカを眺めてちょっと鼻をすする。
「何やってんの」
ユリカは両手を放して格子の隙間から腕を突っ込んでローファーをもぎ取った。靴下をはいた足裏から一気に暖かい空気が逃げる。
「楽しいよ」
「そんなの、何が楽しいの」
イツキの声はどこまでも素っ気ない。ユリカは格子にローファーを引き込んで体を起こす。そのまま手すりを乗り越えると、転がった靴に足を突っ込んだ。
「楽しいと思うから楽しいんだよ。あんたもやったらいいのに」
やらないってば、とイツキが足を揺らした。ユリカはその足で屋上の縁ギリギリをゆっくりと歩いた。一歩一歩を踏みしめるようにすると、コンクリートの欠片がパラパラと落ちていった。街の明るさに吸い取られて足元は暗い。吸い込まれるようだった。
「ねえ、遠野と深晴が結婚してた」
ユリカが両手でバランスを取りながら言う。
「ふーん……えっ?」
イツキは顔を上げてまじまじとユリカを見る。ユリカは手すりを掴んで外側に体重を傾ける。
「驚くでしょ。子供もいたよ。佐俊とか言ってたっけ。面白い子だった」
イツキはぽかんと口を開けたが、そのうちに渋い顔でユリカを睨んだ。
「記憶をすり替えたのに?」
「そう怒らないでよ」
ユリカは体を引き戻し、格子の隙間に両足を突っ込んで屋上の縁に座った。
「私の魔法はあくまでそう『錯覚』させるだけだよ。魔法にこそ限界がある。違和感に気付いた時点で、もう魔法の半分は解けたようなものだね」
ふふん、とわざとらしく鼻を鳴らすと、イツキはぐっと顔を顰める。眼下の光に照らされて、その顔はずっと感情的に見えた。
「ずっと前の担任に言われたことがあるんだけど、人の存在は記憶から消えても環境に残るんだってさ」
ユリカは目を伏せた。そういえば、あの場にも遠野はいたのだったか。
「私がこうやって立ち回ってる以上、こんなことになってもおかしくはないってこと」
ユリカが笑いかけると、イツキはムッとしたように睨み返す。
「だからむやみに人に顔合わせるのはやめてって言ってるのに」
ユリカは肩を竦めた。
「誰にも会わず、なんて勘弁。ただでさえ浮いてるんだから、寄ってくる人とおしゃべりするくらい許してよ」
イツキはきつい目でユリカを見た。
「そうまでして、どうしてユリカにこだわるの。ユリカをやめたらこんなにいろいろ気を配らなくていいのに」
ユリカは格子を掴んだ。錆びかけて冷たいそれに額を当てて目を閉じる。
「んー……それを覚えてたらねぇ」
イツキは給水塔から飛び降りてユリカのいる方に歩いてきた。
「何度でも言うけど。オレは姉ちゃんを一人にするのは嫌だから」
「分かってるって」
ユリカが顔を上げるとイツキはユリカのすぐそばまで来ている。かがみ込んでユリカの顔を覗き込んだ。
「姉ちゃんが記憶をすり替えたらオレは他の人から完全に忘れられる。だから、姉ちゃんだけは覚えていて」
ユリカは答えずイツキの顔を見上げた。イツキの目には何とも知れない光が映りこんでいる。実はそれは月光だったのだが、ユリカは背後のそれに気づかない。イツキは立ち上がってユリカの背後にある月を見上げた。色づき始めた月が夜空を切り取っている。それを眺めるイツキの目は浮かない。




