助けるな
「先に行け。ここは俺が引き受ける。」
戦士フォント・マーチスはそう言い残し、ただ一人、魔獣の群れへ向かった。
……
「来るな!」
剣士カエデは叫び、振り返って一瞥すると、片目の巨人とともに燃え盛る炎へ落ちていった。
……
「……これが、最後だ。」
魔法使いレイ・ガレットは、カエデの遺した長剣を抜き放つ。
そしてその刃で、自らと魔将の胸を貫き、己を捧げる呪を唱えた。
……
「行け。俺を救うな。」
魔剣士リュウコンは門番を絡め取り、最後の禁呪〈永遠の眠り〉を放つと、そのまま闇へ沈んでいった。
……
最後。
最後の、最後。
「アト……行って。」
僧侶リン・エマは微笑み、そっと手を放した。
魔王城の前に口を開ける果てしない深谷へ、彼女は落ちていった。
……
思い返すたびに、胸のどこかが裂ける。
痛みは血のように滲み、静かに広がった。
すべての仲間を犠牲にして、勇者アトはついに魔王城の前に立った。
全身は傷に覆われている。だが、その傷は、心の喪失に比べれば薄い。
残ったのは、ひとつの誓いだけだった。
――何があろうと、魔王を殺す。
アトは大扉を押し開けた。
扉の向こうから、底なしの闇が押し寄せてくる。
それでもアトは踏み込んだ。
もう失うものはない。魔王を殺すのだ。
大広間は異様なほど静かだった。
静けさというより、死の気配だった。
骨の髄まで沁みる冷たさが、身体を震わせる。
けれど、その震えは歩みを止めない。
アトは進む。魔王を殺すために。
闇、冷気、死の静寂。
そのすべての上に、言いようのない孤独が折り重なっていた。
孤独は人の心を弱らせ、無力と恐怖を呼び起こす。
アトも、確かにそれを感じた。
それでも信念を握りしめ、怯まなかった。
魔王を殺す。
こうして、まっすぐ進んだ。
――魔王を見るまで、怪物に遭うことは一度もなかった。
そして今、魔王が目の前にいる。
魔王はそこに座っていた。
意外なほど、穏やかだった。
「……ようやく来たか」
その声には、どこか擦り切れた響きがあった。
だが、アトは気づかなかった。
躊躇なく、叫びとともに突進し、大剣を振り下ろす。
玉座は裂けた。
魔王はすでに、背後へ移っていた。
それでも魔王は急がない。
「暗すぎるな。これでは戦えない」
そう言って、手をひとつ振る。
宮殿中の松明が、一斉に灯った。
大広間は雪のように白く、厳かで、どこか神聖ですらあった。
床の石畳は鏡のように磨かれ、アトの顔が映った。
だがアトは、何も見ない。
ただ柄を握り直し、振り向きざま斬りつけた。
剣風が空を裂く。
魔王は冷たく笑う。
「指一本で、お前の実力を見てやる」
「その傲慢、必ず代償を払わせる!」
アトの声は荒れていた。
だが心の奥では、魔王が侮り続けることを望んでいた。
松明を点した、その所作だけで――力の隔たりを悟ってしまったからだ。
それでも、猫が鼠を弄ぶとき、油断すれば噛まれる。
目の前の“猫”は、こちらを脅威とすら思っていない。
魔王は指を一本立て、淡々と言った。
「俺はただ知りたい。お前が俺に、どんな“代償”を払わせられるか」
アトは表情を変えず、最初の剣風が半ばに達した頃、さらに二太刀を重ねた。
三つの剣風が、波のように連なり、やがて一つへ収束していく。
〈三重剣〉。
名は“三”。
だが最後に残るのは“一撃”。
三つを合わせた以上の威力が、その一点へ凝る。
剣風は魔王の眼前で合わさり、巨大な斬撃となった。
魔王は最初の気持ちは変えない。
指一本。
――ヒュッ。
斬撃は魔王の身体を貫いた。
アトは目を見開く。
魔王は無傷で、そこに立ったままだ。
足も、指も、動かなかった。
渾身の一撃が、届かない。
魔王はゆっくり指を引き、淡々と“代償”を確かめた。
その顔は、酒を味わう者のように、わずかに恍惚としている。
指先に、血が滲んでいた。
だが距離があり、アトには見えない。
それでも魔王は言った。
「――いい」
その一言で、アトは我に返り、息を整えた。
胸の奥に残る恐れが、冷たく脈打つ。
魔王が問う。
「何人の仲間を犠牲にして、ここまで来た?」
その言葉は、癒えかけた傷を再び抉った。
痛みは、怒りへ変わる。
痛い。
だから、狂う。
アトは狂ったように斬りかかった。
だが魔王は避けすらもしない。
剣を受けながら、淡々と語る。
「最初の仲間は、魔獣に食い尽くされ、骨も残らなかっただろう」
フォント・マーチス。
その名が胸を刺し、アトの刃はさらに速くなる。
魔王はなおも避けない。
「二人目は惜しかった。あれほどの女が、烈火に焼かれる痛みを味わうとは――あの顔が」
言葉はわざとらしく、表情には下卑た影が差した。
カエデの顔が脳裏をよぎる。
アトの目に涙が滲む。
だが手は止まらず、重く、容赦なく落ちる。
火遊びは、長くは続かない。
魔王は苛立ったように言い捨てた。
「蚊のようにうるさい」
片手を広げる。
その瞬間、アトの身体は宙で凍りつき、動けなくなった。
魔王は防御もせず剣を受ける。
できるのは浅い傷が数本、血が少し滲む程度。
蚊が象に挑むようなものだ。
煩わしいだけで、脅威にはならない。
そして象が動けば――蚊は砕け散る。
アトは宙で歯を食いしばる。歯茎から血が滲む。
魔王は独り言のように続けた。
「静かになったな。……さて、どこまで言った?
三人目だ。爆ぜて骨も残らず、魂すら救われなかった」
淡々と語る言葉が、アトの心を丁寧に裂いていく。
「四人目は闇に沈み、闇の折檻を味わい続ける……」
そこで、魔王は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
すぐに何事もなかったように言い直す。
「そして最後は――おそらく……」
言い切る前に、アトの中から力が噴き上がった。
束縛をねじ切り、宙から一直線に斬り下ろす。
無駄のない一撃。
だが重い。千鈞の重さ。
刃は魔王の額の角を断ち切った。
魔王は悲鳴を上げ、折れた角を押さえて崩れる。
アトは畳みかける。
一太刀、また一太刀。
魔王の身体は揺らぎ、今にも倒れそうになる。
――倒れる。
そう見えた瞬間。
魔王は痛みから立ち直り、アトの剣を掴んだ。
そして失望したように言う。
「憎しみでは、もうお前の力は増えない。次は……痛みに替えてみるか」
魔王は初めて“自ら”攻撃した。
拳。
軽い拳。
腹へ一発。
顔へもう一発。
それだけでアトは吹き飛び、地に伏したまま動かなくなった。
二発が、致命だった。
魔王はそれ以上構わず、背を向けて去ろうとする。
その背中は、どこか寂しく、どこか失望していた。
アトは伏したまま、その背中を見つめる。
背中は次第にぼやけ――死んだ仲間たちの顔が浮かぶ。
なかでもエマ。
最後に見せた、あの笑み。
なぜだ。
なぜ、あの純粋な笑みを奪う。
なぜ、彼女を奪う。
返せ――!
希望も夢も未来も失った時。
“何もない”という感覚を、再び噛みしめた時。
アトは、再び立ち上がった。
取り戻すために。
勇者アトとして。
そして、何も持たない者として。
持つ者は失うことを恐れる。
だが何もない者は、何も恐れない。
――魔王は、ついに“遊び”の火加減を誤った。
アトが燃え上がる。
魔王が振り返った時、見えたのは真紅の火球だった。
炎が大広間を満たし、反射が眩しくて目を開けていられない。
世界は白い。
衝突の音。
剣が折れる音。
それでも刃先の失われた剣は、まっすぐ魔王の身体へ沈み、柄まで呑み込まれた。
――〈星隕碎天地〉。
使い手のすべてを燃やし尽くし、燃える火球となって突進する。
敵を壊すまで止まらない技。
魔王の目には、隕石が突っ込んでくるように映っただろう。
速い。
いや、速すぎる。
衝撃が大きすぎて、魔王の身体さえ持ち上がりかける。
それでも魔王は魔王だった。
歯を食いしばり、身体を沈め、なおも押し返す。
アトは魔王が狂ったのだと思った。
自殺に近い。
そう見えた。
だが、魔王が高く掲げた両腕を見て、アトは悟る。
――一撃で、殺すつもりだ。
この瞬間、アトは思い知った。
魔王が魔王である理由は、ただひとつ。
強い。
……そうだ。自分は、やり切った。
目を閉じたかった。だが閉じられない。
最後の最後、またエマの顔がよぎったからだ。
あの笑みが、何かを告げている気がした。
――そう……あなたは、こちらに来たくないの?
たった一秒が、夢のように引き伸ばされる。
「最後に……流星のように、わずかな光でも残してみせる!」
心の中で叫び、歯を食いしばる。
身体のすべてが剣へ変わる。
手も、血も、骨も――炎の中で、斬るための剣になる。
その時、魔王は吐血しながら笑った。
笑って、さらに血を噴きながら、なお笑った。
しまいには狂ったように笑った。
アトはもう見ない。
ただ貫く。
魔王の身を貫く。
同時に、魔王の両手が振り下ろされる。
――だが、死は訪れなかった。
何が起きたのか分からない。
アトが見たのは、魔王が自分の胸に――両手を突き立てる姿だった。
その瞬間、抵抗が急に軽くなる。
剣は柄まで沈み、堰を切った水のように一気に流れ込む。
次の瞬間、胸の奥から反震が爆ぜた。
爆発は〈星隕碎天地〉を砕き、アトを空中で何度も回転させ、遠くへ吹き飛ばした。
アトは骨が砕けたかと思う衝撃に眩暈を覚えながらも、歯を食いしばって起き上がる。
魔王は倒れていた。
胸には巨大な穴が開いている。
理解できない。
だが、すぐに理解させられる。
淡い光。
金色に変わる髪。
退いていく角。
浮かび上がる、人間の顔。
アトは息を呑む。
エドリック。
勇者エドリック。伝説の勇者エドリック――。
見間違えるはずがない。
アトが最も崇拝し、勇者を志した理由そのもの。
エドリックは、アトにとって伝説だった。
だが……エドリックは二十年前、魔王討伐の後に姿を消したはずだ。
「魔王と相討ちになった」――それが最も信じられている説。
それ以来、誰もエドリックを見ていない。魔族も二十年以上、息を潜めていた。
――まさか。
エドリックが、魔王だったのか。
否。あり得ない。
アトは幼い頃、彼を見たことがある。
あの人が魔王であるはずがない。
では……偽物?
だが感覚が告げていた。
これは本物だ、と。
分からない。
理解できない。
疑念が渦を巻き、狂いそうになる。
その時、地から掠れた声がした。
「アト……よくやった……」
その声も、アトが知る声だった。
エドリック。
本当に、エドリックだ。
アトの確信は生まれた。
だが同時に疑問が押し寄せ、顔に浮かぶのは驚きより困惑だった。
エドリックは途切れ途切れに続ける。
「……疑問は多いだろう……ゴホッ……」
咳き込み、血を吐く。
だが不思議と穏やかだった。
「当時……俺もお前と同じだった……多くの仲間を犠牲にして……ようやく魔王を倒した……
だが……戻った時……ゴホッ、ゴホ……」
咳が激しくなる。血がこぼれる。
アトは駆け寄った。
「エドリック! 大丈夫ですか!」
止血しようと手を伸ばした瞬間。
「助けるな!」
凶暴な眼差しが、アトの身体を凍らせる。
だがすぐに、優しい表情へ戻った。
アトには分からない。なぜ拒むのか。
「……触るな……」
「……最後に、これだけは言わせろ……」
アトは黙った。
その意志が、石のように固いからだ。
エドリックは続ける。
「その後……俺は魔王になった……魔王殿から出られない……何をしても無駄だった……
やがて……自分の顔すら見られなくなった……死のうと思ったこともある……だが叶わない……」
アトを見る。
「……分かるか……俺がどうやって生きてきたか……」
アトには想像できない。
想像したくない。
「……ついに……お前が来た……」
声は糸のように細くなり、今にも途切れそうだった。
アトは叫ぶ。
「エドリック! エドリック!」
「……ありがとう……すまない……」
それが最後の言葉だった。
エドリックは手をゆっくりアトに添え、残る全身の力で門口へ押しやった。
“ありがとう”は、成し遂げてくれたことへの感謝。
“すまない”は、同じ轍を踏ませたくない悔恨。
そしてエドリックは目を閉じた。
満足したように。永遠に。
アトは門口へ吹き飛ばされる。
……
次に目を開けた時、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
起き上がると、自分は魔王殿の入口に立っている。
扉は閉ざされていた。
押しても、引いても、壊そうとしても――扉は微動だにしない。
永遠にそこに立つ小山のように、何をしても動かせない。
その時、エドリックの言葉が胸を打ち、不吉な予感が湧き上がった。
――まさか……そんな……あり得ない……
アトは思う。
そして、ゆっくりと手を上げた。
震える手。
震え続ける手。
そこにあったのは、魔族の鉤爪だった。
アトは凍りつく。
信じられない。
違う……違う……!
叫んでも、頭は混乱で白い。
床に映る自分を見る勇気はない。
無意識に手を後ろへ振る。
魔王殿の松明が、一斉に消えた。
闇と冷気と静寂。
元の世界が戻ってくる。
信じたくない。
何も信じたくない。
長い時間、アトは朦朧と歩いた。
目的もなく。呼吸だけを頼りに。
やがて辿り着いたのは、魔王を殺し、勇者エドリックが“死んだ”場所。
そこでアトは立ち尽くす。
エドリックの遺体は、もうどこにもなかった。
その時、アトはようやく理解した。
エドリックが「助けるな」と言った理由を。
――彼は死んだのではない。解放されたのだ。
ならば。
自分は?
アトは自分に問いかける。
答えは出ない。
ただ一つだけ、分かっている。
遠くない未来、ここへ来る次の者に――
自分もまた、こう願うのだろう。
「……助けるな」と。




