第7話 「背負いすぎた責任と、余白のポトフ」
11時40分。
アンビシャス出版の編集部は、いつもより静かだった。
社員たちは外回りや取材で席を外し、
編集部に残っているのは社長の佐伯と、
奥のキッチンで仕込みをしている黒瀬だけ。
「……はぁ」
佐伯は誰もいない編集部で、
珍しく深いため息をついた。
机の上には、
出版社の経営資料、広告収入の推移、
そしてPWの部数のグラフ。
どれも、右肩上がりとは言い難い。
「社員には言えないな……」
佐伯は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
その時だった。
奥のキッチンから、
“コト……コト……”と鍋が揺れる音が聞こえた。
「……黒瀬くん」
佐伯は立ち上がり、キッチンへ向かった。
黒瀬は深い鍋の前に立ち、
野菜をゆっくりと煮込んでいた。
にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、キャベツ。
それぞれが湯気の中で柔らかく揺れ、
鶏のブイヨンと混ざり合って、
優しい香りを立ち上らせていた。
「……ポトフかい?」
佐伯が尋ねると、黒瀬は静かに頷いた。
「社長のための、
“余白のポトフ”です」
佐伯は苦笑した。
「私が……余白なんて、持てると思うかい?」
黒瀬は鍋をひと混ぜし、
柔らかくなった野菜を皿に盛りつけた。
にんじんは鮮やかな橙色、
じゃがいもはほろりと崩れそうで、
キャベツは透き通るほど柔らかい。
湯気がゆらゆらと立ち上り、
ブイヨンの香りが胸の奥にまで染み込んでくる。
「食べてください」
佐伯はスプーンを取り、
じゃがいもをひと口すくった。
――ほろり。
最初のひと口で、
じゃがいもが舌の上でゆっくりと崩れ、
ブイヨンの旨みがじんわりと広がった。
次ににんじんを口に運ぶと、
甘さがふわりと広がり、
そのすぐ後ろから、
鶏の旨みが静かに追いかけてくる。
キャベツは、
噛むたびに“しゅわっ”と音を立てるようにほどけ、
野菜の甘みとブイヨンが混ざり合って、
喉の奥に優しい余韻を残した。
「……うまいな」
佐伯は思わず目を閉じた。
胸の奥にあった重さが、
ポトフの温度でゆっくりと溶けていく。
黒瀬は静かに言った。
「社長は、全部背負いすぎです。
社員の悩みも、会社の未来も、
PWの行く末も……全部」
佐伯は苦笑した。
「社長だからね」
「でも、人間です」
黒瀬は鍋を見つめながら続けた。
「ポトフって、
全部を完璧にしようとすると失敗するんです。
火を強くしすぎても、
味を濃くしすぎてもダメ。
大事なのは、“余白”です」
佐伯はスプーンを止めた。
「余白……」
「そう。
野菜が自分の甘さを出すまで待つ。
ブイヨンが馴染むまで急がない。
“待つ”という余白が、
料理を美味しくするんです」
佐伯の胸の奥で、
固く閉じていた何かが、
ゆっくりとほどけていく。
「……私は、待てていなかったのかもしれないな」
黒瀬は静かに頷いた。
「社員も、雑誌も、会社も。
全部を急いで良くしようとしていた。
でも、ポトフみたいに、
ゆっくり育つものもあるんです」
佐伯は深く息を吐いた。
「……ありがとう、黒瀬くん」
「いえ。
社長が倒れたら、
この会社は終わりですから」
佐伯は笑った。
「それは困るな」
編集部に戻ると、
さっきまで“責任”にしか見えなかった資料が、
少しだけ“未来のための材料”に見えた。
――会社も、人も、急がなくていい。
そう思えたのは、
あの“余白のポトフ”のおかげだった。




