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ユリカといのち

 夜の空気が満ちていた。黒い綿を詰めたようにもこもことした夜明け前の部屋で、ベッドに横たわった蓮太郎の姿はここ数日と全く変わりがなかった。それでも、そろそろ近いだろうとユリカはベッド脇の椅子に腰かけたまま思っていた。蓮太郎はいつもと変わらず横たわってぼんやりと天井を見ていた。ユリカは椅子を寄せて蓮太郎に話しかけた。

「……とうとうあんた、結婚しなかったね」

ユリカの静かな声に、蓮太郎はユリカの方に微かに顔を傾けた。

「うん?……ああ、そういえばそうだったな」

かすれた声だった。もうここ最近は、ずっとこんな声ばかりを聞いた。目を伏せたまま、ユリカは蓮太郎に問う。

「どうして恋人作ろうとか思わなかったの」

蓮太郎は咳き込むようにして笑った。

「やけに変なことを聞くな。うーん、そうだなぁ……」

蓮太郎はユリカの向かいにある窓の外を眺めた。カーテンの隙間から、澄んだ夜が見えている。

「別にこれって理由はないけど……そうだなぁ、幸せだったからかなぁ」

ユリカは、そう、とだけ言って目を伏せたままでいる。蓮太郎はベッドから手を出す。ユリカの頭を撫で、そのまま横髪を、頬を撫でる。筋張った手だった。ユリカは目線だけ上げて蓮太郎を見る。

「お前、別に死ぬとか何とも思ってなかっただろう。『どうせあんたたちはまた生まれ変わる』とかなんとか言ってさ。どうしてそんなにしょげた顔をしてるんだよ」

「別にしょげてはいないけど」

ユリカは言いながら頬を包んだ蓮太郎の手を上から握った。

「思ったより短いなぁって思っただけ。私も人の一生に丸ごと付き合うのは初めてだったから」

「ああ」

と蓮太郎の顔がほころぶ。

「それは光栄だな。何をそんなに気に入ってくれたの?」

ユリカは小さく笑った。

「気に入った要素なんて何もない。ただ蓮太郎が一緒にいたがっただけだよ」

なるほど、と蓮太郎が笑う。ユリカを見るまなざしはいつもと変わらない。カーテンの隙間から差し込んでくる光はだんだんと青くなってきていて、隙間から覗いている月も冴えたように青白かった。

「それじゃあ、記憶を消さないでもらえて本当によかった。だから幸せだったんだな」

穏やかな声にユリカの笑顔がしぼむ。ユリカはただ目を伏せているだけだった。悲壮な顔も、別れを惜しむ表情も、幸福を表す笑顔もなかった。ただ黙って、頬に添えられた蓮太郎の手を握っていた。

「――そうだ」

蓮太郎が不意に声を上げた。またユリカは目線だけを上げて蓮太郎を見る。

「生まれ変わってもユリカのこと覚えていよう」

ユリカの眼だけがそっと見開かれる。またすぐに目を伏せ、

「いいよ、そんなこと」

「いや、俺がそうしたいんだ」

蓮太郎の顔には笑顔が浮かんでいた。

「俺は必ず覚えている。待っていて。ユリカは忘れてもいいよ」

「やめてよ、そんな辛いだけのこと――」

笑い交じりに言いかけてユリカの声がふと途切れる。頬に添えられた蓮太郎の手、そのしわだらけの手が随分と重かった。握った手から滑り落ちていくほどだ。ユリカは静かに目を上げる。ベッドの上で、蓮太郎はじっと目を閉じていた。蓮太郎の笑いかけた口元がだんだんと淡くなっている。その唇は渇いていた。手が重い。ユリカはとうとう蓮太郎の手を落としてしまった。一度静かに瞬いた目から、白い頬に涙が転がり落ちる。ユリカは自分の手を膝に置いて小さく笑った。

「馬鹿だな。思いを背負ったまま死ぬなんて辛いに決まってるのに」

乾いた笑い声を立てて、右手で前髪を掻く。その眉間に切れたほどの影が落ちる。ユリカは強く目を閉じた。まつ毛の隙間が熱い。前髪を毟ったままその手首を押し付ける。

「――……愛したままいなくなるのはやめて」

力の入った肩に、背が丸まっていく。

「やめてよ……」

椅子から崩れ落ちる。落ちたままの蓮太郎の手が、力なくユリカのつむじを掻いた。ユリカは左手でスカーフごと胸を掻き毟った。崩れた膝の上に身を伏せる。痛みに震えた。全身が痛かった。

「……ちくしょう……」

 窓の外では夜が明けはじめていた。澄んだ光が差し込んできていて、月はごく薄くまだそこにあった。ベッドの影に身を隠すようにして、ユリカは痛みを堪えようとした。しばらくそうしていたが、ゆっくりと顔を上げて身を起こす。

 震える手を伸ばす。今まで起きたことをすべて、蓮太郎にまつわる全ての記憶を掘り返す。指先までもが痛んだ。何もかもが浮かんだ。それから、この後のことを考えた。このまま普通にやっても、きっといつか思い出してしまう。では、代わりを置けばいいのか。蓮太郎の代わりになる、何かを。痛くて痛くて、手が震えた。それらすべてを思い浮かべ、ユリカはついに、自分の頭を叩いた。ぽんと軽い衝撃がすべてを消した。明るくなった窓の外からは、月が消えていた。

 はっと気づくとユリカは給水塔の上に座っていた。隣には中学生くらいの少年がいる。少年はどこか見下ろすような静かな目でユリカを見上げた。

「今の姉ちゃんって、ユリカやってるの?」

自分そっくりの、静かな口調だった。

「うん、そう」

ユリカは答える。

「オレって、いても大丈夫なの」

「うん」

ユリカはぼんやりと頷く。何を答えているのか、自分にもはっきりとは分からなかった。

へえ、と少年の声は流れる。

「まあ、与えられたように動くよ」

少年は伸びをした。この給水塔には何度も昇った記憶がある。どうしてこんなところを度々昇っていたのかユリカには思い出せなかったが、それからは毎晩屋上に上がることが日課だった。少年が毎日昇りたがった。ユリカはそれに従うだけだった。従わねばならない理由もなかったが、逆らう理由もなかった。それに、少年の願いを聞き入れていれば大抵の困難は避けられた。日々に退屈さえしなければ、ユリカは少年の小言を聞き入れるようになった。その少年はこのところ、イツキと名乗り始めたようだった。


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