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遷都機構  作者: シナプス吟遊


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1/1

ハッピー!Java!Java!最高っ^0^‼️踊ろうYO!

作品を読みやすくする為にあたって設定を曲げたり、明確化しています。

前版より楽しく読めるはずです。

『遷都機構』


〈観測手順書 第一章 第一条〉

観測者は、まず、何かを信じること。

対象は問わない。ただし、信じているふりは、データに出る。


⸻


風が冷たい。


湯気の立つ紅茶にシナモンスティックを一本差し、ゆっくりと回す。皿には焼いたプレッツェル。塩気のある匂いが甘い湯気に混じって、朝の空気に溶けていく。空気は薄く、指先だけが先に季節を知っている。


ベランダに立つ。

手すりを、指の関節で二回叩く。それから、積もった白い砂を払う。


理由はない。誰に教わったわけでもない。

最初の遷都以来、この国の人間は誰もが、理由のない習慣をひとつは持っている。靴は右足から履く。改札では心の中で一礼する。お茶は、一口目をどこかの誰かに捧げてから飲む。

やめた人間の周りでは、時計が少し狂う。そういうことになっている。


日常がざわめく。


景色の先には、いつもの街があった。ただし、一区画ぶんだけ空いている。向かいの通りは、先月から空いたままだ。 建物の形に、白い砂が盛り上がっていた。窓の位置まで、砂が覚えている 。


屋根も、電柱も、遠くのマンションも、まだそこにある。

どこも失われていない。どこも移っていない。

それだけで、今日は運がいいのだと思うことにした。


昨日は、運がよかったのだろう。

そう考えていた方が、たぶん暮らしやすい。


(今日は、どうなることやら)


肩を回し、背筋を伸ばし、ひとつ息を吐く。伸ばした腕の先で新聞を取り、紅茶といっしょに、紙の上の情報を流し込んだ。


一面の下段に、見慣れた見出しがあった。


『永田町 月面転移から早三年』


三年前、国会議事堂の中枢部は、ほとんどそのまま月面へ移った。

以来、日本の政治は以前より不透明になり、会見の背景にはしばしば地球が映るようになった。青い地球を背に、閣僚は「遺憾である」と言う。月から言おうが、遺憾の角度は変わらないらしい。


明け方の空には、まだ白い月が残っている。あの表面のどこかに、国会議事堂がある。


紅茶をひとくち飲む。

少し甘すぎた。


⸻


「おっはよー、諸君! 今日もハッピー体操の時間だよっ!」


会議室の前方で、先輩がやけに通る声を出す。


「めざましテレビでみんな予習済みだろうけどっ、会社のルールだからね! はい、いくよ、せーの!」


私の口角は、いつも十五度を超えない。

というより、超えないようにしている。


そうしていないと、顔の筋肉より先に、何か別のものが壊れる気がした。


「……早く帰りてぇ」


隣で荒木が言った。吐き捨てるというより、肺の中に残っていた疲労が、そのまま音になったような声だった。


無理もない。


声量だけで現場を制圧する先輩。

理由のわからない陽気さを求める職場。

笑っていないことが、ひとつの瑕疵として扱われる空気。


入構式の日に、私はもう駄目だと思った。

あの日の記憶は思い出したくない。

程度をたとえるなら、丁寧に磨いた人格の上から、見知らぬ誰かの吐瀉物をぶちまけられたような気分だった。


(来年は天下りでもできないかな……三菱商事、丸紅もいいな)


そんなことを考えながら、私は毎日、変顔を作って踊っている。

尊厳という言葉は、ここに来てから急速に用途を失った。



それでも私たちは、いちおう、真っ当に人類を守る側に属している。


神からの圧力に対抗するための実働機関。


遷都機構⸻通称、SENTO。


神に対抗するために、私たちは毎朝、神頼みの親戚みたいなことをしている。

矛盾は、現場では問われない。


⸻


「疲れた……」


まだ始業から一時間も経っていないのに、荒木は机に額をつけていた。そこへ日下が書類の束を片手にやってくる。


「九時だぞ。まだ九時」

「九時だからだろ。今日という日の総量を考えろよ」


日下は肩をすくめた。


「今から定例、事務処理、昨日のチェルノブイリ転移の処理報告、それと研究部の引き継ぎ」

「研究はいい。研究はいいんだよ。ミーティングが駄目なんだよ。なんで面白くもない前口上に毎回一時間かけるんだ。何の儀式だよ。なあ、葉山」


日下の目が、一瞬だけ泳いだ。

そのことに、私はまだ気づいていなかった。


不意に名前を振られて、私は一拍遅れた。


荒木の声はよく通る。

通りすぎるくらいに、よく通る。


ちょうど、これから“前口上”を始めるはずだった上司たちの耳にも。


「え、えっと……別に、いいんじゃないかな」


自分でもわかるくらい、薄い声だった。


「ほら……あの人たちって、遅効性の笑いを取るじゃん」


言ってから、胃のあたりが縮んだ。

何を言ってるんだ私は。

いまこそ正しいことを言って、このどうしようもない慣習に引導を渡せたかもしれないのに。


荒木がこちらを見る。呆れたような、裏切られたような顔だった。


「この前の定例、お前だって――」


そこで日下が無言のまま荒木の肩をつかんだ。

指先だけで制し、そのまま背後を示す。


荒木が振り返る。


そこにいた上司は、さっきまでの騒々しさが嘘みたいに、静かな顔をしていた。

目だけが、妙に遠くを見ている。

蛍光灯の反射が、一瞬だけその瞳の底を白く照らし、流れて消えた。


荒木は反射的に口を開く。


「い、いや、あの、ちが、そういう意味じゃ、なくて、ほら、その、いつも助かってるっていうか……」


ひどい励ましだった。


上司は少しだけ目を伏せて、それから言った。


「……いや、いい」


その「いい」を境に、荒木はその日、葬儀帰りみたいな顔で働いていた。


私は、その横顔を、まともに見られなかった。正しいことを言わなかった口で、謝る言葉も、見つからなかった。


⸻


結局、その日の定例は異様に短かった。


いつもなら前口上だけで一時間近くかかるところを、上司たちはほとんど何も言わず、ギネス更新みたいな速度で本題に入り、五分で終えた。


その代わりに始まったのが、キャンディ配布だった。


誰が決めたのか知らない。

たぶん、決める必要すらなかったのだと思う。

箱が回り、包み紙の擦れる音が連鎖し、みんな黙って糖分を摂った。


私は五十個くらい食べた。おいしかった。


「……なんか、罪悪感がすごいな」


廊下に出た荒木が言う。


「たぶんあれも作戦なんだよ」

日下が言った。

「罪悪感を煽ってから糖分を与える。古典的な条件づけ」

「飴と鞭にしては、鞭のほうが感情的すぎるだろ」


思わず私が言うと、日下は口の端だけで笑った。


「というか葉山さん、よくそんなに食べられるね。競技?」

「昔はそうでもなかったんだけど。この会社に来てから、なんか、燃費が悪くなって」


荒木が横から口を挟む。


「大丈夫かお前、研修旅行の飛行機、重量税かけられるぞ」


殺してやろうかと思った。


廊下の向こうから、奇妙な二人組が歩いてきたのは、そのときだった。


白衣の女と、黒い詰襟の青年。

二人の腰のあいだを、赤い登山用ロープが結んでいる。長さは、きっかり三メートル。二人は一ミリでも多く離れようとして、ロープをぴんと張ったまま、同じ歩調で近づいてくる。


「研究部の引き継ぎ要員。観測二重化班」

日下が小声で言った。

「通称、定規と糊」


「どっちが糊?」


荒木が聞いた。聞くな、と思った。


「私は定規じゃない。物理学者です」

白衣のほうが言った。名札には「真壁」とあった。目の下に、徹夜の青が貼りついている。

「糊は、あっち」


「糊ではありません」

詰襟のほうが、静かに言った。「御子柴」。声は穏やかで、語尾だけが少し震えていた。「その呼び方は、撤回していただけますか。神学生です」


「三メートル以内にいないと、私の記録計に犬が出る。貼り付いてる時点で、糊でしょう」

「それなら、あなたは貼られる側の紙ですね」

「冗談じゃない。私は好きで貼られてない」

「私も、好きで貼っていません」


ロープが、ぴん、と鳴った。


日下が、箱を差し出した。


「どうぞ。朝の糖分」

「知ってる」真壁は箱を見下ろした。「その通達を書いたのは、私」


彼女は、一つ摘まんで包み紙を剥き、口に放り込み、苦い顔で噛んだ。


「……効くのが、いちばん腹が立つ」


そして、その直後に警報が鳴った。


館内放送の声は、いつもと同じ調子で、内容だけが異様だった。


『横田空域上において、転移発散誘引率がコード3に到達。推定転移まで残り約三時間』


廊下の空気が、一瞬で冷えた。


荒木はもう何も言わなかった。

日下も、いつものような軽口を飲み込んだ。

さっきまで目を伏せていた上司だけが、わずかに笑っていた。


乾いた、ひび割れたような笑みだった。


「よし」


上司が言う。


「遠足だ」


⸻


その三十分後、私たちは激しく振動する輸送ヘリの機内にいた。


ローターの爆音が鼓膜を叩く。向かいのベンチには、真壁と御子柴が並んで座っている。二人の腰を結ぶロープが、機体の揺れに合わせて、互いを嫌がるみたいに張ったり緩んだりした。


荒木が声を張り上げてくる。


「おい葉山、もし本部が遷都したら、お前何持って逃げる? 俺は土鍋かな」


「マニュアル通りなら、猫の次が土鍋、その次が心の歌だよ」


私は爆音に負けないよう怒鳴り返す。


「私は歌なんて持ってないから、土鍋を二つ持つ!」


十秒経っても、轟音しか返ってこない。


「つうか、遷都ってなんで起きんだよ」

荒木が窓のほうへ顔を向けたまま、ほざく。


「それが分かったら、誰も苦労しない」

漫才みたいな上司が、合いの手のような声で口を挟んだ。

「マラッカで起きたと思えば、森奥の無人の集落で発生する。都市の定義さえ、とっくにぶっ壊れちまった」


「研究部は?」


「『都市が生きてる』だとさ……」


「お偉い頭だな」


「生きているとは言っていない」


向かいで、真壁が叫んだ。

「生きていると仮定すると、計算が合う。それだけ」


「いいえ、それは信仰の定義では」

隣で、御子柴が叫び返した。


「仮説よ」

「反証できない仮説を、人は信仰と呼びます。さすがお偉いお頭だこと、アインシュタインにでも泣きついたらどうです?お部屋のお壁に貼られた女の子に?」


「はぁ?つぅかなんで私の同人ポス――」


「そろそろ着くぞー、準備しろー。俺らにテメェの性癖で耳汚すなー」


真壁は“何か“言い返そうとして、口を閉じた。ロープが、ぴんと張った。


沈黙が走る。もっとも、ローターのおかげで、沈黙はほとんど聞こえなかった。

ついでにいちおう、上司に感謝を。


⸻


横田基地。


……から、十キロ離れた仮設観測区画。


基地の中枢に近づけば近づくほど危険度が跳ね上がるため、私たち実働班の観測点は、だいたいいつも“中途半端に遠い”。

その中途半端さが、私には妙に腹立たしかった。


芝生を捻じ曲げる下降気流と、追随する航空機の騒音が唸る。


プレハブを増築して、配線と端末を詰め込み、観葉植物と安いぬいぐるみで威圧感をごまかしたような施設だった。

重厚さはなく、緊張感もない。

十歳のころの私の部屋に、国家予算をかけて再現したみたいな空間だった。


ごまかしではなかった、と知ったのは入って二週間後だ。観葉植物とぬいぐるみは、備品である。生き物と、誰かに愛されたものは、データを安定させる。


机の上には、液晶モニター。

それに混じって、失われた都市の重心を示すビー玉――『リロケーション・マーカー』が微かに明滅していた。


荒木が立ちながら手元で何かいじっている。

『非ユークリッド測定テープ』だ。空間の歪みを測るためのその巻尺は、曲がりすぎた角度を正しく計測する。


「おい、数字がブレてるぞ」


荒木が愚痴をこぼすと、シュルシュルと音を立てて、『気のせいです』とでも言いたげに数ミリ縮んだ。


「お前が弱音を吐くから空間の歪みがサボるんだよ」

日下が荒木につっこむ。


〈事象の変移は不可逆である〉


そんな言葉が通じるこの世で、科学はもう、根拠のない再現性を受け入れることを覚えてしまった。

祈りが、物理法則の接着剤になる。

実験室では説明できないが、現場では疑いようのない事実を。


できれば分かりたくない。


⸻


真壁がノートパソコンを開き、センサー群を立ち上げると、モニターに時系列の波形が走りはじめた。


最初の一分は、普通だった。

二分目に、波形がたわんだ。


耳の垂れた犬が、犬小屋の屋根の上で寝ていた。

ご丁寧に、小屋の板目と、吹き出しの「Z」まで。


「あ、スヌーピー」


荒木が言った。


「呼ぶな」

真壁が鋭く言った。「名前を呼ぶと、定着する」


「そうなんですか」


「分からない。分からないけど、呼ぶな」


彼女は、自分の迷信深さに、自分で腹を立てているようだった。


御子柴が一歩前に出た。胸の前で手を組み、神学校で六年かけて叩き込まれた祈祷文を、ひと息に唱える。端正で、美しい祈りだった。


犬は、寝返りを打っただけだった。


御子柴は唇を噛み、別の宗派の、別の祈りをもう一度唱えた。


犬が消えた。かわりに、口を×にした白い兎が、画面の真ん中からこちらを見ていた。


「悪化してないですか」荒木が言った。


「信じてないんじゃない」

真壁が、画面から目を離さずに言った。

「上手に唱えようとしてる。それが、駄目なの」


御子柴の肩が、わずかに揺れた。


荒木が、頭を掻いた。


「祈って犬が出て、祈り直して兎が出て。昔のパソコンみたいですね。叩けば直る」


「叩いて直るなら、苦労しない」

真壁が言った。「でも、構造は、近い」


「じゃあ」

気づけば、私は口を開いていた。「祈ればFXも勝てるんですか」


真壁は、一瞬だけ私を見た。


「勝てない」


「なんでですか」


「為替は、みんなが『明日も、この通貨は同じ価値で通じる』と信じているから動くの。全員が同時に、それを信じるのをやめたら――」


彼女は言いかけて、黙った。


「……ああ。それは確かに、遷都になる」


画面の犬の耳が、ぴくりと動いた。


荒木がキャンディを噛み砕く音だけが、やけに大きく響いた。


「最初が、それだったのよ。おそらく」

真壁は、画面から目を離さずに続けた。

「最初の遷都は、マンハッタン。前日が、同時多発テロ。大国崩壊後の残党が、いくつもの都市で同時にやった。その際に都市そのものの意識的な何かが変質したという説」


覚えている。年表の、いちばん黒いページだ。


翌朝、マンハッタンは、なかった。島の形に、白い砂だけが残っていた。


私は、無意識に、自分の手のひらを見た。


「私の師匠は、その日のうちに、ニュージャージー側の素粒子検出器の前に座った。部屋の全員が泣いていて、全員情緒が極端に不安定で、誰も祈っていなかった。一人も。そこで、最初のデータが確認されたの」


真壁が話しているあいだも、画面の犬は、ずっと寝ていた。話を聞いて、安心しているみたいに。


「耳の垂れた犬が、犬小屋の屋根で寝ていた。これと、同じ。——誰も、笑わなかった」


吹き出しの「Z」が、ふっと止まった。

私は、息を止めた。三秒後、Zは何事もなかったように戻ってきた。


「……それ、作り話じゃないんですか」

荒木が、小さい声で聞いた。


「証拠は機密。再現性も、人に見せられる形では示せない」

真壁は、あっさり言った。「だから、科学じゃない」


「じゃあ、なんで従うんですか」


「信じてはいない。——ただ、手順だけは、毎回、再現する」

彼女は、苦く笑った。「それが、いちばん腹が立つの」


「何千回やっても、そうだった。理論はない。メカニズムもない。仮説すら――」


「もういいです」


私は、手を挙げた。自分でも驚くくらい、疲れた声が出た。


「細かいのは、いいです。結論だけ、ください」


真壁は、少し驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ笑った。


「結論は、二つ」


「ひとつ。本気で手順を踏めば、再現率は百パーセント。科学者が一生に一度でいいから見たいと夢見る、完璧な再現性。根拠がひとつもないことを除いて」


「ふたつ。私たちは信じてたの。数学は宇宙に通じる。昨日の法則は、明日も通じる。同じことをすれば、同じことが起こる。——全部、証明の前提にしていただけ。信仰と、呼ばなかっただけ」



「犬が消えた日のことは?」

荒木が聞いた。


「……それは、あとにする」


真壁は、ロープのほうを見た。御子柴の指が、縄を握りしめていた。白くなるほど。


そのとき、窓の外で、小さな声がした。


黄色い帽子の女の子が、窓辺のぬいぐるみを、じっと見ていた。

フェンスの向こうを、近隣住民の避難の列が通っている。誘導員の腕章、毛布、水のペットボトル。誰も走っていない。走ると、数字が悪くなるからだ。



私は窓を開けて、ポケットに残っていたキャンディを取り出した。


「いる?」

迷いの余地もなく二つを手に握り、隠す様に腕を背の後ろに置く。


「お姉ちゃんは、何味がいい?」

「選ぶ側かよ」

「大事な事だよお」


「じゃあシナモン」

すると女の子はほんの少し笑顔を溢れさせ、そして、よくある——


「どーっちだ」


「うーん、右かなぁ」

「はずれ」


彼女はフェンス越しにハズレを一つ渡した。


女の子は、笑った。

ちゃんと、歯を見せて。


つられて、私の口角も上がった。十五度を、確かに超えた。気づいて、慌てて戻した。


モニターの端の数値が、ほんの少し、下がった。真壁がそれを目で追って、何も言わなかった。


「ありがとう」


(かわいい子だ)


「ちゃんとお母さんの手離すなよ」

「うん」

「怖くないの?」


「怖いけど」

少女は少し下を俯く、そしてまんまるの目を少し輝かせ葉山に向かって。


「学校休みだから」

「こら」

「だって本当だもん」

「正直だなぁ」


すると近くにいた女の人が、

「ちょっと、何処行ってたのよ?逸れちゃダメよ」


女の子は、その母親らしい人に手を引かれて、列に戻っていった。申し訳なさそうに会釈して列へ戻って行った。


窓を閉めると、御子柴が言った。


「祈りは、世界のためにあったのではありません」


真壁が、顔をしかめた。


「かの教会は、一度も、世界のために扉を開けたことはない。祈る人間のために、開いていた。世界のほうが、遅れて、追いついてきただけです」


「それは単なる慢心じゃ?ジーザス様は半端な勝ち誇りをお許しで?」


「いえ」

御子柴は、首を振った。

「困っています。効くと分かっている祈りは、祈りなのでしょうか。見返りがあると知って捧げる信仰は、信仰でしょうか。六年間の私の学びは、計器の校正作業になりました」


「私だって…」

真壁が、ぼそりと言った。

「六年かけて、神に頼らない世界の読み方を覚えたのに。今は、頼らないと、数字が出ない」


「それって神様も、営業努力が足りなくないですか」

荒木が言った。


「「足りてるから、困ってるんだよ」」

真壁と御子柴が、同時に言った。


二人は同時にお互いを見て、同時に目をそらした。やっとロープが、ぴん、と鳴る。


「息、合ってますね」日下が言った。


「合ってない」

「合っていません」


同時だった。


日下が、口の端だけで笑った。


「ちなみに」

彼は、いやに丁寧な声で言った。「あのハッピー体操の振付を考えたのは――」


「やめてください」御子柴が言った。


「第三動作の、両手を頭の上でひらひらさせるやつ」


「やめてください」


荒木が、床に崩れ落ちた。


笑い声が、プレハブの中で爆発した。荒木は文字通り腹を抱えて転がり、私も気づけば笑っていた。御子柴は耳まで赤くなっていた。


「……儀礼です」


彼は、消え入りそうな声で言った。

「体操は、儀礼です。私が、書きました」


朝、荒木が叫んだ「何の儀式だよ」を思い出した。

儀式、だったのだ。


そのとき、日下が小さく言った。


「画面」


兎の口の×が、ほどけていた。

ほんの少しだけ。縫い目が緩んで、ほころぶみたいに。


荒木が、笑い転げたまま、笑いを止めずにいた。止めたくなかったのだと思う。


御子柴は、顔を赤くしたまま、しばらく画面を見つめていた。それから、ひとつ息を吸った。


神学校の祈祷文ではなかった。

彼が口にしたのは、四歳のころ、幼稚園で習った食前の歌だった。三行しかない、音程の外れた歌だった。


笑われた直後の、恥ずかしさの底で、彼はやっと、本気になれたのだと思う。


兎が、消えた。


画面を流れていたのは、ぎざぎざした、ひどく普通の波形だった。


「……六年間より、四歳の歌が効くのか」

御子柴が、呆然と言った。


「効く方が正しいのよ」

真壁が、その隣で、小さな声で言った。「私たちはずっと、そういうものを、大事にしなかっただけ」


ロープが、少しだけ緩んだ。


⸻


それから三十分ほど、波形は静かだった。


ここで私たちがすることは、観測、記録、予測、連絡。

生身での観測行為が、事象の固定化にわずかに寄与する。

見る、という祈り。


直接止めるわけではない。

止められるわけでもない。


それは、現場に来てよくわかった。


フェンスの外では、避難の列が途切れずに流れていた。

黄色い帽子の女の子は、列の途中で一度だけ振り返って、こちらに手を振った。


私も、振り返した。

口角は、戻さなかった。


予定より、二時間近く早かった。


ビー玉の中の白い靄が、渦を巻いて止まらなくなった。

非ユークリッド測定テープが、悲鳴みたいな音を立てて、巻き戻りきらずに千切れた。

モニターは、犬と、兎と、見たことのない何かで埋め尽くされた。


「全員!」

真壁が叫んだ。

「何でもいい、本気のものを出して! 神でも歌でも、猫でも! 何でもいいから、本気のもの!」


荒木が「土鍋」「土鍋」と壊れたように繰り返していた。

上司が、ひび割れた声で、笑っていた。

御子柴が、四歳の歌を、もう一度歌っていた。


私は、窓の外を見た。


私たちは無力だ。


地震の比ではない。

津波の比でもない。

もっと根本的に、世界の側がこちらの理解を拒んでいる。


軍の航空観測はすでに崩れた。

空に上がった機体が、空のままでは戻らなかった。


理屈など通じるはずがない。


兵士たちは削られていく。

“撃たれる”のではない。

“潰される”のでもない。

もっと曖昧に、もっと一方的に、世界から剥がされるみたいに減っていく。


そして、助けられなかった人間の数だけが、あとに残る。


子どもが泣いていた。


誘導の列から外れて、こちらに手を伸ばしていた。


黄色い帽子だった。


「待って」


気づいたときには、私は走っていた。


日下が腕を掴んだが、振り払った。

間に合うと思った。

間に合うはずだった。


菓子のような甘い匂いが、むせるような重みをもって鼻腔にへばりつく。


その瞬間、世界がひしゃげた。


子どもがいた。


目の前で。


削られた。


泣くより先に、輪郭が薄くなった。

助けようと、手に触れようとするよりも先に……腕が飛んできた。小さな腕が。

握りしめた指のあいだに、さっき渡したキャンディの包み紙が見えた。


(死ねよ)


そう思った。


何に向けてかは、わからない。

神か、空か、転移そのものか、制度か、ここにいる私たちか。

そう思った自分へなのか。

わからないまま、前が暗く歪んだまま、そう思った。


時間が伸びる。

声が遠のく。


腕と同じ無力に。


(私が、飴を渡したから)


(死ねよ)


そう思った。

そう思った。

そう思ってしまった。

そう思ったのが嫌で、そう思って、嫌いで、またそう思って


遅効性のある笑いを取るじゃん⸻


(違う)


土鍋を二つ⸻


(違う)


嫌いで、思いで、そう思って、嫌い、嫌い、嫌い、どこに向けているのか分からなくて、増えて、増えて、増えて


 ――貼るな。


 遠くで、誰かが叫んでいた。


 ――それを、貼らないで。祈りは、貼るものを選べないんだ。頼むから、


ッ……


笑い声がした。


違う。


最初は、悲鳴だったのかもしれない。


脇腹に、何かが触れた。


わからなかった。


もう一度。


「――っ、は、は、は……っ、や、やめ、くすぐっ、脇腹、っ」


呼吸がずれた。

視界の砂嵐が、一瞬だけ裂ける。


シナモンの匂いがした。

たぶん、誰かの非常食だ。

あるいは私の朝の記憶が、遅れてここに来ただけかもしれない。


焦点が合う。


黒い装備の人間が二人、両脇にいた。

私の身体を支え、肋骨の下を、信じられないほど的確に刺激している。


救護班だった。


あとで知ったことだが、作り笑いでは犬が出る。だから救護班は、くすぐる。身体が勝手に出す笑いだけは、誰にも偽れない。


私は笑っていた。

反射みたいに、無理やり、けれど確かに。


「ハハハハハ」


変な声が出た。


そのとき、ようやく気づいた。


日下が笑っていた。私の手首には、彼の指の跡が、赤く残っていた。

荒木も笑っていた。

あの漫才みたいな上司も、肩を震わせて笑っていた。

真壁は、ぐしゃぐしゃの顔で笑っていた。笑っているのに、泣いている顔だった。

御子柴は、掠れた声で、笑いながら、まだ歌おうとしていた。


誰も楽しそうではなかった。


それでも、みんな笑っていた。


その顔を見て、私はやっと理解した。


だから、あんなに陽気なのだ。


予定より早い転移。

崩れていく航空隊。

避難誘導の失敗。

兵士の断末魔。

目の前で欠けた子どもの身体。


だから先に笑うのだ。


顔面の筋肉ひとつ分だけでも、現実に奪われないように。抵抗を。


それらに、まともに触れ続けていたら、人間はそのうち、笑う前に壊れる。


朝の体操。

意味のない前口上。

キャンディ配り。

救護班のくすぐり。

猫と、土鍋と、歌。


今になって思えば、全部同じことだった。


あれは荷造りの順番ではなかった。人間のための鉄条網だったのだ。


今朝の定例が五分で終わったことは、考えないことにした。

考えたところで、原因は証明されない。

証明されないものだけが、この世界では、いつも本当だった。


起き上がる。

手についた白い砂を見る。朝、手すりから払ったのと同じ砂だ。移ったものの数だけ、残る砂。研究部も、まだ理由を知らない。

今は、それが、笑い声の削り粉に見えた。


プレハブの窓の向こうで、モニターの波形が流れていた。

犬も、兎もいなかった。

ひどく普通の、ぎざぎざした波形が、悲しいほど規則正しく流れていた。


真壁と御子柴が、こちらに歩いてくる。

二人を結ぶロープは、初めて、地面に垂れていた。


もう、曖昧にではない。


私は息を吸う。


口角が上がるのを、止めなかった。


十五度を超えても、今日はいいと思った。

冷笑でも、蔑笑でもない。

弔いと、道標のための笑いだ。


世界が私たちの合理性を嘲笑うなら、こちらは、世界の見ている前で、笑い返す。


だから、笑う。


笑っているうちは、まだ人間だ。


⸻


『昨日午前十一時ごろ、横田米空軍基地周辺で遷都が発生したと……』


テレビの音が、オープンスペースに反響する。


誰も画面を見ていない。

誰も本気で喋っていない。

ただ、声だけが空気を埋めていた。


ざわめきが、日常のふりをしている。


画面の中のアナウンサーが、原稿の最後に微笑んだ。口角は、たぶん十五度くらいだった。


廊下の向こうから、縄を引きずる音がして、二人分の口論が近づいてくる。


「だから、あなたの言い方が」

「私は事実を――」

「三メートルルール!」

「分かってる」


今日も、貼り付いている。

不本意なまま、離れずに。


すれ違いざま、荒木が言った。昨日より、顔に人間の色が戻っていた。


「お、定規と糊」


「御子柴」

真壁が、前を向いたまま言った。


「……真壁さんです」

御子柴が、少し遅れて言った。


荒木は「あ、はい」と言って、逃げた。


真壁が、私の机の端に腰を預けた。三メートル先で、御子柴が黙って椅子を引く。


「昨日の話の続き」


「マンハッタンの、三日目の夜勤。ある女性が、歌った。息子が、島にいたそうよ」


聞いていないふりをしてもいい、と思った。していなかった。


「歌は、下手だった。子守唄を、二番までしか知らなかった。二番の途中で詰まって、そこから先は、泣き声になった。——その瞬間に、犬が消えた」


「歌の出来は、関係ないんですね」


「ない」


真壁は、窓の外の、まだ曇ったままの空を見た。


「昨日の波形に、あなたの『待って』が残ってる。一瞬だけ、あの声で、犬が消えた」


「それと、飴のあと。あの子が笑った三分間、誘引率が下がってる」

彼女は、画面を見るときの目で、私を見た。「数字だけは、嘘をつかないの。信じるかどうかは、別として」


私は、何も言えなかった。

間に合わなかったのに、効いていた。それは、慰めにも、罰にも、なった。


二人が去ったあと、入れ替わりに、紙コップを片手にした上司が通りかかって、立ち止まった。


「……葉山」

「はい」

「昨日の、あれ。遅効性」


胃のあたりが、縮んだ。


「前口上はな、当日笑わせるためのもんじゃない。三日後、一週間後に、生き残った誰かが、ふと思い出して笑えるように書いてる。そういう設計だ」

彼は、私ではなく、紙コップの中を見て言った。

「だから、あれは、最高の褒め言葉だった。……昨日は、すぐ言えなくて、すまんな」


返事を待たずに、彼は去っていった。


「いい」の意味が、一日遅れて分かった。拒絶ではなかった。


机の紙コップの紅茶に、口をつける。


遠くで、荒木が誰かに、何か言っている。内容は聞こえない。

ただ、昨日の、あの言葉が、ふいに、遅れて、効いた。


(研修旅行の飛行機、重量税かけられるぞ)


殺してやろうかと思った、あの言葉が。


「……はははっ」


どこかで、誰かが笑っている。

それが自分の声だと気づくのに、少しかかった。


紅茶は、今日もすこし甘かった。


⸻


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