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11時40分のアルデンテ 〜味覚は心のエッセンス〜  作者: 双鶴


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第6話 「完璧の檻と、ゆるみのプリン」

11時40分。


アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさに包まれていたが、

経理担当の三浦の机の前だけ、空気が張りつめていた。


「……また数字が合わない」


三浦は電卓を叩きながら、眉間に深い皺を刻んでいた。


「昨日の領収書……誰かが金額を書き間違えてる……」


経理という仕事柄、

“1円のズレ”が許せない。


だが、完璧を求めすぎるあまり、

自分の心が固まっていくのを感じていた。


「三浦さん、大丈夫ですか?」


若手編集の湊が声をかけたが、

三浦は首を振った。


「大丈夫じゃない。数字が合わないのは、私の責任だから」


その声は、いつもより少しだけ震えていた。


その時だった。


編集部の奥から、

“ぽちゃん……ぽちゃん……”と液体が落ちる柔らかい音が聞こえた。


「……黒瀬さん?」


三浦の胸の緊張が、

その音にほんの少しだけ吸い寄せられた。


「三浦さん、ちょっと来て」


社長の佐伯が声をかけた。


キッチンに入ると、

専属シェフの黒瀬が、

小鍋の中でミルクを温めていた。


ミルクの甘い香りと、

バニラビーンズの香りが混ざり合い、

空気がふわりと柔らかくなる。


「……何を作っているんですか」


三浦が尋ねると、黒瀬は答えた。


「完璧を求めすぎて疲れた人のための、

 “ゆるみのプリン”だよ」


鍋の中には、

温められたミルクと砂糖が溶け合い、

バニラの黒い粒がゆらゆらと漂っていた。


黒瀬はそこに、

溶いた卵液を細い糸のように流し入れた。


ミルクと卵が混ざり合う瞬間、

“とろり”とした甘い香りが立ち上り、

三浦の胸の緊張が少しだけほどけた。


「プリンってね、

 固めすぎてもダメ、

 ゆるすぎてもダメ。

 大事なのは、“揺れるくらいのゆるみ”なんだ」


黒瀬はプリン液を器に流し込み、

湯煎にかけてゆっくりと火を通した。


やがてプリンが固まり、

黒瀬は冷やしたカラメルを上から流した。


カラメルがプリンの表面を滑り、

琥珀色の光を反射する。


「食べてごらん」


三浦はスプーンを入れた。


――ぷるん。


プリンが震え、

スプーンの上でゆっくりと揺れた。


口に運ぶと、

最初のひと口で、

ミルクの甘さとバニラの香りが舌の上に広がり、

そのすぐ後ろから、

カラメルのほろ苦さが追いかけてきた。


プリンは固すぎず、

舌に触れた瞬間に“とろり”と溶け、

まるで温かい雲のように口内を満たす。


飲み込む直前、

カラメルの苦みが味全体をきゅっと締め、

喉の奥に甘い余韻を残した。


「……こんなプリン、初めて……」


三浦は思わず目を閉じた。


胸の奥にあった“完璧でなければならない”という檻が、

プリンのゆるみでゆっくりと溶けていく。


黒瀬は静かに言った。


「完璧ってね、

 固めることじゃない。

 “揺れる余白”を残すことなんだよ」


三浦は皿を見つめた。


「……揺れる余白、ですか」


「そう。

 数字は正確でいい。

 でも、人間はね、

 少し揺れているくらいがちょうどいい」


編集部に戻ると、

さっきまで“責任”にしか見えなかった数字が、

少しだけ“仕事”に見えた。


「……揺れる余白、か」


三浦は深呼吸をし、

もう一度帳簿を開いた。


――完璧は、ゆるみで整う。


そう思えたのは、

あの“ゆるみのプリン”のおかげだった。


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