夜の屋上
鼻先が冷えていた。白く闇夜を掻き分けて横顔の輪郭が光っている。闇夜よりなお黒い髪が長く夜風に散った。闇夜から黒だけを吸いとったようだ。空は少女の髪に比べるとずっと青い。少女はほう、と息を吐く。風に吹き散らされてあっという間に無色になった息を大人びた眼差しで追う。セーラー服の赤いスカーフがパタパタ小さく泣いていた。
「ねえ、夜だよ。外出てたら補導されちゃうよ」
隣にいた少年が言った。少年の方が少し背が低い。ジャージのポケットに両手を突っ込みながら欠伸をした。マフラーの端からフリンジが跳ねて、静かな声が屋上にこだまする。少女も同じように両手をポケットに突っ込んでいた。その手を引っこ抜き、爪の先をじっと見る。左手はさっき鞄の上に脱ぎ捨てたカーディガンを探っていた。
「んー?いいんじゃん?さっき見回り来たばっかりだし」
「そんなこと言って、この間あっさり見つかったじゃん」
呆れたような少年の声に少女は首を傾げる。
「あれは私が手ぬかったわけじゃないでしょ。だって普通、三階建ての学校の屋上に上ろうと思う人いる?」
少女のけろっとした声に少年は眉をひそめた。
「いたから見つかったんじゃない。やめてよ、簡単に人に顔見られるの」
「んー……」
少女はそれ以上答えない。給水塔に座り込んだ二人はそろって欠伸を放った。屋上の上では月のない夜が広がっている。眼下は明るく昼間よりきらびやかだった。ぼうっとそれを見ていた少女は、藪から棒にカバンごとカーディガンをひっつかんで給水塔から飛び降り、屋上の縁ギリギリを両手を広げて走り回った。少年はマフラーの中に頬を沈めながら小さく息を吐いた。その白い靄もあっという間に風に吹き散らされる。
「何やってんの……」
少年がぼそりと呟いた。その声をしっかり聞きつけて少女は走りながら振り返る。
「楽しいよ。あんたもやったら?」
「そんなの、何が楽しいの」
少年は少女とそっくりな仕草でポケットから右手を出して爪先を眺める。ただし左手は変わらずポケットに刺さっていた。
「楽しいと思うから楽しいんだよ。やってみなよ」
やらない、とそこで言葉を切って少年はふと顔を上げた。
「ねえ、姉ちゃんってなんでユリカやってるの」
「は?」
少女は走る足を止めて少年の方に向き直る。きょとんと丸く見開いた目に疑問が映る。目尻のすっきりした目を瞬かせて答える。
「あんなの、揺り籠のこと考えてるときに声かけられて、咄嗟にゆりかごって言っちゃいそうになって決まった名前だし。なんでとか聞かれても」
少女が言うと、少年はちょっと戸惑った風に眉をひそめる。
「それにしては、ずいぶん長いことユリカでいるよね。まあオレは全部姉ちゃんで済むからどんな名前だっていいけど」
「あー……?」
そうだっけ、と少女は頭の後ろで手を組んでその辺にあったコンクリートの欠片を蹴飛ばす。欠片は屋上の柵の隙間をすり抜けて落ちていった。小さな欠片が地面に着地する音はあまりにか細く、少女が耳を澄ましてもうまく聞き取れなかった。
「ああ、思い出した。思い出したよ。誰か待ってるんだよ、確か」
少女がぽんと手を打つと、少年はさらに怪訝そうな顔をした。
「誰かって、だれ。そんな話聞いたことないんだけど」
少女は黙り込んだ。唸りながら腕を組み、首をひねり、目をぎゅっとつむる。
「……それが思い出せない」
少女は手で長い髪の毛をまとめ、それをするりと放った。
「寒いねえ」
一向に寒がってるように聞こえない口調でそんなことを言って、カーディガンを羽織った。
「寒いね」
少年は答えて口を閉ざす。少女はちらと少年を見やって訊いた。
「あんた今何て名前なの」
少年は身軽に給水塔から飛び降りた。
「イツキ」
「今時じゃん。かっこい」
わざとらしく手を叩いて鞄を肩にかける。捲れかけたスカートの裾を、少年が軽く払って直した。
「ポッキー食う?」
少年に箱を差し出して自分もカリカリ歯を当てながら、少女は軽く息を吐いた。
「永遠の十七歳とか、笑えない」
眼下のビル街は相変わらずきらびやかに光っている。姉弟に扮した二人はそこで毎晩夜景を眺めるのが日課なのだった。