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助けるな

作者: 不知餘
掲載日:2026/02/12


「先に行け。ここは俺が引き受ける。」


戦士フォント・マーチスはそう言い残し、ただ一人、魔獣の群れへ向かった。

……


「来るな!」


剣士カエデは叫び、振り返って一瞥すると、片目の巨人とともに燃え盛る炎へ落ちていった。

……


「……これが、最後だ。」


魔法使いレイ・ガレットは、カエデの遺した長剣を抜き放つ。

そしてその刃で、自らと魔将の胸を貫き、己を捧げる呪を唱えた。

……


「行け。俺を救うな。」


魔剣士リュウコンは門番を絡め取り、最後の禁呪〈永遠の眠り〉を放つと、そのまま闇へ沈んでいった。

……


最後。

最後の、最後。


「アト……行って。」


僧侶リン・エマは微笑み、そっと手を放した。

魔王城の前に口を開ける果てしない深谷へ、彼女は落ちていった。

……


思い返すたびに、胸のどこかが裂ける。

痛みは血のように滲み、静かに広がった。

すべての仲間を犠牲にして、勇者アトはついに魔王城の前に立った。

全身は傷に覆われている。だが、その傷は、心の喪失に比べれば薄い。

残ったのは、ひとつの誓いだけだった。

――何があろうと、魔王を殺す。


アトは大扉を押し開けた。

扉の向こうから、底なしの闇が押し寄せてくる。

それでもアトは踏み込んだ。


もう失うものはない。魔王を殺すのだ。


大広間は異様なほど静かだった。

静けさというより、死の気配だった。

骨の髄まで沁みる冷たさが、身体を震わせる。

けれど、その震えは歩みを止めない。


アトは進む。魔王を殺すために。


闇、冷気、死の静寂。

そのすべての上に、言いようのない孤独が折り重なっていた。

孤独は人の心を弱らせ、無力と恐怖を呼び起こす。


アトも、確かにそれを感じた。

それでも信念を握りしめ、怯まなかった。

魔王を殺す。


こうして、まっすぐ進んだ。

――魔王を見るまで、怪物に遭うことは一度もなかった。


そして今、魔王が目の前にいる。

魔王はそこに座っていた。

意外なほど、穏やかだった。


「……ようやく来たか」


その声には、どこか擦り切れた響きがあった。

だが、アトは気づかなかった。

躊躇なく、叫びとともに突進し、大剣を振り下ろす。


玉座は裂けた。


魔王はすでに、背後へ移っていた。

それでも魔王は急がない。


「暗すぎるな。これでは戦えない」


そう言って、手をひとつ振る。

宮殿中の松明が、一斉に灯った。

大広間は雪のように白く、厳かで、どこか神聖ですらあった。

床の石畳は鏡のように磨かれ、アトの顔が映った。


だがアトは、何も見ない。

ただ柄を握り直し、振り向きざま斬りつけた。

剣風が空を裂く。


魔王は冷たく笑う。


「指一本で、お前の実力を見てやる」

「その傲慢、必ず代償を払わせる!」


アトの声は荒れていた。

だが心の奥では、魔王が侮り続けることを望んでいた。

松明を点した、その所作だけで――力の隔たりを悟ってしまったからだ。

それでも、猫が鼠を弄ぶとき、油断すれば噛まれる。

目の前の“猫”は、こちらを脅威とすら思っていない。


魔王は指を一本立て、淡々と言った。


「俺はただ知りたい。お前が俺に、どんな“代償”を払わせられるか」


アトは表情を変えず、最初の剣風が半ばに達した頃、さらに二太刀を重ねた。

三つの剣風が、波のように連なり、やがて一つへ収束していく。


〈三重剣〉。

名は“三”。

だが最後に残るのは“一撃”。

三つを合わせた以上の威力が、その一点へ凝る。

剣風は魔王の眼前で合わさり、巨大な斬撃となった。

魔王は最初の気持ちは変えない。

指一本。


――ヒュッ。


斬撃は魔王の身体を貫いた。

アトは目を見開く。


魔王は無傷で、そこに立ったままだ。

足も、指も、動かなかった。

渾身の一撃が、届かない。

魔王はゆっくり指を引き、淡々と“代償”を確かめた。

その顔は、酒を味わう者のように、わずかに恍惚としている。

指先に、血が滲んでいた。


だが距離があり、アトには見えない。

それでも魔王は言った。


「――いい」


その一言で、アトは我に返り、息を整えた。

胸の奥に残る恐れが、冷たく脈打つ。

魔王が問う。


「何人の仲間を犠牲にして、ここまで来た?」


その言葉は、癒えかけた傷を再び抉った。

痛みは、怒りへ変わる。

痛い。

だから、狂う。

アトは狂ったように斬りかかった。


だが魔王は避けすらもしない。

剣を受けながら、淡々と語る。


「最初の仲間は、魔獣に食い尽くされ、骨も残らなかっただろう」


フォント・マーチス。

その名が胸を刺し、アトの刃はさらに速くなる。

魔王はなおも避けない。


「二人目は惜しかった。あれほどの女が、烈火に焼かれる痛みを味わうとは――あの顔が」


言葉はわざとらしく、表情には下卑た影が差した。


カエデの顔が脳裏をよぎる。

アトの目に涙が滲む。

だが手は止まらず、重く、容赦なく落ちる。

火遊びは、長くは続かない。

魔王は苛立ったように言い捨てた。


「蚊のようにうるさい」


片手を広げる。

その瞬間、アトの身体は宙で凍りつき、動けなくなった。

魔王は防御もせず剣を受ける。

できるのは浅い傷が数本、血が少し滲む程度。

蚊が象に挑むようなものだ。

煩わしいだけで、脅威にはならない。

そして象が動けば――蚊は砕け散る。

アトは宙で歯を食いしばる。歯茎から血が滲む。

魔王は独り言のように続けた。


「静かになったな。……さて、どこまで言った?


三人目だ。爆ぜて骨も残らず、魂すら救われなかった」

淡々と語る言葉が、アトの心を丁寧に裂いていく。


「四人目は闇に沈み、闇の折檻を味わい続ける……」


そこで、魔王は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

すぐに何事もなかったように言い直す。


「そして最後は――おそらく……」


言い切る前に、アトの中から力が噴き上がった。

束縛をねじ切り、宙から一直線に斬り下ろす。

無駄のない一撃。

だが重い。千鈞の重さ。

刃は魔王の額の角を断ち切った。

魔王は悲鳴を上げ、折れた角を押さえて崩れる。

アトは畳みかける。

一太刀、また一太刀。

魔王の身体は揺らぎ、今にも倒れそうになる。


――倒れる。

そう見えた瞬間。

魔王は痛みから立ち直り、アトの剣を掴んだ。

そして失望したように言う。


「憎しみでは、もうお前の力は増えない。次は……痛みに替えてみるか」


魔王は初めて“自ら”攻撃した。

拳。

軽い拳。

腹へ一発。

顔へもう一発。

それだけでアトは吹き飛び、地に伏したまま動かなくなった。


二発が、致命だった。

魔王はそれ以上構わず、背を向けて去ろうとする。

その背中は、どこか寂しく、どこか失望していた。

アトは伏したまま、その背中を見つめる。

背中は次第にぼやけ――死んだ仲間たちの顔が浮かぶ。

なかでもエマ。

最後に見せた、あの笑み。

なぜだ。

なぜ、あの純粋な笑みを奪う。

なぜ、彼女を奪う。

返せ――!

希望も夢も未来も失った時。


“何もない”という感覚を、再び噛みしめた時。

アトは、再び立ち上がった。

取り戻すために。

勇者アトとして。

そして、何も持たない者として。

持つ者は失うことを恐れる。

だが何もない者は、何も恐れない。


――魔王は、ついに“遊び”の火加減を誤った。

アトが燃え上がる。


魔王が振り返った時、見えたのは真紅の火球だった。

炎が大広間を満たし、反射が眩しくて目を開けていられない。

世界は白い。

衝突の音。

剣が折れる音。

それでも刃先の失われた剣は、まっすぐ魔王の身体へ沈み、柄まで呑み込まれた。


――〈星隕碎天地〉。


使い手のすべてを燃やし尽くし、燃える火球となって突進する。

敵を壊すまで止まらない技。

魔王の目には、隕石が突っ込んでくるように映っただろう。


速い。

いや、速すぎる。


衝撃が大きすぎて、魔王の身体さえ持ち上がりかける。

それでも魔王は魔王だった。

歯を食いしばり、身体を沈め、なおも押し返す。

アトは魔王が狂ったのだと思った。


自殺に近い。

そう見えた。


だが、魔王が高く掲げた両腕を見て、アトは悟る。

――一撃で、殺すつもりだ。

この瞬間、アトは思い知った。

魔王が魔王である理由は、ただひとつ。


強い。


……そうだ。自分は、やり切った。

目を閉じたかった。だが閉じられない。

最後の最後、またエマの顔がよぎったからだ。

あの笑みが、何かを告げている気がした。

――そう……あなたは、こちらに来たくないの?

たった一秒が、夢のように引き伸ばされる。


「最後に……流星のように、わずかな光でも残してみせる!」


心の中で叫び、歯を食いしばる。

身体のすべてが剣へ変わる。

手も、血も、骨も――炎の中で、斬るための剣になる。


その時、魔王は吐血しながら笑った。

笑って、さらに血を噴きながら、なお笑った。

しまいには狂ったように笑った。

アトはもう見ない。


ただ貫く。

魔王の身を貫く。


同時に、魔王の両手が振り下ろされる。


――だが、死は訪れなかった。


何が起きたのか分からない。


アトが見たのは、魔王が自分の胸に――両手を突き立てる姿だった。


その瞬間、抵抗が急に軽くなる。

剣は柄まで沈み、堰を切った水のように一気に流れ込む。

次の瞬間、胸の奥から反震が爆ぜた。


爆発は〈星隕碎天地〉を砕き、アトを空中で何度も回転させ、遠くへ吹き飛ばした。

アトは骨が砕けたかと思う衝撃に眩暈を覚えながらも、歯を食いしばって起き上がる。

魔王は倒れていた。


胸には巨大な穴が開いている。


理解できない。

だが、すぐに理解させられる。


淡い光。

金色に変わる髪。

退いていく角。

浮かび上がる、人間の顔。

アトは息を呑む。

エドリック。

勇者エドリック。伝説の勇者エドリック――。

見間違えるはずがない。

アトが最も崇拝し、勇者を志した理由そのもの。

エドリックは、アトにとって伝説だった。

だが……エドリックは二十年前、魔王討伐の後に姿を消したはずだ。


「魔王と相討ちになった」――それが最も信じられている説。


それ以来、誰もエドリックを見ていない。魔族も二十年以上、息を潜めていた。


――まさか。


エドリックが、魔王だったのか。

否。あり得ない。

アトは幼い頃、彼を見たことがある。

あの人が魔王であるはずがない。


では……偽物?

だが感覚が告げていた。

これは本物だ、と。


分からない。

理解できない。


疑念が渦を巻き、狂いそうになる。

その時、地から掠れた声がした。


「アト……よくやった……」

その声も、アトが知る声だった。

エドリック。

本当に、エドリックだ。


アトの確信は生まれた。

だが同時に疑問が押し寄せ、顔に浮かぶのは驚きより困惑だった。

エドリックは途切れ途切れに続ける。


「……疑問は多いだろう……ゴホッ……」


咳き込み、血を吐く。

だが不思議と穏やかだった。


「当時……俺もお前と同じだった……多くの仲間を犠牲にして……ようやく魔王を倒した……

だが……戻った時……ゴホッ、ゴホ……」


咳が激しくなる。血がこぼれる。

アトは駆け寄った。


「エドリック! 大丈夫ですか!」


止血しようと手を伸ばした瞬間。


「助けるな!」


凶暴な眼差しが、アトの身体を凍らせる。

だがすぐに、優しい表情へ戻った。

アトには分からない。なぜ拒むのか。


「……触るな……」

「……最後に、これだけは言わせろ……」


アトは黙った。

その意志が、石のように固いからだ。

エドリックは続ける。


「その後……俺は魔王になった……魔王殿から出られない……何をしても無駄だった……

やがて……自分の顔すら見られなくなった……死のうと思ったこともある……だが叶わない……」


アトを見る。


「……分かるか……俺がどうやって生きてきたか……」


アトには想像できない。

想像したくない。


「……ついに……お前が来た……」


声は糸のように細くなり、今にも途切れそうだった。

アトは叫ぶ。


「エドリック! エドリック!」

「……ありがとう……すまない……」


それが最後の言葉だった。

エドリックは手をゆっくりアトに添え、残る全身の力で門口へ押しやった。


“ありがとう”は、成し遂げてくれたことへの感謝。

“すまない”は、同じ轍を踏ませたくない悔恨。


そしてエドリックは目を閉じた。

満足したように。永遠に。

アトは門口へ吹き飛ばされる。

……


次に目を開けた時、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。

起き上がると、自分は魔王殿の入口に立っている。

扉は閉ざされていた。

押しても、引いても、壊そうとしても――扉は微動だにしない。

永遠にそこに立つ小山のように、何をしても動かせない。

その時、エドリックの言葉が胸を打ち、不吉な予感が湧き上がった。

――まさか……そんな……あり得ない……

アトは思う。

そして、ゆっくりと手を上げた。


震える手。

震え続ける手。


そこにあったのは、魔族の鉤爪だった。

アトは凍りつく。

信じられない。


違う……違う……!


叫んでも、頭は混乱で白い。

床に映る自分を見る勇気はない。

無意識に手を後ろへ振る。

魔王殿の松明が、一斉に消えた。

闇と冷気と静寂。

元の世界が戻ってくる。


信じたくない。

何も信じたくない。

長い時間、アトは朦朧と歩いた。

目的もなく。呼吸だけを頼りに。

やがて辿り着いたのは、魔王を殺し、勇者エドリックが“死んだ”場所。

そこでアトは立ち尽くす。

エドリックの遺体は、もうどこにもなかった。

その時、アトはようやく理解した。

エドリックが「助けるな」と言った理由を。


――彼は死んだのではない。解放されたのだ。


ならば。

自分は?

アトは自分に問いかける。

答えは出ない。

ただ一つだけ、分かっている。

遠くない未来、ここへ来る次の者に――

自分もまた、こう願うのだろう。


「……助けるな」と。

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