第5話 「自信の影と、火加減のオムレツ」
11時40分。
アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさに包まれていたが、
若手編集の佐野の机の前だけ、空気が沈んでいた。
「……また企画が通らなかった」
佐野はプリントアウトした企画書を見つめ、肩を落とした。
「湊の企画は通るのに……俺のは、いつも“弱い”って言われる」
自分の言葉が、誰かの心に届く未来が見えない。
そんな気がして、胸の奥がじわりと重くなる。
「佐野くん、大丈夫?」
湊が声をかけたが、佐野は笑ってごまかした。
「だいじょうぶっす。慣れてるんで」
だが、その笑顔は明らかに無理をしていた。
その時だった。
編集部の奥から、
“シュワァァ……”とバターが溶ける音が聞こえた。
「……黒瀬さん?」
佐野の胸の重さが、
その音にほんの少しだけ吸い寄せられた。
「佐野くん、ちょっと来て」
社長の佐伯が声をかけた。
キッチンに入ると、
専属シェフの黒瀬が、
フライパンを傾けながらバターをゆっくり揺らしていた。
バターが溶ける甘い香りと、
卵のまろやかな香りが混ざり合い、
空気がふわりと温かくなる。
「……何作ってるんですか」
佐野が尋ねると、黒瀬は答えた。
「自信をなくした人のための、
“火加減のオムレツ”だよ」
フライパンの中には、
溶き卵がゆっくりと固まり始めていた。
黒瀬は火を弱め、
フライパンを前後に揺らしながら、
卵の表面をなめらかに整えていく。
「オムレツってね、
強火だと焦げるし、
弱すぎると固まらない。
大事なのは、“自分の火加減”なんだ」
佐野は思わず息を呑んだ。
黒瀬は卵を半分に折り、
とろりとした中心を閉じ込めて皿に移した。
表面はつるりと光り、
中心はまだとろとろで、
湯気がゆらゆらと立ち上っている。
「食べてごらん」
佐野はスプーンで一口すくい、口に運んだ。
――とろり。
最初のひと口で、
卵の甘さとバターの香りが舌の上に広がり、
そのすぐ後ろから、
塩のやわらかな刺激が追いかけてきた。
中心のとろとろ部分は、
舌に触れた瞬間に溶け、
まるで温かい雲のように口内を満たす。
飲み込む直前、
バターの香りがふわりと鼻に抜け、
喉の奥に優しい余韻を残した。
「……うま……」
佐野は思わず目を閉じた。
胸の奥にあった“自分は弱い”という影が、
オムレツの温度でゆっくりと溶けていく。
黒瀬は静かに言った。
「自信ってね、
誰かに与えられるものじゃない。
自分の火加減で、
少しずつ固めていくものなんだよ」
佐野は皿を見つめた。
「……火加減、か」
「そう。
強すぎても、弱すぎてもダメ。
君のペースで、
君の温度で、
少しずつ固めればいい」
編集部に戻ると、
さっきまで“弱い”と思っていた企画が、
少しだけ“可能性”に見えた。
「……俺の火加減で、か」
佐野は新しい企画書を開き、
一行目を書き直した。
――自信は、温度で育つ。
そう思えたのは、
あの“火加減のオムレツ”のおかげだった。




