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ハッピー!Java!Java!最高っ^0^‼️踊ろうYO!


『遷都機構』



風が冷たい。

湯気の立つ甘い紅茶に、焼いたプレッツェルの塩気のある匂いが混じる。朝の空気は薄く、指先だけが先に季節を知っている。


ベランダに立つ。

手すりから白い砂を払う。

日常がざわめく。


景色の先には、いつもの街があった。


屋根も、電柱も、遠くのマンションも、まだそこにある。

どこも失われていない。どこも移っていない。

それだけで、今日は運がいいのだと思うことにした。


昨日は、運がよかったのだろう。

そう考えていた方が、たぶん暮らしやすい。


(今日は、どうなることやら)


肩を回し、背筋を伸ばし、ひとつ息を吐く。伸ばした腕の先で新聞を取り、紅茶といっしょに紙の上の情報を流し込む。


一面の下段に、見慣れた見出しがあった。


『永田町 月面転移から早三年』


三年前、国会議事堂の中枢部は、ほとんどそのまま月面へ移った。

以来、日本の政治は以前より不透明になり、会見の背景にはしばしば地球が映るようになった。


紅茶をひとくち飲む。

少し甘すぎた。



「おっはよー、諸君! 今日もハッピー体操の時間だよっ!」


会議室の前方で、上司がやけに通る声を出す。


「めざましテレビでみんな予習済みだろうけどっ、会社のルールだからね! はい、いくよ、せーの!」


私の口角は、いつも十五度を超えない。

というより、超えないようにしている。


そうしていないと、顔の筋肉より先に、何か別のものが壊れる気がした。


「……早く帰りてぇ」


隣で荒木が言った。吐き捨てるというより、肺の中に残っていた疲労が、そのまま音になったような声だった。


無理もない。


声量だけで現場を制圧する先輩。

理由のわからない陽気さを求める職場。

笑っていないことが、ひとつの瑕疵として扱われる空気。


入構式の日に、私はもう駄目だと思った。

あの日の記憶は思い出したくない。

程度をたとえるなら、丁寧に磨いた人格の上から、見知らぬ誰かの吐瀉物をぶちまけられたような気分だった。


(来年は天下りでもできないかな……三菱商事、丸紅もいいな)


そんなことを考えながら、私は毎日、変顔を作って踊っている。

尊厳という言葉は、ここに来てから急速に用途を失った。


それでも私たちは、いちおう、真っ当に人類を守る側に属している。


神からの圧力に対抗するための実働機関。


遷都機構⸻ 通称: SENTO



「疲れた……」


まだ始業から一時間も経っていないのに、荒木は机に額をつけていた。そこへ日下が書類の束を片手にやってくる。


「九時だぞ。まだ九時」

「九時だからだろ。今日という日の総量を考えろよ」


日下は肩をすくめた。


「今から定例、事務処理、昨日のチェルノブイリ転移の処理報告、それと研究部の引き継ぎ」

「研究はいい。研究はいいんだよ。ミーティングが駄目なんだよ。なんで面白くもない前口上に毎回一時間かけるんだ。何の儀式だよ。なあ、葉山」


不意に名前を振られて、私は一拍遅れた。


荒木の声はよく通る。

通りすぎるくらいに、よく通る。


ちょうど、これから“前口上”を始めるはずだった上司たちの耳にも。


「え、えっと……別に、いいんじゃないかな」


自分でもわかるくらい、薄い声だった。


「ほら……あの人たちって、遅効性の笑いを取るじゃん」


言ってから、胃のあたりが縮んだ。

何を言ってるんだ私は。

いまこそ正しいことを言って、このどうしようもない慣習に引導を渡せたかもしれないのに。


荒木がこちらを見る。呆れたような、裏切られたような顔だった。


「この前の定例、お前だって――」


そこで日下が無言のまま荒木の肩をつかんだ。

指先だけで制し、そのまま背後を示す。


荒木が振り返る。


そこにいた上司は、さっきまでの騒々しさが嘘みたいに、静かな顔をしていた。

目だけが、妙に遠くを見ている。

蛍光灯の反射が、一瞬だけその瞳の底を白く照らし、流れ出る。


荒木は反射的に口を開く。


「い、いや、あの、ちが、そういう意味じゃ、なくて、ほら、その、いつも助かってるっていうか……」


ひどい励ましだった。



上司は少しだけ目を伏せて、それから言った。


「……いや、いい」


その「いい」を境に、荒木はその日、葬儀帰りみたいな顔で働いていた。



結局、その日の定例は異様に短かった。


いつもなら前口上だけで一時間近くかかるところを、上司たちはほとんど何も言わず、ギネス更新みたいな速度で本題に入り、五分で終えた。


その代わりに始まったのが、キャンディ配布だった。


誰が決めたのか知らない。

たぶん、決める必要すらなかったのだと思う。

箱が回り、包み紙の擦れる音が連鎖し、みんな黙って糖分を摂った。


私は五十個くらい食べた。おいしかった。


「……なんか、罪悪感がすごいな」


廊下に出た荒木が言う。


「たぶんあれも作戦なんだよ」

日下が言った。

「罪悪感を煽ってから糖分を与える。古典的な条件づけ」

「飴と鞭にしては、鞭のほうが感情的すぎるだろ」


思わず私が言うと、日下は口の端だけで笑った。


「というか葉山さん、よくそんなに食べられるね。競技?」

「昔はそうでもなかったんだけど。この会社に来てから、なんか、燃費が悪くなって」


荒木が横から口を挟む。


「大丈夫かお前、研修旅行の飛行機、重量税かけられるぞ」


殺してやろうかと思った。


そして、その直後に警報が鳴った。


館内放送の声は、いつもと同じ調子で、内容だけが異様だった。


『横田空域上において、転移発散誘引率がコード3に到達。推定転移まで残り約三時間』


廊下の空気が、一瞬で冷えた。


荒木はもう何も言わなかった。

日下も、いつものような軽口を飲み込んだ。

さっきまで目を伏せていた上司だけが、わずかに笑っていた。


乾いた、ひび割れたような笑みだった。


「よし」


上司が言う。


「遠足だ」




その三十分後、私たちは激しく振動する輸送ヘリの機内にいた。

ローターの爆音が鼓膜を叩く中、荒木が声を張り上げてきた。


「おい葉山、もし本部が遷都したら、お前何持って逃げる? 俺は土鍋かな」


「マニュアル通りなら、猫の次が土鍋、その次が心の歌だよ」


私は爆音に負けないよう怒鳴り返す。


「私は歌なんて持ってないから、土鍋を二つ持つ!」



10秒経ってもまだ、轟音しか鳴り響かない。


「つうか、遷都ってなんでおきんだよ」

荒木が窓辺に顔を向けながらほざく。


「それが分かったら、誰も苦労しない」

漫才上司が口を挟む


「マラッカで起きたと思えば、山奥の森林で発生する。都市の定義さえとっくにぶっ壊れちまった」


「研究部は?」


「『都市が生きてる』だとさ...」


「お偉い頭だな」


沈黙が走る。


「そろそろ着くぞー、準備しろ」



横田基地。


……から、十キロ離れた仮設観測区画。


基地の中枢に近づけば近づくほど危険度が跳ね上がるため、私たち実働班の観測点は、だいたいいいつも“中途半端に遠い”。

その中途半端さが、私には妙に腹立たしかった。


芝生を捻じ曲げる下降気流と追随する航空機の騒音が唸る。


プレハブを増築して、配線と端末を詰め込み、観葉植物と安いぬいぐるみで威圧感をごまかしたような施設だった。

重厚さはなく、緊張感もない。

十歳のころの私の部屋に、国家予算をかけて再現したみたいな空間だった。


机の上には、液晶モニター。

それに混じって、失われた都市の重心を示すビー玉――『リロケーション・マーカー』が微かに明滅していた 。


荒木が立ちながら手元で何かいじっている。

『非ユークリッド測定テープ』だ 。空間の歪みを測るためのその巻尺は、曲がりすぎた角度を正しく計測する。


「おい、数字がブレてるぞ」


荒木が愚痴をこぼすと、シュルシュルと音を立てて『気のせいです』とでも言いたげに数ミリ縮んだ 。


「お前が弱音を吐くから空間の歪みがサボるんだよ」

日下が荒木につっこむ。


〈事象の変移は不可逆である〉


そんな言葉が通じるこの世で、科学はもう、再現できない事実を受け入れる事を覚えてしまった。

祈りが、物理法則の接着剤になるという、実験室では証明できないが現場では疑いようのない事実を。


できれば分かりたくない。



ここで私たちがすることは、観測、記録、予測、連絡。

生身での観測行為が、

事象の固定化にわずかに寄与する。


直接止めるわけではない。

止められるわけでもない。


それは、現場に来てよくわかった。



私たちは無力だ。


地震の比ではない。

津波の比でもない。

もっと根本的に、世界の側がこちらの理解を拒んでいる。


軍の航空観測はすでに崩れた。

空に上がった機体が、空のままでは戻らなかった。


理屈など通じるはずがない。


兵士たちは削られていく。

“撃たれる”のではない。

“潰される”のでもない。

もっと曖昧に、もっと一方的に、世界から剥がされるみたいに減っていく。


そして、助けられなかった人間の数だけが、あとに残る。


子どもが泣いていた。


誘導の列から外れて、こちらに手を伸ばしていた。

「待って」


気づいたときには、私は走っていた。


日下が腕を掴んだが、振り払った。

間に合うと思った。

間に合うはずだった。


菓子の様な甘い匂いが、むせる様な重みをもって鼻腔にへばりつく。


その瞬間、世界がひしゃげた。



子どもがいた。


目の前で。


削られた。


泣くより先に、輪郭が薄くなった。

助けようと、手に触れようとするよりも先に…腕が飛んできた。小さな腕が。


(死ねよ)


そう思った。


何に向けてかは、わからない。

神か、空か、転移そのものか、制度か、ここにいる私たちか。

そう思った自分へなのか。

わからないまま、前が暗く歪んだまま、そう思った。


時間が伸びるまま、声が遠のくまま


腕と同じ無力に。


(死ねよ)


そう思った。

そう思った。

そう思ってしまった。

そう思ったのが嫌でそう思って嫌いでまたそう思って


遅効性のある笑いを取るじゃん⸻


(違う)


土鍋を二つ⸻


(違う)


嫌いで思いでそう思って嫌い嫌い嫌いどこに向けているか分からなくて増えて増えて増えて


ッ...


笑い声がした。


違う。


最初は、悲鳴だったのかもしれない。


脇腹に、何かが触れた。


わからなかった。


もう一度。


「――っ、は、は、は……っ、や、やめ、くすぐっ、脇腹、っ」


呼吸がずれた。

視界の砂嵐が、一瞬だけ裂ける。


シナモンの匂いがした。

たぶん、誰かの非常食だ。

あるいは私の朝の記憶が、遅れてここに来ただけかもしれない。


焦点が合う。


黒い装備の人間が二人、両脇にいた。

私の身体を支え、肋骨の下を、信じられないほど的確に刺激している。


救護班だった。


私は笑っていた。

反射みたいに、無理やり、けれど確かに。


「ハハハハハ」


変な声が出た。


そのとき、ようやく気づいた。


日下が笑っていた。

荒木も笑っていた。

あの漫才みたいな上司も、肩を震わせて笑っていた。


誰も楽しそうではなかった。


それでも、みんな笑っていた。


その顔を見て、私はやっと理解した。


だから、あんなに陽気なのだ。


予定より早い転移。

崩れていく航空隊。

避難誘導の失敗。

兵士の断末魔。

目の前で欠けた子どもの身体。


それらに、まともに触れ続けていたら、人間はそのうち、笑う前に壊れる。


朝の体操。


意味のない前口上。


キャンディ配り。


救護班のくすぐり。


今になって思えば、全部同じことだった。


起き上がる。

手についた白い砂を見る。

楽しげな笑い声の削り粉を、こびりついたその音を、その日常の記憶を。



私は息を吸う。


口角が上がるのを、止めなかった。


十五度を超えても、今日はいいと思った。

冷笑でも、蔑笑でもない。

弔いと、道標のための笑いだ。


だから、笑う。



笑っているうちは、まだ人間だ。





『今朝8時ごろ⸻横田米空軍基地の遷都の発生が発表さ….』


テレビの音が、オープンスペースに反響する。


誰も画面を見ていない。

誰も本気で喋っていない。

ただ、声だけが空気を埋めていた。


ざわめきが、日常のふりをしている。


「…はははっ」



すこし甘い。

どこかで、誰かの笑い声がまだ響いていた。



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